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作品名:ダ・ヴィンチの福音書 作者:そのうちみのる

第9回   第六章 『最後の晩餐』 もう一つのアナグラム
第六章 『最後の晩餐』 もう一つのアナグラム

『最初に見たもの』・・・思わず本を落としてしまった時の、あの時に見たもののことを言っているのだろうか。
それに先生は俺が『最後の晩餐』を見てたことに気付いていたというのだろうか。

イエスとマリヤの間の空間。
これがV字とかM字の暗号をつくっているという説がある。
Mは、マリヤやマリッジ(結婚)の意味を指すとか。

だけど、自分の考えは既に違っていた。
この空間は、人が移動するための空間ではないかということだ。
それが、もう一つのアナグラムをつくり出す。
でも『それ』はイエスに妻がいることと同様に『ありえない事』ではないか?

「君は別のアナグラムが見えたのだろう?」

先生は、問いかける瞳をこちらに向けた。
自分の考えに何と反応されるのか躊躇したが、意を決して言った。

「・・・イエスとマリヤの間にペテロが入るのではないかと。」

先生が、黙って俺をまっすぐに見ている。
やっぱり、変だよな。変なこといってしまった。
だって、二人の間にペテロが移動するということは、つまり・・・とんでもない話になってしまうことだから。

「・・・あ、これって変ですよね。」
「あたりだよ。」

・・・あたり?
だとすると、本当にとんでもない話になる。
ペテロを移動するとどうなるのか?

最初にマリヤの肩に手をかけていたポーズが、まるで手刀のようにイエスの喉元を威嚇するポーズに変化することになり、後ろ手に握られたナイフが、マリヤの腹の上にあてがうようなポーズに変化するのだ。

ナグ・ハマディ文書によると、ペテロがマリヤの存在を疎ましく思っていたことは、確かなようだから、マリヤへの威嚇のポーズは理解できなくもない。
でも、イエスに対する威嚇のポーズは、どうにも理解できるものではない。

なぜなら、ペテロはイエスの一番弟子なのだから。
最もイエスの信頼を得ていた立場ではなかったのか。

この人の推理が正しいなら、十字架後の復活の後に、マリヤや子供を託したのも他ならぬペテロだということなのに。そのペテロが?

「・・・ありえない。」
「いや、十分ありえる話なのだ。マリヤがイエスの妻として迎えられ、またエリヤとしての頭角を現せば現すほど、それを煙たがる者も出てくる。その筆頭が、ペテロだ。彼は男性の弟子の中では一番弟子だった。それに、イエスとの最初の出会いの時に、彼はイエスからこのように言われていた。」

ヨハネによる福音書 第一章四0節〜四二節
【 ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。彼はまず自分の兄弟シモンに出会って言った、
「わたしたちはメシヤ(訳せば、キリスト)にいま出会った」。
そしてシモンをイエスのもとにつれてきた。イエスは彼に目をとめて言われた、
「あなたはヨハネの子シモンである。あなたをケパ(訳せば、ペテロ)と呼ぶことにする」。 】

「『ヨハネの子』。このヨハネは洗礼ヨハネを指した言葉だ。ペテロは、自分が洗礼ヨハネのようになれるとでも思ったのかもしれない。彼は彼なりに地道に努力して弟子らをまとめるようになっていった。イエスの愛と信頼を得ようとしたのだ。」

「さっきのイエスの言葉は、ペテロをエリヤとしていた言葉とも考えられませんか?」

「残念ながら、ペテロはエリヤにはなれない。愛と信仰だけでは、神の国を築くのはほど遠いものだ。権力や金も必要なのだよ。洗礼ヨハネは、司祭の息子であったからその点は充分であった。マリヤも良い家系の持ち主だった。だが、ペテロはただの漁師だ。彼ではエリヤの使命は果たせないのだ。」

「なら、なぜペテロに気をもたせるような言葉をかけたんです?」
「気をもたせるために言ったのではない。預言もしくは警告として言った言葉だったのだ。」
「預言って?」

