へとへとのくたくたという無惨な状態で由樹はルーファニーの屋敷に戻ってきていた。 落下した衝撃で背筋は痛いし、妙な軟膏を怪我した場所ではない、全く関係ない尻に塗られ、何だか尻が妙にカピカピして熱を帯びている。どういう効果のある薬なのか、リュイ・シンに訊いておくべきであったと後悔する。 妙な尻の感触に顔を顰めつつ、由樹はルーファニー宅の扉を開けた。 そして、出迎えの第一声がこれだ。 「にゅ。随分と激しい散歩だったね。傷と土塗れだよ? どんな散歩の仕方をしたの。あぁ〜、原始人は木々を腕の力だけで渡り歩くもんね。そっか、猿みたいに、木の上を移動して散歩したから、そんな風になっちゃったんだね、ハシバ」 そんな訳あるか。 本当に、精神的(リュイ・シンの奇行のせい)にも肉体的(ラドルアスカの暴挙のせい)にも疲労の極地にいた由樹は、イルの言葉を訂正する気にもならなかった。そのまま、屋敷のロビーにあるソファに突っ伏して、深く沈みこんだ。 イルが怪訝そうに声をかけてくる。 「冗談はおいといて、本当に何してたの?」 ああ、さっきのは冗談だったのか、と少しだけ由樹は安心した。 ソファに沈み込んだまま、くぐもった声で答えた。 「あ〜、簡単に言うとラドルアスカに殺されそうになった、以上」 「あぁ、やっぱりね。鉢合わせしたら、そうなると思ってたよ。ふふ」 そのイルの、いかにも楽しげで嬉しげな発言に由樹は、イルがラドルアスカに好意を寄せていることを思い出し、ふと、ソファから顔を上げ、 「アイツのどこがいいんだよ……?」 訊いてみた。 本当に、どこがいいのか、パッとは思い浮かばなかった。性格はねちねちしていて、女性が最も嫌う性質だし、確かに容姿はいいし、金持ちかもしれないが、あの上から見下すような態度はとにかく癇に障る。まぁ、イルにかかっては、ラドルアスカもその上から見下されている感はあるが。 と、イルがくす、と笑って照れたように、 「……顔」 即答した。 「……顔?」 「そう、顔」 おいっ。 って、それだけかい!? 「ほ、他には?」 少し考えこむようにイルが唸って、結局。 「お金?」 がっくりと、由樹はそのままソファに倒れこんだ。イルが好きな部分は“顔”と金だけという。確かに、このくらいの年齢はとりあいず見た目から、という恋の仕方が多いだろう。由樹とて、無駄と分かっていながら、クラスで一番の可愛い子を好きになったものだ。それでも、そのクラスで一番可愛い子・茜ちゃんは性格もほどほどに良かった。ちょっと気になって訊ねてみる。 「性格はいいのか? “あんなん”で……」 「何、言ってるの。私は結構、性格も好きになってきたんだよ。これでも」 「好きになってきた?」 妙な言い方だ。まるで、ごく最近、惚れましたみたいな言い方である。 「うん。だって、私、最近、中央に戻ってきたから、ラドルアスカさまと出会ったのは四日前くらいで、ほとんど一目惚れで好きになったんだよ」 「四日!? なら、好きになって四日目ってことかよ」 こくり、とイルは肯定する。 「私はずっと、山奥に閉じこもっていたから、異性と会う機会が少なくてね。で、王城で出会った、ねちねちしたラドルアスカさまに四日前に一目惚れしたの」 「へぇ……。でも、好きだ惚れたって言う割には、ヤツの悪口言ってねぇ?」 「ふふ。それは、愛の悪口だよ」 「あるかッ! そんなもん」 何だか、全身の疲労が増した気がする。はぁ……と溜息を吐くと、イルが好奇心に任せて質問をしてきた。疲れているのに、放っておいてほしい。 「で、どうしてラドルアスカさまに殺されそうになったのかな。そこのところが聞きたいな。やっぱ、グイシンのことを根に持っているの」 流石、ラドルアスカマニア、よく分かっていらっしゃる。 「……そうだよ。それで因縁つけられて、テーブルゲームで勝負して、俺が勝っちゃって、アンタのじいさんが俺をグイシンに乗せて、で、またヤツと戦う破目になって、そんで転落して怪我してリュイ・シンに手当てを……ぅあぁあ」 嫌な事を思い出してしまった。 と、イルが驚いたように、目を見開いていた。てっきり、イルならリュイ・シンの名を出した途端豹変するかと思ったのに、これまた予想外の反応だ。 