第四章 『聖アンナと聖母子』
「この絵には誰が描かれているかね。」 「後方から、聖アンナ・・・つまりイエスの祖母にあたる人です。」
先生は黙って聞いていた。
「二番目は、マリヤ・・・このマリヤは、イエスを産んだ方のマリヤで、手前の幼児がイエス。イエスがつかまえている小羊は、人々を象徴しているものだと思います。」 「つまり、アンナ、マリヤ、イエスの親子三代ということだね。なぜ、そう思った?」 「・・・え?だってこの絵の題名は『聖アンナと聖母子』ですよ。」
「では君は、『題名』から解釈したということかね。」 「ええ、そうです。当然でしょ。」 「『題名』による『思いこみ』ということだ。この彼の仕掛けも大成功であったな。しかし未だに誰もわからんというのも残念なことだ。」 「?」 「あそこに、母子が見えるだろう。」
先生は、俺たちのいるベンチの一つ開けた先のベンチに座っている若い母親に視線を投げかけていた。 母親は赤ちゃんの両脇を支え、自らの膝の上に軽く立たせながらあやしている。 母親の穏やかな表情からして、赤ちゃんもきっと笑みを浮かべながら喜んでいるのに違いない。
「あの奥さんの母親が、かわいい孫の様子を見にやってきたとする。どこに座る?」 「もちろん、奥さんの隣でしょう。」 「そうだな。では想像してくれ。椅子に腰を下ろした母親のひざの上に、あの奥さんが赤ちゃんを抱えて座る光景をだ。」
俺はもう一度、彼女らを見やった。 あの奥さんはまだ二十代前半といったところだ。 その母親なのだから四十半ば〜五十代だろう。白髪交じりの祖母。 その祖母のひざの上に、あの奥さんが赤子を抱えて座る。
・・・何かおかしい。そもそも子を産む年代の人が、母親のひざに座るものなのか?
「どうだ?想像できたか?」 「変ですよ。年代のいった女性のひざ上に、若い女性が座るというのは少し無理な姿勢かと。」
「席が一人分しかなかった時は仕方ないだろう?」 「それでも、どちらかが譲るか、せまくても横に一緒に座るかですよ。それが普通な行動ですよ。」
「そうだな。それが普通だろうな。では、もう一度この絵をよく見てみなさい。」
『聖アンナと聖母子』を見つめた。 しかし、アンナの上にマリヤはどっしりと、そのふくよかな腰を預けている。 マリヤは、子供をさらに抱き寄せようとしている。 アンナは、そんなマリヤに視線を落とし、たぶんその先の子供にも深い愛情を抱いているのだろう。優しい、愛情を感じさせられるアンナの表情だ。 そのゆとりある表情が、なんだか不自然に見えてきた。 だって、重たくはないのか?
