「…もう七月ね」 あて宮に連日届けられた文を見ながら今宮はため息をつく。昨日は仲頼から、今日は行正からだ。 その文達が今宮にふとそんなため息を起こさせた。 仲頼からはこうだった。 「―――涙で濡れた袖も干してしまえずに過ぎてしまった夏の日を惜しむにつけて、袖は濡れまさるのです」 それが六月の最後の日の文。 行正は七月の最初の日だった。 「―――夏の木々が広がる様に御文を繁く差し上げても一向にお返事を下さらなかったあなたは、秋が来て言の葉が色づく今日をどう御覧になりますか」 七月。そう秋がやってきたのだ。 「季節が変わっても、皆本当に熱心というか何と言うか…」 「仕方がないわ今宮、それはやっぱりあて宮が皆恋しいからだし―――私は行正さまの歌の方が素敵だと思うわ」 一宮は無邪気に二つの歌を比べる。 「私はどちらかというと、仲頼さまの方が真っ直ぐでいいと思うけどね」 今宮は答える。 「でも今宮は、涼さまの歌があっさりしすぎだって怒ってなかった?」 「あれは―――」 今宮は詰まる。 「それに」 一宮はくす、と笑う。 「あなた確か、ここのところあの方へ」 「違ーう、一宮。私じゃあないわよ。私の女房があの方へは送ってるの。女房がね!」 無論嘘である。
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「御文でございます」 紀伊国吹上では、既に二度「左大将家に仕える女房」から文が届けられていた。 「あるじの君へ、とのことでしたので…」 涼は当初、あて宮からの返事を言付かってきたのか、と思った。実際その様な書きぶりだった。 だが、目を通す彼の表情が、途中から訝しげなものに変わった。 「どう致しましたか?」 文を持ってきた女房が問いかけた。 「…そなたはこの手跡はどういう者だと思う?」 「いささかお尋ねの意味が判らないのですが…」 あて宮づきの女房と差し出し主は名乗っているが、それにしては字が稚拙だった。 「そう思わないか?」 「そう言われれば… でも若い女房が居ない訳ではないと」 それもそうなのだが。 涼は再び文を見る。 白い陸奥紙で立て文にされているそれは、ひどく長かった。しかも、理屈臭かった。 奇妙な面白さはあったが、あて宮付きの女房のものとは思えなかった。 文章全体はひどく長かった。だが内容は要約すればこれだけだった。
―――先日そちら様が姫様に送られた文ですが、ひどく関心をもたれた様子。しかしそれにしては、最近のお文はずいぶんと凡庸で。お気持ちがいい加減なものだったのかと姫様は疑問に思っております――― まあ内容は有りかもしれない、と彼は思った。女房の一存としてはあまりにも軽率であるが。 女房の一存ではないとすると、あて宮が誰かに書かせたとも考えられる。 だがそれではあて宮が軽率すぎるということになる。仲忠や行正からの手紙による彼女像に、それは当てはまらない。 しばらく様子を見ようと思い、その「女房」に「あの最初の文に書いた気持ちに間違いはない」と返事を出した。 すると瞬く間に返事が来た。 瞬く間に、である! 再び同じ「女房」から、またも立て文で、決して流麗とは言い難い字で。 彼はその早さに笑うしかなかった。そんなことが容易くできる「女房」なんて。
そこで仲忠や行正に、それとなく正頼の家族や周囲の女房について訊ねてみた。 仲頼には止した。どうやら彼は本気であて宮に恋している様だから。 では涼自身はどうか、と言うと。 あて宮に興味はある。 だが格別「欲しい」という気持ちは無い。 自分がいくら帝の血を引く「財の王」だからと言って、参内もできない現在の身、求婚したところで左大将から婿として認められる訳が無い。 それに。 彼は考える。 もし自分が左大将の立場だったら、と。 左大将はあて宮を入内させるつもりだろう。そう彼はにらんでいた。 だから文は送ったが、本気で彼女を手に入れようというのではなく、「あて宮に懸想」という催しに参加しているという気分が大きい。 吹上で知り合い、親友となった仲忠や行正にはそれが見え隠れした。 特に行正にはその傾向が強かった。 仲忠にもそれはあったが、恋愛や結婚とは別の形で、あて宮を好ましく思っていることは感じられた。 だが仲忠はその一方で、自分に軽い何かを仕掛けて来る。それはそれで涼にとっては心地よいものがあった。 あて宮と仲忠、どちらかを自分のものにしても構わないと言うのなら、涼は迷わず仲忠を取るだろう。
