嵯峨院の一行は九月一日に都を出立した。 皇子達の他、殿上人でも才能と容貌が優れた者は皆一行に加えられていた。 宴に色を添える役割としての文章生、あの藤英も今回は同行していた。 一行が紀伊国に着いたのは五日の申の時ばかりである。夕暮れ近い時間とは言え、まだ日は高い。 「…何と」 一行は驚いた。 無理もない。 紀伊国の境から吹上までの世話は言うまでもなく、一行の通る道々は、種松によって金銀瑠璃の宝で飾られていたのだ。 「…二つとない立派な所だ。どうしてこういう住まいができるのだろう」 嵯峨院は嘆息した。 それは同行した皆に共通する感想だった。
種松は歓迎の宴の席をこれでもかとばかりに用意した。 院に奉るための儀式張った御膳部は言うまでもない。 上達部や皇子達には、沈や紫檀で作った衝重に、海や山の珍味をある限り。 六位以下の者であっても、それ相応に威儀を正した準備をした。 やがて宴が始まった。 まずは涼が院に殿上を許された。 「…おお、そなたが涼か」 嵯峨院はそう言うと、もっと近くに、と一番年下の息子を呼び寄せた。 「そなたの母、蔵人の君には気の毒なことをした」 「いいえ…いいえ!」 涼はようやくその時声を出すことができた。 「生きている内にお目にかかれるなどと、考えたこともありませんでした。これも全て、祖父種松と、私の友人達、そして何よりも院のありがたいお心故と思っております」 「や、もういいもういい」 嵯峨院は涙に濡れた目のまま、手を振る。 「これからはそなたも正式に私の子、一世の源氏、源涼として、都で暮らし、昇殿するが良い」 は、と畏まるその姿は、周囲の殿上人の誰にも引けを取らないものだった。 「ところでそなたは琴が上手いと聞いておるが」 嵯峨院はそう言うと、自らには琵琶を持ち出し、控えていた仲忠には和琴を、仲頼には箏の琴を渡した。 「そなたにはこれを」 涼には琴の琴が渡される。 はい、と彼は怖じ気づく様子も無くそれを受け取った。 合奏が始まった。 名手と言われる仲忠や仲頼にも劣らぬ涼のその腕に、周囲の者は「ほぉ」とため息をつくばかりだった。 楽器を琴から箏に換えてもそれは変わらない。 「素晴らしい! そなたがそれほどの腕とは…話には聞いていたが、驚くばかりだ」 院はそうつぶやくと、歌を詠んだ。 「―――昨日までの評判ではまだ幼くて、双葉の松だと聞いていたのに、影がさす程に成長したものだなあ」 するとそれを聞きつけた、涼の異母兄にあたる式部卿宮と兵部卿宮が銘々こう詠んだ。 「―――根が幾つも出て広いので、今まで父君の恵みも及ばなかった枝である貴方が庭の松/我々の同族として加わるのはとても嬉しいことです」 「―――やっとこの頃岸から生えて少し成長したばかりの松なのに、枝が格別優れて見事ですね」 歳の離れた兄達からの手放しの讃辞に、涼はやや戸惑わずにはいられなかった。 仲忠の「良かったですね」とばかりに微笑む姿や、仲頼の「俺が申し上げたからだぞ」とばかりに得意そうに胸を張る姿が側になければ、次にどうしていいか判らない程だった。 そう、彼はかなり動揺していた。 ずっと都に居るという父、嵯峨院に会いたくなかったと言ったら嘘になる。 しかし会ってしまったら、今までの生活ががらりと変わる。圧倒的に変わってしまう。 予期はしていた。仲忠達と友になった時から、その時はもう近づいていると。 しかしいざ本当にその時が来ると、自分がどれだけ臆病な人間だったのか改めて気付かされるというものだった。
*
