●園の中の出来事 〜マリヤとヨハネ〜
その二人は、暗い獣道から月明かりの下の草原に、その姿を現した。
「マリヤ、早くここから立ち去らなくては危険です。私たちを捕まえに、やつらがここまで捜索するかもしれません。」
ヨハネは辺りを警戒している様子だった。 マリヤは、先ほど俺が腰をおろそうとしていた小岩に駆け寄ると、ひざまずき岩に口づけをした。
「ああ、主よ。・・・なぜ?」
ヨハネは、小岩を抱くマリヤを見下ろし、深いため息をもらしていた。
「マリヤ、主はきっとご無事に戻られます。我々も早く逃げましょう。」 「・・・もう少しだけ、待ってちょうだい。」 「ユダが裏切ったのですよ。しかもよりによってこの園にやつらを連れてきた。ここは最も危険な場所なのです。皆も承知して次の隠れ場所に逃げたはずです。ああ、くそっユダのやつめ、そこだって危険なことには変わりないってことか。」
ヨハネは、とてもいらだっているようだった。
「ヨハネ、あなたのほうこそ落ち着くべきよ。」 「隠れ家も、ユダが密告しているかもしれませんよ!私はあなたをどこに匿えば?」 「いいえヨハネ、ここも館の方も大丈夫よ。追っ手は来ないわ。」 「聖霊よ。あなたがそのようにおっしゃられるのでしたら・・・わたしも信じます。」
月明かりしかなく、その容姿は詳しく見てとれないが、おだやかで透き通るような声だ。ベールの影からゆるやかな髪が見える。 マリヤは、岩に寄り添うようにもたれながら、額を抑えて深いためいきをついていた。
「今夜は私にもわからないことが多いのよ。なぜあの人は、ご自分からユダの前に進み出たのかしら?・・・どうして?私はこんなにも胸がはりさけそうなのに。」
「きっと、我々を逃がすために、咄嗟にそのように判断されたのでしょう。でも心配なさらないでください。トマスがすぐに後を追っていきましたし、ヤコブも、アリマタヤのヨセフの元に駆けていきました。初めの計画とは違ってしまったが大丈夫ですよ。ヨセフは大祭司と親友です。きっと彼の手引きで、無事に先生とトマスが入れ替わることができるはずです。」
ヨハネはマリヤを励ますように言った。だが、彼女は心ここにあらずといった様子だ。
「ユダはなぜあのようなことをしたのかしら?」
「あいつは元々、金に困っていたでしょう?きっとやつらと取引を交わしたに違いありません。」
「そうかしら?・・・主は食事の時、彼に向かって『すべきことをしなさい』と言って自ら送り出されたのよ?それはあなたも聞いてたでしょ?主はユダの行為を知っていたかのようだったわ。もし知っていたなら、なぜ行かせたのかしら?何か変よ。主とユダの間には私たちの知らない何かがあったとしか思えないの。」
「それは、先生に直接お聞きになれば済むことですよ。さあもう行きましょう。きっと、事がうまく運び、今頃先生は隠れ家の方に向かわれていることでしょう。」
ヨハネがマリヤを促そうとするが、彼女は腰を降ろしたままで続けた。
「あの時、ユダは主を見ていなかった。そう、トマスを見つめていたのよ。トマスに近づこうとしていた。ユダは本当に裏切るつもりだったとは思えないわ。」
「ユダは裏切り者です。きっと先生はユダの行為に心を痛められてしまったに違いない。先生はお優しすぎる。先生はユダに心を尽くしていたではありませんか。私は知っていますよ。彼の父親が亡くなった時も先生は皆の前では彼に厳しく諭しながらも、我らが伝道にいっている間に、お金をもたせて家に帰してやっていたことを。あいつは、恩知らずだ。先生も、御心を深く痛められて責をご自分で受け取る決意をされてしまったのですよ。」
「それは私も承知したことよ。主が内密にお金をご所望になられたので、私が出してあげたのよ。ユダは、とても家族思いの人だった。そんな彼が私たちを裏切るなんて信じられないのよ。」
「さあ、もう余分な詮索はおやめになってください。アリマタヤのヨセフが、大祭司に仲介してくれますし、ペテロが説得すれば、先生も思い直すはずですよ。」
「ヨハネ、・・・ペテロが?一緒に行っているの?」 「そうです。だから心配しないで。」
マリヤがベールを脱ぎ、顔をあげた。ヨハネを食い入るように見つめている。 そして、頭を振りながら両手で顔を覆った。
「ああ、なんてことなの。ヨハネ。恐ろしい事が起こるわ。お願い、私を大祭司の館に連れていって。」 「それはできません。」
「心配でたまらないのよ。やはり今夜は何かおかしいわ?邪気が覆い被さってきているようだわ。肝心な事になると聖霊の声が聞こえないのよ。」
「マリヤ、どうぞ気をお鎮めになってください。そして我らを信じて下さい。私には先生から直接に命じられた責任があるのです。それを果たさねばならない。」
「主が、あなたに何を命じたというの?」
「『事が生じた時には、私の愛する羊と小羊とを守るように』と。」
・・・マリヤの次の言葉にしばしの間があった。
「・・・今なんて言ったの?なに?小羊って・・・」 「お腹に宿っているのでしょう?主の御子が。」
「まさか、そんなはずは!」 「マリヤ?」
「・・・どうしよう。そんなことがあっていいの。・・・ああ神よ!」
