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作品名:空を翔る猿 作者:氷室 龍獲

第1回   凡庸なる飛翔


 空は透けるように蒼く、純白の雲がゆっくりと風に流されていく。
 何の変哲のない変わらぬ虚空。
 その中での唯一つの異常。
 それは、空を翔る動物だった。
 鳥でもなく、飛行機でもなく、幽鬼でもない、空を羽で自由に飛翔しているその動物は架空の生き物である筈のドラゴン【――竜――】だった。黒いドラゴンと黄色、白色、赤色のドラゴンたちが己の力の全てでもって戦い合う。其々のドラゴンの口腔から炎や氷が吐き出され、彼らは時が経つにつれて力を失い、一騎、また一騎と空から地上へと、堕ちていった。
 黒焦げになった騎士たちとドラゴンたちが、もの哀しげに堕ちては、天へと逝く。
 その排他的ともいえる光景を眼前に、ゆったりとした黒いローブを着込んだ老人がポツリと告げた。
「もう、潮時だ。撤退の命令を出そうぞ」
 その言葉に周りにいた兵士たちに動揺が走る。もう、後のない戦だ。これからも、そして今も引くことなどできないというのに。もし、ここで引けば、自軍の負けは明白だ。
 そのことが分かっているだけに、仕方なく一人の兵士が老人に諭すように進言した。
「お言葉ですが、我らに撤退の文字はないかと。戦う以外に方法は」
 ――ない。
 しかし、それとなく老人が手で兵士の進言を制し、言葉を続けた。
「分かっておる。だが、これでは無駄に兵や竜を殺すだけだ。一旦城へと帰還し、体制を立て直そう。その方が被害も少なく済むだろう」
「ですから、我らはすでに撤退して、体制を立て直してここにいるのです。これ以上、それを繰り返すのは愚策です。兵を消耗するだけですッ」
「無論、それも分かっておる。だから、今回は、“ただ”体制を立て直すのではない」
 老人が、まるで子どもに教えるかのように、悪戯っぽい態度で兵士へと言うと、やはり兵士は何のマジックが隠されているのかと目を瞬かせる。
「と言いますと?」
「“キング級”を召喚しよう。そうすれば、兵は消耗せずに済む」
「ですが、それをできる魔導師は、もう、この世を去っております」
「いや、いるのだ。一人だけ」
 その言葉に弾かれたように兵士は、老人を仰ぎ見る。
「いるのだよ。一人だけだがな……」
 老人が得意げに、そして、何処か寂しそうに微笑んだ。
「納得いたしました。撤退の準備にかかります!」
 敗退の絶望から一筋の希望を見出した兵士は早急に撤退命令を全軍に伝えた。
 それが、勝利への希望と信じて。
 