九日には菊の節句。 この宴の中、詩作の催しが行われた。 文人達はこのために連れて来られたのだ。彼らはここぞとばかりに難しい題に取り組んだ。 結果、その中で群を抜いていたのは、あの藤英だった。 院は詩の素晴らしさに加え、その声が実に朗々と通ることに非常に感動し、何度も何度も彼に朗吟を繰り返させた。 引き続いて、新しく涼を加えた四人の殿上人に同じ詩作をさせると、これもまた素晴らしい出来であった。 院は驚いてこうつぶやいた。 「…度々唐に渡ってきた累代の博士に、彼ら四人は劣らないな。特別な学問をさせた専門の学者でもなく、好きで上達しただけの者達なのに…」 ううむ、と院はうなる。 「行正はほんの子供の時に唐に渡り、学問を修めたが、まだ歳若いうちに戻ってきている。 仲忠は… 確かにあの素晴らしい学者であった俊蔭の孫だが、彼が亡くなって三十年以上経っている。仲忠がたとえ世に知られた利発な者でも、祖父の在世中にその教えを受けた訳でもない。琴は… 俊蔭は娘に教えた。娘は仲忠に教えた。それだけでも滅多になくありがたいことだが、俊蔭は作詩のことまでは娘には教えてはいまい。 仲忠は… いや、仲忠だけではない。仲頼も、何と素晴らしいのだろう。人間というより、神仏の生まれ変わりの様だ…」 そして院は、自分の新たな息子である涼が、そんな彼らと比べて遜色のないことに満足を覚えた。
宴は夜まで続いた。 黄金の灯籠や沈の松明で周囲はまばゆいばかりである。 周囲には高麗錦のあげばりが鱗の様に打たれている。 沈の香木で出来た舞台は金属の糸で結び合わされ、楽器という楽器は輝く金銀や瑠璃の玉で飾られたものが用意されていた。 笙にも笛にもそれぞれ四十人もの人々を使う。 弦楽器を弾く人、舞人も大勢集められた。皆その道に優れた者ばかりである。 舞人の登場に発する乱声、鼓、物の音が一斉に鳴り響く様は、この世のものとは思えないものだ、と後々まで語り継がれたものである。
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翌朝、ようやく物の音が静まった明け方に、行人の声が何処かから聞こえてきた。 「…何処からだろう。ずいぶんと良い声だが」 院はつぶやく。 「不思議に尊い読経をする者が居る。探して連れて参れ」 命じられた蔵人の殿上人が馬に乗り、声のする方に向かうと、上の宮で一人の修行者が読経していた。 「そこで何をしておる」 行人はその声にはっとする。だが答えない。答えることができない。 「怪しい奴。来い」 蔵人はこの行人を無理矢理馬に乗せた。 「本来ならそなたの様なむさ苦しい坊主は引き立てて行くのだが、院の帝の急ぎのお召しである」 「院の」 行人の顔色が変わった。 さもあらん。彼はあの忠君であった。 かつての大臣、橘千蔭の出奔出家した一人息子である。 偶然にも程がある、彼がここに居る理由。それは恋だった。 春日詣の時にかつての殿上童仲間であった左大将と再会した折、彼に一つの災難が襲った。―――あて宮を見てしまったのである。 この様な身にあって恋など。そう思うのだが、思う気持ちは止められなかった。 既に出家して長い年月が経っている。 なのにこの煩悩は何だろう。何処から湧いて出たのだろう。忠君は悩んだ。恐れた。 自分はまだまだ修行が足りないのか、はたまた何か不可思議なものにとりつかれてしまったのか。彼にも判然としないところだった。 だがその後に彼が起こした行動は、更に不可解なものだった。彼自身にも判らないものだった。 本来なら、忘れるべき思いである。仏の手にその身をゆだねたのなら、一切の執着を捨て去ることこそ大事なことである。 なのに、彼は旅立ってしまった。六十余ヶ国を、一つの願いと共に。 「あて宮をもう一度見ることができたなら。それだけでいい。それだけでいいのだ」 それを神仏に願うべく、あの後すぐに彼は旅の途についたのである。 自分はどうかしている。誰か何とかして欲しい。 そんな気持ちを晴らすべく、この夜から朝にかけて読経を続けていたのだ。 そこへ「院の帝」―――嵯峨院のお召しだという。 お会いしたくない、と彼は思う。お会いできるはずがない、と思う。 しかし非力な僧の身、彼はあっさりと院の前へと連れ出された。 御殿の階の下に忠君は召された。 何とひどい身なりだ、と一目見た院は思う。 むさ苦しい衣、院の住む世界からはかけ離れた―――見ることがまず無いようなひどい格好だった。 しかし何処か只人ではない様な佇まいに、院は「何か訳がありそうだ」と思い、行人に問いかけた。 「そなた、何処の山で修行をしているのか」 忠君は答えた。 