・・・アンナとマリヤの顔を見比べる。
・・・おかしい。
アンナの顔が、マリヤよりも大きく見える。 顔だけでない、体もマリヤより大きい。 遠近法からいっても、後方の女性の方をわずかに小さめに描く方が理にかなっている。 でも、これは後方のアンナの方が確かにマリヤより大きく見える。 だから、アンナがゆったりと構えていても不自然には見えないのだ。
「アンナが、マリヤより大きく描かれているように見えます。なんでだろう?」 「それはこの人物はアンナではないからだ。」 「え?」
「この三人は、アンナ、マリヤ、イエスを描いたものではないということだ。しかし、つけられた『題名』ゆえに、誰もがそうだと『思いこみ』、この絵は『残された』というわけだ。もし『真実の題名』をつけておったら、この世には残っておらんかったであろう。」
「『真実の題名』って?」
「これは、イエスと妻のマリヤとその子供を描いたものだ。」
「・・・え?」
「後方の者がイエスであり、その次が妻のマリヤであり、子供は二人の子だよ。子は黙示録では『小羊』とも言う。子がつかまえているのは一見ただの羊だが、この小羊は君の言うように、我々人類を象徴したものだ。」
確かに後ろの人物がイエスだと言うなら、この構図も理解できる。 男性なら、マリヤより大きく描かれていて当たり前のことであり、愛する女性をひざの上に座らせることも、男であればなんのことはないだろう。
彼のマリヤを見つめる表情。 イエスだと言われた途端に、夫が妻を慈しむ表情に変化して見えた。 そして、二人の子供。・・・でもこの子は男の子だ。
「この子は、男の子ですよ。伝説では二人の間に産まれたのは女の子で、名前はサラというそうですよ?」
「ダ・ヴィンチは、男の子と認識していた。・・・想像してみなさい。イエスの死後、マリヤに男の子が生まれたことを知れば、周りの連中はほってはおかんかっただろう。なにしろ、その子がイエスの血をひく正統な後継者として名乗りあげるかしれん。またマリヤも、聖なる母として再び持ち上げられ権力争いになるやもしれない。だが、マリヤは、サマリヤ人だ。ユダヤの民が、その子を受け入れられると思うかね?教会の基盤を築きたかった弟子達にとって、彼女らは悩みの種でもあったのだよ。マリヤと、供についたヨハネらは、再び信徒内部にもめ事が生じ巻き込まれるのを避けたかった。そして彼女らは異国の地に逃れ、産まれた子は女子だと流布したわけだ。そして静かに身を潜ませておきたかったのだ。」
「子供の頃は、それでごまかせたとしても、成長すれば隠しようがありませんよ。」
「そう、いつかは男の子だと知れる時がくる。時が来て、彼らの基盤が強まった時には、真実を公表してたかもしれない。でも、彼らはそうしなかった。・・・いやできなくなったというべきか。」
「なぜです?」
先生は、遠くを見つめながら、言葉を探しているかのように、ためらいがちにつぶやいた。
「子は・・・幼くして病で亡くなったからだ。」 「まさか?」
「もはや、男の子だとは決して言えなかった。なにしろ死なせてしまったのだからな。赤子を取り上げた産婆は、事の重大さを知って自ら口を閉ざしたよ。知っているのはマリヤとヨハネだけになった。彼らは、その後どうしたと思う?」 「わかりません。」
「よく似た女の子を、手に入れたのだ。何の為に?もし、子を亡くした事が周囲に知られれば、どうなると思う?この子は、神の子ではなかったと疑われる。神の子でないから、病気で死んでしまったんだとね。彼らは『子』が疑われることを最も恐れていたのだ。だから代わりの子を育てることにしたんだ。そして、この時、男の子をもらってくれば、将来やはり争い事に巻き込まれる可能性が高い、『子』が本物か偽物かで疑われることにもなりかねない。それなら女の子をもらって、最初のウソを本当にしてしまった方が楽だったのだ。女の子なら、むやみな争い事にも巻き込まれなくて済む。メロヴィングに入ったというのは、おそらくその子の血統だろう。」
「ダ・ヴィンチは、なぜ男の子だと確信できるんですか?マリヤとヨハネ以外にも知っていたか。彼らがなんらかの形で秘密を残していたか。ということになりますよね。」
「彼らは、秘密を完全に隠して世を去ったよ。後世の者は誰も知りえないことだ。」
「では、それはダ・ヴィンチの、あてずっぽうの推理とも言えますよね?」
「普通で考えればそのように取られても致し方ないことだ。そもそもイエスとマリヤに子供がいたという話自体、何の証拠もない話だ。ましてやその子が男か女かなんて二の次だろう。だが、彼は知る事ができた。そして絵に託したのだ。いつか秘密が証される時がくるまで、イエスの真実の足跡を記した書物らが発掘される日まで、この絵が守られるように、『聖アンナと聖母子』という名をつけたのだ。」
「でも、やっぱりその解釈はおかしいですよ。三人一緒に描いているのだから、イエスの生きている時に、男の子が生まれていたってことになりますよね。」
「この絵は、ヨハネ福音書のある聖句の『イエスの願い』を描いたものなのだ。イエスは、十字架の後に復活して弟子らの前に姿を現すのだが、食事の後でイエスがペテロに告げるのだ。」
