仲忠の文は頻繁に涼の元に届いていた。
「左大将どの屋敷で七夕祭が行われました。相変わらずの派手っぷりが楽しかったです。 七日の朝早くから、それぞれ八人づつ、美しく装束した童が歩いてきました。 西の大殿の仁寿殿の女御からは、青色の表着に蘇芳がさねの汗衫、綾織の表の袴、一重襲の綾の掻練の袙、単衣。 中の大殿からは二藍襲の汗衫、赤色の表着。北の大宮さまの元からは、綾にかとりを重ねた女郎花色の汗衫、薄物の表着。 二十四人の美しい童が一斉に、庭の松の下から虹のように色々の糸を掛け渡すのです。 次に簀子の内側の廂には御簾を懸けて、その外に棹を渡し、ありったけの色々の御衣や、解きほぐした御衣を懸けていました。 その衣の懸かった衣桁を並べ、色合いも品のよしあしも吟味した美しい家具類を揃え、丈の同じ鬘をあちこちに飾っていました。 衣に焚きしめた様々の香が、秋の風にふんわりと一杯に広がっていました」
それはまた、美しい光景だったろうな、と涼は思う。 自分のところでもその位のことは出来るが、見せるに相応しい相手が居るのと居ないのでは気合いというものが違うものだ。
「ところで左大将どのは、源氏ではあるのですが、外戚藤氏でもありますので、大学の勧学院別当も務められています」
ほぉ、と涼は初耳のことに片眉を上げた。
「その勧学院でその日、ちょっとした騒ぎが起きました」 ふむふむ、と彼は興味をそそられる。 「元々その日には、帝が詩作を聞こし召すということで、博士や文人達八十人が仁寿殿に参内する予定だったのに、朝廷の都合でにわかに取りやめになったのです。 彼らは非常に残念がりました。当然と言えば当然でしょう。彼らの晴れの舞台です。そして『もしかしたらここで運が向いて来るかもしれない』という場でもありますからね。ですからそんな突然取り止めなんてとんでもないことなのです。彼らにとっては死活問題です。 そこで別当である左大将どのの三条殿へ皆で歩いて訴えに行こう、ということになりました。勧学院からは、大学より三条殿の方が近かったのです。 その中に一人の学生が居ました。名は藤原季英、字を藤英と言います。 この人がまた、実に個性的な方なのです。西の曹司に居る方なんですが、実に貧乏で! その貧乏も極まった様な状態ゆえ、彼は同じ院の皆から馬鹿にされています。そのせいでしょうか、雑色や厨女までまるで言うことを聞いてくれません。 でも元々貧乏だったという訳ではないのです。両親も従者も一族も一度に亡くなってしまったのだと聞いています。 後ろ盾の無い人というのは悲しいものですね。彼は現在三十五です。 彼よりずっと能無しの若い者がどんどん試験を受けて、良い地位について行くのを、彼はただ見ていることしかできなかったそうです。 それでも彼は彼なりに野心がある様です。しかし周囲は「天下の左大将どのも、あれほどの才と容貌のある者は婿に取れまい」と言って笑うばかりなのです。 才と容貌は立派な様です。特に才の方は。 勉学に励む様はもう涙流して語れない程です。 夏は蛍を生絹の袋に沢山入れて、文の上において夜も眠らずに本を読み、冬は冬で、丸めた雪を灯火の代わりにしたそうです。 …何処まで本当かは判らないですけどね。 ただそのくらい、勉強熱心だということです。そして灯火の油を買うことも出来ない程貧窮しているということは確かです。 その彼が、普段は学生達の抗議の行進に混じったりはしないのに、この時ばかりは『自分も行く』と立ち上がったそうです。何が彼を駆り立てたのでしょう。 少し前に丹後守になった人に、珍しく祝いの席に招かれ、窮状に同情されたことで勇気が湧いてきたのかもしれません。 とは言え、同情されたからと言って、彼の着物が増える訳ではありません。 その時の格好ですが。 まず古くなってちぎれた袍を、下襲の半臂も重ねずに、太織りのかたびらの上に着て、上の袴も下袴も無いのです。冠も、もとどりを入れる巾子だけ残っているだったそうです。そして足には、粗末な、端の残った藁草履。