「どうした」 「ラドルアスカさまに勝った? それは凄い。なら、指揮官になるといいよ。うん。じじいが実践に連れて行きたがるのも無理はないよ」 由樹は顔を顰める。正直、勘弁してほしい。由樹はあくまで、平和ぼけ日本の一市民だ。 「やだね」 「何で。軍は平民が唯一、出世できるチャンスなのに。ジジイもそうやって、出世したよ?」 「俺はすぐ帰るんだから」 「帰れないかもしれないじゃん」 むっとして、反論する。正論を言われると分かっていても無性に腹立たしくなるのが人間の性というものだ。 「お前、昨日は、そう悲観することはないって言ったじゃねぇか」 「前向きでいるのと怠慢は別物だよ?」 ――くそ。ムカつく。 苛立つ由樹を前にイルは更に、堂々と正論を吐いた。 「ハシバのは怠慢っていうんだよ。平気だと思い込もうとしているだけで、自分では何もしていない。また、悲観と思考も別物だよ。最悪のことを想定して、行動するのは悲観じゃない」 由樹が黙る。正しすぎて、ぐうの音もでない。さらに、イルが追い討ちをかけるように、 「正論でしょ?」 見下すようにくすり、と笑った。 「ズバズバ言いやがって。ったく、親の顔が見てみたいぜ」 それは何気ない一言だった。 だが、その軽い雰囲気に反して、イルの暗い殺気ともいえる欲望が場を満たした。 この一言はイルの逆鱗とも言うべき部分を確実に刺激したらしい。 やがて、息を吐き出すように、押し出すように、イルが言葉を紡いだ。 「……見られないよ」 そのあまりの重い声に由樹はビクリと震えた。 「死んだ、のか?」 「違う。もっと、酷い。死んでくれたほうが、何倍も良かった。私の母親はね、反逆者。カジミに国を売った、売国奴だよ。この国の裏切り者だよ、最悪の魔女だよ」 「お前、親に捨てられたのか」 軽率だった。浅はかだった。こんなこと言っちゃいけなかったのだ。 ぐ、とイルは目を見開き、憎しみを由樹にぶつけた。怒りに任せてイルが激昂する。 「違うッ! 私が捨てたんだ、あんなヤツ、私の母親なんかじゃないッ! 次に会ったときは絶対に、殺してやるんだ。苦しませて、死にたいと思えるほどに、苦しめて、苦しめて、殺してやる、そして私という存在を刻み付けてやる」 「……おい。それは、いいすぎ……」 いいすぎだ、と嗜めようとした丁度そのとき、一匹の手の平サイズの爬虫類がヒラヒラと羽を羽ばたかせ、一通の白い手紙を運んできた。 諌める言葉は中途半端に霧散してしまった。何となく、それをまた言い直す気にもなれず、由樹は口を噤んで、成り行きに身を任せた。由樹が思うことなど、正論を吐くイルはとっくに考えている結果なのだろう。また、イルも由樹の発言など気にもしないに違いない。事実、イルは由樹の存在を無視して、既に注意は緑色のドラゴンへと向いていた。 小型緑色のドラゴンはヒラヒラとイルの前に来ると、その足もとにぽとりと手紙を落とし、再び窓から去っていった。素早くイルがそれを拾い、血の色のワンドで手紙を叩くと封を自然に解かれ、中身に目を通した。 すると、読んでいくうちにイルの表情は激変する。 驚愕から、冷徹な笑みに、にやにやした笑い、そして、最後に微笑。 「ハシバ」 くすくす、笑うようにイルは呼びかけ、由樹は何だか空恐ろしいものを感じたが、虚勢を張って、何でもない風に答えた。 「……何だよ」 また、イルは嘲るようにくす、と笑う。莫迦にしているのか、何だか今虚勢を張ったことも、イルに恐ろしさを感じたことも、全て見透かされている気がした。睨みつけるように凝視するとイルはくすりと笑って、目を爛々と輝かせて自慢するように告げた。 「戦争だよぉ、ハシバぁ。カジミが戦争を吹っかけてくるらしいよ。ふふっ。ロナも結構、好戦的だよね。別に今、態々戦争をしなくったって、放っておいてもタルデシカは疲弊して滅びていくのにね。けど、そういうつもりなら、私は望むところだよ。お前を潰せるなら、場所なんかどうだっていいよ、ロナ。いや、受けて立つよ、ロナ……」 最後のほうは、もはや由樹に語りかけているのではなかった。 ……遠い、異国の敵地にいる母親へ娘からの宣戦布告だった。
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