第十二章 目に見えないもの
先生は美術書を手に取り、『最後の晩餐』をひざの上に開いて俺に見せた。 「この絵の中で、他に気づいたことはあるかね?」
気づいたこと?まだ何か残っているのだろうか? 俺は一人一人の人物を見た。 イエスのとなりで十字架のポーズをとっているヤコブがいる。 その十字架の彼の後ろで顔をのぞかせているのはトマスだ。 その近くには、『私が引き受けます』とでも言っているかのようなしぐさのピリポがいる。
「この三人は、イエスの身代わりを表現したものですね。でも、トマスは『ディドモ』と言ってもイエスに似ていませんね。」
「トマスには申し訳ないが、洗礼ヨハネが哀れに思えてね。本当なら、彼がイエスの一番弟子であり、隣の座に位置するものであったはずなのだ。トマスの首を描く時に、首を切られた彼の事が頭から離れなかった。それで、顔が洗礼ヨハネになってしまったのだ。」
「他には?」
そう言われても・・・。
「一番重要な秘密が残っている。最後の晩餐後のイエスの十字架の悲劇、すべての原因をつくった者の正体を、絵の中に残したのだが?」 「ペテロの事ですか?マリヤ?」 「人ではない。ペテロは操られただけにすぎない。」
・・・創世記でエバを堕落させた天使長ルシファーのことだろうか。 園の中で、大蛇がペテロに鎌首をもたげていた光景が思い起こされた。 ・・・天使?・・・悪魔?・・・蛇?・・・蛇だ。
「ペテロの後ろの手だ!」 「その通りだ。」
ペテロの背後にのびている手首がある。 それは、一見アンデレの隣の人物がペテロに手を伸ばしたようにしか見えないから誰も疑わない。 しかし、この手の形は、蛇の鎌首を表現しているように見える。 そう、ペテロの背後には蛇に象徴されるサタンがいたということを表しているのだ。 そして、ペテロは蛇の言うなりに同じしぐさをイエスに向けている・・・ということか。
「アダムの再臨がイエス、エバの再臨がマリヤ、天使長ルシファー、後のサタンの再臨がペテロに値するが、天使長は霊的な存在であり、肉体は持っていない。ペテロは天使長に操られていただけだ。 イエスの十字架は決して人間だけの引き起こした業ではない。目に見えないが、背後にサタンが存在している。私はそれを伝えたかったのだ。 これが『最後の晩餐』に仕掛けた最も重要な私のメッセージなのだよ。」
「サタンが、イエスを十字架にかけた?ってことですか。」
「イエスとマリヤもペテロも実在の人物であり、過去に完結した話ではない。神とサタンとの攻防戦は今も連綿と続いている。だが人は、神もサタンも信じない。霊界もそうだろう。目に見えないものを信じる心も失われている。人が信じるものは、目に見える確かな物。そして、すべての出来事や現象は人の業が成したことだと思いこんでいる。やっかいな時代だよ。」
「神とかサタンとか言われたって、そんなのわかりようがないですよ。」
「誰の心の中にも存在するのに? 人は、どんな善人でも悪人でも、良心と邪心をもっている。 善人と悪人の違いは、どちらの心に肉体が従ったかどうかの違いだ。 アダムとエバの堕落によって、肉体はサタンの影響を受けやすいのだ。肉体の悪しき欲望をコントロールするには、良心を強く保つ以外に道はない。宗教というのは、その役割を果たす為のものだ。 ではイエスの無き後、教会はどうなった? 誰が最初の教皇になった? キリスト教は、何をしてきたのか?」
俺に問いつめられても・・・。
「神は『三度目の正直』で、再臨のイエスと、再臨のマリヤをこの未来に産んだのだ。再臨のペテロに合わせてね。イエスとマリヤは結婚して『小羊』を産まなくてはならない。『小羊』は、アダムとエバ、イエスとマリヤが成しえなかった神の理想家庭を完成し、エデンの園を築く使命がある。そのためには母であるマリヤは『主の道を整える者』として小羊を守り、ペテロは『羊を飼い、羊と小羊を養わねばならない』のだ。 なのに、それが果たせずにいるから問題なのだ。 『小羊』を失えば、マリヤは歴史から再び消える。 ペテロは天国の門の鍵を開くことなく逆さ十字架の道を行くことになる。 それは神の願いではない。 『小羊』が神の願いを成就した時に、イエスもマリヤもペテロも、過去の過ちから解放され救われるのだ。 堕落したアダムとエバの後裔である人類もだ。」 「言われていることがよく判りません。『小羊』って、一体何なんです?何ができるっていうんですか?」