顔色も良くない、痩せこけた身体の方が、『私も今日の御歩みの尻に入れてもらいましょう』と言い出したのです。 周囲の博士や友達や、果てはそこで使われている者皆が思い切り笑ったそうです。 彼らは藤英が行くことに反対しました。理由がまたふるっています。 『別当殿のお屋敷は帝の御殿に劣らないものだ。身に徳を積んだ人々が行くところだ。そんなところに学生の装束で参上したら、それこそ勧学院の不名誉だ。行くのは止めろ。見ていて情けない。院からも追放してしまったほうがいいかもしれない』 そう言って、皆彼を行かせまい行かせまいとしたそうです。 しかし彼は左大将どののもとへ行こうという決心を翻そうとはしなかったのです」
興味深く涼は続きに目を走らせた。
「するとやがて騒ぎを聞きつけた丹後守の忠遠がやってきて、『何故止まってしまったんですか? 私が来るのを待って下さったのですか?』と聞いたそうです。 周囲は藤英が行こうとするから、と説明しました。 すると丹後守はこう一気にまくし立てたそうです。 『どうして藤英が左大臣どのの所へ行こうとしたからと言って、この行進を止めなくちゃならないんですか! 藤英はあなた方と同じ勧学院の学生じゃないですか。衣装が古い? 実にそれは大学の学生らしいことじゃあないですか。冠が縮まってしまったり、橡の袍が破れてぼろぼろになってしまったり、足袋は破れ、やせ衰えた人で、漢才のある人こそ学生というのではないですか? こういう人こそ、この行進に連なる資格があるというものです。良い家に生まれてもろくな才能も無くって、実家の権勢を頼りにして賄賂に充分お金を使い、ひそかに媚びへつらって、表向きは持てはやされて華やかな人なんて、とても学生とは言えないと私は思います』 この人は普段は大人しい人だそうです。それで皆、驚いて何も言えなくなってしまったそうです。彼は藤英を立たせて、『あなたこそ真の大学の学生です』と勇気づけて行かせたそうです」
なかなか気骨のある人だなあ、と涼は思った。 ともかく藤英を最初に見た時から感動してしまったのだろう。このかつては勧学院の学生だった丹後守にとって、それはある種の理想だったに違いない。
「さて左大将どのですが。 まああの方にしてみれば、単に予定の問題だったのですね。どちらでやろうと、学生の詩作など大した問題ではなかった訳です。 しかし学生にとっては、自分が殿の目に止まるかどうかの場所ですから、その機会が失われることがもう一大事なんですよ。 左大将どのからしてみたら『まあそっちからやってきてくれたんならちょうどいい』とばかりに、自分の館で詩作を行うことにしたのです。博士や学生達を釣殿に招き入れました。彼にとっては造作もないことです。 上達部や皇子達、それに左大将家の子息達も一緒に同じ題で詩を作り始めました。式部丞が詩会の講師になって、それらの詩を声に出して読み、諸声に節をつけて皆が詠みました。 さて藤英ですが。 そこでまた講師の嫌がらせがあった訳です。見た目がどうあろうが、藤英の作った詩はもう文句無しに素晴らしいものな訳です。それは皆知っています。彼の詩を披露したら、もう上つ方の目に止まってしまうことは間違いない訳です。 講師は彼の詩をわざと読みませんでした。学生達以外、誰も藤英がそこに居るということも知りませんでした。 そうこうするうちに、左大将どのをはじめ、琴を弾く人は皆、その中でも素晴らしい詩に合わせて奏で始めました。 夜が更けて行くうちに、琴の音も人の声も非常に素晴らしく豊かに高く響きわたりました。 そこで藤英は、その雰囲気の中、自分の作った詩を自分で誦したのです。その声は朗々と響きわたり、高麗鈴を振ったかの様でした。 左大将どのはそれを聞きつけて 『今日の詩の中には無かったものの様だが』 と博士に聞きました。博士や文人達は、言いたく無いので、もごもごとやっていると、何やらじれったくなったのか、左大将どのご自身で問いかけました。 『学生達の中で、素晴らしい句を誦した者が居るようだが。何処の誰なのか。