「結果的に洗礼ヨハネはイエスを不信するだろ。ペテロにも、同様な試練がくるということだ。そして、最後の晩餐でイエスを裏切るユダは、『シモンの子イスカリオテのユダ』と表されている。これも同様の意味がこめられている。やがてペテロの『ねたみ』は、マリヤからイエス本人にもむけられるのだ。」

「イエスがペテロ・ヤコブ・ヨハネだけをつれて高い山に登ったことがある。そこで、イエスはモーセやエリヤと会話をするのだが、光り輝く彼らの姿を見たペテロは自分もその位置に立ちたくなったのだよ。神に直接愛されるイエスの位置にだ。それで思わず彼らの会話に口を挟んでしまうのだ。『私はあなたがたのために小屋を三つ建てましょう』とね。そして彼は、イエスに取ってかわりたいという欲望を徐々に抱くようになったのだ。」

「だからといって、ペテロが何をしたというんです?イエスはユダに裏切られて十字架にかかったでしょ。ユダは皆の金をごまかしていて、金がほしくてイエスを売ったじゃないですか。」

「ユダは金の管理を任されていただろうが、責任者では無かった。」
「責任者?」
「いつの世にも、すべてを仕切る上役はいるものだ。」

マタイによる福音書 第一七章二四節〜二七節
【 彼らがカペナウムにきたとき、宮の納入金を集める人たちがペテロのところにきて言った、
「あなたがたの先生は宮の納入金を納めないのか」。
ペテロは「納めておられます」と言った。
そして彼が家にはいると、イエスから先に話しかけて言われた、
「シモン、あなたはどう思うか。この世の王たちは税や貢をだれから取るのか。
自分の子からか、それとも、ほかの人たちからか」。
ペテロが「ほかの人たちからです」と答えると、イエスは言われた、
「それでは、子は納めなくてもよいわけである。しかし、彼らをつまずかせないために、海に行って、つり針をたれなさい。そして最初につれた魚をとって、その口をあけると、銀貨一枚が見つかるであろう。それをとり出して、わたしとあなたのために納めなさい」。 】

「なぜ金に関わることを、ペテロに聞きにいくのだ?責任者であるからだ。」
「ペテロは『納めています』と言ってるのだから、ユダが誤魔化していたのを知らなかったんじゃないですか?」

「そう思うか?イエスは、ペテロに魚を釣りなさいと言っているのだ。ユダにではない。ペテロにその責任を負わせているのだよ?『わたしとあなたのために納めなさい』と言っているのはそういう意味ではないか。」
「そうとも、とれますけど。」

「別の場面になるが、イエスに香油を注ぐ女性がいるだろう。この女性はもちろんマリヤのことだ。彼女は、裕福な家系の娘であるから、イエスらの活動に必要なお金も、私財を投入してきた。この香油も彼女がイエスの為に準備したものだ。それに対して他の弟子らは『その香油を売れば貧しい者に施せるのに』と憤るわけだ。」
「弟子らの気持ちも理解できますよ。」

「ヨハネ福音書においては、この場面で文句を言うのはユダ一人だけなのだが、他の福音書には、『弟子ら』つまり複数の弟子が文句を言っていたことになっている。ペテロは果たしてどちらの立場にたったであろうな?」
「・・・・。」

「もう一つ、この場面から察するのは、マリヤはユダやペテロらに知れることなく、自分の自由になるお金を持っていたということだな。たとえ、イエスのために使う香油だとしても、彼らはそれが気にくわなかったということだ。」

「ユダが最もつまずいたんでしょ。彼は会計でありながらお金を誤魔化していたのだから。」

「誰もが、裏切り者はユダであると信じている。福音書にはっきりと書かれているのだからな。だが、ダ・ヴィンチは違う考えを持っておった。・・・『最後の晩餐』のユダの位置を見なさい。」

