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作品名:ダ・ヴィンチの福音書 作者:そのうちみのる

第5回   第二章 イエスの妻 A
「サマリヤの女ですか。」
「ヨハネ福音書の第四章一節〜四六節に、サマリヤの女の記述がある。イエスは井戸に水をくみにきたサマリヤの女に「水を飲ませてください」と言うのだ。当時は、サマリヤ民族とユダヤ民族は犬猿の仲だったのだ。だから、女もイエスが話しかけてきたことに驚きを隠せなかった。しかし、話しを交わす間に彼女は悟るのだ。この方こそ、『主』であるとね。そして、彼女の方からイエスに「その水をわたしにください」と言う。」

「水に何か意味があるのですか?」
「喉を潤すための水のことを言っているのではないのだよ。洗礼を施すための水のことだ。」

「洗礼ヨハネも水でバプテスマ(洗礼)をしていましたね。」
「かつてイエスは、洗礼ヨハネと出会った時も、まずは自らがバプテスマを求めた。そして洗礼ヨハネは、彼こそが御霊によってバプテスマを授けるかただとイエスを証ししたのだ。この状況と同じなのだよ。「水をください」というのは「バプテスマ」をくださいという比喩だ。」

「なぜ、比喩なんです?」
「毎度の事だが、福音書に秘密を残すためだよ。イエスが彼女にバプテスマを求めたなんて書けると思うか?即、削除されるぞ。彼女はこの後に、サマリヤの人々にイエスの証しをし、彼らも彼女の言葉を信じるのだ。それは、彼女が元より人々から信頼されていた立場にあったということだ。そして彼らはイエスを信じ、イエスはその地で二日滞在することになる。二日の後に、ガリラヤへ行くのだ。四六節に『イエスは、またガリラヤのカナに行かれた。そこは、かつて水をぶどう酒にかえられた所である』と記述されている。これがどういう意味かわかるかな?」

「サマリヤの女と出会って、三日目にカナへ行く・・・。さっきの洗礼ヨハネの弟子の時と同じですね。」
「『水をぶどう酒にかえられた所』というのは、まさに結婚式の事を指していったことだ。」

「でも、どれもヨハネ福音書の話しですよ。二章でカナの婚姻があって、四章でも婚姻なんて、時間のつじつまがあわないですよ。」
「だから、誰も『同じ話』だとは思いもつかないのだ。これも福音記者による暗号の一つだ。イエスの妻がどのような人物なのかを示すためのものなのだ。これらから判ることは、イエスの妻は洗礼ヨハネの弟子の一人であり、サマリヤ出身の女であるということだ。
イエスの教えに『あなたの隣人を愛せよ』というのを知っているな。この『隣人』というのは、『配偶者』を指した比喩だ。夫なら妻を、妻なら夫を愛せよ。と夫婦愛の教えの言葉なのだよ。」

「その教えは、隣人愛を説いた教えでしょ?だから、イエスは憎いサマリヤ人をも愛するようにと、『良きサマリヤ人』のたとえ話しをしたはずです。」
「意外に聖書を読んでいるではないか。ルカ福音書二五節〜三七節のたとえ話しだな。イエスの教えに対して律法学者が質問するのだ「わたしの隣り人とはだれのことですか」と。それに対しイエスは、強盗に襲われた旅人を救う慈悲深いサマリヤ人の話をしたのだったな。」

「そうです。『隣人を愛せよ』というのは、敵をも愛せよという教えですよ。」
「サマリヤ人が、ユダヤ人から嫌われているのは判るだろう?たとえイエスの妻であろうと、信者や弟子にとっても受け入れがたいものだったのだよ。」

「あ・・・」
「ユダヤの一般大衆はなおのことだ。律法学者は、サマリヤ人を妻に迎えたイエスに対して皮肉な質問をしただけのことだ。だから、イエスは良きサマリヤ人のたとえ話しをしたのだ。それは、自分の妻を証ししたことにもなる。隣人愛の教えであれば、もっと彼らに身近な例のたとえ話しをするさ。他にもイエスとユダヤ人たちが、言い争う場面にも証拠がある。」

ヨハネによる福音書 第八章四八節
【 ユダヤ人たちはイエスに答えて言った、
「あなたはサマリヤ人で、悪霊に取りつかれていると、
わたしたちが言うのは、当然ではないか」。 】

「ユダヤ人であるイエスに向かって、『あなたはサマリヤ人』と言っているのだ。これは、サマリヤ人と結婚したイエスを、もはやユダヤ人ではなくサマリヤ人だと野次った言葉だ。そして、彼女を『悪霊』とさげすんでいるのだ。聖なる女性であるにも関わらずだ。」

・・・だけどサマリヤの女がイエスの妻というのは、問題ありなんじゃないか?