「現在は諸国を回っております」 「生まれながらにその様な身分の者とは見えないが、さてどの様な理由で行者となったのだ」 「様々に…」 口にしながらも、彼は院が自分のことを思い出さないかと気が気ではなかった。 黙って出奔し、今となってはこうなってしまった自分である。かつて寵愛してくれた院にだけは知られたくはなかった。 ましてやここにこうやって居る、その理由は――― 「まあいい。どうであろう。今ここで、経を詠んではくれまいか」 断るすべも無い。忠君は「はい」と答えると、孔雀経や理趣経を声高く唱え始めた。 院はそれを聞くと、仲頼や行正に命じ、琴を声に合わせて演奏させた。 その様子はひどく哀れに悲しく、眺める人々も皆心を打たれ、涙を落とす者も数多く居た。 左大将と仲忠だけは、この行人が誰であるのか知っていたので、その思いもひとしおであった。この行人が連れて来られた時、左大将も仲忠も、それが誰であるのかすぐに判ったのだ。 だが彼らは院に事実を口にはしなかった。 春日詣の時、忠君は自身の現在を恥じていた。彼らはそれをよく知っていたのだ。 そして今この時も、ありがたい経を素晴らしい声で詠みながらも、その心中はどうであろう、と左大将は心配になる。 院はしばらくそれを黙って聞いていたが、やがてふとつぶやいた。 「―――わしは以前、あの行人を見知っている様な気がする。その声、確かに覚えがあるぞ」 側で聞いていた左大将はぴくりと肩を震わせた。 「左大将。昔そなたが兄弟の契りをした者ではなかったのか」 ああ、と正頼は顔を伏せた。とうとう判ってしまったのか、と。 「右大臣」 院はそっと命ずる。右大臣は忠君に近づくと、問いかけた。 「そなたはその昔、院の元で殿上童として仕えていた者ではないか。そうであろう」 途端、忠君の目からは涙がほとばしった。左大将は慌てて立ち上がり、院の前に跪いた。 「申し訳ございません。この法師を最初に見つけだした時から、院には必ず申し上げようと思っておりました」 「では何故すぐに言わない」 「彼は自分の現在の境遇を恥じておりました。本当は兄弟の契りを結んだ私にも、生きていることさえ知られたくはなかったのです。ふとした縁から私の方が気付いてしまい…」 そうだったのか、と院は忠君は近くに呼び寄せ、問いかけた。 「忠こそよ、今までそなたが居なくなったことを忘れた時は無いぞ。奇妙なことで、何ということも無く、突然居なくなってしまったのは、一体どういうことであったのか」 忠君は涙にむせびながらも、ゆっくりと話し始めた。 「…私はその昔、父から怒りを買ってしまいました。理由は今でも判らないのですが、子として親の気分を損なうことより重い罪は無いだろう、と思いこみ、不安になり、通りかかった山伏に付いて行くことにしたのです」 「怒りを買った覚えは本当に無いのか」 「ございません」 「早まったな」 「…冷静になって考えてみれば判ったのかもしれませんが、その時の私は、ただもう、そればかりで山に籠もることを決めてしまいました。それ以来、木の実や松の葉を食物とし、木の葉や皮や苔を着物として、今日に至っております」 「…そうであったか」 院には思い当たることが無い訳ではない。が、この者が言うことも嘘とは思えない。 何があったにせよ、既に昔のことである。 「過ぎてしまったことは嘆いても仕方がない。忠こそよ、せめて今からでも私の側に居て、御祈祷のことでもして仕えなさい」 喜んで、と忠君はその場に深くひれ伏した。
彼らはしばらく吹上に滞在したが、都へ戻る際には、涼と忠君も同行することとなった。 その道中も、何かと言えば興を尽くした管弦の遊びを行ったことは言うまでもない。
*
院が紀伊国より戻られてしばらく後、神泉苑で帝主催の紅葉賀が開かれると伝えられた。 神泉苑は二条と三条に渡る広大な禁苑である。代々の帝が管弦風月を楽しまれてきた場所でもある。