さてそんな仲忠からは割合頻繁に文は来る。 涼はこれをまた楽しみにしていた。 ともかく彼の書いてくる、あて宮求婚者達のことが面白いのだ。 仲忠は涼が参戦したと聞いても、本気だとは思っていないらしい。自分の見聞きしたことを実に事細かに書き送ってくる。 まるで自分と一緒に楽しもう、といわんがばかりに。 いい性格だ、と涼はほくそ笑んだ。 七月に入ってからの話題は、何と言っても滋野真菅のことである。 それ以前にも涼は真菅については仲忠から何かと楽しく聞いていた。
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宰相兼任の太宰の帥―――太宰府の長官である―――であるこの人物は、現在年の頃は六十程。九州からの帰京途中に永年連れ添った妻を亡くしている。 妻の死は無論悲しかったのだろうが、それ以上に現実的な人物だった。家の女主が必要だ、と思うが早いが、それに相当する女性を探し始めた。 そこで「左大将の大切にしている姫」のあて宮のことを聞きつけたのである。 ただ噂は噂に過ぎないので、左大将の屋敷の近くに住む女を呼び寄せて、噂の真偽を確かめることにした。 「左大将のところにはずいぶん沢山姫君が居ると聞くが、皆婿取りしてしまったのではないか?」 すると女はこう言った。 「いえもう一人いらっしゃいます」 なるほど確かに本当らしい、と真菅は満足そうにうなづいた。 「よしよし、では左大将に頼んでみるとしよう」 すると次男の東宮坊の帯刀舎人をしている者が微妙な表情になった。 「あて宮は東宮からも切にお召しになられる方です。上達部や皇子達もずいぶんあの方には御文を送られている様ですが、左大将どのは、まだどなたに差し上げるのか心をお決めにならない様です」 正直、この次男の帯刀は、「東宮」を先に出して、父親に何とかして現実を見てもらおう、という気持ちでこう言ったのだ。 冗談じゃない。あて宮に下手な気持ちで手を出そうものなら、上野宮の二の舞だ、と。 この真菅の長男は少将和政という。そう、かの「偽あて宮略奪」の際に左大将に使われた人物である。 和政は当時、自分が何を命じられたのか判らずに、言われるままに「場所取り」をしていた。 後で自分の行為がどういう意味を持っていたか知った時、身代わりになった少女のその後を思い、しばらく鬱々としていたということである。 左大将はその位のことはする。帯刀はそれを知っているから、ともかく父を止めたかった。 だがその一方で、この父は家内では何と言っても逆らう者も無い権力者である。 しかも気が短い。おかげでよく使用人も変わる。 現在居着いているのは、父と気の合う者か、はまず直接関わりの無い者か、さもなければ彼ら息子達が必死で留めた者である。 「…ともかく兄上からそのことはお聞きになるほうがいいでしょう」 「和政は左大将びいきだ。わしの言うことより左大将を優先させるだろうよ」 吐き捨てる様に言う。 「何をおっしゃいます! 仮にも親子ですよ。兄上だって父上のことはいつも心配なさってます」 「何を心配するというのだ、あの青二才が。わしの言うことに何か問題があるとでも言うのか」 あるから我々は心配なんだ、と帯刀は思うが、口には出さない。 「あの左大将は、物は貯めて持っているべきだ、とは考えない奴だろうな。そうそう、わしの荘園からの産物を贈り物にして、仲立ちの者にも腰差を与えて先方に頼む様にしよう」 荘園だったら向こうも色々持っているだろうし、そもそもその荘園自体を送る者だっているだろうが、と帯刀は思う。絹の巻物をくらいじゃあ仲立ちだってまともには動かないのじゃないだろうか、とも。 「うちにはともかく何かと物はあるのだ。何とかならないものだろうか。…いや、財があるのに何とかならないことなどない!」 当時、太宰の帥と言えば、物持ちになる最高の地位だった。 実際真菅は多くの倉を立て、任地で得た財産を所狭しとばかりに詰め込んでいた。 呼び出された女は、これは金になる、と踏んで言った。 「そうですとも。どうして先様もお断りになるということがありましょうか。私が上手く計らいましょう」 「どうやって」 「私は左大将のご長男の乳母の『中殿のおもと』という人を知っています。彼女に手引きをお願いしましょう」