マリヤの隣りにアトリビュートである金袋を右手に持っている者がいる。
彼がユダだ。
顔は後ろをふり返っているので黒っぽく塗られて表情は見えない。
ふり返るその後ろには、・・ペテロがいる。

「『ユダの背後にペテロがいた』ということだ。ヨハネ福音書一三章一節だ。」

ヨハネによる福音書 第一三章一節〜二節
【 過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。
夕食のとき、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていたが、 】

「『シモンの子イスカリオテのユダ』となっているだろう?シモンとは誰だ?」
「・・・ペテロですか。」

「その通りだ。ユダの産みの親の名前だと考える者もいるが、なぜこの場面でわざわざ産みの親の名前を登場させる必要がある?この『シモン』は、ペテロを指したものと考えるのが妥当だろう。つまり、ユダはペテロにとって子のような立場にあったことを表現した語句だ。そして、『悪魔』はすでにユダの心にイエスを裏切ろうとする思いを入れていたということだな。」

ヨハネによる福音書 第一三章三節〜一一節
【 イエスは、父がすべてのものを自分の手にお与えになったこと、また、自分は神から出てきて、神にかえろうとしていることを思い、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。
こうして、シモン・ペテロの番になった。すると彼はイエスに、
「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」
と言った。イエスは彼に答えて言われた、
「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。
ペテロはイエスに言った、
「わたしの足を決して洗わないで下さい」。
イエスは彼に答えられた、
「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。
シモン・ペテロはイエスに言った、
「主よ、では、足だけではなく、どうぞ、手も頭も」。
イエスは彼に言われた、
「すでにからだを洗った者は、足のほかは洗う必要がない。全身がきれいなのだから。
あなたがたはきれいなのだ。しかし、みんながそうなのではない」。
イエスは自分を裏切る者を知っておられた。
それで、「みんながきれいなのではない」と言われたのである。 】

「イエスが、弟子全員の足を自らの手で洗い流されたのだ。その意味はわかるか。」

「足を洗い浄めることによって弟子を愛された・・・ということでしょうか?」

「『罪』を洗い流す象徴ともとれる。人の足は、植物の木に見立てれば『根』にあたる。イエスは、弟子達の『根となる罪』を洗ってくださったのだ。だが、『根』から派生した『幹や枝葉』が犯した『罪』に関しては、彼ら自身が洗い流さねばならないのだ。むろん『実』においてもだ。イエスは、『根』を洗うことしかできん。後は彼らの責任にかかってくることだ。イエスは、『幹や枝葉が犯した罪』を彼らが告白してくれるのを最後まで信じて侍っていたのだよ。」

「彼ら?ですか。罪を抱えた者が複数いたということですか?」

「そういうことだ。だが、彼らは告白しなかったのだ。そしてイエスは彼らの罪を贖うために、十字架の道をすすまれるしかなかった。」

ヨハネによる福音書 第一三章二一節〜二七節
【 イエスがこれらのことを言われた後、その心が騒ぎ、おごそかに言われた、
「よくよくあなたがたに言っておく。
あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」。
弟子たちはだれのことを言われたのか察しかねて、互に顔を見合わせた。
弟子たちのひとりで、イエスの愛しておられた者が、み胸に近く席についていた。
そこで、シモン・ペテロは彼に合図をして言った、
「だれのことをおっしゃったのか、知らせてくれ」。
その弟子はそのままイエスの胸によりかかって、
「主よ、だれのことですか」と尋ねると、イエスは答えられた、
「わたしが一きれの食物をひたして与える者が、それである」。
そして、一きれの食物をひたしてとり上げ、シモンの子イスカリオテのユダにお与えになった。
この一きれの食物を受けるやいなや、サタンがユダにはいった。そこでイエスは彼に言われた、
「しようとしていることを、今すぐするがよい」。 】

「このイエスの言葉を見ても、サタンが入ったのはやっぱりユダですよね。」
「ユダにも、罪はあったが、金銭の罪以上の罪が何かわかるかね?」
「?」

「神が最も許し難いエデンの園の罪だよ。」


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