「『救世主』『マイトレーヤー』、日本式でいえば『弥勒菩薩』ともいうかな。人の罪の根を取り除くことのできる権能が神より与えられている。」 「まさか現実にいるって事ですか?この時代に?信じられない。」
「イエスもマリヤも二千年前に現実にこの地に存在した人物だよ。アダム・エバも例外ではない。歴史は繰り返しているのだ。何のために?人類がサタンに課せられた軛をはずし、神の子に帰るためにだよ。」 「そんなこと、出来るわけがない。それに、再臨のイエスやマリヤやペテロがどこにいるっていうんです?」
「今も存在している。もちろん『救世主』もだ。『救世主』と言えど、人の体ゆえに寿命はさけられない。肉は地に、その心は天に還る日はいつか必ず訪れる。残された時間はもうあまりないだろう。」 「自称『救世主』なんて、たくさんいますよ。」
「サタンが、この時代においても、神の計画を破綻させようと妨害したためだ。受け入れるべきキリスト教さえも『救世主』を悟ることができずにいる。彼こそがイエスを十字架の苦しみから降ろす者だというのに。」
「その人はどこにいるんですか?」 「彼は・・・」
先生は俺の背後をちらりと見やると、言いかけた口を閉ざした。
「それは言えん。フランチェスコが首を振っておる。」 「どうして?」 「私の証しできることは、自分の残した秘密に関わることだけだ。 未来に関しては、この時代に生きる君たちの責任ということだ。 ここで私が『救世主』の証しをすることはたやすいことだが、多くの者はトマスのごとく疑いを持ち、『証拠』を求めるであろう。 『証拠』を見ても信じぬ者も多いことだろう。 それほど世の中は不信と邪推で満ちているのだ。 もし、君が私の証しを信じるのであれば、君は自分で『救世主』を見いだすのだ。 目に見えない究極の存在である神を証しする者だ。 これこそが、君と君らの時代に与えられた福音なのだから。」
「もし、誰もわからなかったら?その人が将来死んだら、どうなるんですか?」
「・・・私にもわからん。ここから先の未来に行くことができないのだ。やはり壁には阻まれている。未来は、この時代の人間の責任に委ねられているということであろう。 だが希望はある。 歴史を調べ過去の教訓を学びなさい。 アダム・エバに何があったのか。 イエス・マリヤに何があったのか? さすれば、現代のイエスとマリヤ・ペテロが見えてくるはずだ。 まずは既成概念を突破せねばならない。外観に惑わされるな。 そしてパリサイ人の教えに気をつけなさい。彼らもイエスを迫害した者達なのだ。 私が君にしてあげられる助言はこの程度だ。」
先生は、手にしていた美術書を閉じると、表紙のモナ・リザの絵を指でたどった。 それは、愛おしいものを見つめる目であった。 そして、俺の肩をポンとたたくと美術書をこちらに差し出した。
「君の側にはフランチェスコもいる。私の絵を再び君らに委ねようではないか。」 「?」
「私のメッセージを誰かが解読してくれるのを待つ時間は、もはやこの時代に残されていない。だから私が直接送られて来たのだ。私も、今度こそマリヤを救いたいのだよ。私の願いをかなえておくれ。」 「俺に何ができるっていうんです?」
「君が神に祈って答えを見いだしなさい。もし、君に迷いが生じた時は、きっとフランチェスコがサインを送ってくれるだろう。目に見えないものを信じる時がきたのだ。」 「『サイン』って?」
「あらゆる物事を偶然ととらえるか、必然ととらえるか、常に選択するのは君自身だよ。」
先生は立ち上がると、まっすぐに俺を見つめた。自分と、その背後を見ているような視線だ。 「フラン、私のすべきことは終わったな。後は任せるよ。私も帰る時がきたようだ。彼女の絵を完成させねばならないしね。」 自分も慌てて立ち上がった。
「行かれるのですか?」 「ああ、最後に警告をしておかねばならない。君は、やつに見られている。いいか、心にスキをつくるでないぞ。もし君に万が一の事が生じれば、私の証しも無駄に帰すことになるわけだ。それは回避しておくれ。」
「まさか殺されるとでも?それならあなただって同じでしょ。」 「私は難を逃れる術を心得ている。ではな。神が許せばまた会える時がくるだろう。」
先生は優しく微笑み、手をヒラヒラさせると、スタスタと裏の遊歩道へと歩いていった。ベンチに、黒のショルダーバックがおいたままだった。咄嗟にそれをつかみ追いかけた。まだ聞きたいこともあった。
「待ってください!」 「・・・わたしですか?」