早速女は左大将の屋敷へと行った。 「こんにちはぁ」 「おや、お久しぶり」 「何か全然お目にかかれなくて、私は寂しかったですよぉ。雨ばかりだから閉じこもってばかりで」 「長雨ばかりだからねえ。こうなると、殿の御子様達を遊ばせるにしても、だんだん遊びの種も無くなってきてしまって。お前のほうはどう?」 「いやもう全然! 何かいいこと無いですかねえ」 「私のほうも騒々しいばかりで。まるでいいことなぞ無いからねえ」 「お暇でしたら、ちょいとうちへいらっしゃいません? 前から考えていた畑を今日掃いて麦をさすばかりに、昨日手伝いの人達に約束したんですよぉ。ほらそれに」 ひょい、と壺を出してみせる。 「ちょっとばかりお菓子に使う粉も持ってきましたし。ねえ、何かとお喋りもしましょうよ」 「そう言ってくれると嬉しいねえ。ここには人は沢山いるんだけど、何せ私も歳が歳だからねえ。友達にできる様な人もいなくて」 「おやそうですかぁ」 「今居る若君達の乳母達も皆若い人ばかりでねえ。私ばかりがもう、貧乏で老いぼれてしまって」 「そう言えばどちらの君にお仕えでしたっけ」 「ご長男の忠純さま。左大弁の君だよ」 「それは仕方がないでしょう。ご長男の方とご一緒にお年を召してきたのですから」 とか何とか世間話をしながら女は「中殿のおもと」―――通称なかとを外へと連れ出した。
「あれあれ、何処へ連れて行くのです」 なかとはどうも行く場所が違うのではないか、と目を白黒させる。 「すみませんね、ちょいとここの殿に頼まれたことがございまして」 はあ、とため息をつきながら、なかとは真菅の屋敷へと導かれた。 真菅は早速、彼女に向かって言った。 「先日旅の途中で妻を無くしての。男一人で所在なく思っているので、そちらの左大将どのの若い姫の一人を申し受けたいと思っての」 「それは…」 彼女はどうしたものか、と思う。 しかしここで断ったところで真菅は引かない、と永年左大将家に仕え、やって来る様々な人々を見てきている彼女は考えた。 ともかく左大将家へと戻らなくてはと。 「左大将どのに仰っても、すぐには思し召し通りには行きますまい。それよりお文を頂いて、あて宮に差し上げましょう」 「おお、そうしてくれるか」 「はい」 文ならばあちこちから届いている。彼女はその一人として、この男をも処理してしまいたかった。 「私は所詮、左大弁の君に仕えている身。私の孫があて宮付きでございます。孫に持たせましょう」 よしよし、と満足そうに真菅はうなづくと、帯刀を呼んだ。 「どうしました父上」 そこに見知らぬ老女が居るのを見て、帯刀は困ったことになった、と内心思った。 「わしはこの様に独り身でいては、心がぼんやりして老い込んでしまいそうだから妻を得たいと思うが」 それはこの間言ったことです、と帯刀は内心突っ込む。既にぼんやりしているんじゃないかこの親父、という言葉は決して口には出さない。 「懸想文には歌が要る様だ」 当たり前だ、と再び息子は突っ込む。 「しかしわしは和歌の様な軟弱なものは書いたことが無い。お前書くが良い」 何で私が! と叫びださなかったのは上出来であろう。 帯刀は紙と筆を用意した。
「挨拶あって然るべき宮仕えのはじめですから、名簿も奉ろうと存じ上げております。病気が重かった妻が旅の途中で亡くなりまして、今は話相手をする人も無い私のところでは、ただもうこの様な有様です。 ――浅茅だけが繁るこの宿には白露がおくばかりで、翁の私には心寂しくもの憂いのです―――浅茅を刈り捨ててくれませんか」