 これが、タルデシカ軍、五十一回目の敗戦の記録である。

 
  * * *

 ――何をしているか分かっているのか? ………俺。
 
 高層ビルに塗り固められ、車の排気ガスから汚染された灰色の空に見上げ、羽柴由樹【ハシバ ヨシキ】はそう自らに語りかけた。由樹自身も何をしているのか、何でこんな無意味な行いをしているのか、さっぱり理解不能だ。しかし、現状では自分は何やら、“人徳ある立派な行い”をやっているらしい。その、筈である。
 ちょっとした拍子で視線を下に巡らしてしまい、目が眩んで、由樹は足に力を込めた。
 下の方から車の騒がしいクラクションやワラワラと好奇心から集まってきた野次馬たちの叫ぶ声が由樹の耳に届いてくる。“下”から聞こえてくるのだ。別に由樹が建物の二階にいるから下から物音が聞こえてくるとかではなく、空が見える状態で、下から物音は聞こえてくるのだ。
 何故か? 
 それは、現在、由樹が高層ビルの屋上にぶら下がっているからだった。
 羽柴由樹に飛び降り自殺をする理由もなければ、する予定も今のところは特にない。
 だが、由樹の手の先にいる女の人には十分すぎる程あるようで。
「お願い。死なせてよ! この手を離してよッ」
「だぁっ、危ないから、手を揺らさないでッ。俺まで落ちちゃうからっ」
 そうなのだ。
 由樹はふらっと高層ビルの屋上にある人影に気がつき、自殺者かと疑い、半分気まぐれに来てみれば、それが本当に本当の飛び降り自殺の現場であったらしく、偶然通りかかった由樹に怯えた女の人は慌てて飛び降りようとした。
 当然、由樹もこのまま飛び降りるのを見ている訳にはいかず、助けに走ったが見事失敗。
 自らも手すりからずり落ち、足が屋上のフェンスに引っかかっているだけという、実に不安定な位置にいるのが現在の状況である。
 再び、下の物音が騒がしくなってきた。何かが下、つまり地面で起こったということが、なんとなくニュアンスで受け取れた。ちなみに、下の状況なぞクソ食らえである。もう怖くて下のほうは見られない。だというのに、どんどん下が騒がしくなってきて、今にもキレそうだ。
 さぞ、彼ら野次馬さん達にとって、高層ビルの屋上フェンスにぶら下がる、高校生男子とおばさんは好奇心の対象になって、楽しいのであろう。
『あ……、あ、あ。テス。これはテストです……。ん、微妙に音に雑音が聞こえるな』 
 下の方から雑音混じりのマイク音が聞こえてきて、やっと警察が到着したことを知る。
 ――遅せーよ、警察。
 高層ビル一階付近から由樹らに呼びかけているらしい。これが先程の野次馬たちの騒ぎの原因だったのだ。テレビドラマでよく見かける『お前は完全に包囲されている』などと呼びかけるときの拡声器で、警官の一人が由樹に呼びかけているのだ。
『駄目だ、雑音が入る。――あ、テステス。クソ、俺は音には煩いんだよ。あ”ッ―、あ、ん、………まだ、駄目だなぁ。マイクを変えるかぁ。おいッ、違うマイク、持ってこいッ』 
 ふざけんなよ、おっさん?
 至極、悠長な警官の様子に由樹は声を荒げる。
「そんなことやってないで、今すぐに助けにこいッ。莫迦ヤローッ! 手ぇ、離すぞ」
『おぉ、そうだった、そうだった。今、行くぞ、待ってろおぅ、少年。マイクあったぞぉ』
「……ッ」
 頼むから、早くしてくれ。
 いくら由樹が男だとて、大人の人一人支えるのに限界はある。猛烈な負荷が腕を襲い、痺れを腕の上腕部に感じた。
「う……、ぐっ」
 ぬるぬると冷や汗と握力の低下から、手が痙攣のように震えてきた。
 下の方でおばさんが心配そうに、
「大丈夫? 全然離していいのよ? 私は死にたいの。もう付き合っていた男に振られるわ、その連れ子にばばぁ呼ばわりされるわで、あたし駄目なのよ。ね、お願い。あなたもこの手を離せば楽になるわよ?」
 実に後ろ向きの意見をくれた。
 おばさんの誘惑は実に甘美な響きがあって、この手を離した時のことを考えると直ぐにでも手を離したい誘惑に駆られた。
 ――何で、見ず知らずのおばさんの為に、こんな痛い思いをしなきゃならないんだ?
 ――俺、頑張ったろ。
 ――ここまで頑張っておいて、手を離しても誰も文句は言わねーよ。
 ――大体、投身自殺すんなっての。死ぬなら人に迷惑かけないとこで勝手にやれよ。
 ――何で、俺、こんなババアの為に必死こいて頑張ってるんだよー。
 ――やってらんねー。
 このまま手を離してしまおうかと一瞬だけ頭を過ぎった時、勢いよく屋上の鉄製の扉が開かれた。
「よし、よく頑張ったぞ、“しょう、ねんッ”」 
 数人の警官たちが雪崩れ込んでくる。由樹はほっと安堵した。これで自分も、下にいるおばさんも助かる。自分の役目は終わったのだ、と。
 ――しかし。
 大人しくしていればいいものを今まで大人しかったおばさんが、突如暴れ出した。
「嫌ぁぁぁッ、あたしは死んでも死ぬのよぉぉぉッ!」
「うわッ」
 完全に油断していた由樹は、驚いてバランスを崩す。
 引っかかっていた足が手すりから外れ、由樹を浮遊感が襲った。
「危ないッ!」
 瞬間、焦った警官たちが由樹とおばさんを助けようと、怒涛如く手すりに殺到した。
 警官の一人が地面を擦るように屈んで、自殺志願者のおばさんの服の袖を掴んだのがちらりと横目に見えた。その光景がゆっくりと由樹の横を”通り過ぎて”いった。
 皆が自殺志願者ばかりに気をとられ、由樹の存在を忘れていた。誰もが注意を向けていなかったのだ。
 由樹は誰の手にも掴まれることなく、ゆっくりと高層ビルの谷間へ落ちていった。
 恐怖か、パニックなのか、急に、目の前が真っ暗になった気がした。
 覚悟して、――目を瞑る。
 
 これが、始まり。


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