ここへ出てきなさい』 藤英は驚きましたが答えました。 『勧学院の西の曹司の学生、藤原季英です』 『面白い学生だな。こちらへ来なさい』 大勢の学生の中をかき分けて進んで行く藤英の姿はさすがに異様なものがありました。夜とは言え、左大将家の宴です。あちこちに用意された明かりで周囲は昼より明るいかと思われる程でした。その中で、彼の姿はやはり目立ち、見る者見る者皆堪えきれず、一度にどっと笑う声が起こりました。 やがて静まった時、左大将どのが藤英に訊ねました。 『そなたは誰の子孫で誰を師としている?』 藤英はここぞとばかりにその声を張り上げました。 『私は遣唐使だった藤原南陰の長男で学問料をもらっている学生でございます。我が父南陰の右大弁は、参議になりました時に、何処で恨みを買ったのか、兵に殺されました。父の兄弟はその災いを恐れてか、遠くへちりぢりに逃げてしまいました。残されたのは私一人。私だけが南陰の子孫でございます。七歳にて入学し、現在三十五才でございます。入学以来、死を覚悟で脇見もせずに勉学に励みました。昼間は本から目を離すことはありません。光の無い夜は夏は蛍を集めて袋に入れ、冬は雪を集めて読書に励みました。しかし現在の博士達は憐れみが薄く、貪欲なだけで、私の様な学生には目もくれません。この様にして二十余年になります』 そしてその後、拳を握りしめ、何やら腹の底から煮えたぎるものを吐き出す様にして言ったそうです。 『武芸を専門にしたり、悪事を本業にしたり、熊狩り、鷹狩り、魚取りの上手な者が最近入学して、善悪の分別も付かない様な者でも、試験官に贈り物をすれば順序を待たずに抜擢する! そんな中、私はただいたずらに自分を越えて行く彼らを眺めながら長い月日を過ごしてきたのです!』 そう涙をだらだらと流しながら訴える様はさすがに皆の心を打った様です」
涼は仲忠の微妙な言い回しに苦笑した。
「左大将どのは博士達に問いかけました。 『この学生が言うことはどういうことだ』 博士達も答えました。さすがにそれはかなり彼らにとってはまずいことだったのでしょう。 『藤英は非常に優れた者であるのは確かです。しかし非常に落ち着かない性格でございますので、公にお仕えすることはなりません。彼が世間に出ましたら、公私共に様々な問題が起こる恐れが』 藤英はそれを聞い思わず腰を上げかけたそうです。左大将どのは他の博士達にも訊ねました。皆自分の身可愛さに、同様とばかりにうなづくばかりでした。 するとそこで例の丹後守が口を開いたのです。 『現在、この勧学院で性格がしっかりして才学の優れているのは藤英ただ一人です。他人に対して罪や過ちを犯すことは、彼に限って考えられないことです。皆藤英の身にしっかりした後見が無いことを嫌がり、院内で仲間外れにしているのです。家が豊かであれば、頭の悪い学生達でも優遇しますが、藤英が孤独な日々に学問に疲れ、たまたま成績が悪く出てしまった時を見計らったかの様に、他の人の上への口添えをしたりするのです。それでも藤英は自分の道を変えることはありません。おかげで彼は現在、孤立無縁の状態です』 左大将どのはそれを聞くと大きくうなづきました。 『大学の勧学院というところは、元来、高位高官の大臣や公卿を初めとして、氏の一族が封を分けたり、荘からの物を納めたり、賜る禄で維持するものだ』 つまりは朝廷を仕切る人々が、自分達の氏の中で埋もれている人々の中から、優秀な官を養成しようというつもりで大学には出資しているということなのです。金持ちの馬鹿者に箔を付けるために作った場所ではない、と。ですから左大将どのはこうおっしゃった訳です。 『だとしたら、藤英は公に仕官すべきであろう。落ち着かない性格とそなた達は言うが、どれほどの者であろうと、それだけの年月、孤独と不安の中で戦ってきたなら仕方のないことだ。永年の思いが叶ったならば、気持ちも落ち着くことだろう』 さすがに周囲の博士達も何も反論ができませんでした。左大将どのはそのまま藤英に、詩を誦させて、ご自分はそれに合わせて琴を弾かれました。