「どうですか父上」 「うむ、こんなところだろう」 真菅はそう満足そうに言うと、帯刀の書いたそれを丁字染の色紙に写した。 それをちらと見る帯刀の表情は微妙に歪められて行く。 「必ず御返事をもらって来るように」 そう言って真菅はなかとに銭五貫、手引きをした女に米を二石やった。 銭五貫はなかとも嬉しかった。 絶対に真菅にはあて宮は渡らないとは思うので、もらえるものはもらっておけばいい、と思ったのだ。 自分は別に真菅の家の使用人ではない。彼にとってはあて宮につながる貴重な糸なのだから。
戻ってからなかとは早速、孫の「たてき」を呼んで訊ねた。 「あて宮さまはどちらにいらっしゃる?」 「侍従の君と御琴を弾いてらっしゃいます」 「そう。お前、人気の無い隙を狙って、これは大君の姉上さまからだ、と言って渡しなさい」 何だろな、とたてきは首を傾げながらも、言われた通りにあて宮に文を渡した。 あて宮は黙って文を開けると「きゃ」と小さく叫んだ。 たてきは女主人のその様子に慌てて文をのぞき込むと、何やら、まるで鬼の目を潰し掛けた様な筆跡で書いてあった。 「たてき! これが姉上さまの御文ですか!? なかとが何処からから持ってきたものでしょう!」 いつになくあて宮は強く言って、たてきに戻した。
真菅はその頃、女を呼んで返事を催促していた。 「ちゃんと送ったのか?」 「ええそれはもう。ちゃんとお返事をもらって来ると約束しましたから」 「では早く貰って来い」 まあ何ってせっかちだ、と慌てて女はなかとの所へ行った。 「お返事を戴きに参りました」 「お返事ねえ…」 なかとはふう、とため息をついた。 「お文というのは、どなたのお返事であっても、一度くらいでお返事がある訳じゃあないのだよ。度々の文があって、初めて一度お返事遊ばすのが普通なんだよ」 「そうですか。じゃあ殿にはそう申し上げましょう。…あ、でも。一応そういうことがあるんだ、ということを文にしていただけませんか? …ここだけの話ですが、うちの殿様、気が短くて」 そのくらいはいいだろう、と彼女は思った。 実際上達部だろうが皇子だろうが、あて宮は一度かそこらで返事は出さない。事実だ。 何も持たずに彼女が帰ったら、何か罰を受けるかもしれない。なかとは書く。
「大変いい折を見て、あなた様の仰せ事は申し上げさせました。しかしこういうことはどうして早々とお返事申し上げる方がありましょう。ご心配なさいますな。あて宮はもうご自分のものとお思いなさいませ」
女をそれを持って帰った。 真菅はいそいそとそれを開いた。が、どうも姫君の字ではない。しかも内容も。 途端、癇癪が爆発した。 「こいつはひどい盗人だ。左大将の娘の文だと偽って、他の女の文を持ってきたのだな。私を騙そうとしているのだな!」 「め、めっそうもない」 「ええい黙れ黙れ! お前にやった米二石、とっとと耳を揃えて持って来い。お上に今すぐ訴えてやる!」 そう言うが早いが、真菅は女の髪に縄をつけて後ろ手に縛り、大きな木にくくりつけた。 女は半狂乱になって叫んだ。 「何をなさいます。よく御文をご覧下さいませ! あの乳母からでございます! 乳母が姫君がお返事をしない事情を申し上げているのです!」 「何」 一度放り出した文を真菅は慌てて拾い上げ、見直す。 途端、悪鬼の様な形相が緩んだ。 そして女の元へ近づき、手づから木から降ろし、縄も解いてやった。 「いやいやいや、あの方からかと期待していただけにな、筆跡がどう見ても若い女人のものではないのでお前が騙したのかと思ったのだよ。乳人か。いやいや、許せ」 そう言って簀子に筵で席を作り、食事を与えた。 食べながらも女は気が気ではなかった。米二石と布十匹をもらっても、何か非常に嫌な感じがした。 「事が成就したら、千匹もの綾錦でもお前にやろう。今のことは忘れてくれるか」 「…頂けるのは嬉しいことですが、これから先も何かとこんなことがあるんでは、事の成就の暁にもちゃんともらえるかどうか怪しいものですねえ」 「何だその言いぐさは」 真菅は再び腹を立てた。 「だいたいお前は賎しい女のくせに何を生意気なことを言うのだ。ええい、また縛ってしまえ! お前なぞ居なくとも、こっちは物持ちだ。何とかするわ!」 「できるものならどうぞ!」 そう叫びながら女は逃げ出し、二度と顔を出すことはなかった。無論食事はきちんと平らげていた。 そして、この一部始終を見ていた帯刀は柱の陰でため息と涙を落とすしかなかった。
