●園の中の出来事 〜ペテロとユダ〜
ルカによる福音書 第二二章三一節〜三四節 【 シモン、シモン、見よ、 サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。 しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。 それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」。 シモンが言った、 「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」。 するとイエスが言われた、 「ペテロよ、あなたに言っておく。きょう、鶏が鳴くまでに、 あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。 】
小さな灯りを持った男が一人、別の獣道から出てきた。 恰幅のよい男で、ギョロリとした大きな目であたりを見回している。彼がペテロのようだ。
「・・・兄さん。」
ペテロとは別の方角から声がした。 ペテロが伸ばしたランプの光にその姿が浮かび上がった。 少し小柄な男だった。彼がユダなのだろう。 ペテロはユダを見つけると、すごんで言った。
「ユダ、なぜお前がここにいる。お前は彼らから金を受け取ったんだろう?」 「はい。ここに持っております。」 「ならば、なぜ逃げない?皆がいるかもしれないこの場所になぜノコノコと現れるのだ!」
「金は返そうとしましたが受け取ってもらえませんでした。ここにきたのは、兄さんと話がしたかったからです。」 「金を返す?それにいまさら何の話だ?」
「兄さん、私と一緒に、先生の元へ行きましょう。」 「何を言う?」
「・・・兄さん、うちはもとより貧しかったけれど、父が亡くなり、母と兄弟が病と飢えで生きるのに困難だったのはご存じでしょう?しかし、理由がどうであれ、わたしが主を謀り公金を盗んで使ったことは罪ですから、いつかは罪に服さねばならないことはわかっていました。それに、兄さんがお金を貸して下さった事も感謝しています。でも、先生は私の恩人です。どうして、先生を売ることが私にできましょうか?」 「声を小さくしろ。誰かきたらどうするんだ。」
ペテロの方が周囲の様子に気を配っているようだった。
「もし、あの時私が即座に断っていたら、兄さんは別の方法を取るかもしれないと咄嗟に考えました。私は、まず先生に真っ先にお伝えすべきだと思い、あの場は承諾したのです。私は皆が留守の間にまず自分の罪をすべて告白しました。そして、そのことゆえに、先生を売り渡すようにあなたに指示されたこともです。首証人になって、接吻でもって合図する方法まで全部話しました。」
ペテロは、落ち着かない様子になり、小岩の上に腰をおろした。 ユダはなにか言いたげだったが、言葉を飲み込んだ様子だった。
「なら、なぜ先生は裏切り者はお前だと言ったのだ。なぜ今夜お前を外に行かせたりしたんだ?」
「私の告白に対し、先生はこうおっしゃったのです。『安ずるな。ペテロの言う通りに、あなたのすべきことをすべてなしなさい。それは私が飲むべき杯であるのだから。』と。」
「どういうことだ?」
「おわかりになりませんか。先生は、いつだって兄さんに心をくだかれていたではありませんか。誰よりも、兄さんと共にいて、兄さんにみ言をくださっていたではありませんか。先生は、兄さんを愛しているがために、すべて自分の責任として負われるお覚悟であったにちがいありません。」
「私を愛しているだと?そんな、ばかな。」
「私は知っております。なぜ、我々の足を洗ってくださったのか、わかりませんか?私は先生のご心情に、心がくだけそうなほどでした。先生は、我々が自ら罪を告白されるのを最後まで信じておられたにちがいありません。」
「・・・私を信じていただと。先生が愛し、信じていたのはいつだってマリヤだけだ。私は長い間、どんなに心を尽くしてお仕えしようと彼女には及ばないのだ。ただの使いっ走りと変わらない扱いだったではないか。」
頭を抱えて岩に腰掛けているペテロの前に、しゃがみこんだユダは、見上げるようにしてペテロに言った。
「兄さんが、どう思っていたとしても、先生は兄さんを信じています。愛しています。きっと今も。だから、私と一緒に行きましょう。この金を彼らに渡せば、先生に会うことはできるはずです。罪を告白しに行きましょう。そうすればきっと先生は・・・。」