それがまた、非常に素晴らしかったそうです。その後、盃を藤英に渡し、 『―――色を変えない松の様な他の勧学院の学生を差し置いて、藤の枝…あなたを秋の山に植え替えたいものだ』 と詠まれました。藤英は非常に恐縮しながらも、 『―――埋もれるものと覚悟してました私は、藤の蔓が土の上に這い出した様にお見立てにあずかって、今日は嬉しく感謝に堪えません』 と返しました。 左大将どのはまた、藤英の姿がさすがに哀れに思ったのでしょうか、民部丞の藤原元則が新しく美しい礼装に立派な石帯をしてきたのを見てこう命じました。 『この学生は今、誉れを得た美男子だ。お前しばらく平服になって、装束を彼に貸してやれ』 元則は藤英を呼んで、人の居ないところで髪を直させ、髭を剃って服を着せ替えました。 彼は藤英に親しげに言ったそうです。 『あんたは幸運だ。学問の道は無茶苦茶厳しいよな。俺なんかは途中で投げてしまったほうだ。凄いよ、あんたは。なぁどうだ。また暇ができたら俺のところにも来てやってくれ。歓迎するよ』 彼が着せた装束は、藤英を笑った者達よりずっとずっと素晴らしいものだったそうです。 まぁそんな訳で、この学生達の中で、一番左大将どのの覚えがめでたかったのは、藤英だった訳です。一大決心をして、この行進に参加したのは、彼にとっては大正解だった訳ですね。 ただですね、涼さん。彼は何と言っても左大将どのに目をかけられた訳だし、その後出世していくとは思うのですが」
はて、と含みを持たせた言い方に涼は期待をする。
「この藤英が、あて宮に恋してしまった様なんですよ」
それはまた! 様々な意味で涼は呆れてしまった。 おそらくそれまで学問と周囲への意地やら誇りやらで一杯だった心に余裕が生じてしまったのだろう。 三十五で独り身。これは辛いだろう。辛いと意識してしまった時には。 あて宮の噂は何処からでも入ってくる。勧学院でも無論それは同様だろう。 心の中にぽっと空いてしまったところに、とりあえず恋をしてみようとでも思ったのだろうか。 涼は色々と推測する。 仲忠はこう締めていた。
「とは言え、まだ文の一つも来た訳ではないのですよ」
それでは一体、何処から彼はそんな情報を得たのだろう。涼は思わず頭を抱える。 しかしそうなってくると、あて宮争奪戦も実に幅広いものになっているのだなあ、とも思う。 さて例の姫君の「女房」はこのことについてどう思っているのか? 涼は早速文の返しを書いて送った。
*
「図々しい!」 と今宮は文を見るなりつぶやいた。 「どうなさいましたか?」 「何でもないわよ」 と彼女は返す。 しかしその図々しさが何となく面白い。しかも熱心ではなさげなところが。 そう思って最近のあて宮を巡る動きに彼女も目を走らせてみる。
まず東宮からは七夕にかこつけてまたもや文があった。 「―――冷淡なあなたを待っているうちに、もう数年経ってしまいましたよ。その間彦星は何遍織姫と逢っていることでしょう」 あて宮はこう返した。 「―――二つの星は一年に一度来る秋七月の一夜のためにじっと待っているというのに、あなたときたら逢う夜のことばかりお数えになるのですね」 兎にも角にもあて宮は東宮には必ず返事をしているのだ。
その一方、実忠の動きがまたじりじりと始まっていた。 中の大殿の簀子で男達が碁をしていた夕暮れ時のことである。 御簾の向こう側で、ふと声がするのに今宮は気付いた。 兵衛の君に実忠が何やら頼んでいる様だ。 面白くなり、今宮はそうっと近づいて聞き耳を立てた。 姫君のすることではない、と口うるさく言う女房は彼女の周囲にはあまり居ない。 「どうして昨夜は下屋にいなかったんだ? 今はもう、お前さえ私に冷たくなってしまったかと思うと…」 少しだけ間を置いて、兵衛の君の声がした。 「変わらないものは冷淡に見えるのですわ。別にあなた様を避けた訳ではございません。私は昨夜、まかないの方へお仕えしていたので…」 二人の会話の後ろで蜩が啼いていた。