早朝、その日は一際、肌寒く、空気は実に薄いものだった。 季節の機嫌というのも多少はあったろうが、それは人間の気持ちや雰囲気といった事情が大きいとリュイ・シンは思った。 今日はいよいよ、出陣の日。 今、大勢の兵士達が地上でドラゴンの手入れをして、出発の準備に勤しんでいた。 軍が集結し、士気を高めるべく、王城から少し離れた“竜の谷”で王や王妃が兵たちに激励をする――はずなのだが、王や王妃の姿はそこにはなかった。リュイ・シンの父親である王がここにこられないのは仕方がないと思う。王は病に伏せって、こうようにもこられない。が、クラウディアは別だ。王妃は完全なる健康体だ。 ――あれほど、言ったのに……ッ! ぐ、と怠惰な母親をリュイ・シンは恨んだが、こうなってはもはや激励の演説はリュイ・シンがやるしかなかった。まぁ、自分は民に人気があるから、母親が出張るよりむしろ士気は高まるだろうと、苛立った感情を無理矢理納得させる。 胸を張り、虚勢を張って、王族の誇りと重荷を背負って、“竜の谷”を一望できる崖っぷちへとリュイ・シンは足を進めた。ぐるりと軍勢の様子を一望し、この全ての人たちの責任を背負うのかと思うと眩暈を感じた。 だが、リュイ・シンの気持ちとは裏腹に兵士たちの眼差しは希望に満ち溢れ、士気は高かった。恐怖を抑え、王族の自覚を持ち出し、必死に耐える。 ――王族は、人の命を計り、国を第一に考える……。 ――そう、わたしは今、この人たちの命よりも、国を思わなくてはならない。 「よく、集まってくれました。我ら、タルデシカの優秀なる兵士たちよ!」 リュイ・シンがそう言った瞬間、怒涛のような歓声が崖の下から起こった。 歓声がある程度静まったのを見計らい、リュイ・シンは演説を開始した。 「タルデシカは正義の旗。では、カジミはなんでしょう? 敵? いいえ、違います。奴らは悪魔なのです! 平和に暮らす人々の土地を土足で踏み荒らし、奪い、搾取し、焼く……。子を殺し、女を殺し、我らの大切な人を殺す。そんな所業を許していいのか! 傍観していいのかぁ!?」 下のほうから、否定の怒鳴り声が谷間に響く。 だんだんと場は高揚し、リュイ自身も口調を鼓舞するよう乱暴になった。 「そうだ。許されるものじゃない! そして、そんな事をする人間を同じ人間として、許せるはずがあろうか、答えは否だ! 奴らを許すなっ。救うなっ。助けるなっ。仏心など捨ててしまえ! 相手が悪魔なら、我らも悪魔になろう。そして、神を助けよう!」 崖下から肯定の歓声が沸き起こる。 「我らは正義だ。悪はカジミなり! 悪魔を殺せ! 猛勇なる戦士たちよっ。奴らを許すな、逃がすな。命がある限り、戦え。そして、自分の家族を守れ。これは命令ではない。 家族を守りたくない屑は逃げればいい! 懲罰は与えん! さぁ、逃げ出すがいい。敵に背を向け、無様な醜態を晒すがいい。だが、覚えて置け、その者たちよ。逃げたお前の責任は全て、家族にいくのだ。カジミという悪魔の手によって、お前の家族は殺されるのだ! さぁ、それでも逃げたい奴は逃げろぉおおおおおっ!」 声帯の限界まで絶叫すると、じ、とリュイ・シンは眼下を見下ろした。 崖の下に集結している人々の群れから逃げ出す人影はパラパラと数人はいたものの、ほとんどの人たちは動こうとはしなかった。皆、悟っているのだ。今、逃げ出しても、それは意味のないことだと。 カジミは乗っ取った国を統治するために、恐怖で民を縛り付ける。もし、ここで逃げても、いずれはカジミに殺される。そういうことだ。逃げ場は何処にもない。 何処にもないのだ……。
