第十一章 レオナルド・ダ・ヴィンチ
目を開けると、そこはお約束通り元の場所だった。 すべてが現実の世界に戻った。 自分の霊体が、時間を超えたというのか。本当に夢のようだ。 だってそんなこと現実に出来るはずない。 もしかすると自分はここでうたた寝でもして夢を見てたのかもしれない。 そうだよな。ありえないよな。腰元に置いていたコーヒー缶に手がふれた。 ・・・まだ冷たさが残っている。眠っていたわけではなかった。
「夢ではないぞ。」
横を見ると先生が座っている。・・・そうだ、この人こそ一体誰だ。
「私は、君を最初に見た時驚いたよ。なぜここにフランチェスコがいるのかとね。」
誰か別の人のことかと思った。あの時、俺に呼びかけていたのか?
「自分はそんな名前じゃない。日本人だ。」 「君の側にフランチェスコがいるのだ。」
俺は思わず立ち上がって一歩しりぞいた。 得体がしれなかった。何を言っているんだ? 睨み付ける俺を気にもせず、先生は愉快そうに笑った。
「君は私を疑っているようだが、それは、あの事を現実として認めるということかね?」 「・・・夢じゃない!確かに見た。でも何でこんな事ができる?あなたは誰だ?」
「私は、レオナルド・ダ・ヴィンチと呼ばれる者だ。」
まわりの時間が止まったかのようだ。 ダ・ヴィンチだって?どう見ても日本人じゃないか?
「本物だ。といってもこの肉体は借り物だよ。君も体験したからわかるだろうが、私の霊体が一時的に入っているだけだ。私の肉体は過去の私の時代でベッドに横たわっているよ。この体は日本語を話すから、君は耳から私の言葉を聞いていたかもしれないが、よく聞いてごらん。私の本当の声が聞こえるだろう?霊は言語も越えて理解しあえるのさ。私は、紛れもなくダ・ヴィンチだよ。本人にしかわからない絵の秘密を話してあげたことが証明にならないかね。」
ありえないことが自分の目の前で起きている。一体何がどうしてこうなっているんだ?
「・・・フランチェスコって?」 「ああ、すまないね。フランチェスコは、私の弟子の一人だよ。」 「彼も、過去から来ている?」
「彼は、既に死んでいる者だ。肉体が消滅すれば霊体はどこへ行くと思う?自分が死んだことを悟らずふらふら時空をさまよう者もいるが、ちゃんと帰るべきところがあるのだ。神は、肉体ある者にこの宇宙を創造されたように、肉体なき後も永遠に生きる霊体のために、霊界を創造されているのだ。だから、普通の霊体は自分の心の波長にあった霊界に行き、そこで永遠に暮らすことができる。死後の世界をかいま見た者は、結構世の中にもいるだろう?この世界と霊界は表裏一体だ。目に見えるものと見えないものの違いだけだ。」
「霊界って、天国とか地獄ってやつか。」
「霊体は、母親の体から生まれ落ちた瞬間から、死ぬ瞬間までをすべて記憶しておる。 肉体を持って体験したことは、たとえ一時的に忘れていても死ねばすべてあからさまになる。霊体同士が触れあえば、見ようと思えばどんなことでも隠すことはできない。 君もやつに過去の記憶を見られただろう?霊界とはそういうものだ。 だから地上で正しく生きれば何も恐れることはない。神の愛の中で永遠にやすらぎを得られる。 しかし正しく生きないものにはこれほど苦痛のところはないのだ。自分の犯した罪を『葉』で隠すこともできないからね。そういった者達はお互いの罪の程度によって波長に応じた世界を勝手に築きあっていく。それで出来た世界がこの世で地獄と呼ばれるものだよ。 神は幸福な一つの世界を望んでいたのに。神が天国とか地獄とかの区別を築いたわけではない。分けたのは堕落した人の方だ。」 「・・・・。」
「フランチェスコは良い霊界に行ったようだ。許しを得て地上に降りてきている。君の背後にいるんだよ。協助霊としてね。」