「サマリヤの女には、五人の夫がいたはずです。そんな女が聖なる女性ですか?結婚したイエスも姦淫ってことになるじゃないですか?」

ヨハネによる福音書 第四章一六節〜一九節
【 イエスは女に言われた、
「あなたの夫を呼びに行って、ここに連れてきなさい」。
女は答えて言った、
「わたしには夫はありません」。
イエスは女に言われた、
「夫がないと言ったのは、もっともだ。あなたには五人の夫があったが、
今のはあなたの夫ではない。あなたの言葉のとおりである」。
女はイエスに言った、
「主よ、わたしはあなたを預言者と見ます。 】

「この言葉にも秘密が隠されているということだ。サマリヤの女は自分には夫はいないといった言葉に対して、イエスは『あなたの言葉のとおりである』と締めくくっている。彼女は未婚で夫はいなかったのだ。では、なぜ『五人もの夫があった』とイエスは言っているのか?これはやはり別の章節に関わってくる内容なのだ。『預言者と見ます』とある。これは過去のことではなくて、マリヤの未来に関わる秘密だということだ。」
「未来ですか?」

マタイによる福音書 第二二章二三節〜二八節
【 復活ということはないと主張していたサドカイ人たちが、
その日、イエスのもとにきて質問した、
「先生、モーセはこう言っています、『もし、ある人が子がなくて死んだなら、
その弟は兄の妻をめとって、兄のために子をもうけねばならない』。
さて、わたしたちのところに七人の兄弟がありました。
長男は妻をめとったが死んでしまい、そして子がなかったので、その妻を弟に残しました。
次男も三男も、ついに七人とも同じことになりました。
最後に、その女も死にました。
すると復活の時には、この女は、七人のうちだれの妻なのでしょうか。
みんながこの女を妻にしたのですが」。 】

「この質問に対して、イエスは「復活の時には、彼らはめとったり、とついだりすることはない。」などと答えるのであるが、イエスの答えはどうでもよい。大切なのは、このたとえ話しの女が七人の夫をもったということだ。」

「たとえ話しにしては、すごい話しですよね。」
「旧約聖書にはタマルという女性もでてくる。イエスのずっと前の時代のことだ。タマルもやはり、長男である夫が死んだ時は次男と結ばれ、また次男が死んだため、三男と結ばれるはずであったが、兄弟の父親が、息子らが早死にしたのはタマルのせいだとして三男とは結婚させなかった。夫が死んだら、その夫の兄弟が妻を順にめとるのは昔からあったことなのだが、七人という人数は、たとえにしては多すぎると思わないかい。」

「まあ通常ではありえない、話ですよね。」
「それをあえて、たとえ話に組み込むということは、この数に意味があるということだ。それは、サマリヤの女との会話でも同じことが言える。イエスはサマリヤの女に五人の夫がいたと、言っただろう。この五人というのは数字あわせの数だ。イエスが彼女と結婚すれば六人目の夫ということだ。イエスの次に、マリヤは七人目の夫を迎えるということだ。」

「そんなこと!『イエスとマリヤが結婚していたかどうか』ってだけでも疑問視なのに、マリヤがイエスの後に夫をもつって話しは奇想天外もいいところですよ。」
「バカな話しかどうかは、最後に判断すれば良い。そもそも福音書は、すべてが事実に基づかれて書かれたものではない。直に語れない事を後世に残すために作られた話でもあるということだ。」

「どういうことですか。」
「既に知っているであろう?コンスタンティヌスがキリスト教を国教化する時に、ニケーア会議で、イエスを神の子とするのか、人の子とするのかも含めて様々な事を話し合って決めたのだ。当時のローマは、古代宗教のミトラ教が盛んであって、国内には原始キリスト教との宗教対立もままならんかった。コンスタンティヌスは、国内を統一するためには宗教統一を行わねばならんと考えたのだろうな。よってミトラ教と、原始キリスト教との平和的な融合が行われたのだよ。そして、新しいキリスト教の内容にそぐわない文書、福音書は焼却処分されてしまい、残るは、新しいキリスト教にとって都合の良いものだけになった。残ったものにも手を加えられていった訳だ。ゆえに、イエスの真の足跡を知る者達は、文書を地中に隠すか、真実を比喩やたとえでもって福音書に記すしか術はなくなってしまったということだ。」


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