「結構。ほとんどいないようで、わたし、リュイは安心しました。我ら、タルデシカに悪魔が混ざっていたら、今言った演説を撤回しなければならないから。最初からやり直さねばなりません。それに混じっていた悪魔も今、逃げ去ったことでしょう」 失笑が下から起こる。 皆も分かっているのだ。この演説に意味のないことくらい。 リュイ・シンがやっているのは、暗示をかけるようなことで、言っている内容が正しいとかは一切関係ない。要は、盛り上がればいいのだ。気持ちよく戦うための、抗弁でもある。だから、カジミを憎しみ、タルデシカに愛を、そういう内容ならば、いいのだ。 「よし。では、タルデシカに悪魔がいないのを証明したところで、今回の、いや、今回も司令官のラドルアスカ・D・ローレがわたしの代理で話す。話せ」 そう言うと踵を返し、元の位置に戻った。ローレ卿とすれ違う途中、よく頑張りました、あれで完璧です、と声をかけられ、あれで良かったのか不安であった気持ちは僅かに治まった。そう思って、ローレ卿がどこかいつもと違うな、と思い至る。 いつもは、何をするでも自信がなく、これでいいのかと確認しつつ、また指揮や軍の判断では断定はしないで曖昧なことを言ったりするのに、今日はリュイ・シンの演説をよく頑張ったと、“断定”した。 今日は何処か自信に満ち溢れている気がする。 何か、あったのだろうか。 そう思っていると、ラドルアスカが崖の淵へと立ち、演説を始めた。
「殿下の言うとおり、我らは正義である。だが、俺は逃げるものは許さない方針だ、と言っておこう」 「――ッ!」 リュイ・シンが戸惑う。 何を、ローレ卿は言っている? 昨日、逃げるものには罰を与えないと相談したというのに、ラドルアスカは今、逃げるものは許さない、つまり、何かしらの罰を与えると言った。先程、リュイは逃げる兵を非難するようなことを口にしたが、真っ赤な大嘘だ。事前に、方針は決まっていた。 それを言ったまで、というのに、ラドルアスカはそれをぶち壊した。 「ローレ卿、それはどういう……」 口を挟もうとしたが、す、と銀色の杖がそれを制した。ルーファニーだった。 当惑しつつも、ルーファニーがそれを止めるなら黙るしかなかった。 ラドルアスカはすらりと剣を抜き、鋭利な刀身を高々と空に向けた。 「いいか! 俺は許さん。逃げるものは、今すぐに俺が切って捨ててやる! 今、ここで選べ……」 何を……。 皆が固唾を呑んで、先の言葉を待つ。 その言葉の内容は凄まじいものであった。 「今、ここで俺に切られるか、それとも戦場で儚く散るか、さぁ、今すぐ選べ……ッ!」 にやりと陰湿な笑みを浮かべてラドルアスカは続ける。 「俺に切られたくなくば、さっさと騎乗しろ! 一番、遅い者を叩き切るぞ。さぁ、決戦だ。俺らに言葉はもう必要ない。戦え、兵士たちよ。俺に続け! 今日の俺は一味違う。ついて来い、この、剣に誓って、俺はタルデシカに必ず勝利を齎そう! だから、迷わず俺について来い! 勇猛なるタルデシカの戦士たちよ! 今日こそ、我らが勝利をつかむとき!」 その掛け声とともに、一斉に兵士たちがドラゴンへと飛び乗った。 空に向かって、どんどんと上昇する。 青いはずの空が黄色や赤といった色に染め上げられた。 その様を満足そうに見やり、ラドルアスカが剣の切っ先を虚空に向けた。 「いざ、出陣!」
その日、タルデシカ軍は国境沿いの砦、最前線へと出陣した。 死地へと勇敢なるタルデシカの兵士たちは、赴く。
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