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作品名:ダ・ヴィンチの福音書 作者:そのうちみのる

第4回   第二章 イエスの妻 @
第二章 イエスの妻

「でも、どう数えても十三人しかいませんよ!イエスの他には十二人しかいない。」
「手品のトリックだよ。君は見たことないかい?箱の中に女性が横たわり、胴の真ん中を切断して、箱を二つに分離すると、片方の箱の端から足首が見え、もう一方には頭が見える、というものなのだが。」

確かに見たことがある。今では誰でも知ってるだろう古典的なトリックだ。
要するに箱にはあらかじめもう一人が潜入していて、一人が足をみせもう一人が首をみせる、というものだ。
箱をもどした時に観客に見えないように一人が脱出すれば良いだけのことだ。

「『最後の晩餐』には、明らかに不自然な描き方をされた人物が一人いるのだ。体の隠された人物がいる。イエスの向かって右側だよ。」

イエスの向かって右側、両手を広げた弟子の後ろに隠れて顔をのぞかせている者がいる。
確かに変だ。
他の全員は体がしっかり描かれているのに、どうして彼だけが頭と手首だけなのだろう?

「首は、トマスだ。だが手首は?この場合、洗礼ヨハネとは違うが、『ヨハネ』という名を連想させるために手のポーズをつけたのだ。そして、『体』をすっかり隠すことによって、『ヨハネが隠れている』というメッセージを残したということだ。」

「一人にしか見えないけれど、トマスとヨハネの二人で演じているってことですか。」
「最後の晩餐の時に、隣りに座っていたのは、確かにマリヤだったのだ。ダ・ヴィンチは、マリヤを除外することはできなかった。しかし弟子は十二人でなくてはいけなかった。そうでなければ、教会が認めないだろう。」

「マリヤの代わりにヨハネを除外すればいいだけのことですよね。」
「彼の仕掛けへのこだわりだな。それにヨハネはマリヤの助け役になっていたからな。わずか手首だけだが、彼(ヨハネ)を欠かしたくはなかったのだよ。そして先ほど君が言っていた、マリヤが右に移動する部分についてだが、これも彼が残した仕掛けだ。いや、小説にちなんでアナグラムといった方がわかりやすいかな。」

アナグラムとは、文字のアルファベットの並び替えによって、別の言葉を意味する暗号のことだ。
それを絵の中に取りいれたということなのか?
アルファベットではなく、人物を入れ替えることによって別の意味を表すように、マリヤの位置をかえることによって、イエスには妻がいたという意味を表現しているということか。

ふと、別の疑問がよぎった。
この人は、小説は読んでいないといいながら、聖書やダ・ヴィンチの絵には詳しそうだ。でも聖職者ではないはずだ。
聖職者が、イエスに妻がいるなんて事は決して言わないはずだから、宗教学者の類なのかもしれない。
何にしろ、今の俺にとっては願ってもいない『先生』には違いなかった。
今日はとてもついている日かもしれない。

「イエスの妻は聖書中の『イエスのもっとも愛する弟子』であり、『マグダラのマリヤ』でもある。だが、実は聖書の中には、さらに違った呼び名で何度も登場しているのだ。」
「他にも呼び名があると?」
「ある時は『洗礼ヨハネの弟子』として、また『サマリヤの女』として、イエスからは『聖霊』と呼ばれることもあるが、逆にユダヤの人々からは『悪霊』とも蔑まれている。しかし、彼女こそきたるべき『エリヤ』だったのだ。」

・・・わからない。この先生は、一体何を言っているのか?

「順に説明してあげよう。まずは『洗礼ヨハネの弟子』についてだ。」

ヨハネによる福音書 第一章三五節〜三七節
【 その翌日、ヨハネはまたふたりの弟子たちと一緒に立っていたが、
イエスが歩いておられるのに目をとめて言った、
「見よ、神の小羊」。そのふたりの弟子は、
ヨハネがそう言うのを聞いて、イエスについて行った。 】

「この先の聖書の記述では、これら(洗礼)ヨハネの弟子は、この日イエスのところに泊まっているのだよ。二人のうちの一人はペテロの兄弟のアンデレだ。だがもう一人の名前は隠されておる。なぜだかわかるか?このもう一人がマリヤだからだよ。その日、マリヤはイエスのところで泊まり、アンデレは兄弟のペテロに会いに行くのだ。そしてイエスの証しをし、ペテロをイエスのもとに連れてくる。この時にイエスはペテロにこう言ったのだ。『あなたはヨハネの子シモンである。あなたをペテロと呼ぶことにする。』とね。先に出会ったヨハネのふたりの弟子にではなく、ペテロに対して『ヨハネの子』、そう言ったのだよ。これは後に重要な意味合いを持っていくことになる。忘れるな。」
「ペテロに向かって『(洗礼)ヨハネの子』と言ったことですね。」

「そして、三日目にガリラヤのカナで婚姻が開かれる。続きの第二章の話だ。イエスは『わたしの時は、まだきていません』と母に告げる場面がある。これを見ればこの婚礼はイエス以外のためのものと受け取れるだろうが、それは致し方ない。福音記者もずいぶん思慮したことだろう。この場面がイエス自身の結婚式と読み取れるような記述であれば、教会から、即刻削除されていたに違いないからね。だから、イエス自身の結婚式ではないように見せかけねばならなかった。しかし、単にイエスが誰かの結婚式に参加したかのような記述だけでは福音書に残す内容としては不適切だ。だから、イエスが水をぶどう酒にかえる奇跡を作り上げて、この話はイエスが奇跡を行い神の栄光をしめした場面であるとして、福音書に残すことができたのだ。」

「では、カナの婚姻が、イエスとマリヤの結婚式だったってことですか。」
「洗礼ヨハネの弟子を迎えて、三日目に結婚する。この『三日』というのも実際に出会って三日目に結婚したというのではなく、別の章節との関連をもたせるための数字合わせにすぎない。それが、続く四章の『サマリヤの女』との関連性なのだ。」


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