それを聞いた実忠はこう詠んだ。 「―――夕暮れともなれば訪ねるところもなくて、独り寝する自分が悲しくて、蜩の啼くのも私に比べれば何でもないと思いますよ」 兵衛の君が何かそれに優しい言葉でもかけるか、と思ったが、彼女はそのまま黙って引き返して行った。 「…どう思う?」 後ろで不安気に眺めていた一宮に、今宮はそっと問いかける。 「どうって」 「実忠さまのこと」 「んー…」 一宮は困った顔をする。 「そなた達はどう思う?」 自分の、情報収集に長けた女房達に彼女は問いかける。 その中の一人が口を開く。 「私の兄がした恋がこういう感じでしたので、少々不安に思います」 「兄?」 「はい。兄はやはり美しいと噂に聞く、さる受領の娘に恋をしたのです。いくらたっても返事は素っ気なく、かと言って他の求婚者にも応じない。そういう娘でした」 「それで?」 「多くの者は、そこは受領ですから、他を求めました。しかし私の兄はそうはいかず」 「ひたすらに、あの実忠さまの様に娘を追い求めた訳?」 「はい」 女房はうなづく。 「それでどうなったの?」 興味半分、心配半分で一宮は問いかける。 「兄は思いつめて病気になってしまいました」 まあ、と一宮は両手を口に当てる。 「正直、本当に病気なのか判りません。ただもう気分が塞いで、閉じこもってしまって、食欲が無くなって、次第に動きたくなくなってしまったという様ですから…」 「物の怪でしょうか」 別の女房が口を挟む。 「いえ違います」 話を始めた女房はきっぱり答える。 「そなたは物の怪は信じないの?」 「そういう訳ではございませんが、…でも、人は食欲が無いと言って食べなければ力も出ないでしょうし」 「気分が塞いでいるのは恋のせいとして」 「でも恋と言いましても、結局評判しか判らない訳ですから」 あて宮における実忠と同じだ、と女房は暗に示していた。 「それでどうなったの?」 「ええ、今は病気も治り、ぴんぴんしています」 「ということは、その娘と結婚することができたの?」 「いえいえ、それは無理でございました」 「と言うと」 「噂そのものが嘘だったのです」 「嘘!」 一宮は思わず目を丸くした。 「そもそもその受領のところには、娘など居なかったのです。それなのに、『大事にしている娘がいる』という噂ばかりが一人歩きして、私達くらいの身分の男達を迷わせてしまったのです」 「でもそれはどうして判ったの?」 今宮は身体を乗り出した。 「兄が恋で病気になってしまったと聞き、その受領が直接噂の真相を打ち明けて下さったのです」 「なぁんだ」 「なぁんだじゃないわよ、一宮。これは大事なことよ。それでそなたの兄は?」 「あっけなく良くなりました。幻に恋していた自分をずいぶんと恥じまして、その受領と親の勧めた別の娘と結婚して、今では穏やかに暮らしています」 ほっとした顔で一宮は胸を撫でおろした。 「けど幻が本当に幻ならいいけど」 「はい。実忠さまの場合は…」 うーん、と今宮は眉を寄せた。 「正直私は、あれが婿君としてあて宮とくっつくなんて嫌よ」 「嫌ってあなた」 「一宮は黙って。…大体東宮さまからお話が来ているなら、もういっそさっさと入内してしまえば、皆あきらめるのに」 「あて宮はどう思っているのかしら」 ぽつんと一宮はつぶやく。 「好きな方は」 「居ても居なくてもあのひとには同じでしょ」 「でも」 「一宮」 今宮は一宮に向き直る。 「もし、あて宮がちゃあんと好きな人とくっつくとか言うなら、あなた失恋なんだけど、それでもよくて?」 「え」 一宮は息を呑んだ。それは。
*