その後、真菅はあて宮に仕える「殿守」という老女を呼び寄せて、この事を頼むことにした。 殿守は満面に笑みを浮かべて「それはたいそう宜しいことです」と言った。 真菅は彼女綾十匹と銭二十貫を取らせた。
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…と、そんなことを仲忠はあて宮づきの孫王の君から聞いたそうである。 成る程彼女を通してあて宮周辺の情報を手に入れている訳か、と涼は納得した。 自分にもそういう女房が居れば面白いのにな、と涼は思う。
そしてまたしばらくして、話題の滋野真菅に関する新しい情報がやって来た。
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「秋めいてきましたね涼さん。海は如何ですか。こちらではなかなか面白いことがありました。例の滋野の宰相です。どうも彼、殿守に『あて宮を今月二十一日にお迎えしたい』と言った様で」
素晴らしい思い込みだ! 涼は思わず感心した。 無論、今まで返歌の一つももらった訳ではない。そんな話を聞いたこともない。 それでいて、日取りまで指定して。
「さすがに殿守も驚いた様です。しかも 『姫君の御物忌みの日はいつか』 などと聞いてくる訳だし。慌てて 『そんな急にお迎えなどなさらず、まずよく御消息なさって、御了解を得てからはっきりしたことはお決めなさいませ』 と言ったそうです」
それはそうだ、と涼は思う。
「すると帥の殿は 『何もそんな事するに及ばない。疑われる様な身分ならいざ知らず、贈り物もしようとしている物持ちだし、その上独り者だ。官位もある。何一つ御婦人がお嫌いになる様なことはないではないか』 と」
涼は思わず人目も憚らず笑い転げた。これが笑わずにいられようか。 いや確かに嫌いになる様なことではないかもしれないが。 独り者というなら自分だってそうだ。 物持ちという点でも退けは取らないだろう。 官位こそないが――― しかし官位どころか、そもそも東宮すら求愛しているというのに、そのことは全く考えていないのだろうか。 涼はこの老人の考えの偏りが可笑しくて仕方がなかった。 その偏りが、三春高基とはまた違う所が特に可笑しかった。 三春高基の偏りは一貫したものがある。 高基は「財が全てをかなえる」と思って食うものも食わずに貯めまくり、その財を現在ここぞとばかりにあて宮のために使っている。 彼は自分のやっていることは正しいが、周囲の感覚とは違っていることは知っている。だから目的のためには仕方なく合わせてもやる。 これが彼の勝負所なのだろう。好かれるためには何でもやろうという努力も見られる。筋が通っている。 しかし滋野真菅の場合、自分の思いこみが間違っているなどと全く思っていない。そこが可笑しいのだ。 仲忠は続けている。
「殿守は、ともかく帥の殿を抑えようとして、 『ええその通りでございます。どうしてあて宮のご両親がお許しにならないことがございましょう。ともかくまず御消息を』 と文を出すことを勧めたのです。で、彼には子が何人か居るのですが、そのうちの蔵人や木工の助に、 『お前達の継母君になる方が珍しいと思うような歌を一つ作ってみよ』 と」
何でそこで子に頼むんだ! と涼は突っ込みたい衝動にかられた。
