「パンパンパン!」 と、手を打つ音が背後に聞こえ、驚き、ふり返った。 いつの間にか部屋の中に、長身でスーツ姿の見知らぬ男が立っていた。
「・・・誰だ。」 僕はやっとの声を出した。男は構わず部屋の様子を眺めている。 床に倒れている母は当然目にしているだろうに、鼻歌まじりで楽しそうである。 その異質な雰囲気にかえって恐ろしさを感じた。
「心配するなよ。私は君の味方さ。」 「誰だって言ってるだろ!」 男は、自分のすぐそばまできて、両手を広げてニヤリと笑った。
「私は君の『産みの親』だよ。君は私のかけがえのない『息子』さ。」 「ふざけるな!」 「ふざけてやいないさ。君が知らないだけだ。そこにいるのは、私が与えてやった仮の親さ。つまり偽物だよ。だから殺したって何も気に病むことはない。」
僕が、殺した。母さんを、僕がこの手で殺した。 足に力が入らず、近くのソファーにくずれるように腰をおろした。
男は、ソファーの背もたれに後ろから腰を軽く預け、僕の肩にその手をおいた。 ・・・ぞくっとした冷たさを服の上からでも感じ、咄嗟にその手をはらいのけた。 男は僕の行為に気にもせず、テーブルを挟んだ向かいのソファーに座った。 そして、まるで営業マンのような笑みを浮かべながら言った。
「取引をしようじゃないか。」 「?」 「君は、大変な事をしてしまった。わかるね。何とか、したいと思っているだろう?私が助けてあげよう。」
「何が目的さ?僕はただの子供だ。お金なんてもっていない。」 「君が子供?何をいってるんだ。君は立派な大人になったんだよ。やっと独り立ちできたんじゃないか。さっきのは祝福の拍手だったというのに。」
僕は、男を睨んだ。何が言いたいんだ?
「あの女を見たまえ。あの女は、君に何をしてきた?君を自分の物のように扱い、コソコソと部屋をのぞいて監視していたではないか?君が大人になるのを妨げていたのは、他でもないあの女だったではないか?・・・君は、疎ましかったんだろう?君はもう大人になっていたのに。それを理解しなかった、あの女が悪いのさ。自業自得なんだよ。」
「・・・自業自得?」 「もちろんだとも。君は何も悪くない。」
「殺すつもりじゃなかったんだ。ただついカッとなって、体が動いていた。もう僕の一生は終わりだ。」 「いいや。これからが本当の人生の幕開けさ。」 「何を言っている?」
「君は今の生活を失いたくないのだろう?だから私が救いの手をさしのべてあげよう。私は『この世の神』だ。私に出来ないことは何もない。ああ、安心しなさい。私が欲しいのは金ではない。なあに、君の心をほんの少しいただきたいだけだ。」 「・・・僕の命をもっていくのか?」 男は指を振った。
「命じゃない。心の一部分でいいのさ。君の中に残っている『良心』と、記憶の一部分をいただきたい。そうすれば、私がすべてを元通りにしてやろう。いや、前よりもすばらしい君の願う通りの世界を築いてあげようじゃないか?」
「僕の願う世界?」
「君は、毎晩夢描いていただろう?大好きな彼女との甘い生活を?それを現実のものにしてあげよう。それは刺激的な日々を送ることができるさ。」 「・・・なんでそれを知っている?」
「言っただろ。君は私の息子だって。息子の願いは何だってどんなことだって叶えてあげたいのだ。この気持ちをわかっておくれ。」
「・・・心をとられたら、僕は僕でなくなってしまうのでは?」
「『良心』ほどくだらないものはないさ。君はそれを捨てることによって、もっと自由に飛ぶことができるんだよ。自分の欲望のままに何だって出来るようになるさ。心苦しさも、後ろめたさも感じなくて済むんだ。君は自由になれる。」
「僕は何を忘れてしまうんだ?」
「・・・。さあ、もう迷っている時間はない。決断したまえ。まもなく、君のもう一人の仮の親が帰ってくる。この有様を見たら、彼はどうすると思う?君を責めるだろう。警察につれていかれる。君はそれでいいのか?」
僕は、帰ってきた父の姿を想像した。何て言い訳したらいいんだ? 頭が真っ白になった。
「受け取りなさい。これで父との絆を断ち切るがよい。」
男は、いつのまにかバットを手にしていて、僕に手渡した。 これは見覚えがある。 僕が小学生になったお祝いに父さんが買ってくれて、僕に野球を教えてくれた。 そのバットだ。
・・・でも、なぜここに? ・・・心のどこかで、何かが、軋む音が聞こえる。
「さあ、そこのドアの陰にかくれろ。入ってきたら後頭部をガツン!だ。」 「僕に父さんを殺せと言っているのか?」
「さっきのは、感情のはずみってやつだ。今度は、自分の意志でしっかりやれよ。君が父親を殺せば取引成立だ。私は必ず約束を守る。」 「無茶苦茶だ!そんなことできない!」
「では君が死ぬか?彼は、この光景を見たら逆上するだろうな。バットを奪われ逆にガツン!だ。死ぬのは怖いぞ?恐ろしいほどの痛みを伴うぞ?その若さで死にたくないだろう?」 「・・・・。」
