エピローグ 回想
あれから、三日たった。 俺は、またあの場所に座っている。 蛇の死骸などどこにもない。それもそうだろう。 あの時と同じ静けさ、穏やかな日差しの中で、俺は先生のことを考えていた。 後悔の念でいっぱいだ。 三日前のあの日、家に帰ってからの事を思い出す。
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あの日、走り込んで五分ほどでアパートについた。 ポストにねじ込まれた郵便物をとり、二階に一足飛びで駆け上がり、ドアの鍵を開けた。部屋に入って鍵を閉め、ホッと一息つくことができた。 締め切ったままの空間はすでに汗くささを増してしまっていたので、荷物をテーブルの上にどさっと置き、いつものように風を通すためにベランダの窓を開け放した。
喉がカラカラに渇いていたので、台所へ行き冷蔵庫の冷えたお茶缶を飲みほすと、かえって汗がにじみでてきた。 落ち着くと、頭と肩にふれた時のあの生々しい感触が蘇ってきて、ゾッとした。 俺は、それらを洗い流したくて、風呂場にいき、先にシャワーを浴びた。 体にあたる湯が気持ちよくて、ふいに俺は、浴槽にもお湯をためることにした。 精神的な疲れもあってか、ゆっくりと湯船につかりたくなったのだ。
カバンの血を早く洗わねばならなかったのだが、どうせ、誰のものかもわからない落とし物だ。落とし主が取りに来ないかもしれないんだ。 多少シミが付いててもかまいやしないだろう。 なんて、身勝手なことを思ってしまったのだ。
頭から体まで洗い流し、まだ少し量の足りない湯船につかった。 それはまるで1週間ぶりにでも入った風呂のように感じた。 体だけでなく心も洗ってくれるようだ。
俺は、赤い目をしたあいつが、俺の心に侵入してきた時のことを思い出した。 あれは実は途中までは本当のことだったんだ。
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俺は中学2年の時、確かにそのような日記を書いていた。 そしてそれを母さんに見られたかもしれなかった。 どう思われているか怖くて仕方なかったけど、階下におりたんだ。 母はいつものように鼻歌まじりで台所に立っていた。 なんだか甘いにおいがしていた。 シナモンだ。母が子供のころによく焼いてくれたアップルパイのにおいだ。
「あら、お帰りなさい。帰っていたのね。」 「僕の部屋に入らないでっていったじゃないか?」
一触即発のその時、玄関のチャイムが鳴った。
「お父さんだわ。」 母は、慌てて玄関にいった。
「母さん、着替えの支度はできてるのか?」 「ええ、二人分用意してますよ。」 「よし、じゃいくぞ!」
両親の会話が読めなかった。 帰ったばかりでまたどこかに出かけるんだろうか?母と? いや、父は僕に向かって言っている。母は留守番のようだ。
「レッツゴーだ!」 ・・・昔から明るい父だった。 こちらの意志を問わずあれよあれよと車に乗せられた。
車庫を出るときに、妹がクラブから帰ってきたのが見えた。 「あ!お兄ちゃんだけずるい!」 と叫んでいたが、父はそのまま車を走らせた。 「大丈夫、アイスでもみやげに買って帰れば上機嫌だ。」 ・・・小学生じゃあるまいし。
着いた先は、小さいころ家族で何度も行ったことのある健康ランドだった。 小学1年までは、母と妹と一緒に女風呂に入っていた。 2年になってからは男風呂を希望した。 母は妙に寂しがっていたっけ。 そういえば、家族でこなくなってからずいぶん経つような気がする。 平日の夕方であって、人はまばらであった。
「ひさしぶりだろ?泳いだっていいんだぞ?」 「・・・子供じゃないんだから。」 「そうだな、もう子供じゃないか。」
父の言葉に、ギクッとした。もしかして母さんから何か聞いているのかもしれない。それで今日は早く帰ってきたのか?