思わず後ろを見たが、誰も見えなかった。
「君がやつの試練にあっている時、彼も慌てただろうな。彼は少し抜けているところがあったからな。でも、助けてくれただろ?」
・・・あの、甲高い歌声は、彼の助けだったということか。
「今も側にいるんですか?その、彼が?」 「いるよ。君にはまだ見えないかな?私も自分の体に戻れば、霊界に行く日もほど遠くないだろう。その時は、フランチェスコ、お前が私をみとってくれよ。」
先生は、俺をみつめながら言った。・・・まったく何がなんだかわからなくなってきそうだ。
「まあ、立ち話もなんだ。君も座ったらどうかね。」
ゆったりとした話し方に、力がぬけそうだ。座り直すと、気を落ち着かせるために残りのコーヒーを一気に飲んだ。
「私もまさかこんな形でフランチェスコに会おうとは思わなかったよ。きっと彼は、生前に私が一度だけ話したこの国の事を、意味がわからずとも心に留めていてくれたのだね。」 「先生も、その霊界というところに行けるんですか。」 「私は神のご加護と自分の意志で、霊体と肉体を切り離し、この世の空間や時間も超えることができるようになったまでのことだ。霊界にいくことはできない。私のようなタイプは特別なことのようだ。」
先生は、ペットボトルのお茶を一口飲むと、ゆっくり話しはじめた。
「私は、絵に没頭し始めていた頃、やはり聖書も必要にかられ読むにいたった。聖書は実に比喩や暗号に満ちたものだった。私はすっかり興味を抱いたものだ。そして、誰に言われるともなく、イエスには妻マリアが存在していたことを読み取ったのだ。 では、何故に彼女の足跡が歴史から消されたのか?私は数世紀前の女性にますます興味が湧いた。真実を知りたい欲望に駆られた。 しかし、教会はイエスの妻など認めるわけがない。誰に尋ねればいい? まさしく神に尋ねるしかなかったのだ。私は毎朝毎晩祈ったよ。イエスの妻の事を教えてほしいとね。真実を教えてくださいとね。 ・・・世間のやつらは、こんな私を変人扱いしていたな。教会も私を疎ましく思っていただろう。私はこんなにも一人の女性を探求しているにも関わらず、私が男色家などと言いがかりをつけおって貶めようとした者さえいた。」
「その・・・同性愛者ではなかったのですか?」 「・・・疑われても仕方ない部分もあっただろうが断じて違うぞ。」
ムキになって否定しているので、つっこむのはやめにした。
「それがだ!ある時、大事件が起きたのだ。酒宴に招かれた友の家から帰った時に、私は小袋を置いてきてしまったことに気づいた。いつも肌身離さず持っていたのだが、その時に限って酒が入っていたからか、うっかりしておったのだ。気づいた時は慌てたね。たとえ酒を交わす友とはいえ、その袋の中には見られたくない物が入っていたのだ。」 「何が入っていたのですか?」 「・・・日記だよ。君ならその時の私の気持ちも理解できるだろう?」
ああ。と心の中でうなずいた。先生の表情から見て、たぶん書かれた中身も想像できてしまい本当に同情した。
「それは大事件ですね。」 「それが大事件ではない。その時に起こったことだよ。急いで引き返そうと、我が家の扉を開けたら、そこは友の部屋だったのだ。友が、袋の中の私の日記に手をかけようとしている、まさにその時だったのだよ。咄嗟に友にぶつかっていってしまった。そして私の手の中には日記が収まっていた。ホッとしたが、同時に突き飛ばしてしまったことに言い訳もなく、床を見たが友の姿は無かったのだ。 わけがわからなかった。そもそもこの家に戻ってきたのだって、いくら必死だったとはいえ、記憶のなくなるほど早く走れるわけではない。まったく何が起こったのかよくわからなかったが、とりあえず自分の手元には日記がある。 友はきっと私の行為に腹を立てて、外に飛び出したに違いないと思いこんで、とりあえず我が家に帰ったのだ。そしたら。」 「家には、もう一人のあなたがいた?」
