●園の中の出来事 〜ヤコブ〜
まもなく、ランプを手にした男が別の獣道から姿を現した。先生が言うには、それはヤコブだ。
「トマス?・・・いるのか?トマス?」
声をかけても誰も返事をする者はいない。
「ここにもいないのか・・・一体トマスはどこに行ったのだ。」
ヤコブは力なくつぶやくと小岩の方に近づいていった。 疲れた足取りを感じさせる。 彼の持っていたランプの灯りで、ユダの足が暗闇にはっきりと浮き上がった。 彼は驚いて立ちすくんだ。
「っな!これは?」
彼はランプの灯りを高く掲げ、その顔を確かめ、数歩後ずさると、がっくり腰を落とした。
「ユダ!・・・おお神よ。なんてことでしょうか?・・・お前は一体何が望みだったのだ?なにゆえ先生を役人に手引きしたのだ。なにゆえ自殺などをしたのだ。ここは、我らにとって神聖な場所ではなかったのか?お前が足場にしたその岩は、先生がお座りになる岩ではないか?なぜ、お前はここを死の場に選んだのだ!そこまで先生を、我らを貶めたかったのか?」
ヤコブは、怒りをユダの死体にぶつけるように話した。 しかし、ユダが返事をするわけではない。 ユダを睨み付けていた彼は、地にうつむいた。
「お前が今夜やつらを連れてきやしなかったら、先生は助かっていたんだ。今夜の内に先生は彼女と一緒に身を隠される筈だったのだ。そしてトマスが身代わりになる筈だったのに!・・・いや、お前はこの話は知らなかったのだよな。ではこれも運命だというのか?これも神のご計画だったというのだろうか?」
彼は、じっと何かを考えているようだった。
「ユダよ。お前の行いによって先生がどうなったのか教えてやろう。私は、あの後、アリマタヤのヨセフの元へ走った。事情を話し、二人で祭司長の館に行ったのだ。彼が祭司長に取りなしをしてくれて、先生と我々だけでの面会が許された。トマスがなかなか来ないので気をもんでいたが、もはやトマスが来ても無駄だったのだ。なぜかわかるか?先生ご自身が我々との面会を頑なに拒まれたそうだ。先生は、はじめからご自分が十字架を背負うおつもりだったということだ。先生を信奉している百卒長が、涙ながらに私に話してくれたのだから確かなのだろう。 ・・・私は、その場に残る決意をした。せめて先生のお姿を遠くからでも見守りたかった。共に苦しみを分かち合いたいと思ったのだ。 しかし、百卒長は私に言ったのだ。 『裁判で証言させる側近の使徒を捜している最中だからすぐにここから逃げて下さい』とね。 『それなら私が裁判で先生の無罪を証言してみせる。』 と言い返したが、彼は首を横にふって 『あなたは、何もわかっていない。これは普通の裁判ではない。どんな酷い拷問をしてでも偽証させられます。偽証せねば、殺されるかもしれません。』 私は何も言葉がでなかった。その時、遠くの方で人々の罵声が聞こえた。私はそちらに目を向けた。 そこには、先生が・・・先生がムチで打たれながら、足蹴にされながら、どこかに引かれていくところだった。」
彼は嗚咽をしながら、なおもユダに語りかけた。
「先生は、遠くから見てもわかるほどに血まみれだった。ムチ打たれる音と、先生のうめき声、野次る彼らの声、今も私の耳に焼き付いている。立ちつくす私を見やって百卒長はいった。 『ここから去ってください。先生もあなたが証言する姿は見たくないはずです』と。 百卒長は、野次する者どもを制しに先生の元に駆けていった。ユダよ、その時自分はどうしたかわかるか?助けたかった先生を前にして、自分はどうしたかわかるか?」
彼は泣きながら自分をあざ笑うかのように言葉を吐き出した。
「逃げたんだよ!それこそ、必死で逃げたのだ。先生にまとわりついている『死』が自分に降りかかるのが怖かったのだ。『先生と共に苦しみを分かち合いたい』なんて、偽善でしかなかった。死ぬのが怖かった。死ななくてもムチ打たれる、その痛みが恐ろしくて・・・私は逃げたのだ。・・・何が先生を助けたい、だ。結局自分はいつも安全な場所にいた見物人だったのだ。 トマスが身代わりを申し出たときもそうだ。先生が助かればそれで良いと思っていた。トマスの命の事なんて何も考えていなかったのだ。私はトマスが恐れを感じないように、常に彼の行いを賛美して持ち上げていた。 今夜だって、彼が震えているのがよくわかっていた。でも私は彼の苦しみを見て見ぬふりをしたのだ。そして彼が名乗り出ないのを見て、私は彼を軽蔑さえした。『トマスよ、お前が言い出したことだろう?この弱虫め。卑怯者。』とね。 ・・・でも、私にトマスを非難する資格なんてないのだ。私も同じだ。弱虫だ。卑怯者だよ。先生の命よりも自分の命を選んで逃げ出したのだから。」