ペテロはゆっくり首を振った。
「・・・もう遅い。先生が、食事の時に『裏切る者がこの中にいる』とおっしゃった時にはおどろいたさ。お前が裏切ったと思った。てっきり私の名を呼ばれるかと思ったよ。でも、先生は裏切り者はお前だといった。お前が外に出て行った後に、また別の不安にかられたよ。なぜ、先生はお前が裏切ることを知ってたのか?もしかして、別の誰かに勘ぐられたのか?と疑い、私はあの場を離れてお前に問いかけることはできなかった。だが、お前は首尾通り彼らを引き連れて園までやってきた。なぜだ?」
「それは、先生がお命じになられたからです。でも、ここまで来る道すがら、私の心は迷いました。いくら先生のご命令でも、十字架におくることなんて私にはできない。後で自分が破門になっても、殺されたとしても構わない。先生を助けると決意しました。」
「それで、トマスに接吻しようとしたのだな。」
「そうです。彼が身代わりを買って出たことはあなたがおっしゃたことです。トマスが先生に変装していても私たちなら見分けがつく。だから、あなたは首証人として私をお立てになったのでしょう?それを逆手にとって、私が彼に接吻すれば役人らもトマスを先生だと信じ込むはずです。ですから、私は彼に目配せして近づこうとした。なのに、先生は・・・。」
「・・・自ら進んで名乗りをあげた。」
「先生は、最初から身代わりを望んではいなかったのです。マリヤや私たちの心を安心させるために、承諾したふりをしていたのです。最初から、十字架を背負われるおつもりだったのは間違いありません。」
「私は、先生がうらやましくて、ねたましくて・・・。先生だけではない、あの時皆も一緒に陥れるつもりだった。お前以外にも私のことを知っているかもしれないと疑ったからだ。だが、先生は『この者達を去らせてほしい』と彼らに願った。だから、ナイフでやつらに向かっていったんだ。皆を道連れに捕らえさせて、あいつらに服従させ、共に先生を裏切らせてやるってな。頭に血がのぼって、まさか自分だけが捕まることは考えてもみなかった。」
「先生は、いつも私たちの身を案じてくださいました。あの時も、先生は自分の体を盾にして、私たちを見逃すようかばってくださいました。兄さん、あなたの犯した行いに対しても先生はとりなしてくれたではありませんか。」
ペテロは、うつむきじっと地面を見据えていた。
「私も、とまどったよ。先生の奇跡を目の前にして、やつらも先生の言葉に従うしかなかったからな。兄弟らは、先に逃げて行ってしまった。私は地面に押さえつけられていて、先生と役人らが去った後に、ようやく解放された。私を捕らえていた男が立ち去る時にこう言ったよ、『イエスに救われた命に感謝するんだな』。と。 一人とり残された森の中で、私も苦しんださ。なぜ先生は私までも助けたのかってね。 自分の行いが情けなくて、どうしようもなくて。死にたいほどだった。この時ほど、『死』を現実のものとして考えたことはなかったさ。 ・・・『死』。 でも私は潔く死ぬことはできなかった。怖かったんだ。自ら死ぬなんてありえないと思った。その時、疑いの思いが湧いてきた。」
「疑い?」
「先生はなぜ毅然として十字架にのぞむことができたのか?と、疑った。身代わりがいるっていうのに自分から死に向かって進み出るなんて、おかしいじゃないか?きっと、これには裏があると思った。先生はやはり私の策略を知っていて、私の目をごまかすために一芝居を売ったのかもしれない、そして私の目の届かないところでトマスと入れ替わる算段かもしれないと。」
「そんなバカなこと・・・」
「私はそう思ったのだ!」
ペテロはユダを睨み付けた。
「そして、まんまと彼女と逃げているかもしれない、とな。だから、私は先生の後を追うことにしたのだ。その途中の森の中でヨハネに見つかったよ。彼女は神に祈りを捧げている最中で、彼は離れた所に一人で立っていたのだ。彼は私に『ヤコブがアリマタヤのヨセフの元に向かっている。トマスも先生の後を追っている。ああ、ペテロ。先生はきっとユダの裏切りに心を痛めておいでなのだ。どうか先生を助けてほしい』とね。私は、ヨハネの言葉で確信した。やはり、先生はトマスと入れ替わるかもしれないとね。 大祭司の館にはアリマタヤのヨセフの使いだと言ったら中に入ることができた。ヤコブの姿は見えなかったが、私はこっそり中の様子を見ていた。」
