V.回顧
その時、マリヤは別の場所にいた。 ヨハネと、その弟子達が集うための館で、食事の支度を整えていたのだ。 日中は誰もが外に出ているので、一人静かな時を過ごすことができるのだが、今日は違った。扉が勢いよく外から押し開かれ、ヨハネが駆け込んできたのだ。
「マリヤ!マリヤ!」 「そんなに大声を出されなくても聞こえます。」 奥から出てきたマリヤの両肩をヨハネは掴んだ。 「来られたのだ!神の小羊が、先ほど私のところに来て下さった!」 マリヤは、思わず両手を口にそえた。
「おお、神よ!それで、主はどちらに?」 マリヤの胸はずむような声に、ヨハネは少し申し訳なさそうに答えた。 「・・・それが、行ってしまわれた。」 「え?」
「だが、今、アンデレに捜してもらっているところだ。」 「貴方は何をしてたのですか?」 「天からの印に、目を奪われていて・・・。」 マリヤの問いに、ヨハネは更に罰が悪そうに答えた。
「・・・貴方らしいですね。でも、お顔は覚えていらっしゃるでしょう?」 「もちろんだとも。忘れはしまい。」 ヨハネは、先ほどの出会いをマリヤに証ししながら、思い出していた。
「・・・不思議だ。あの御方とは、以前にどこかで会ったような気がするのだ。」 「そうなのですか?」 ヨハネは、思い出そうとしたが思い出せなかった。
やがて、今日のヨハネの証しを伝え聞いてきた弟子達らが、館に集ってきた。 そして、アンデレの帰りを今か今かと皆が待ちわびていた。 ついに待望のアンデレが叫びながら館に飛び込んできた。 「判りました!」
ヨハネはアンデレに駆け寄り、彼を固く抱きしめた。 「よくやった!それで?主は今どちらにおられるのだ!」 「・・・あの、それは判りません。」
ヨハネは抱きしめていたアンデレを解放して、眉をひそめて彼を見た。 周囲の注目を気にしながら、アンデレは報告した。 「今、どちらにおられるのかは判りません。しかし、彼の事を知る人から話を聞くことができました。」
ヨハネと、皆の顔が再び明るくなった。 「それで!」 「話によると、その御方は以前に、神の教えを語られたそうなのですが、それがあまりにも一方的で、少し変わった教えらしくて・・・その・・・なんというか、良い評判ではなかったそうです。」
皆は静まりかえったが、ヨハネが断言した。 「いや、その御方こそ主に間違いないはずだ!私は天の印を見た。名前は判ったのか?」 「はい、イエスと名乗られていたそうです。」 ヨハネの先ほどの断言に、館にいた皆はイエスが主であることを信じた。
「イエス!」 「イエス様というのか。」 「いつお会いできるのだろう。」 「どんな教えを語られるというのか?」
マリヤもまた、頬を紅潮させながら喜んだ。 「神よ。感謝いたします。我ら羊に、ついに牧者をおつかわしになった。なんと喜ばしいことでしょう。」 マリヤは師であるヨハネに振り返り言った。 しかし、ヨハネの様子が、周囲とは明らかに異なっていたのに驚いた。 その目は宙を見つめ、その口は開けど何も言葉にしていなかった。 「どうされたのですか?」
マリヤの問いかけに、我に返ったようにヨハネは顔を振った。 「いや、なんでもない。・・・イエス、その御方は本当にイエスというのだな。」 「はい。」 アンデレは答えた。
アンデレを中心に沸き立つ弟子らを残して、ヨハネはフラフラと館の外に出ていった。 マリヤはそのヨハネの後ろ姿を黙って見送っていた。 彼の心が何かに揺れ動いているのは察していたが、それは、待ちに待った主にやっと出会えた喜びによるものであろうと思っていた。 しかし、ヨハネはその夜、館には帰らなかった。
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