あとがき
本当は、『あとがき』を書く予定ではありませんでしたが、投稿するにあたって2度も凡ミスを繰り返してしまったので、訂正もかねて書くことにしました。
2度の凡ミスとは、サブタイトルの書き損じです。 第10回では、『第七章』というのを書き忘れました。 第23回は、本当は最終回にチェックして投稿しなくてはいけないのに、忘れてしまい、 サブタイトルの『エピローグ 回想』というのも書き忘れました。 ですので、この『あとがき』が最終回という形になってしまいました。 ・・・すみません。
これは、電子書籍販売の『でじたる書房』を通して、昨年12月に公開した作品です。 しかし、未だに1冊も売れず。・・・とほほ。 永遠に未公開作品として陥ってしまっては元も子もありませんので、こちらのサイトに投稿した次第であります。
この作品を書くきっかけになったのは、昨年の6月。 主人公のごとく、『ダ・ヴィンチ・コード』を本で読み通して絵に関心をもったからです。 『最後の晩餐』の絵の構図の不自然さにいろんな疑問が湧きました。
イエスとマリヤ(定説ではヨハネ)の間の空間は、単にアルファベットや物の形を表しているのだろうか? トマスだけ、なぜ体が描かれていないのか。 マリヤ(ヨハネ)は、なぜイエスではなくペテロに顔を寄せているのか? ユダの顔は、なぜ描かれていないのか(イエスを見ている、というよりも後ろを振り返らんとするポーズに見える)
そしてネット上で、マリヤがイエスの反対側に移動する、ダヴィンチコードの映画の広告を見た瞬間。 『アナグラム』という単語が頭に浮かんだのです。
アルファベットが移動ではなく、人物を移動させることによって、別の意味をもたせているんだと。 するとイエスとマリヤの空間と、ペテロの目線が浮かび上がってきます。 もう一つのアナグラムの可能性に気づいた瞬間でした。
その後は、『モナ・リザ』、『聖アンナと聖母子』、『洗礼者ヨハネ』。 彼が最後まで手放さなかったといわれる絵も、次々に可能性が産まれてきました。
元々、聖書は読んだ土台があったおかげもあるかと思いますが、新訳の4福音書を読み直し、絵画の疑問符と照らし出してできあがったのが、この作品というわけです。
この作品を読まれて、荒唐無稽だと思われる方もおられて当然。 絵画の解釈は、見る人によって千差万別に分かれているのですから。 聖書の解釈もまた然りであります。 一個人の、一解釈として寛大に受け止めていただければ幸いであります。
2007年5月8日 そのうちみのる
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