「さてどうしよう」 右大将兼雅は、三条の屋敷で悩んでいた。 「どうなさいましたか?」 北の方が訊ねる。院のお供で紀伊国に行っていた息子が戻ってきて、その様々な土産話を楽しんだばかりの彼女は、夫の珍しい神妙な顔に驚いていた。 「いや、今度の神泉苑の紅葉賀のことなんだが」 「何か気がかりなことでも?」 この遊び事が好きな夫に何が気がかりがあるのだろうか、と北の方は思う。 「今回の紅葉賀には院も行幸される」 「喜ばしいことではないですか」 「そう。その時には必ずあの紀伊国から連れてきた源氏の君も参上させるだろう。現在は院が手元に置いてらっしゃる様だが、これを期に、と何やらあの物持ちの神奈備種松がこの三条に大きな邸宅を作ろうとしている様だし」 「そう言えば右近がそんなことを言っておりましたわ。三条でしたらご近所になる訳ですわね。仲忠が喜ぶことでしょう」 女房の噂話を北の方は思い出す。 「そう、仲忠は喜ぶだろうな。ずいぶん涼の君とは仲良くなった様だし… だがそれだけではないのだ」 「とおっしゃいますと」 北の方は首を傾げる。 「彼は仲忠と張る程の琴の腕前だと聞く」 「仲忠と、なんてあの方に申し訳ないですわ」 ころころと北の方は笑う。 「仲忠は私がその昔手ほどきした程度の腕。何でもあの源氏の君は、かの有名な弥行どのの手を伝えられているというではないですか」 弥行は俊蔭と並ぶ、当時の有名な琴の奏者である。彼女は実際にそれを聞いたことは無いのだが、父から話は聞いている。自分とは全く違う 「あなただって、かの有名な俊蔭どのの手を受け継いでいる。それは言いっこ無しだよ」 そう言って彼は北の方のおとがいを軽く指でなぞる。北の方は軽くかわす。 「だからね、その宴の時にはさすがに仲忠も琴を弾かなくてはならないと思うのだよ」 「あの子が弾きますでしょうか」 「そこは弾かなくてはならないだろう。帝の命があるはずだ」 「そうはおっしゃいましても」 「…あなたがた琴の奏者というのは、何って強情なんだろうねえ」 兼雅は苦笑する。 「でもまあ、今度ばかりは仲忠も弾かなくてはならないだろうさ。帝だけではなく院の御前でもある。それに涼の君と合奏するのは、やはり楽しいのではないかな?」 どうだろう、と再び北の方は思う。 琴を弾くというのは、そういうことではないのだ。 弾きたい時に、心のまま弾きたい様に弾く。それが一番大切なことなのだけど。 しかし彼女は夫にはその気持ちは決して判らないだろうことを知っていたので、それ以上は言わなかった。 そしてその様にしか振る舞えない自分や仲忠と違い、そこが彼の現実的な強さなのだろう、と感じていた。 兼雅は正直、殿上人としては凡庸である。 彼は早くから右大将の地位についている。自分達母子を見つけた時既に右大将だったが、それから十年以上経った今でも右大将である。 地位に就くのは、何よりも家柄である。彼は藤氏の中でも生え抜きの家で可愛がられて育った。 それ故に甘い。上を押し退けてまで高い地位に就こうという気概は無い。 だがその一方で、それ以下に貶められることもない。そこに彼の人柄が現れている。 実際彼は女関係において、かなり様々なことを過去にしている。その一番いい例が「梅壺更衣」である。 北の方は女房達から時々耳にしている。 嵯峨院の梅壺更衣と呼ばれた人を、兼雅はかなり無茶をして自分の一条の館に引き取っている。院との間に一人の子を為している人で、兼雅よりはずっと年上である。 更衣とは言え、帝の妻であることには変わりない。それを無理矢理手に入れたというのに何の咎めも無い。それどころか、時には「彼女はどうしている」という院からの問いかけもあるらしい。 信じられない、と彼女は思う。だがそれを許されてしまうのが、兼雅という人物の「人の善さ」なのだろう、と彼女は納得する。 そして今もまた、無邪気に仲忠を楽しく心配している。 だったら自分にできることは。 「昔の琴をお出し致しますか?」 「昔の琴、というと、あなたや仲忠が受け継いだという…」 「ええ」 「しかしそれは」 以前見せてもらったものだけでは、と兼雅は言いかける。 「父俊蔭が、遠つ国から持ち帰った琴のうち、風の名がつく特別のものは十ありました。