第一章 十三番目の弟子
ネットに夢中になっていたら、すでに九時近くになっていた。 ベランダに続く窓の外を見やると、梅雨の最中ながらも今朝の天気は良いようだ。 買い置きの食パンをトーストして、コーヒーを飲みながら、簡単な朝食をとった。
たまの休日なのに、男一人図書館に行くというのもわびしいものだが、 「いや。探求心こそが男のロマンだ。」 などと、バカな事をつぶやいてアパートを出た。
外階段を下り、駐輪場の自転車にまたがった。 車も持っていたが近隣に行くのはこれが便利だった。 ペダルをこぐと、通り過ぎる風が心地よく感じた。
図書館へ行くには、その隣の広い敷地の公園を抜けていくのが近道だった。 公園の中央は、芝生で覆われた結構広い広場になっていて、ここは陽当たりも良いので親子連れで遊んでいる光景が目につく。
その外郭に大きな木々が立ち並ぶ、舗装された遊歩道がある。 遊歩道は、図書館に抜ける道や、林の奥にある釣り堀に行く道や、駅の方に出る道、子供の遊具のある場所への道など、ところどころに何カ所かの分岐点がある。 分岐点には立て看板があるので迷うことはないが、うっそうとした木々が両側に立ち並んでいるので、昼間でも少し薄暗くはある。 それほど人が歩いているわけではなかったが、自転車を引いて歩くことにした。 木の陰が、こんなにも涼しいものなのかと、微妙な感動があったのだ。
図書館の自動ドアをくぐりぬけた時の、あの冷房の風が、普段なら何も感じなかったであろうに、この時は人工的な風に違和感を覚えた。 開館まもないので人もまばらであった。
ダ・ヴィンチの美術本は何冊かあったが、 「レオナルド・ダ・ヴィンチ」、大判サイズのモナ・リザが表紙のものに決めた。 貸し出しは二週間までとのこと。 図書館員の女性が、事務的な笑顔を見せながらカードと本を差し出してくれた。
目的は済んだが、家に帰るのにも、まだ早い時間で何かもったいなく感じた。 ここの図書館内には、座り心地のよさそうなソファーもあるし、喫茶コーナーもある。しかし館内の冷房がやけに肌寒く感じ、先ほどの木陰を通った時の自然の風の涼やかさが思い起こされた。
こんな日は公園のベンチでゆっくり時間をすごすのも良いかもしれない。 俺は自販機コーナーでお決まりの缶コーヒーを買った。 これ一つでは足りないかと思い、ペットボトルの緑茶も買って図書館を後にした。
・・・実は、すでに目にとめていた場所があったのだ。 芝生の丘の端には所々にベンチが設置され、木陰に入っているので直接に陽は当たらない。 既に一つのベンチには、ベビーカーの中の赤子をあやしながら雑誌を読んでいる若い母親が座っていた。 すぐ隣りにもベンチはあるのだが、十数メートルほど離れたところのベンチも空いていたので、そこに座ることにした。 自転車を後ろにとめて腰をおろした。
木陰から、わずかに陽がさしていて、ゆるやかな自然の風が肌に心地良かった。 もうじき梅雨があければ、夏がくる。 毎年、変わることなく季節は巡ってくる。 子供の頃は、夏には虫取り、秋には落ち葉拾い、冬には雪合戦をし、春は花見など、この公園には母が妹と一緒に遊びに連れ出してくれたものだった。 それが非常に懐かしく感じた。
妹は、まだ自宅から会社に通勤しているが、俺は早く自立がしたくて、在学中から独り暮らしを望んだ。 留年しないこと、生活費は自分で稼ぐことを条件に、親も了解してくれた。実家は目と鼻の先なのだが、親も干渉することなく突き放してくれたせいで、甘えがなくなったことは確かだった。 留年することなく卒業し、自分のやりたい仕事も見つかり、日々充実しているほうだと思う。
・・・こんな場所にいるからだろうか。先ほどの親子を見たからだろうか。 母に抱っこしてもらった暖かさ、無条件で親に甘えていた頃を懐かしんでいる自分に気づき、気恥ずかしく感じた。 おいおい、お前はいくつになったんだ?
俺は缶コーヒーのプルタブをひき、半分ほど喉に流し込んだ。 そして、気をあらためて先ほど借りてきたダ・ヴィンチの美術本をひざの上に置いた。 表紙は彼の代表作ともいえる『モナ・リザ』だ。
最初から一枚づつ丁寧に折り目がつかないようにページをめくっていった。 何しろ自分の本ではない、借り物なのだから。 自分はこういったことには割と几帳面な方だった。 だから手についたコーヒー缶の水滴がつかないように気もつかっていた。
『最後の晩餐』のページで手をとめる。 これはイエスが十字架の受難にかかる直前の晩餐を描いたものだ。
『ダ・ヴィンチ・コード』の上下の本も、カバンに入れてもってきていたのだが、その挿絵とは比較にならない。 やはり大判の本で見ると、絵から何か言いようのない波動が伝わってくるようだった。これまで多くの宗教画家が、この『最後の晩餐』の場面を描いているが、とりわけダ・ヴィンチの絵が有名なのは、うなずけるところだ。
この絵は、教会の食堂の壁に直接描いた作品で、これまでに、浸水、戦争からも奇跡的に残っていたという。 それでも、数百年の歳月による腐食はさけられない。 『最後の晩餐』は、輪郭線も色合いも薄れ、すごしてきた歳月を明らかに物語っていた。
しかし今ではコンピュータ処理によって当時の復元がされているのだから、当のダ・ヴィンチ本人も驚くであろう。 復元画は、ネットで調べた時に見たのだが、一人一人の表情がその動きがとても鮮明になっていた。 その復元画を思い出しながら、あらためて原画をみつめた。
イエスに向かって左に座っているのが、定説はヨハネとされているのだけど、例の小説ではマグダラのマリヤとのことだ。 イエスとマリヤの体の向きは、聖杯を表しているという。 また、結婚(マリッジ)を表すMの字も表すともいう。
ふいに小説の映画の予告編を思い出した。 これもネットで見たのだが、コンピュータ処理によって、マリヤの体がイエスの右側に移動することによって、イエスの肩にもたれかかる姿に変わる、ほんの一場面である。
原作本には、この映像の記述は書かれていなかったと思う。 映画の際、付け加えたのかもしれない。 視覚を通じて、これはマリヤに違いないと誰もが思ったはずだ。 ヨハネとイエスの姿勢が、偶然にそのような効果をもたらしただけのことだろうか。
「偶然?」 そうは思えない。
彼は『岩窟の聖母』でも教会に挑戦するかのような絵を描いていたそうではないか。 その時は、教会に書き直しを命じられてしまっている。
『最後の晩餐』は、教会の食堂の壁である。 聖職者が見ても文句のないように、見た目にはそれとはわからないように、彼はマリヤを描き込んだのかもしれない。
この絵を描きながらダ・ヴィンチは、陰で微笑んでいたことだろう。 そう、たぶんモナ・リザのように。
・・・その時のことだった。 イエスとマリヤ、二人の間の空間に、影がしみだしてきて一人の人物がその姿を現した。
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