大量の紙片が乱雑する豪奢なつくりの書斎で、タルデシカ国の英雄たるルーファニー・サレイド魔導師長はカジミとの戦争の情報を知った。再び、ルーファニーは小型ドラゴンが運んできた、一枚の書簡に視線を落とす。 そこには敵に単身スパイに入り込んでいる、メイリー・レイターからのカジミに関する情報が事細かに記されていた。読んでいくうちにルーファニーはこの間諜を別の人間に変えたほうがいいと思い始めて、じわじわと嫌な汗が体中から噴出していくのを感じた。 ――ふざけるのも大概しろよ?、メイリー・レイター。 普通、報告書に間諜の本名など書いたりなどしないし、むしろしてはいけない。もし万が一敵にその書簡が盗まれたりした場合、その書簡の内容を敵に知られてしまうからである。 それを、自分の名前ばかりか出身地まで書いてどうするというのだ。 もし、カジミのこの報告書を盗まれたら、メイリー・レイターの素性が祖父の代まで知られてしまうではないか。普通、それを当然考慮し、より端的に記すのが優秀な間諜というものだろう。 間諜を含め、前の戦でほとんどの人材が戦死してしまったとはいえ、タルデシカの人材の無さにつくづく落胆しつつ、メイリー・レイターの報告書を読み進める。その途中にロナ・サレイドの近況報告を見つけて、ルーファニーは思い切り顔を顰めた。 自分の娘が、よもや敵国に手を貸そうとは当時は全く思っていなかった。 これは身から出た錆とでも言おうか。 家族に目を向けなかった己の自業自得とでも言おうか。 孫であるイルにそのことを責められると、一言も言い返せない自分がいた。ルーファニー自身も己のせいだと感じていたのだから、言い返せるはずもないのだが、ここまで自分を責めるルーファニーにもそれ相応の確固たる理由があったのだ。 今まで、けして短くはない人生の中で生きてきた間に後悔していることが“3つ”、ルーファニーにはあった。 長く生きているのだから、後悔する事柄など幾らでもありそうだが、ルーファニーは この3つのことだけはどうしても許せないのだ。
* * *
……遡る事、約十五年前。 その当時、まだ二十歳であったロナは、美しくも才能溢れた優秀なる魔導師だった。 誰もが、ロナの内に流れる天才の血を羨み、嫉妬し、その美貌を羨望し、手に入れようと熱望した。女は羨望と憎悪を、男は彼女を妻にと欲し、そしてその才能と力を妬んだ。 一度、図式を画くための“灰色の傘”を振るえば、彼女に召喚できぬものはなく、ルーファニーの後を継ぐのは娘のロナ以外には適任と思える者が一人としていなかったし、それだけロナは周囲の群を抜いていた。 そう、誰もが思っていた、ある日。 突如、ロナが妊娠したのだった。
皆がロナの妊娠を知ると同時に、驚愕に目を見開いた。 【――誰だ? 【―――相手は誰だ? 【――――誰の子だ? 【―――――この愛しい娘の心を射止めたのはどの男だ? 皆が好奇の視線でその行く末を観察した。 そうして、追求していくと、何と相手は大貴族の莫迦息子、シャロット・ローデン。 当然、責任を取って結婚しろなどとシャロットには言わなかった。 否、言えなかったのだ。 相手は大貴族。英雄のルーファニーとて無下にできる相手ではなく、よもや責任を取れなどと言える筈もなかった。よって、そのまま結婚を迎えずにロナは一人の娘を産んだ。 だが、ここでルーファニーは気づくべきだったのだ。 ロナはルーファニーが思っている以上に優秀だということに。 そして、思っていた以上にしたたかで、強欲だということに。 ここで気がついていれば、強欲が齎した悲劇は確実に防げたはずだったのだから。
女一人で子を産んだロナは遊び人のシャロットにまだ恋焦がれている様子で、遊ばれていると分かっていてもシャロットの元へ毎日のように通い続けた。ルーファニーもロナを何度も説得し、シャロットの所に行くのを止めようとしたのだが、ロナは聞く耳を持たなかった。皆の必死の忠告を振り切って、ロナはまるで少女のようにシャロットのことを盲目的に慕い続けた。 そして、それから一年の月日が流れ、シャロットが突然謎の死を遂げた。 誰もがその突然の死に疑問を抱いたのだが、ロナの一件やシャロットの起こす数々の不祥事もあり、身内でもシャロットの死を追求する者はなく、むしろ『シャロットなど死んで良かった』と考え、ロナに同情さえしたのだった。 それがいけなかったのだ。 何を隠そう。ロナがシャロット・ローデンを殺した張本人だったのだから。 何かの薬品を作って、その特製の薬品を誰かに盛るのはロナの専売特許だった。昔からロナは悪戯に他人を実験台にして、冗談半分に盛っては人々を驚かせていた。だが、それは悪戯に域を出るものではなく、人殺しなどできる毒性の高いものでもなかった。 シャロットを殺したのが、最初の犯行と言えよう。 全て、ロナが仕組んだことだったのだ。 子を孕むのも、シャロットを殺すのも。 全てはロナの壮大な計画のうち。 そんな悪辣なロナの正体にルーファニーは気がつくことができなかったのだ。 ロナの計画通りに事は進み、遊び人であったシャロットはまだ妻もおらず、跡継ぎのない貴族の親戚たちは直系の娘を引っ張り出すしかなかった。 その直系の娘が、イルだった。 こうして、ローデン家の財産は全てイルを介してロナのものとなった。 「金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金。金」