「二人の死体も私がきれいに処理してあげようじゃないか。そうだな、強盗に襲われた事にしようか。君には多額の保険金もおりる。後の生活も心配いらない。君は、この家の主人だよ。誰も束縛しない。君の自由にできる。好きな女の子を連れ込むことだってできるさ。」
ピンポン。 ドアチャイムの音が部屋に響いた。・・・父さんが帰ってきた。
「さあ、もう玄関の鍵を開けて入ってくるぞ」
鍵をカチャカチャする音が聞こえる。まもなく居間にくるだろう。 母の死体が目に入った。 胸が大きく鳴っている。・・・どうしよう。どうすればいい? ・・・僕は、バットのグリップを両手で握りしめた。 その瞬間、何故だかわからないけれど、体に衝撃がはしった感覚に襲われた。 心の奥底で、赤色灯の点滅する光が見え、サイレンの音が鳴り響いている。 その音に、頭にかかった霞が晴れていくようだった。
「・・・わかった。」
そして『俺』は確信した。 振り向きざまにバットを振り上げ、その男めがけて力の限り振り下ろした。
「っな!」 男は瞬時に退いたので、先が胸にかすめただけだった。 勢いあまったバットの先が床にあたり手に振動が伝わる。すかさず男の前で上段に構えた。今度こそだ。 男は、驚きと怒りが混じったような目で俺を見据えた。
「・・・お前ごときが私に刃向かう気か?」 「これは、つくりものだ!」
俺が叫んだ瞬間、先ほどまでの父と思われる物音は何も聞こえなくなった。 床からも母の姿は消えていた。 この部屋にいるのは、俺とあいつだけだ。
「なぜ、私に従わない?私ならお前に自由を与えてやれる。お前の欲望をすべてかなえてやろうといっているのに。なぜ拒む?」 「俺の前から消えてしまえ!元に戻せ!」
「お前は、嫌っていたではないか?父を母を疎ましく思っていただろう。」 「・・・確かにお前のいう通りだよ。反発することもたくさんあった。だけど、俺の両親だ。俺を産んでくれて、育ててくれて、愛してくれて、心配してくれて、守ってくれて、俺の大切な両親だ!俺は両親を手放しはしない。もちろん『良心』もだ!」
「私が本当の親だよ。お前には確かに私の血が流れている。『良心』がそれをさえぎっているだけだ。その邪魔なものを私に預けろ。」 「何をいう!」
俺は、グリップを握りしめた。 なぜだか、手のひらから暖かい力が体中に入ってくるような気がした。 このバットは確かに小学生の時、父が買ってくれた物だ。間違いない。 父は休みの度に、外へ連れ出して俺に野球を教えてくれた。 うまくなる度に一緒に喜んでくれた。
その日も遅くまで、野球をしていた。 帰り道、家の近所で走ってくる車に気づかず、つい俺は飛び出してしまった。 一瞬体に強い衝撃を受けたが、気がつくと父が俺の頭を抱えるように強く抱きしめていた。
「・・・父さん。」 俺の発した声に安心したのか、父は涙を流していた。初めてみた父の涙だった。 騒ぎに駆けつけた母は、すっかり取り乱していた。 すぐに救急車のサイレンの音が聞こえた。 俺は無傷で父は肋骨と肩にひびが入っていた。 父はあの一瞬、俺を抱え込んで庇ってくれたのだった。 このバットはその時にタイヤに巻き込まれた荷物と一緒に折れてしまったものだ。 だからこのバットが今、存在するはずなどないんだ。
「いまいましい『自己犠牲』の象徴だったってわけか。その小道具を使ったのが私のミスだったな。もう少し記憶をさぐっておくべきだった。」
男の声が低くすごみ、顔つきも氷のような冷たいものに変わった。目の色が奥の方で赤くにごった光を放ち始めた。
「私に従うと誓え。今すぐにだ!」
バットを構えた俺をものともせずに、にじり寄って来る男に恐怖した。 このままでは、本当に自分が殺されるかもしれない。どうする?
その時、かすかに声が聞こえた。 歌?誰かが甲高い声で歌っている。 かすみに包まれたような歌声で歌詞もよくわからない。 それでも、あいつはこの歌がイヤらしい。 男の体の輪郭が空気に溶け込むかのように、ぼやけているのだ。
「くそっ!」
男は舌打ちをして、それでも消えかかろうとしている手をこちらに伸ばし、つかもうとしてくる。 俺は力の限り、その体にバットを振り下ろした。 だが既に、男の体に当たる感覚はなく、まるで黒い人の形を成した煙をかきちらしただけだった。
「・・・私はお前を忘れない。」
顔だけ残した男は、悔しさまじりに捨て台詞を放ちながら、やがて完全に消えてしまった。 そして部屋の中には自分一人だけが残った。 呆然と立ちつくす俺の耳に、今度は、はっきりと大きな声が頭の上の方から聞こえた。
「フランチェスコ!彼は無事か?」
・・・誰だそれ。
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