「蔵人は笑って 『自分のためなら色々作るんですが、格別人が誉めてくれたことは無いんですよ』 とかわしました。では誰が、と問いつめられて彼は兄の少将帯刀を指名した訳です。帯刀は 『簡単なことです』 と言ってさらさらと書いたそうです。 『つねづね仲立ちしてもらっている者に申し上げさせておりましたが、最近おいでいただくことになっているところを掃除し綺麗にするためにご無沙汰申し上げました。 早くこちらへ来る心づもりをなさって下さい。すぐにでもお目にかかって、細やかなお話もしていただこうと、お待ち申し上げております。 さて歌を詠むということは若者のすることで、私らしくありませんが、若い者が文を書く時にそれで色をつけると噂に聞きますので、私も一首。 ―――あなたを恋い慕うので、老いの涙が積もって滝になり、髪も滝の様に白くなりました―――』 それで内々での取り次ぎに立っている宮内の君には、絹や綾を心付けに取らせたそうです。しかし宮内の君も不運ですね」
全くだ、と涼は思う。 三春高基の取り次ぎも、彼女がやっているはずだ。仲忠はそう書いていた。 宮内の君にしてみれば、断る訳にもいかず、さりとて、まじめに取り上げられる様な方々でもなく。 とりあえず物はくれるというからもらっておく。貰わなければ貰わないでまた何かとごたごたが起きるのだ。 そしてそんなことを彼女はよく孫王の君に愚痴るらしい。 孫王の君は歳下だが、左大将の信頼が大きい。 気も利いて、何かと疲れている様子の宮内の君を労ってくれるので、その時ついつい本音が出てしまうのだろう。 孫王の君からすれば、自分の大事な大事な女主人に近づこうとする妙な懸想人を警戒しての行動なのだが、宮内の君はそこまで気付かないらしい。 そして仲忠がそこから情報をもらい、涼に流している訳だが。 全く都人というものは面白い、と涼は思う。 ちなみに彼は、今まで聞いた懸想人の中で、実忠が一番奇妙だ、と思っていた。 無論この真菅や三春高基、それに上野宮も奇妙な人々である。 だがこの三人があて宮を得たいという理由は非常にわかりやすい。そして打算的だ。 「左大将の愛娘を自分の正妻に」である。 気持ちはそこには存在しない。そこに恋心は存在しない。 妻に欲しい」と「好きだ愛しているあなたが欲しい」とは別物なのだ。 では実忠はというと。 仲忠曰く。
「実忠さんは恋に恋している自分に溺れている様に見えます」
最初それを聞いた時、涼は首を傾げた。 まだそれは、吹上の頃だった。雑談の中で実忠のことが出たことがある。 「彼も当初はあて宮を得ることが目的で文や贈り物をしていたのでしょうに、今では彼女を恋い続けることそのものに必死になっている様に見えます」 「恋い続けることに必死?」 「苦しいその状態が気持ちいいんじゃなくちゃ、僕だったら嫌ですよ」 仲忠はあっさりと切り捨てた。 「だって彼は元々左大将どのの甥ごどのだもの。僕等よりずっとあて宮に近い訳ですよ。今なんて全然家には戻らずに、婿じゃあないけど、左大将どのの屋敷に住み着いてるし」 「ええっ? でも住み着いているなら」 「そう。いくらでもその気になればあて宮の寝所まで近づくこともできるでしょ?」 全くである。 「忍び込んで既成事実を作ってしまえば、実忠さんだったら左大将どのだって許しますよ。東宮さまだってそうなったらそうそう手も出さないでしょうに」 「でも彼は、それをあえてしない」 「そうなんですよ」 肩をすくめ、仲忠は呆れていた。 「だから僕は思ったんですね。実忠さんは、あて宮が欲しいのではなくて、あて宮を追いかける、この苦しさという奴が大好きなんじゃないかなあ、って」 「私には理解できないな。苦しいのが好きだなんて」 そう言うと、仲忠はくすくすと笑ったものだった。
そんなことを思い出すと、無性に仲忠が恋しくなる。 いっそ都に出てみるか。 だがすぐに「駄目だ」という思いが鎌首をもたげる。 上京を考えたことが全く無い訳ではない。先日友達になった三人のことを思えばすぐにでも飛んで行きたい程だ。 だがやはりこの地で生まれ、過ごした日々は長い。長すぎた。 旅立つには少しばかり背中を押してくれる何かが欲しい。 仲忠の文は、少なからず自分の背中を押してくれるものだった。
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