先生はゆっくりと、そして驚いたように後ろをふり返った。その声の感じは既に別人のものだった。
「あ、あの・・・忘れ物ですよ。」 一瞬、躊躇したが、とにかく手にしたバックを差し出した。
その人は、バックをチラリと見やった。 「それは私のものではありませんよ。ああ、そうだ。それ、そこの木の根本にあったやつでしょ?」 「え?」 「二日前にも、ここを散歩した時にあったんですよ。」 「二日前から・・・。」 「中を少し見たけど、身元のわかるものも貴重品も無かったしね。派出所に届けるのも面倒だったものだから、そのままにしておいたんだけど。持ち主は現れないようですね。」 「・・・・。」 「あなたも面倒でしたら、そのままにしておいてもいいんじゃないですか?」 「そうですね。そうします。」
互いに軽く会釈をするとその人は、遊歩道のゆったりとしたカーブを曲がられ、その後ろ姿も見えなくなった。 先生の霊体は、過去の先生の時代に帰ってしまったのだろう。
「これは元々の落とし物だったわけだ。」
それもそうか、肉体や物質は時空を越えることはできないと言っていた。 カバンなど持ってこれるわけもない。ましてや日本語の聖書なんて。 ・・・残っているのは自分の記憶と、側にいるというフランチェスコの霊ということだ。先生と話したという、目に見える物的証拠は何もないということだ。
とりあえず元のベンチに戻り腰をおろした。 先のベンチに座っていたはずの母子の姿も既に見あたらない。 誰もいない広い芝生を目前にして、まるでこの世に自分一人きりが置き去りにされたような気分になった。 ・・・これからどうすればいいっていうんだよ。無責任な。
ふいにカバンの中味が気になった。聖書だけにしては少し重たい気がする。 他にも何か入っているのだろうか? 人のカバンを勝手に見る、これでは、ダ・ヴィンチの日記を見ようとした友と同じだが、手はゆっくりジッパーを開いていた。 中をのぞき、小振りな本を取り出す。これは確かに俺が手にした聖書だった。 だけどもう一つ、黒い皮のカバーがかかったものがある。 それを取り出そうとした・・・その時。
ガサガサと上の木が揺れる音がしたと思ったら何か固まりが落ちてきて、それは頭から肩にあたり地面に落ちた。 体に触れた、その感触は生々しい生き物のソレであった。
「うわっ!」
足下で蠢くものを見て飛びあがった。 それは蛇だった。体長一メートル以上はあるだろう。 蛇はとぐろを巻いて鎌首をこちらにもたげ、威嚇の音をならしている。
ペテロの事を思い出した。これはただの蛇ではない。 俺は、咄嗟に周りを見たが周囲に棒や石などはない。 走って逃げるのは簡単だが、そうはしたくなかった。 なぜなら、そいつは、はずみで下に落ちた美術書の上にのっていたからだ。 よりによって彼の愛したモナ・リザの上にだ。
ゆるせない感情が湧いた。 俺は、咄嗟に抱えていた聖書を蛇に投げつけた。 『吸血鬼に十字架』の類で、聖なる物ならやっつけられるかと閃いたからだ。 しかし、かすりもしなかった。 ペラペラと薄いページが風にまってしまって逸れてしまったのだ。
次にベンチの上においたままだった『ダ・ヴィンチ・コード』を取った。 これなら固い。上下巻とも次々に蛇の胴体めがけて叩きつけた。 グネグネと蠢いていたが、逃げるどころか、かえって刺激させてしまったようだ。 こちらに向かってきた!噛まれる!
咄嗟に手にしていたショルダーバッグのひもを握りしめ、勢いよく振り上げて蛇の頭めがけて、振り下ろした。 中にはもう一冊入っている。 あの部屋の中でバットで、あいつに叩きつける場面がよぎった。 出来る!信じろ!
思ったごとく、がっしり蛇の頭をとらえることができた。クリーンヒットだ。 バタバタと動いていた尻尾の先が、やがて静かにとまった。 ・・・やった。
死骸をこのままにしておくのも気がひけたが、それ以上に触れたくはなかったので仕方ない。カラスか誰かが、見つけて処理してくれることを願いながら、俺は美術本やら何やらを急いで拾い上げ自分のカバンに入れた。 黒のショルダーバックは、底が土と蛇の血で汚れてしまっている。 いくら持ち主不明とはいえ、自分のしでかしたことだ。そのまま放置するわけにもいかなかった。返すにしてもきれいにしなければいけないだろう。 俺は、ショルダーバッグも肩にかけ、アパートに向けて自転車を全速力でこいだ。
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