そのうち『せた風』は院に、『山守風』は院の后の宮に、『花園風』は帝のもとへと献上致しました」 「…三つ」 「『都風』は当時の帝の后の宮、『かたち風』は左大臣どの、『織女風』は右大臣橘千蔭どのへと贈られたと聞きます」 「それで六つ。確か『龍閣風』と『ほそを風』は見せてもらったね」 「はい。『やどもり風』は吹上に仲忠が行く時にお土産に持って行き、涼どのに差し上げたそうです」 「それで七つだ。…とすると」 「『哀風』は私も判りません。…京極の家の何処かに置き忘れたのか…」 昔訪ねた寂れた家を兼雅は思い出す。 「しかし『なん風』と『はし風』はございます」 「あなたそれ、今まで言わなかったじゃあないですか」 「…少々訳がございまして」 北の方はそう言うと、軽く目を伏せた。 さすかにあの時のことを軽々しく口にはできない、と彼女は判っている。 東国からの兵が攻めてきた時、必死でかき鳴らした「なん風」。恐ろしい程に響きわたり、やがて兵達の気配が止んでしまったこと。 彼らが一体どうなったのか、彼女は十年以上経った今でも、恐ろしくて聞けない。兵が去ったのが、自分の弾いた琴の音と何か関係があるのか。想像するのが怖かった。 しかしその一方で、その琴を息子が弾くのを聞いてみたい気もする。…人々が居る中で、それはどの様な効果をもたらすのか、知りたい様な気もする。 彼女は言った。 「『なん風』をお持ち下さいな」
*
当日の神泉院は、まさに紅葉の盛りであった。 青空に大きく映えるその色は、人々の目にもまぶしい。 この日の宴には、殿上人だけではなく、世の中で「物の上手」と言われている人や、文人達も選ばれる限り招かれていた。 院は早速帝に涼を紹介する。 「先日、不思議に珍しい所があると皆が申したので、出掛けたところ、この涼の住むところだったよ。決して悪いところではなかったのだが、彼がずっと住むには相応しいとも思えなかったので、こうやって連れてきたという訳だ。ぜひ昇殿を許してやってお側に置いてやってくれまいか」 「畏まりました。私にとっても弟が一人増えたことだし、何と嬉しいことでしょう」 無論、帝は院の帰京以来、涼の存在は知っている。 分かり切ったやりとりではある。だが必要なことである。 帝は早速宣旨を下して、涼に昇殿を許された。
紅葉賀が次々にと進められてゆく。詩作が始められることとなった。 詩題を帝から賜ると、上達部、殿上人、文人達は文台箱に自分の作を奉る。 その中で一人、藤英だけはこの日、特試の題が出され、舟に乗せられていた。誰の力も借りない一人きりの場所で詩を作り、その力を試されるものである。 「ほぉ、これは…」 その出来は素晴らしいものだった。帝は喜び、彼を進士にし、「方略」の宣旨を下した。また難しい問題である。藤英はそれを期日内にまとめなくてはならない。 だがそれが上手くまとめられた暁には、彼の出世への道は確実に開けたと言ってもいい。皆が彼に注目し始めていた。
詩作の後は管弦の宴である。 ここでは皆、それぞれの持つ特別な技術を出し惜しむことなく、これでもかとばかりに演奏を繰り広げた。 「ふぅむ。皆がこの様に力を尽くしているというのにな」 ふふ、と嵯峨院は笑う。 「涼も仲忠も何もしないでいるというのか?」 帝は父院の言うことの意味を悟った。 「ですが父上、仲忠ときたら、私が何度言ったところで聞きもしません。ですがさすがに今日は弾いてもらいたいものですね」 そう言うと、帝は仲忠を側に召した。 「今日の様な晴れの日には、そなたの友人達も手の限り演奏するというのに」 「は…」 「何でそなたがしないのかな」 「それは…」 「そなたの様な名手が何もしないというのは、それだけで罪というものだよ」 院までが口を揃えて言う。そして一つの琴が彼の前に差し出された。 「せた風」だった。 「この琴を覚えているか?」 「…はい」 あれは仲忠が十八の頃だった。あの時も彼は、兼雅に無理矢理の様に弾かされたものである。 次に彼が皆の前でその手を披露したのは、「龍閣風」だった。