彼はしばらく地に伏して泣いていたが、袖で顔を拭うとユダを見上げた。
「お前は、先生を裏切ったことを悔やんで、責任をとるために自ら『死』を選んだのか?まだ、お前の方が潔いかもしれない。私は死ぬのが怖い。」
ルカによる福音書 第二二章三五節〜三八節 【 そして彼らに言われた、 「わたしが財布も袋もくつも持たせずにあなたがたをつかわしたとき、何かこまったことがあったか」。 彼らは、「いいえ、何もありませんでした」と答えた。そこで言われた、 「しかし今は、財布のあるものは、それを持って行け。袋も同様に持って行け。 また、つるぎのない者は、自分の上着を売って、それを買うがよい。 あなたがたに言うが、『彼は罪人のひとりに数えられた』としるしてあることは、 わたしの身に成しとげられねばならない。そうだ、わたしに係わることは成就している」。 弟子たちが言った、「主よ、ごらんなさい、ここにつるぎが二振りございます」。 イエスは言われた、「それでよい」。 】
「・・・そうだ。先生も、我らに逃げるように指示されていたではないか?先生が自ら名乗り出られたのもそのために違いない。先生の十字架は、やはり神のご計画であったのだ。だから先生はお前を外に出したのだろう。そして、残された我らにもまだ使命が残っているはずだ。きっとそうに違いない。 ユダよ。死んでどうなるというのだ。私は生きる。生きて償いをしよう。使命を果たそう。多くの者を伝道し、先生のご意志を引き継ぐのだ。それこそが、私の使命だ。」
彼は、自分に言い聞かせるように言って、そうして森の出口へ続く道へと去っていった。 再び森に静寂が戻った。 いつのまにか、うっすらと空の色が変わりはじめていた。 夜が明けようとしているのだ。
「疲れただろ?」 「大丈夫です。」
本当はかなり疲れていた。 夜を徹していたからではなくて、精神的にぐったりしていた。 長い夜だった。 いや、あっという間の出来事でもあった。 彼らの発していった言葉の数々が心の中を占めていて、それが重くのしかかっていた。 先生は、ゆっくり口を開いた。
「夜が明ける。裁判が終われば、イエスは十字架にかかる。」 「・・・これからどうなるのですか?」
「聖書と歴史が示す通りだよ。イエスは独身であったとされ、妻であったマリヤの存在は消されてしまう。ペテロ、ヤコブや他の弟子は使徒行伝に示されるように、各地を伝道し、殉教の道へいく。イエスの教えは残り、やがてコンスタンティヌスによってキリスト教は国教として認知されるが、聖書は編纂され、不必要なものは抹消されてしまう。そして新しいキリスト教は世界へ広まっていくのだ。」
「それは、わかっています。だけど、何か腑に落ちない。」 「君は、一度にあらゆる事を知ったのだから当然のことだろう。」
「・・・そう、これは夢なんかじゃない。なら、あなたは何者なんだ?なぜ、こんな事ができる?なぜ俺に見せるんだ?」 「それは・・・。」
先生が、言いかけたその時だった。 藪が揺れたかと思うと、突然飛び出してきた男に、すごい力で地面に組み伏せられていた。
「捕まえたぞ!この盗人め!」 「違う、離せ!」
もがいたが、相手の力のが強そうだ。 先生も、同様に1人の男にうつぶせに倒されていた。 それでも何とか俺に手を伸ばそうとしている。
「くそ!」 俺は、その手に触れようと男ともみあった。 そして、うまく側に倒れ込み先生の体に触れることができた。
「逃がさないぞ!」 俺の体にしがみついてくる男の目が、赤く濁った光を放つのが見えた。
「自分を信じろ!」 先生の叫び声とともに、目の前がここに来た時と同じように眩んだ。
|
|