「先生が本物かどうかを確かめるためにですか。」
「そうだ。そしたらやつらに気がつかれてしまった。もし、自分がつかまって、裁判で証人にさせられたら、私は一体何て言えばいい?・・・絶対つかまるわけにはいかなかった。だから、逃げた。また先生の預言が成就したのだ。先生は私のすることを何もかもお見通しだったってことだ。」
「先生にはお会いになれたのですか?」
「ああ。逃げる途中で、広場でムチ打たれている先生を見つけたさ。血まみれだった。」
「・・・そんな。」
「先生は私に気づいた。目が合ったのだ。頭から血を流して顔も腫れ上がっていた。トマスではなかった。紛れもなく先生だった。」
ユダは口を押さえて嗚咽し、こぼれ落ちる涙を袖でぬぐった。 ペテロは、岩からよろめくように大地にひざまずき、その拳で大地を叩いた。
「私は、その姿を目の当たりにして、逃げ出したんだ。『死』が先生に迫っていた。私は怖くなった。自分は死にたくなかった。私の気持ちがお前にわかるか?私はどんなにあがいても先生を越えることなんて出来やしなかったんだ。」
「兄さん。それは皆も同じですよ。誰も先生を超えることなんてできやしません。先生は神の子なのですから。」
「だが、越えられると言われたんだ!先生のように神と会話をし、皆から尊敬され、愛を受けられるようになると、言われたんだ!だから、私は。」
「誰が、そのような愚かな事を兄さんに言ったのですか。あのパリサイ人ですか。」
ペテロは嗚咽しながら、首を横に振った。
「・・・お前に話しても信じはしまい。」
「兄さん、私に話さなくても構いません。それは先生に告白すれば良い事です。さあ、行きましょう。きっと神の導きがあるはずです。先生は待っておられます。」
「なぜお前はそこまでするのだ?先生はお前に、私を連れてくるように、命じていたとでもいうのか?」
「いいえ。先生は、私が役人から金を受け取り解放されたなら、すぐに異国の地に逃げるように指示されました。」
「では、なぜそうしなかった。私に会いにくるなど愚かなことを。私が恐ろしくなかったのか?」
「先生が、いつかおっしゃったではありませんか。『あなたの兄弟が罪を犯すなら、行って二人きりで諭しなさい』と。その御言葉を思い出したのです。」
「『死』の恐れを越えて、先生の御言葉を信じたということか・・・。ユダよ。気づかなかったのか。その御言葉は、アンデレに向けた言葉だったのを。」
「先生が連れ去られていかれた時に、私は死んだも同然になったのです。私はどうしたら良いのかと神に祈りました。そして神は私の祈りに答えて下さいました。私は兄さんと共に罪を悔い改めたいのです。兄さん、どうぞ勇気を出してください。」
「・・・神よ。本当にやり直すことができるのでしょうか?」
「たとえ、アリマタヤのヨセフの助けがあっても、先生は拒まれるに違いありません。先生は、私たちがくるのを待っておられるのです。先生をお救いできるのは、私たちだけです。」
「・・・神は、私の行いを許しくださるだろうか。」
「先生がお許しにならない罪が、今までありましたか?」
ペテロはユダの支えを受けて、ゆっくり立ち上がった。
「・・・わかった、行こう。ユダ、お前にもすまないことをした。」
ユダは首を横に振った。 「私は、『裏切り者』で構いません。先生にお会いできたら、私は姿を隠し皆の前に二度と現れません。」
ユダの言葉にペテロは心底驚いたようだった。 「お前、それでいいのか?なぜそこまでする必要がある?」
「兄さんは私が困っている時にお金を貸してくださいました。そのご恩替えしをさせてください。」 「何を言う、その金は、元々お前を利用するために貸しただけのことだ。」 「いいえ、そのお金で私の家族は医者に診てもらうことができました。家族の命の恩人です。」
ペテロは、ユダの言葉に顔を手でおおった。 「・・・ユダよ。本当にすまなかった。私を許してくれるか?」 「はい。」
ペテロはユダを抱きしめ、つぶやいた。 「お前のいう通りだ。きっと許してくださる。信じよう。許されることを。」 「さあ、時間がありません。」 「ああ、急ごう。」
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