その時左大将はあて宮を仲忠にくれると言った。無論その約束は果たされていない。 そのせいだろうか、と帝は思う。 では。 「涼、こちらへ参れ」 帝は「花園風」を仲忠と同じ調子に合わせると、涼の前に差し出した。 「素晴らしい…」 涼は思わず口にする。 「その琴は昔、仲忠が祖父、清原俊蔭が外つ国より持ち帰ったもの達。それらをここで合わせることができるなら、何と素晴らしいことだろう」 帝はじわりじわりと仲忠を責め立てる。仲忠は低い声でつぶやく。 「…他の方々は今日の様な晴れの日のために、とて普段も演奏の練習をなさるのでしょうが、私が時々つま弾く程度のものなど、この素晴らしい場で演奏するなど…」 「才能は、他人の前で上手という評価を受けるのが良いのだ。ここでしなくて何処でする。さあ」 帝はぴしゃりと仲忠の言葉を遮る。そのまま続けさせたら、仲忠は何だかんだ言って絶対に弾こうとしないだろう、ということは帝も良く知っていた。 それでも仲忠は強情にも決して動こうとはしない。帝はその様子を見てため息をつく。 「仲忠にかかっては、天子の位も役に立たないね。故事にも言うではないか。蓬莱にある不老不死の薬を取りに行け、という無茶な命でも、天子の言うことならば、と除福は受け入れて旅立ったではないか?」 仲忠は黙ったままである。 「仕方がない。ともかく涼、弾き始めなさい」 涼は困ったな、と思いながらも「花園風」をかき鳴らし始めた。 指をかけた瞬間、ふっ、と柔らかな音が流れ出たのには涼も驚いた。今まで弾いてきた琴とは何処かが違った。 何て伸びる音だろう。何と響く音だろう。 その感動が、涼の頭の中で渦巻く帝や院の思惑を吹き飛ばした。もっと高く。もっと大きく。 やがてその自分の音に、そっと寄り添う様に合わせてくる音を涼は感じた。 ちらと見ると、仲忠がつまらなそうな顔をしながらも、「せた風」に手をかけていた。 よし、と涼は思った。 琴の奏者が一度名器に手をかけたら、あとは音に身体を任せるだけである。 次第に深まっていく夜の中、二人の弾く琴の音は広がって行く。何処までも深く、広く、響いて行く。 そこにどんな思いがあるのは判らない。涼は知っている曲を知っている限りの手でかき鳴らす。それに仲忠はついてくる。合わせる。 同じ音、調和する音、そしてほんの微かに異なる音で、琴は響く。耳にする人々を酔わせて行く。 帝は感動のあまり、二人に盃を回し、こう詠んだ。 「―――時が経ってやっと今夜思いが叶ったよ、松の枝に巣籠もってなかなか出てこなかった蝉が調べに合わせて鳴いたのだから」 「…僕は蝉?」 側に居る涼の耳には、そんなつぶやきが届いた。 仲忠は微妙に笑いながら詠む。 「―――山辺に吹く松風の様な、平凡な私の琴を蝉は珍しいなどと聴いてはいないでしょう」 自分以外のものに換えたな、と涼は思う。 続いて院が涼に向かって詠む。 「―――秋の長い夜が更けるのも嬉しいものだ。すがすがしい朝露を落とす小松の蔭に涼むのだから」 吹上で皆が彼を「離れていた小松」とたとえていたことを涼は思い出す。 「―――風が強いので、露さえ置かない小松ですから、宮人であらせられる院がお涼みになる様な蔭がなくて恐縮に存じ上げております」 続けて二、三、四の親王がそれぞれ琵琶を弾いた仲頼、箏の琴を弾いた行正、そして和琴を弾いた仲純に歌を贈った。 それを見ながら聞きながら、ここぞとばかりに兼雅は帝に「なん風」を奏上する。 「それは?」 さすがにそれは帝も、院すらも見たことが無い琴だった。 「はい、これは我が妻がその父より受け継いだ琴のうち、仲忠がまだ見たことのないものにございます」 「…ほぉ…そんなものが」 涼は仲忠の方を見る。さすがに彼もその琴には目を奪われていた。 「仲忠」 無言で彼は受け取る。そして何気なくかき鳴らした―――その時。
ぐらり。