「それ少しあがりなさい。背中を流してやろう。」 「ちょっと、いいったら。恥ずかしいよ。」
これは正直な気持ちだった。 ふだんこんな風にお風呂に入ることはもうない。小学生の小さな時以来だった。 父とふれあうのが気恥ずかしかったのは確かだった。
父は構わず、タオルを石けんで泡立てて僕の背中を洗いはじめた。 人の目が気になるけど、気持ちが良かった。 妹と一緒に父や母とお風呂に入っていた頃のことを思い出した。 父も母も、いつも僕と妹の頭や体を洗いながしてくれた。 それは一日の日課の一つで、そこには何の恥ずかしさもなくて、一緒に入ることが当たり前だった。 年を重ねるごとに、妹が一人で入るようになり、僕も一人を望むようになった。 それは体がいつのまにか変化していったからだ。
「大きくなったな」 父の声に、我にかえった。 手桶のお湯を肩から流してくれた。 僕は、すかさずタオルを受け取った。 少し勇気のいることだったが、このまま湯船に入ってまじまじと僕の顔を見られたくなかった。
「今度は僕が洗うよ。」 「おお!思いっきり強くていいぞ!」 実は、父の背中を洗うのはこれが初めてだった。 今までどれほど一緒に入ってきて、僕の体を洗ってくれたかわからなかった。 でも、僕が父の体を洗うという発想が湧かなかったのだ。 自分は子供で、愛を受けるだけで、親に返してこなかったことを、何となく悟った瞬間だった。 父の背中は、昔は大きく見えたけど、今ではそれほどでもない。 左肩には今もあの事故の傷跡が残っていた。
「どうかしたか?」 僕はあわてて、手の甲で顔をぬぐった。 手にはいっぱい泡がついたままだったので、石けんがいきなり目にしみてしまった。
「いた!」 「なにやってるんだ?そら洗い流すんだ。」 父は、ぬるめのシャワーを手につかませてくれて、僕はそれで顔を洗いながした。 なんだか、助かった。目が赤くても石けんのせいでごまかすことができた。
「昔から、おっちょこちょいは変わらんな。」 父は、タオルを固くしぼって手渡してくれた。 そして、僕がタオルで目をおさえている間に、シャワーでささっと自分の体の泡を洗い流していた。
この浴場は、屋外にも風呂があり、僕たちはそこにつかった。 秋の空は日も早く落ち、すでに星と月が見えていた。 他のお客はあまりいなかった。 何も話さない父に、僕もひたすら黙っていた。 岩にもたれていた父が先に口を開いた。
「『許す』ってことは、すごいことだよな。」 「え?」 「いや、街頭でさキリスト教の布教を見たんだよ。イエスは十字架の上から、『父よ彼らをおゆるしください』といったそうだ。神も人の罪を許してくださる。悔い改めて神に帰ろうと。・・・若い女の子がメガホン構えて、そりゃ勇ましい姿だったよ。」
「それが何?」 父が何を言いたいのか、内心不安だった。
「まっすぐに生きようとしても、そうできないときもある。誰かに傷つけられたり傷つけたり。外的な傷じゃない、心も同じだよ。そうだな・・・もしお前が誰かにいじめられたとする。お前はそれを『許す』ことができるか?」
「許せるわけないじゃないか。でも僕はいじめられてなんかいない。クラスにはいるよ。でも僕はいじめたりもしないよ。」 「傍観者か。」 「僕だけじゃない!みんなだって、大人だって同じだよ。関わって自分がいじめの対象になるのがイヤだからだ。父さんは僕がいじめられても構わないの?」
「父さんだってお前の立場だったら同じかもしれない。自分より強いヤツや悪いヤツに立ち向かうのは勇気がいることだからな。」 「なら、何がいいたいのさ。」
「イエスの時も似たようなものだったのさ。弟子や民衆の誰もが巻き込まれることを恐れて傍観者になったんだろうな。それでも、イエスは自分から離れてしまった人々を許しながら死んでいったんだな。」 「まさか、死ぬのに、感謝して死ねとでもいいたいの?」
「勘違いするなよ。近頃、自殺する子も多いけど、自殺は決して、してはいけないことだ。与えられた命は自分勝手に扱えるものじゃないぞ。いじめるやつらなんかに負けてはいけない。」 「なら何がいいたいの。」
「人を信じ、許して死んでいったイエスの精神はすごいものなんだけど、・・・仮にだぞ。弟子や民衆らが勇気を出して、イエスの無実や救いを訴えたとしたら、彼は死なずに済んだんじゃないかな。って思ったんだ。」 「そんなことできっこないよ。」
「みな心の中では、戦っていたと思う。何がいいことで何が間違っているのか、心の中では知っているのさ。だけど、その通りに行うことは勇気のいることでもあるんだ。だけど、たった一人の人が勇気を出したら、もしかしたら二人目、三人目が立ち上がるかもしれない。そして、大きな力になっていくかもしれない。そうしたらイエスは十字架から降ろされたかもしれないな・・・なんて、父さんふいに思ったんだ。」
「理想論だよ。現実は甘くないよ。」 「・・・まあ、そうかもしれないね。それにしても、今の世の中であんな若い子が熱心にやっている姿にちょっと感銘したのかな。」
「変な宗教かもしれないよ。」 「何も信じない者よりましだと思うよ。死んだおばあちゃんの事覚えてるか?そりゃ信心深い人だったんだぞ。俺が子供の頃から、毎朝毎晩、神棚に祈っていたね。よく説教されたよ。 親を泣かすな、人の物を盗むな、邪な思いをもつな、先祖がすべて見ているぞ。ってね。母親のそんな姿を見て、目に見えない何かを信じるようになって、決して悪いことだけはできなかったものだ。」
「そんな話、聞かされたことないよ。」 「昔は当たり前のことだったのに、時代が変わってきたからね。今の子に言っても通じないだろうね。だけどお前も毎日、おばあちゃんの隣で神棚に手をあわせていたんだぞ。」
「覚えてない。」 「まあ、お前が三歳の時に亡くなったんだから仕方ないか。 ・・・お前はおばあちゃんの血が流れている。父さんと母さんの血も流れている。大切な子だよ。この先お前が犯罪でも犯すような悪い人間になったとしても、父さんも母さんもお前を信じているし愛しているよ。」 「何、突然そんなこと言うんだよ。気持ち悪いよ。いつもはすぐに怒鳴るくせに。」