「その通りなのだよ。ドアの内側に突っ伏しておった。倒れている自分に手をかけた瞬間、『本物の自分』に戻ったのだ。扉のところには、友が立っていた。きょろきょろとあたりを見回して驚いている様子だった。」
「つまり自分の体から霊体が出てしまって、ご友人の体に入ってしまって、体ごと歩いて帰ってきたということですね。」
「それだけでなく時間も遡っていたのだ。友の話によれば、私が家を出てすぐに忘れ物に気づいたそうだ。ほんの出来心で中をのぞき見しようとしたら、私の家の中に居たという。友の家から私の家まで半時はかかるはずなのに。つまり、私は空間だけでなく時間も遡って、友の家に飛んだということだ。」
「それが最初のきっかけになったわけだ。」
「人間には計り知れない能力が秘められているのだと悟った瞬間でもある。自分の身に起こったことを体得するのに時間はかからなかった。その後も度々、自分の思念の深さによって飛ぶことができたからね。これは、神が私の祈りを聞いてくださったということかもしれないと深く感謝したよ。しかし、この能力ゆえに私は一つの地にとどまることはできなかったがね。」
「それで、イエスの時代に行き、マリヤに会ってきたと?」
「もちろんだよ。私の願いはマリヤの真実を知ることだ。それがこの目で確かめられるのだからね。しかし細心の注意もしたぞ。過去の歴史に介入すれば、未来を変えかねないからね。自分に課した暗黙のルールてやつだ。そして私は、時々弟子の一人に入って彼らの様子を見ていたのだよ。」
先生の目は遠くの何かを見つめているようだった。
「彼女は、ここにくるまでは裕福な娘であった。美しく着飾り、彼女の霊的な言葉に多くのサマリヤの人々が感動し、支持者もつき、何不自由なく暮らしていた。ただ、彼女はサマリヤ人だ。ユダヤの民には通じないのだ。先にも話したが、サマリヤ人とユダヤ人は仲が悪くてな。イエスが彼女を妻にした時も、弟子の多くは反対し、去っていったものも多かった。しかし、イエスは弟子の声も耳を貸さず『彼女こそ私の隣人である』と宣言していた。 結婚してからの彼女は、財産を投入して彼らを助けるようになった。多くのパンや食べ物を用意し貧しい者達に分け与えることができたのも彼女のおかげだよ。 そんな彼女は、着飾るのをやめ、いつも男性のような質素なみなりですごし、朝から夕まで皆の食事の支度を行い、雑用に追われ、皆に仕えているような立場であった。まるで召使いだ。イエスの妻であるにもかかわらずだ。 イエスも当然のごとく、そのように扱っていた。食事もイエスと弟子達が食卓を囲み、彼女は後から末端の者達と食べていた。普通の若い娘ではとうてい耐えられないことであったろうな。 だが、彼女は神と聖霊と共にいたのだ。いつも微笑みを絶やさず、それらを文句も言わずに黙ってこなしておった。いつしか私は彼女を愛おしくなってしまった。」
「イエスは、どうしてマリヤを大事にしなかったのですか?」 「そんな彼女の行いを見て、みなの良心が痛んだのだろうな。ヨハネは真っ先に彼女の信仰と誠実さに感銘を受けて、彼女を支える者になっていった。やがて彼女を『サマリヤ人』と陰口をたたく弟子は少なくなった。この時、自分は初めてイエスの行動が理解できた。」 「?」
「彼らの『良心』を目覚めさせるためには、彼女の献身的犠牲が必要だったのだよ。」
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