ヨハネによる福音書 第二一章一五節〜二二節 【 彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、 「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。 ペテロは言った、 「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。 イエスは彼に 「わたしの小羊を養いなさい」 と言われた。またもう一度彼に言われた、 「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。 彼はイエスに言った、 「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。 イエスは彼に言われた、 「わたしの羊を飼いなさい」。 イエスは三度目に言われた、 「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。 ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、 「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっ ています」。 イエスは彼に言われた、 「わたしの羊を養いなさい。よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で 帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。 しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。 そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」。 これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのであ る。こう話してから、「わたしに従ってきなさい」と言われた。 ペテロはふり返ると、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのを見た。 この弟子は、あの夕食のときイエスの胸近くに寄りかかって、 「主よ、あなたを裏切る者は、だれなのですか」と尋ねた人である。 ペテロはこの弟子を見て、イエスに言った、 「主よ、この人はどうなのですか」。 イエスは彼に言われた、 「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、 あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」。 】
「イエスの気がかりは、自分の死後に残されてしまう、マリヤとその子、自分を信じてくれた信徒たちのことだった。それを、ペテロに再び託したのがこの場面だ。ペテロが、イエスを三度否定したことは有名だな。イエスが、三度に渡ってペテロに『わたしを愛するか?』と問うのは、彼の三度の否認を帳消しにするために言われた言葉だ。そして、イエスは再びペテロの信仰にかけるのだ。」
「それが羊を養うことですね。」
「最初の『わたしの小羊を養いなさい』というのは、イエスの子を指している。二番目の『わたしの羊を飼いなさい』とは、民だ。三番目の『わたしの羊を養いなさい』とは、マリヤを指したことだ。つまり、イエスはペテロに、イエスの子と民とマリヤを託したということだな。」
「同じことを三度繰り返しただけじゃないのですか?」
「イエスは三度、言葉を使い分けている。といっても、これも実話というよりも福音記者のヨハネが書いたことなのだが、イエスの言葉を微妙に書き分けているのも理由があるということだ。直に、『私の子を養え』『民を飼え』『マリヤを養え』なんて書けるわけないだろ?」
「それもそうですが・・・。」
「しかしペテロはイエスの真意を悟ることができなかったわけだ。イエスとペテロの後をマリヤがついてくるのを見て、ペテロは素っ頓狂な質問をしたのだからな。」
「素っ頓狂ですか?」
「イエスは、マリヤとその子を養えという意味の言葉を言ったのだ。マリヤはイエスの言葉を理解していた。だから後をついていこうとしたのだ。しかし、ペテロは『この人はどうなのですか?』ときたもんだ。さすがにイエスも憤慨するだろう。だから『あなたに何の係わりがあるか』と言ったのだ。これはイエスの死後も、やはりペテロはイエスの真意を悟れなかったことを象徴した場面でもあるのだよ。 イエスの死後の弟子の様子は、『使徒行伝』に書かれているが、そこにマグダラのマリヤの名前は無いのだよ。『使徒行伝』のはじめの方には、ペテロはヨハネとペアで各地に伝道に行っていることが書かれている。それが途中からヨハネは同行しなくなる。『ヨハネ』というニックネームをもったマリヤがペテロと各地へ伝道に行っていたのが身重の為に同行しなくなるのか、それとも十二弟子のヨハネが、出産するマリヤに供するために、ペテロの元を離れたかの、どちらかではないかと推測できる記述だ。」
「マリヤはどこへ行ったのですか?」
先生は、俺の問いかけに黙ったままで、再び美術書のページをめくり示した。
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