ロナの一言目は金、次に召喚術、そして、男。 ロナの欲望は尽きず、死体に湧く蛆のように何処までも再現なく、誰の目にも囚われずに金、召喚術、男と全てを貪りつくしていった。 まんまと罪を逃れたロナは、イルが十歳になるまで一人召喚術の研究に没頭した。 金は手に入ったのだから、次の欲求は召喚術となったのだろう。 この期間にロナはキング級の図式を研究し始めたらしい。その間、イルは自然とロナが行なう召喚術を見よう見真似で覚え、ロナの研究成果をも皮肉にもイルは吸収していったらしい。ロナが教えるようなことは一度としてなかったと後にルーファニーは知った。 ロナはシャロットの子供になどただの金づるとして利用するだけで興味はなく、 「あなたはあなたで、勝手にしなさい。あたしはあたしで勝手にするから」 と、ほとんど子どものイルを放っておいたという。 それから暫くしてローデン家の財産が尽きようとしたとき、ロナは新たな金銀財宝を求め、イルを家に一人残して遠くへと旅立った。 着いた終点は、敵国カジミだ。 ロナはイルやルーファニー、タルデシカを全て捨てて、カジミに亡命したのだ。 失踪したというロナの知らせを聞き、慌ててロナの研究小屋へと足を運んだルーファニーは、山小屋に一人残されたイルから全ての事情を遅くも知った。 全てはもう終わってから、ロナの悪行を知ったのだった。シャロットを殺したことも、イルという孫を作ったことも、そしてこれからカジミに行って、タルデシカに齎すであろう悲劇のことも。 その予感は的中し、カジミは大発展をとげ、世界中に猛威を振るっている。何故、自分の娘の正体に気づけなかったのか、イルから事情を聴いて初めて後悔した。 騙されていたことを知った。 このときほど、後悔したことはなかった。
そして、ルーファニーには、もう、一つ後悔していることがあった。 事情を聴いたルーファニーは、ロナの悪行を淡々と話すこの幼い孫まで悪魔のように見えてきたのだ。あのロナと愚かなシャロットから生まれた娘も、同様に醜いに違いないと。 皮肉にも、父であるシャロットの頭は愚かだったが、容姿だけは貴族らしく美しく、ロナとシャロットの一番美しい部分だけを継いだのがその孫の容姿だった。 綺麗な部分だけをそのまま継いだ金髪で金眼、透けるような肌に、細くしなやかな身体、薔薇のように赤い唇。全てが作り物のようで、逆にルーファニーは恐ろしくなった。 この美しい孫はどんなにか、その美しい容姿の下に醜い本性を隠しているのだろうか? そう、不覚にも思ってしまったのだ。 浅はかにも思い込んでしまったのだ。 そして、名前も聞かずに、その孫に山奥から出ることを禁じた。 だから、先日、負け戦でどうしようもないとはいえ、キング級召喚を頼むのはルーファニーには気が引けた。これも身から出た錆、自業自得であったのだろう、よくイルはルーファニーのことを許してくれたと思う。 イルの性格はロナよりもむしろ、性格はシャロット似だ。 最初はロナのように全てに強欲で、人の幸福を貪りつくすのも厭わない性格かと思いきや、全く違った。 シャロットはズバズバと人の気にしていることを、言ってしまう、空気を読めない奴として皆に嫌われていた。シャロットにその自覚は一切ない。そうして周りを敵だらけにするくせに、その当の本人は周りと戯れたがる。自覚がないわりに、時々物凄く意地が悪いときもあって、とにかく迷惑な奴なのだが、何故か人々に信用だけはされているのだ。 アイツは莫迦だし、嫌なやつだが、悪いやつじゃない、だから信用はしている、といった感じに。 嫌われているくせに、だ。 「イルは絶対にシャロットに似とる……」 いや。 そうではない。 「シャロットの娘としか考えられんくらいに、ロナとは似ても似つかん。性格はシャロット、そのままだ」 召喚術だけを考えれば、気性はロナやルーファニーに似ているが。
そして、ルーファニーが二つ目に後悔していること。 それは、イルとなら普通に暮らせたかもしれないのに、ということだった。 あのときに名を訊いてきちんと話をしてみれば良かった。そうすれば一緒に暮らせただろうし、普通の祖父と孫になれたのに、と後悔しているのだ。 そして、最後に後悔していることは…。 「……イルめ」 忌々しそうに孫の名を呼び、ルーファニーは首筋に触れた。 ルーファニーの首筋には、笑い転げる人間の顔が紫色の痣となって、でかでかと浮き上がっている。 そう、最後に後悔していること。 それは、イルから受け取った茶を素直に疑いもせずに飲んだことだった。 ロナはこういう悪戯の常習犯だった。よく印として薬品を施した相手には必ずといっていいほど、こういった形の痣を犠牲者に刻印していた。イルはそれを真似たのだろう。 くそがきめが。 ロナとシャロットの容姿のいい部分と、彼らの性格の一番悪い部分を受け継いだ集大成がイルのようである。 今でもルーファニーは後悔している。 その三つのことを。
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