天地が揺らいだ――― 涼はそう思った。 仲忠の方を見る。彼もまたはっ、と驚いた表情である。 しばらくじっと自分の手と琴を見比べていた仲忠だったが、やがて顔を上げた。 その表情は先ほどの「仕方がない」というものではなく、何かを決意した時のものに涼には思えた。 そこで彼は持参した琴を取り出した。 「では私はこれで」 「それは?」 院が問いかける。 「我が師、弥行が私に伝えた琴でございます。私はこれでこの素晴らしい琴に合わせてみたいと思います」 帝は一度それを受け取ると、仲忠と同じ調子に合わせて涼に戻す。 二人はやがて弾き始める。 やがて人々の口から「おお…」だの「素晴らしい…」だの声が漏れる。 空を見上げ、手を伸ばし、空から下りて来る何かを受け止めようとばかりに走り回る。 涼は弥行の伝えた曲を指が覚えている限り、仲忠はその彼が知らない曲を奏でて行く。 師匠弥行がかつて彼に贈った言葉を涼は思い出す。 「私の手はこの程度だが」 謙遜する師匠をその時は即座に否定したものだった。 「いやいや。かの俊蔭どのは、それどころではない。いや、…違うのだ。私とは」 どの様に違うのでしょう、と涼はその時問いかけた。 「彼の音は―――彼の琴の放つ音は、人々の心を酔わせる」 酔わせる、と涼はその時繰り返した。 その意味が先ほどぐらり、と天地が揺らいだ感触で判った。 だから涼は自分も琴を弾かなければ、と思った。弾いていれば自分は酔うことはないだろう、と。 さあ見てみるがいい。今ここに居る自分達以外の全ての者を。 彼らは何を見ている? 空も大地も、何も変わりは無い。星も月も、そのままにじっと天球が上、じっとしているではないか。 しかし彼らはどうだ。
「おお、風が」 「地が動く、どうしたことだ」 「何と、星が月がざわめいているではないか。光が」 「何ということ、おお、氷のつぶてが」 「雪じゃ、雪である」 「何と恐ろしい雷よ」 「…おお、あれを見よ」 「何と、天人が」 「天人が」 「天人が琴に合わせて…舞い踊って…」
そんなもの。 涼は思う。 そんなもの自分には見えない。
「…ああ…何と美しい…」 「惜しいことだ、空へと戻っていかれる…」
仲忠はそんな彼らのことなど素知らぬ顔で、琴を弾き続けている。涼はそこから振り解かれない様に、と音を絡める。 行くな。 音で彼は仲忠を呼ぶ。 そのまま君は行ってしまうな。 誰も寄せ付けない場所に、全ての者を惑わすその手を持って。 行ってしまうな。
「…ああ、消えて行く…」
琴の演奏が終わり、人々のどよめきが治まった頃、帝は口を開いた。 「仲忠と涼は何と素晴らしい奏者であったことよ。彼らにはどんなことをしてもし尽くせないと思うが、ここではとりあえず二人を正四位中将にすることで許してくれ」 「帝、涼は源氏である。彼はそのままでもその官位は下ったろう」 院の言葉に帝はうなづく。 「そうですね。では祖父種松に五位を与え、紀伊守と致しましょう」 それで良いな、と院は涼に向かって笑う。 確かにそれは願ったり叶ったりのことだった。いつもいつも祖父に感じていた申し訳なさが、少しでも解き放たれた様な気がしたのだ。 帝は引き続き、左大将に向かいこう言った。 「今夜の涼と仲忠に与えるものは、国中探しても私には無いと思うが、そなたにはあるのではないか?」 微笑する帝に正頼は首を横に振る。 「恐れ入ります。公にすら無いとおっしゃるものが、どうして私にございましょう」 すると帝はあっはっは、と声を立てて笑った。 「そなたの所にはたくさん娘が居るではないか。殊に美しい娘がいるのだから、そう、今夜の褒美に涼や仲忠に差し上げるものとしては最上ではないか」 「…仰せの通りに上げたいのですが、彼らの様な素晴らしい公達に差し上げる様な娘はただ今居りませんゆえ…」 「あて宮が居るではないか」 帝の声が聞こえる限りの者がはっとする。 「そう、それこそ最上の今夜の褒美であろう? 涼にあて宮を。仲忠には、そなたの所に住む、私の女一宮を。それで決まりだ」 涼と仲忠は一瞬顔を見合わせた。 だが涼には仲忠の表情は読みとれなかった。 帝は仲忠の叙位の旨を記した文書にこう書き付ける。 「―――琴の松風が早く吹いて染色を乾かしてしまったら、紫の深い色を更に染めよう。