X.信じる者 従わない者
ヨハネによる福音書 第三章 二二節〜三六節 【 こののち、イエスは弟子たちとユダヤの地に行き、彼らと一緒にそこに滞在して、 バプテスマを 授けておられた。 ヨハネもサリムに近いアイノンで、バプテスマを授けていた。 そこには水がたくさんあったからである。 人々がぞくぞくとやってきてバプテスマを受けていた。
そのとき、ヨハネはまだ獄に入れられてはいなかった。
ところが、ヨハネの弟子たちとひとりのユダヤ人との間に、きよめのことで争論が起った。 そこで彼らはヨハネのところにきて言った、 「先生、ごらん下さい。ヨルダンの向こうであなたと一緒にいたことがあり、 そして、あなたがあかしをしておられたあのかたが、バプテスマを授けており、 皆の者が、そのかたのところへ出かけています」。
ヨハネは答えて言った、 「人は天から与えられなければ、何ものも受けることはできない。 『わたしはキリストではなく、そのかたよりも先につかわされた者である』 と言ったことをあかししてくれるのは、あなたがた自身である。 花嫁をもつ者は花婿である。 花婿の友人は立って彼の声を聞き、その声を聞いて大いに喜ぶ。 こうして、この喜びはわたしに満ち足りている。 彼は必ず栄え、わたしは衰える。 上から来る者は、すべてのものの上にある。 地から出る者は、地に属する者であって、地のことを語る。 天から来る者は、すべてのものの上にある。 彼はその見たところ、聞いたところをあかししているが、だれもそのあかしを受けいれない。 しかし、そのあかしを受けいれる者は、神がまことであることを、たしかに認めたのである。 神がおつかわしになったかたは、神の言葉を語る。 神は聖霊を限りなく賜うからである。 父は御子を愛して、万物をその手にお与えになった。 御子を信じる者は永遠の命をもつ。 御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、 神の怒りがその上にとどまるのである」。 】
一月ほど過ぎたある夜、アンデレがヨハネの元にやってきた。 「顔を見せるのはひさしぶりだな。ペテロも変わりはないか?」 「はい。それで・・・実は、マリヤが。」 「マリヤがどうしたのだ?」 「・・・その。マリヤですが、イエスと結ばれます。」
ヨハネに衝撃が走った。 ヨハネはアンデレの前で、努めて冷静に聞いた。 「彼女がサマリヤ人だとイエスは知っているのか?」 「はい、ご存じです。・・・しかも、彼女の出身を隠される様子はありません。」 「なんだと・・・。」
ヨハネが、先の問いをしたのには理由があった。 ここユダヤの町々では、サマリヤ人への蔑視が強いからだ。 ヨハネは有力者である祭司ザカリヤの息子であり、また彼自身も民からの信望が厚かった。 そのヨハネの側にいるからこそ、誰もマリヤへの余計な詮索などしないし、たとえ彼女の出身を知ったとしても、大概は口を閉ざし知らないふりをしていた。 ヨハネ自身も、内心は彼女がユダヤ人であればと、幾度も思った。 そうであれば両親も、彼女を伴侶に迎えることに何の異論もなかったはずなのだから。 ヨハネの心は、アンデレの言葉に乱れていた。
・・・我々は、出会ってから何年たっても、師と弟子の間柄にしかなれなかった。 それが、彼らは出会ってまだ一月足らずではないか? 彼女は、もうイエスを受け入れたのか・・・。 愛する者が、私に従ってきた者らが、皆がイエスの元にいってしまう。 神は、私からすべて奪っていこうというのか?
・・・イエス、イエス、イエス!彼が何者だというのだ。私は彼を知っている! 結婚前に父の判らぬ子を身ごもった恥ずべき女と、その子供だと、誰もが噂しているのを幼い私は聞いてきた。その度に、私の母は、彼女とイエスを守ってきた。 母は、イエスの母マリヤから産まれる子が神の小羊であると信じていたからだ。 私もそう信じていた。 あの日、イエスとイエスの母が訪ねてくるまでは!
ヨハネは、床にくだけ散った花々を踏みしめながら激高する母エリサベツの姿を思い出していた。
「先生?先生?」 アンデレが何度も声をかけて、ようやくヨハネは我に返った。 「明後日に宴席がもたれます。先生もその席にお越しになってほしいと、彼女からの伝言です。いかがされますか?」 「・・・お前はその返事をもらいにきたのだな。」 「申し訳ありません。私はただ、そのように言われて・・・。」 恐縮するアンデレに向けて、ヨハネは言った。 「私は行かぬ。そう、彼女に伝えてくれ。」 「しかし。」 「もう用はない。お前もイエスの元に行くが良い。」
次の日、マリヤが女性の供を引き連れて、ヨハネの元にやってきた。 ヨハネとマリヤは、互いに人払いをして、二人で対面した。
「いつになったら、主の前にこられるのですか?」 「・・・。」 「神の御心に背かれるのですか?」 ヨハネは、マリヤを振り返った。
「神?・・・神か。神ならなぜこのような業を成すのであろうか?・・・なぜ彼が神の小羊なのだ?間違いではないのか?あれから、私がいくら神に祈っても何の返事も与えられないのが、その証拠なのではないか。」 マリヤはヨハネに諭すように言った。 「何がそんなに貴方の心を曇らせているのですか?」 ヨハネは、マリヤの質問には答えず、逆に質問した。
「・・・イエスと結ばれて幸せか?」 マリヤは、答えた。 「私は神の御心に生きます。」 「イエスは、ただの大工の息子だ。貴方を守れるだけの地位も名誉も何の後ろ盾も彼にはないのだぞ。」 「大工の息子ではありません。選ばれた神の小羊です。・・・しかし。」 マリヤは、その先を言い淀んだ。 ヨハネはわずかな期待を抱いた。イエスとの結婚を思いとどまる何かがあるのではないかと。しかし、すぐに淡い期待は打ち消された。
「貴方の力が必要です。私たちの力になってください。」 「『私たち』か。・・・私が居なくても構わないだろう。貴方も『主の道を整える者』なのだから。」
「私だけでは不完全なことは、ご存じでしょうに。私はサマリヤの民を導くことはできます。しかしこのユダヤの民を導くのは、あなたでなければ!」 「イエスの花嫁となる貴方を側で見続けろと?私から貴方を奪ったイエスのために生きよと?・・・酷な事を。私の想いは知っていたではないか!」
「・・・人々の前で私の証しをされたことがありますか?貴方は、私のすべてを受け入れることは出来なかったでしょう?」 ヨハネは、マリヤの言葉に何も言えなかった。 「過ぎた話はやめにしましょう。しかし、私たちが何のために生まれたのかを忘れてはなりません。貴方も、主を待たれていた者でしょう?」
ヨハネは、絞るような声でマリヤに返した。 「そうだ。長い、長い年月を、『私の主』が来られるのを待った。 ・・・だが、・・・私が完璧な人間だとでも?人は、不完全な生き物だ。 どんなに修行を積もうと、その血に産み付けられた醜い欲望の卵を取り除くことなど出来はしない。」
「ですから、我々には救い主が必要なのです。」 「貴方はまだ知らないのだ!神は、良いものだけを我々に与えるのではない。 時に、残酷な業を与えるものだ。それはサタン以上の業だ。心にとどめておくが良い。」
ヨハネは、その言葉を最後に、振り返ることなくマリヤの前から立ち去った。 それ以来、彼らが会うことは二度となかった。
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