マリヤの様子が急変してしまった。すっかり取り乱しているようだ。 ベールが足下に落ちるのも構わず、立ち上がりヨハネの服にしがみついている。
「ヨハネ、ヨハネ、お願い。私を今すぐに主のところに連れていきなさい。」 「ですから、隠れ家に行こうと。」
「いいえ!主は、決して帰らないわ!」
「・・・何をおっしゃるのです。マリヤ、気を静めてください。」
「私、言えなかったの。でも主は知っていたんだわ。ユダのせいではない。主は、私の罪を背負って十字架に望んだのに違いないわ。」
「我らの聖霊よ。聖なる母よ。一体あなたに何の罪があるというのですか。」
彼女の嗚咽が止まった。 マリヤの顔を伺うヨハネを目の前にして、彼女は首を左右に振った。
「違う!私のせいじゃないわ。私にはどうしようもなかったのよ。」
・・・マリヤは、くずれるように地面にひざまずいた。 そして、自らの拳でその腹を打ち始めたのだ。 マリヤの行動に、慌てたのはヨハネだった。 ヨハネは、マリヤの両腕をつかんでどうにか落ち着かせようとしていた。
「何をするのです!マリヤ。やめてください。」 「わからない!私には『主の小羊』かどうかなんてわからないのよ!」
「わかりました!先生の御許にお連れします!だからやめてください!でも一旦館まで行きましょう。行けば、取り越し苦労だったことがわかるかもしれません。もし、まだ先生がお戻りでないのでしたら、その時はヨハンナらを同行させます。女性同士なら、さほど怪しまれないし、ベールで顔を隠すこともできます。・・・それでよろしいですね。」
ヨハネのきっぱりとした口調に押されるように、再び嗚咽をあげながらマリヤはゆるゆると立ち上がった。 彼は、落ちたベールを拾い上げ草を払うと、そっとマリヤにかけた。
そして二人は森の外へ続く道へと消えていった。
「もう声を出しても良いぞ。少しの間だがな。」 「さっきのマリヤとヨハネの会話・・・イエスとトマスが入れ替わるって、どういうことですか?」 「イエスが、弟子たちの前で自分に降りかかる災難を預言した時のことだ。」
マタイによる福音書 第一六章二一節〜二八節 【 この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。 すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、 「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」 と言った。イエスは振り向いて、ペテロに言われた、 「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。 あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。 それからイエスは弟子たちに言われた、 「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。人の子は父の栄光のうちに、御使たちを従えて来るが、その時には、実際のおこないに応じて、それぞれに報いるであろう。 よく聞いておくがよい、人の子が御国の力をもって来るのを見るまでは、死を味わわない者が、 ここに立っている者の中にいる」。 】
「この後にトマスは、イエスの身代わりになることを申し出たのだ。トマスはディドモ(双子)と称されるほどに、イエスと外見がよく似ていたからでもある。祭司長達だって、はっきりとイエスの顔を知っているわけではない。何を聞かれても、黙秘していれば偽物だとは気づきはしないと考えたのだ。ピリポも名乗り出たが、彼はトマスに負けじと名乗り出ただけだな。彼も『死を味わわない者』になりたかったわけだ。」
「まさかイエスはその計画を受けたってことですか?」
「いや、あっさり拒否されたよ。ピリポは、イエスが拒否される姿を見て、身代わりは神の願いではないと悟った。だがトマスは、ヤコブに話をもちかけた。ヤコブはトマスの信仰に感動し賛成したよ。しかし、当のイエス自身が承諾しないのだから、彼らはマリヤを先に説得したのだ。マリヤも内心、喜んだであろう。そして、彼女からイエスを説得させるに至るわけだ。マリヤは腹心のヨハネにだけはトマスの計画を話した。マリヤは計画が外部に漏れるのを防ぐため他の者への口止めをしたのだが、ヤコブは、一番弟子のペテロにだけは報告していたのだ。」
「最後まで知っていたのは、弟子の中ではトマス、ヤコブ、ヨハネ、ペテロの四人ということですね。」
「いや、ユダも知っていた。ペテロが話したからな。」 「ユダも?」
「さて、前置きはここまでだ。トマスが、もうすぐそこまで来ている。」
もっと知りたいことがあった。イエスはなぜ、身代わりの計画を承諾したのに、自ら名乗りでたのか?マリヤはなぜあんなにも泣いていたのか?
まもなく別の獣道から、一人の男が現れた。
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