それから少し経ったある晩。 「姫様方、ずいぶんと良い月でございますよ」 孫王の君が御簾を少し掲げてそう言った。 「まあ…」 あて宮もそれには声を立てる。 「あて宮、久々に私と合わせましょ。でも琴ではなくて箏でね」 「ではあなたは琵琶を」 久々に姉妹が穏やかな時間を過ごすことを、周囲の女房も喜ぶ。 今宮が入るとどうも静かな空気がかき乱されて仕方がない。若い女房達はともかく、古参の女房には彼女の溌剌とした空気は少し荷がかちすぎるのだ。 孫王の君はその調べを聞きながら、ちら、と横目を御簾の外に向ける。 仲忠が居るはずだった。 まだ陽が落ちる前、彼女は仲忠から言付かった文の返しを催促されていた。 「何か珍しく熱心ではないですか」 孫王の君はやや皮肉げに仲忠に言った。 「僕が熱心ではいけない?」 「いいえ。あなた様なら安心ですわ。何事も起こるはずがないのですから」 「ではどうして返事を持ってきてはくれないの?」 「先ほどから、仲純さまと碁をお打ちでしたから」 「仲純さんね…ふうん」 彼は何度かうなづく。 「じゃあいいや。別に僕の方は。お返事が無くてもいい」 「いいんですか?」 「その代わり、ちょっとだけあて宮が琴を弾いているところを見たいなあ」 「まあ」 そんなやり取りがあった。 そして確かに今、外にはその気配がある。 覚えのある香り。ふらふらと見える、白い大きな花を手にした。 「…琵琶は誰が弾いているの?」 「今宮さまです」 聞こえるか聞こえないか、という程度の声で孫王の君は答える。 「ふうん。それはそれで悪くないね。それにしてもあて宮はやっぱり凄いね。今でもこの様な手なら、先ざきはどれだけ上手になることやら」 ふふ、と孫王の君はそれを聞いて微笑む。 「でも確かにこれは危険な音だね」 「どういうことですか?」 「香りが人を惹きつける様に、あて宮は何かしら弾くだけで、その音が意味も判らず、人を惹きつける。僕はその音だけで充分だけど、他の人はどうかな」 「…嫌なことをおっしゃる」 「嫌なことかな。それが彼女の持つ天性のものなのだろうけど。音に全てが入ってしまうんだね。夏の納涼会の時の音、あれだけでどれだけの人が惑わされたことやら」 「それはあなた様も同じでしょう?」 「…僕のは少し違うよ。それにまだ、本当の音は出していないよ」 「聞かせていただける時はあるのでしょうか」 「いや、誰にも聞かせない方がいいんだ。そういうものは」 孫王の君はふっとため息をつく。 「…一体あなた様には、何か本当に欲しいものとかあるのですか?」 「あて宮の音」 「ご冗談ではなく」 「冗談ではないよ。孫王の君。あなたのことが好きだし、あて宮の音が欲しい。…他のことなんて、誰かが良い様に決めてくれるだろ。最近では仁寿殿にだって、簡単に入れてくれるんだ…」 全てのことがどうでもいい。彼女には、仲忠のそんな心が言葉の端々から感じられる。 「…あなたのそういうところが心配ですわ」 ふっ、とその時音が止まった。 「誰かそこに居るの、孫王」 今宮が鋭い声で問いただす。 仲忠は竜胆の花を折ると、その淡い色の汁で手にしていた蓮の花に何やら書く。それを簀子に置くと、そっと立ち去って行った。 「…東の簀子にこれが」 孫王の君は、仲忠の気配が消えたあたりを見計らい、花を外から取り入れる。 「歌が」 「歌?」 今宮は見せて、と孫王の君から花を取る。 「―――浅瀬の様なあなたの冷淡さを嘆いて渡る筏士は、幾年月をこうして暮らしてきたことだろう」 仲忠の筆跡であることは、すぐに伺い知れた。 「…ではあの方、私の弾いた箏もお聞きになったのですね」 「その様でございます」 「恥ずかしいことだわ… 琴の名手のあの方にこんな他愛ないものを聞かれたなんて。私はもう今日は弾きません」 「あて宮」 珍しい、と今宮は思った。 この姉が動揺している。一宮に言ったのは半分冗談だったが、案外それは的を射ているのかもしれない。
* 「あて宮さまはあなた様のことが嫌いではない様です」 「かもね」 夜も更けて、孫王の君の局で彼女の胸に埋もれながら、仲忠は囁く。 「いいのですか? あなた様なら、手引きして来たとしてもあの方は」 「何度も言ってるじゃない、孫王の君」 髪に指を梳き入れる。 「音だよ。音だけなんだ。あの方から欲しいのは。それだけが僕の願い。それ以外は何も無いんだ」 「私は―――」 「ああどうしてあなたは、今そうやって、あて宮のことを僕に言うの。僕は今はこうしているだけでいいのに」 「でも」 「あなたがそう言うなら、あて宮には思いの印とやらを明日の朝には届けるよ。でもそれはそれだけでしかないんだからね」 「…あなた様のお気持ちは、私にはどうしても理解できませんわ」 「理解なんかしなくたっていい」 彼女は何も言えなくなった。夜がまんじりと更けて行く。
