ペテロが、地面に置いていたランプを手に取り上げた。 その時ユダが思い出したように聞いた。
「ああ、兄さん。ヨハネとマリヤに会われたのでしたよね。」 「会ったのはヨハネだけだ。」 ぎこちなくペテロが答えた。
「マリヤは、どんな様子だったかヨハネは何か言ってませんでしたか?私は彼女の事が気がかりでならなかったのですが?」 「いや、何も聞かなかった。」
「心痛で、お身体に何かあったらどうしようかと。それだけが心配で・・・。」 「お身体とは?どこか悪かったのか?」
「ご存じないのですね?いえ、私はヨハネから聞いたのです。『我らが聖霊は、御子を宿されていると。先生が私に、彼女と御子を守る役目を与えられた』と、自慢していました。」
ペテロの足が凍り付いたように立ち止まった。ユダがふり返る。
「・・・何だと。今、なんと言った?御子を宿しているだと?」
「私も聞いたのは、今朝のことです。見た目には何の兆候もないので、まだ間もないに違いありません。ですから、よけいに心配で。・・・どうかされたのですか?」
ペテロは大きな目をさらに見開きながら何かをつぶやいていた。 ペテロのただならない様子に、ユダはとまどっているようだ。 少しの間、黙ってうつむいていたペテロが、顔をあげた。
「・・・ユダよ。すまないが、寄り道をしても良いか?先ほど逃げる時に、金品類をこの先の木の根本に隠してきたんだ。役人へのワイロの足しにできるかと思うのだが、ついてきてくれるか?」 「もちろんですとも。」
そうして二人は引き返して森の奥に続く別の獣道へと入っていってしまった。
「いってしまいましたね。」 俺が声を出すと、先生は口の前に指を1本たてて囁いた。 「・・・静かに。すぐに戻ってくる。」
森の奥から、ランプの灯りが揺れて見えた。誰かが走って来るようだ。 再び現れたのは息をはずませたペテロだった。 走ってきたためか衣服が乱れている。 後ろにユダの姿はなかった。 ペテロは大きな息を吐くと、がっくりとひざをつき、再び嗚咽をはじめた。
「・・・なんてことだ。どうしてこうなってしまうんだ。ああ、ユダよ。すまない。お前は私を光の中に連れていこうとしてくれたのに、私はお前を闇の中に置き去りにしてしまった。・・・許しておくれ。今更、先生の前に告白して何になる。もう取り返しがつかないのに。先生は私を許してくれはしない。」
彼は、腰にさしていたナイフをぬくと、今にも我が身に突き立てるかのように高く天に掲げた。 しかし、その身に下ろすことはしなかった。 彼はナイフを持った手をダラリとおろした。
「こんなはずではなかったのに。なぜだ?」
彼は、持っていたナイフで大地を何度もえぐりだした。
「くそ!くそ!・・・元はと言えば、あいつが私をそそのかしたからだ!私のせいではない!」
ペテロは感情が押さえきれない様子だ。 置き去りって? ユダはどうしたんだろう? あの奥で、何かあったのか? 俺は、思わずほんの少し腰を浮かしてしまった。
パキッ。
小枝の折れる音が闇に響いた。 しまった! ペテロが、ゆっくりこちらの方に顔を向けたのが見えた。 月明かりの下、恐ろしい形相をこちらの方に向けている。
「誰かいるのか!」
先生は俺をみつめて(動くな!)と言っている。 ペテロの足音が、ゆっくりとこちらに近づいてくるのがわかった。 手には先ほどのナイフが握られているであろう。
その時、足下に何かひんやりとしたなまめかしい物が触った。 何だ? ぬるっとしたそれを見やって思わず声が出そうになった。 それは太さが手首ほどもある大蛇だったのだ。 それがスルスルと茂みを通りぬけて、ペテロの方へ出ていった。
「・・・お前か!今更何の用だ!」
(え?) ペテロの言葉にゆっくりと顔をあげて様子を伺った。 ユダが戻ってきたのだろうか? ところがそこには、先ほどの大蛇がシューシューと音を鳴らしてとぐろを巻き、その鎌首を彼に向けているだけだった。 ペテロはその蛇を睨みつけていた。 先ほどの言葉は蛇に向かって言い放たれたようにしか見えない。
「・・・何もかも手に入るのではなかったのか?神の栄光も権威も愛も得られると言ったではないか?しかしこれはどうしたことか?わたしの手は、体は、こんなにも汚れてしまった。お前がわたしをそそのかしたからだ!何もかもお前のせいだ!」
ペテロは手にしていたナイフを大蛇に振りかざした。 その時、ペテロの頭の上に何かが落ちてきたようだ。
「!」
蛇だ。 小さい蛇が彼の肩にとりついている。 木の上から落ちてきたようだ。 それが、また一匹、また一匹と、次々に彼にめがけて・・・蛇が落ちてくる。
「ひぃ!」
彼は悲鳴をあげて、からまった蛇を掻き取りながら、ナイフと灯りをふりまわし、森の外に続く獣道に走り去ってしまった。
・・・行ってしまった。 彼に見つからなかった事に安堵したが、視線を戻し、ぎょっとした。 暗闇の中でチラチラと赤い瞳が、ゆれながら・・・あの大蛇がこちらを見ていた。 隣の先生も、緊張を隠せないようだ。 ピクリとも動けなかった。 数秒後、大蛇はくるりと向きをかえて、ゆっくりと森の奥へと消えていった。 その道は、先ほどペテロとユダが行った道だった。 小蛇らも後をついていき、そこには再び静寂が戻ってきた。 先に声を出したのは、先生の方だった。
「・・・見られてしまったな。私の失態だ。」 「ペテロにですか?」
まだ『彼』だと、言ってほしかった。先生は、俺の顔を心配げにのぞきこんでいる。
「よほど魂を抜かれたらしいな。わかっているだろうに。」 「大きいだけの蛇に何ができるというんです。さっきだって逃げようと思えば彼のように走って逃げられたはずですよ。」
「外見に惑わされるな。君への教訓の一つだ。・・・確かに見た目はただの大蛇かもしれん。しかしやつは創世記から生きておる堕天使ルシファーの手の内の輩には違いない。彼らは人の心の負の部分に侵入し、ゆっくりと、その心を食い尽くしていく力をもっている。以前に、一人で来た時には、やつはこちらを一瞥もしなかった。だが今回は違っていた。やつの目は、我々を確実に見据えていた。」
先生は、目をふせて何か思案しているようだった。
「危なくなったらすぐに帰るぞ。イエスの十字架やその後のことまで、彼らの様子を見せてやりたかったが、人の多い場所に行くことができなくなった。」 「なぜです?」
「我々がペテロらの会話を聞いていたことは既にやつも察している。いつ我々を標的にするかもしれん。やつはペテロが使えなくなったものだから、他に行ったのだ。今の群衆ほど、やつにとって操りやすいものはないだろう。」
その時、森の入り口の方から、ゆらゆらと灯りが一つ近づいてくるのが見えた。 俺たちをつかまえようとしている群衆なのか?俺は緊張した。
「まさか、あれがそうですか?」 「いや、大丈夫だ。あれはイエスの弟子をさがしているやつらだ。」
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