「まあ、完璧な親なんていないさ。感情がぶつかることもあるだろう。許してくれ。だけど怒るのも、お前達を想ってのことだ。」 「親の押しつけだろ?」 「・・・お前が大人になって、親になった時にわかるさ。」
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父との会話は、そんな話だった。 家に帰って、母の夕食とアップルパイを皆で食べた。 みやげを買うのを忘れたので、妹は父にしきりに「ずるい」を連発していた。 久しぶりに家族でのにぎやかな食事だった。 それから先も、父も、母もあの日記に関しては何も言ってこなかった。 読まれていたのだろうか?読まれなかったのか?それはわからない。 だけど、それ以来、母が勝手に部屋の掃除をすることはなかった。 俺も書くことはやめた。 目に見えないものを意識したからかもしれない。 それに、それからも時々、父が風呂に誘ってくれたので、少しづつだけど、学校の話も男同士の話もすることができた。 それで満たされることができたんだ。
ずいぶん、長く入ってしまった。ぬるめの湯ではあったが、すっかり体がのぼせてしまっていた。 暑いので上半身はタオルを首にひっかけたなりの姿で、冷蔵庫の新しいお茶缶をまた一本開けた。 飲みながら居間に入って・・・足がとまった。 持っていた缶も思わず落としてしまった。 床にこぼれているだろう。足下が冷たい。 しかし、それ以上に暖まっていたはずの体に、冷たい寒気が生じた。
テーブルの上は、散乱していた。 自分の荷物と、あの聖書は床に落ちていた。 無いのは、黒のショルダーバッグだった。
テーブルには血のようなものが付いていて、それは、転々と長い筋を描くように、テーブルから床、その先のベランダへと続いていた。 後をたどって恐る恐るベランダにでた。 血の痕はベランダの柵をのりこえて、そのまま下に落ちたのかもしれない。 真下のアスファルトに血だまりが見えた。 そのすぐ先は草むらがあり、金網のフェンスの向こうには小さな川が流れているのだ。
俺は、すぐにズボンとシャツを着ると外に飛び出した。 ベランダの下の血だまりから、側溝までの草むらには、やはり血の痕とは別に何かを引きずったような痕がある。 フェンスの金網はすっかり古びていて、草を掻き分けてみると大きな穴があいていた。 普段は猫の通り道にでもなっているのかもしれないが、破れた金網に、黒い皮の切れ端がわずかに残っていた。
・・・間違いない。カバンごと川に引きずっていったんだ。 やつは生きていて、ここまで追ってきたというのか。・・・何のために?
俺はダ・ヴィンチが友から日記を取り返す話を思い起こした。 ・・・もう一冊のもの、カバーがかかっていたので本なのか日記なのか中味は解らないが、やつにとって見られたくないものだったのに違いない。
あの時、風呂で暖かいお湯を見ているうちに、カバンを洗うことを後回しにしてしまった自分に悔やんでも悔やみきれなかった。
そして俺の手の中には、聖書が一冊残されただけだった。 俺は聖書をパラパラとめくった。 この聖書も中をよく見ると、ところどころの章節に、鉛筆でラインがひかれていた。
このラインは、先生がひいたものなのか、それとも聖書の本来の持ち主がひいたものなのかは判らない。 だからカバンの本来の持ち主を見つければ、きっと何かわかるかもしれない。 そう思って、ここにきているのだけれど、まだ誰もそれらしい人物は現れはしない。
あいかわらず穏やかな日常の風景を目の前にしながら、自分に課せられたものが何だったのか、ぼやかされてきそうだった。
「フランチェスコ。自分に何ができるのかな。」
そうつぶやいても、静かに風が通りすぎるだけだった。
エペソ人への手紙 第六章一0節〜二0節 【 最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。 悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。 わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、 権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。 それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、 堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。 すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、 平和の福音の備えを足にはき、その上に、信仰のたてを手に取りなさい。 それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。 また、救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。 絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために 目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。 また、わたしが口を開くときに語るべき言葉を賜わり、大胆に福音の奥義を 明らかに示しうるように、わたしのためにも祈ってほしい。 わたしはこの福音のための使節であり、そして鎖につながれているのであるが、 つながれていても、語るべき時には大胆に語れるように祈ってほしい。 】
完
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