翌朝、あて宮の元に「黒方」という薫物をくわえさせた銀の鯉が届けられた。 「―――一晩中私は涙川に浮かんで、果てしの無い恋に悩んでいます」 そんな歌が添えられて。 あて宮はそれを見ても何も言わなかった。表情一つ変えなかった。孫王の君はあて宮に返事を勧めた。 「ずいぶんと熱心ね、孫王」 「滅多にそういうことをなさらない方からですから…」 言葉を濁す。 正直彼女も、仲忠がこう出てくるとは思わなかった。何とも思っていないはずなのに。勧めたのは自分だけど。 それでもこういうものを即座に出してくるというのは。 その一方で彼女の「女房」としての気持ちはあて宮にこう勧める。 「今度ばかりはお返し下さいませ」 「…嫌な噂が立ったら、孫王のせいよ」 あて宮はそう言うと、微かに笑う。 そして銀の籠に沈香の松明を灯して、沈木でできた男に持たせると、次の歌を書き付け、仲忠の元へと送らせた。 「―――川瀬に浮かんでいる男は、篝火が水に映っているのを自分の恋だと思っているのです。あなたの恋は影に過ぎないのです」 孫王の君ははっとした。 もしかして。 もしかしてこの二人は。
*
「ふぅん?」 「女房」から届いた文を見て涼は面白い、という顔をした。 琴を聴きに行ったと。仲忠にしては珍しく積極的な行動に彼はやや驚いた。 しかしそういう行動自体が、「恋」という行為の作法には必要なのだろう。 ならば。 涼は少しばかりその例にならってみることにした。
「紀伊国の源氏の君から、ということですが…」 思い立ったが吉日とばかりに、涼はすぐにあて宮の元へと連日贈り物を届けさせた。 都で噂に聞く可愛らしい童に美しい装束を着せ、季節に合った花や紅葉を珍しい紙に書いて、毎日の様に届けさせる。 「―――私の身から限りもなくあふれ出る恋の思いには、慰めるという浜の名も何の役にも立ちません―――見えない程の塵さえ積もるということもあるのに、恋の思いの止まる様子のないのは心細く思います」 さすがにそれには左大将正頼も感心した。 「優れた人々の間に混じっても恥ずかしくない文であるな…」 しかし、と彼は思う。それでは最初のあの失礼な文は何だったのだろうと。 「あて宮はどうしたね」 正頼は孫王の君に問いかける。彼女は苦笑し、首を横に振った。さて、と正頼は首を傾げた。 ちなみに当の涼は、返事が無いことに関しては「まあそんなものだ」と思っていた。
それからしばらくして、庚申の日が来た。 中の大殿でも、皆寝ずに庚申待ちをする。 しかしただまんじりと夜を過ごすのではつまらない、とばかりに皆何かと遊びを考え出す。 ある所では、男女が左右に分かれて石はじきの遊びをしていた。 あて宮は遊びそのものには参加せず、女房達が楽しむのを見ていただけだが、そこに仲純がそっと近づいた。 きょうだいというのは、ある程度まで近付けるというのが強みであり―――それでいて、ある程度以上は決して触れてはならない存在である。 あて宮は仲純の方をちらと見た。 彼は彼女の側にある硯を引き寄せると、見えるか見えないかの距離で、その上に筆でさらさらと書き付けた。 「―――寝る暇なく嘆く私の心も、夢でならあなたに会えるかと思うと、眠ってはならない庚申の今夜であっても、まどろみたくなります」 硯に書いた歌の文字は、一つ一つ書くごとに消えて行く。 見えただろうか、と仲純は妹の様子を伺う。あて宮は視線を逸らしている。決して見るものか、という様に。 判ってはいる。判ってはいるんだ。 仲純は心の中で叫ぶ。だからこそ、夢の中でだけ会えたら、と思うのに、と。 既に彼は以前と比べてずいぶんとやつれていた。
*