秘曲をすっかり弾くならば、位は望みのままに与えようぞ」 仲忠はそれに返す。 「―――紫に染める衣の色は深いので、それを乾かす程の温かい松風は吹くまいと存じます。有り難い仰せではありますが、私の技術は甘いものでございます」 一方、涼の文書には院が書き付ける。 「―――秋も深まり、野辺の草葉…自分は枯れてきたから、若紫…そなたをたのみに思うよ」 涼が返す。 「―――花が盛りになりましたのも、露…院の恵みのおかげでございます。今日こそ露が四位の紫色に染まりまして、感謝に堪えません」 また種松の文書には、左大臣季明が書き付けた。 「―――立田姫が紅葉の笠をこしらえたのは、たった一本の大事な松が露に堪えるようにという思し召しからでしょう」 これからも涼をよろしく頼む、という意味を込めた歌に対し、種松が返す。 「―――いいえ、私の方が源氏の君のおかげを蒙る身となりました」 宣旨も下り、改めて種松は帝と院の御前に上った。 「それにしても」 院は涼と仲忠に向かって問いかける。 「仲忠の手は、その昔私が聴いた俊蔭の手より素晴らしい」 仲忠は黙って軽く頭を下げる。 「そして涼、そなたは一体どうしたことだ。そなたの琴の腕は、その昔最も素晴らしいと言われた頃の弥行の腕の様だ。弥行は姿を隠して三十余年になる。誰もその手を継ぐ者が居なくて残念に思っていたものだ」 涼は軽く目を伏せる。 「そなたはまだ二十歳そこそこ。それでも琴の曲の手はあの弥行の様だ。一体これはどういうことなのだ」 涼はうなづき、少し考えてから口を開いた。 「我が師弥行が亡くなって今年で六年になります」 「やはりそなたの師であったのか」 「師はその昔、『朝廷に仕えても公に認められない。琴の師として宮仕えするのは性に合わない。いっそ山に籠もって菩提の勤めをしよう』と申しまして、深き山に入りましたそうです」 「奴らしいわ」 院はくすりと笑う。やはり院に対してもそういう人物だったのか、と涼は思う。 「師に出会いましたのは、私が五歳の時、熊野で詣でた際のことです。そこで出会った山伏が不思議と素晴らしい琴を弾いていたので、まだ幼かった私が何とも知らないうちにまとわりつき、教えて教えてと頼んだ様です」 祖父の話ですが、と涼は笑った。 「私はどうも師にまとわりついて離れなかった様で、祖父も仕方がないと師に頼んだところ、ちょうど師も気持ちが揺らいだ時期だったのでしょう、『私は、私の手が此の世に留まらないのが悲しくて今まで現世にそれでも生きてきた。…もしこの若君が私の手を、技を受けて後の世に伝えてくれるのならば、私は死んだ後もこの若君を訪ねて護るであろう』と」 今でも思い出す。見た目はむさ苦しいが、そのごつい手から繰り出す音の素晴らしさを。 「彼はそれらの手を全て私に伝えてしまうと、山へと戻ってしまいました」 「それから彼は」 「判りません。『今は早く、猛々しい獣に私の身をやり、深い谷に屍をさらそう』と言い残して去ってしまいましたから。私は未だ師の手を伝えるには至っておりませんので、非常に申し訳なく思っております」 そうだったのか、と院は深くうなづくと、膝の上でぐっと両の拳を握りしめた。 「何故に―――」 院は喉の奥から絞り出す様な声を立てる。 「何故に弥行も俊蔭も、琴を弾く者は、そうやって去って行ってしまうのか!」 涼はまたちら、と仲忠はを見た。 やはりその表情からは何も読みとることができなかった。
*
やがて、種松は三条に大きな家を作り、吹上同様、涼の居場所として豪壮に飾り立てた。 倉もたくさん作り、中には財を蓄えおいて、全ての調度を金銀瑠璃に磨き立てた。 涼はそこまでしなくても、と内心思ったが、祖父がそうしたいのならそうさせればいい、と思って何も言わなかった。 種松は妻を都に呼び寄せ、皆で出世を喜んだ。 しばらくして彼ら夫妻は涼を残し紀伊国へ戻り、そこで余生を楽しく暮らしたが、それはまた別の話となる。
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