やつれているのは仲純だけではなかった。 実忠もまたその一人だった。 「もしかしたら死んでしまうのではないか、惜しい人なのに」 彼を知る人々が噂する。 そんな声を知ってか知らずか、彼はひたすら引きこもって床につき、届いても叶わない思いに悲嘆にくれていた。 それでも文を書くことは忘れない。忘れてなるものかとばかりに床の中からも筆を取る。
「数の中にも入らない自分だということが、自分にも判らない様に振る舞うのが恥ずかしくて、申し上げまいとその度に思い返すのでございますが、こうして死んでしまうにしても、心細いままに終わるのは悲しうございますので… ―――涙さえ川となった程の私が、これまで久しい間差し上げた沢山の文は何処へ行ったことでしょう――― 今にも死ぬばかりですが、万が一お返事が頂けるかと頼みに思いながら、辛うじて生きております。ああ愛しい貴女、私を助けると思ってお返事下さい」
「確かにここまで言われては可哀想だとは思うけど…」 受け取ったあて宮は、そうつぶやきはするが、これといった返事らしい返事はしない。 さすがに実忠に同情した木工の君は、あて宮に進言する。 「せめてこの度だけはお返事下さいませ。お気の毒なことになってしまったと、世間の皆様も気の毒がっておいでなのですから… 人助けと思って」 「木工」 短いが、鋭い声が木工の君の耳を打った。 「私のせいにするのは変だわ。…いずれにせよ、ああいう方には返事をしない方がいいのです」 「あて宮さま」 木工の君は驚いて声を上げる。 「どうしてそんなに冷たく… 今まではそうでもない様にお見かけ致しましたのに…」 「私はするべき所にはお返事はしているつもりよ」 言い放つあて宮に、木工の君は「はあ」とため息を漏らすばかりだった。 周囲の女房も思う。 この様な悲痛な叫びに耳を貸さない方なら、今先ほど来たばかりの行正の文になど、返しなど考えもしないだろう、と。 行正はこう詠んでいた。 「―――数の中にも入らない様な私にとって、初秋が来ると侘びしいのは、時雨があっても紅葉することができないことです。顔色にも出せない侘びしさです」
*
「…とやっぱり、返事は無かった様です」 「女房」はそう締めくくっていた。 涼はそれを読んでくっくっ、と笑う。 この「女房」は字は決して上手く無い。饒舌なその文の内容も半分は意味が無い。 しかし涼はそれを読むのがひどく楽しい自分に気付いていた。 おそらくこの「女房」はいつも「らしくない」「大人しくしてなさい」とか言われているのだろう、と思った。 きっと側に居たら、いつも世間話を面白可笑しくまくし立ててくれるはずだ。彼女にとって、世界は面白いものに満ちているのだから。 そう思いながら文を閉じ、もう一つの文を開く。仲忠からだった。 そこには思いがけないことが書いてあった。 彼の父、嵯峨院が吹上に行幸するというのだ。 涼は驚いてその続きを読んだ。
「先日、院が花の宴を遊ばされました。 その時院が仲頼さんに 『年の内で草木の盛んな見頃はいつがいいか』 とお聞きになりました。仲頼さんは答えました。 『野の花の盛りは八月二十日。山の木花の盛りは九月十日頃が良いでしょう』 『何処の野山が良いか?』 『近い所では、野は嵯峨野、山は小倉山、嵐山がいいでしょう』 と話は流れて行き、やがて鷹狩りの話になったのです。院は小鷹狩りをしてみようとおっしゃいました。 それで仲頼さんにまた問いかけたのです。小鷹狩りにいい場所はないか、と。仲頼さんはそこでそちら、紀伊国を持ち出したのです。 遠すぎるのではないか、というお言葉にも、右大臣どのが唐の例を持ち出して解決です。九月九日の節句の宴を吹上でしよう、ということになりました。 という訳で涼さん、急で何ですが、院をはじめ、沢山の方々がそちらへ伺うことになると思います。いずれ院の使いが正式にあると思うのですが、その前にと思いまして」
慌てて彼が種松と支度を始めたのは言うまでも無い。
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