母宮の複雑な思いを知ってか知らずか、それからも懸想人達は次々とあて宮に文を送って来る。
神楽が終わって戻ったあて宮の元には、まず東宮から歌が届いていた。 「まあ可愛らしい」 今を盛りの常夏の花に文は結びつけられていた。 「―――ただ独り寝をしている床/常夏は、いつも居心地のよくないものです。…今では生きていることさえ嫌になってきます」 東宮さまにここまで、と孫王の君はため息をつく。 あて宮は返す。 「―――毎晩新しく白露が置く常夏を、いつになったら一人でご覧になる折りがあるでしょう。毎晩女君が立ち替わり侍っておいでになる床に、一人居たなんておっしゃっても信じません」 はあ、と女房達は別の意味のため息をついた。
*
それからしばらく経った、ある晴れた暑い日のことである。実忠から文があった。 「―――夏の烈しく照る日に草木が焼けて色が変わるほど、大空も私のように思い悩んでいるのでしょう」 いつものことだがしつこいなあ、と側で聞いていた今宮と一宮はうんざりしながら扇をぱたぱたとさせる。 あて宮は返す。 「―――いつの間にかどこの宿にも入って照る日には、あなたでさえ負けないとどうして言えましょう。日ほどではなくとも、通いどころなら、幾らでもおありでは」 うわ、寒、と今宮は思わず震え上がった。
*
またある時、夕立が烈しく降る夕暮れに、兵部卿宮から文があった。ちょうど居合わせた大宮は、はらはらしながら娘の様子を伺っていた。 「―――文を差し上げる様になって久しくなりますが、あなたはどんどん冷淡にお成り/鳴りで、鳴る神の響きにさえあなたは平気で何ともお思いにならないのですね」 あて宮は素っ気なく。 「―――おっしゃる通り鳴る神がどんなに響いても、冷淡な人は一向驚かないで、雨雲だけが騒ぐようでございます」 外では今、この時にも雷は鳴り響いていて、あて宮の小さな妹達や、気の弱い女房などは、隅の方で固まっては震えている始末である。 ざあざあと降り続く雨に混じり、時々青白い光が御簾越しに入ってくる。それをあて宮は悠然と眺めている。 「…姫様は大丈夫なのでございますか…?」 帥の君は娘にすがりついて震えている。 「何をです?」 あて宮は問い返す。 と、その時一段と光が激しく差し込んで来た。 「きゃ」 女達の声がその後に響いた。 大宮も怖い。 が、彼女は恐怖をそのまま表情に表すことはない。少しばかり身体を震わせるばかりである。 それでも怖いことは怖い。 だがあて宮は違う。 「本当に…あてこそ、そなたは怖くはないのですか?」 「…特には。むしろ綺麗だと思っています」 うっすらと微笑んだ娘に、大宮は薄ら寒いものを感じた。
夕立の後はからりとした陽気が続いた。 そんな折り、兼雅から洲浜が送られてきた。海に臨んで漁人が立っているという図だ。 「お歌が書き付けられていますわ」 兵衛の君が見つける。 「―――海の底に海松藻(みるめ/見る女)が生えていますから、私は深い(女の)心を信頼します」 ふうん、とのぞき込んだ今宮は肩をすくめる。 「まあ確かにあの方だったら、女の方は色々見て来ているでしょうけどね」 「仲忠さまの母君に定まったのなら、見る目はあるのではなくて?」 一宮が口を挟む。 「そういう人が何でまたあて宮に懸想するのよ」 「それもそうね」 そんな二人のことなど気にせず、あて宮は漁人が魚をとっている洲浜にこう書いた。 「―――すなどりをする漁人はどういう人でしょう。海と言っても、どこの海に生えたみるめなのですか。…どうも私とは何の関係もないようで」 「私は関係ない方がいいと思うなあ」 一宮はつぶやいた。
*
また別の日には、平中納言から文が届いた。 「―――私はほんのちょっとの間でもあなたにお会いできたら心が慰められるだろうと思いますが、その僅かな時さえ与えられないのが侘びしいのです」 「私ねえ」 今宮は微妙な色合いの薄様に書かれた、滑らかな手跡の歌を見て言う。 「この方が一番どうでもいいと思うのだけど」 「あらなぁぜ?」 「だってあの方、もう東宮さまのもとに姫君を送ってるじゃない。今更お父様との関係を強めようってことにしても」 「今宮ぁ… そんなこと、私はよくは判らないわ」 一宮は困った顔で同じ歳の叔母を見つめる。 「私はよく考えるけどね」 脇息に肘をつき、にっと今宮は笑った。 「あて宮のことを本当に好きで懸想しているのは誰かしらって」 「皆そうではないというの?」 「まさか」 は、と口元をゆがめる。 「皆『左大将が大切にしている姫』ってことだけで期待するのよね。無論先に婿取りなされた姉様達だってそういう噂は流れた訳だけど」 「あなただって今に流れるじゃないの?」 「私結婚なんてしたくないもの」 「したくないしたいの問題じゃないでしょ。するものだし、お祖父様とお祖母様がお決めになることだわ」 「…まあそうかもしれないけど。でも私は好きな人がいいわ。一宮もそうじゃない?」 「…それは…そうだけど」 一宮は真っ赤になって口ごもる。 *
お祓いに、と難波の浦へと下った仲忠からも文があった。 「―――恋に惑いながら、恋を忘れようと忘れ草を摘みに来ましたが、住吉には生えていませんでした」 孫王の君はそれを見て「ああよく出来た歌だなあ」と思う。少なくとも彼女のよく知る彼の本心ではない。 彼女の知る仲忠は「時候の挨拶でなおかつ定型の懸想の歌」というものを本気で詠む人物ではない。 彼と逢う時、彼女はこう思う。 まるで子供だ、と。
彼女の丸い大きな乳房を愛撫する時の唇は、幼子のそれを思い出させる。 「あなたはいつかそれでも何処かの素晴らしい姫君と結婚なさるわ」 あて宮にはその様な気持ちは持っていないとしても。 「それは仕方が無いことだからね」 「私はただ、あなたがその時のお相手と、幸せな家庭を作って下さることを願いますわ」 「そんなことを言って。あなたは僕と離れたいのだろう?」 そう言っては彼女を腕から離さないあの青年は、孫王の君の本気を本気と取らない。彼女を正式な妻にする気など一欠片も無いくせに。 彼女は「右大将家の侍従の君」の正妻にはなれないだろうが、妻の一人くらいにはなれる身分である。 宮家の姫であることには間違いないのだ。―――それが奇人で知られる上野宮であろうと。 それでも彼女は自分の未来にその姿を見ることはできない。 何故だろう。 時々思う。 この人はこんなに自分を求めてくれるのに、と。 だがすぐに答えが出る。 自分は彼から求められているかもしれないが、彼の周りの人々からは求められないだろう。 できればこの仕えている左大将家の姫の一人と結ばれてほしいと思う。 彼女のその意識の中には、女一宮や女二宮も含まれる。孫王の君にとって、彼女達は皆まとめて「左大将家の姫君」だった。
「姫様、お返しは…」 孫王の君は問いかける。 「―――住吉は移り気な方が心にかける岸ですわ。恋の忘れ草ではなく、相手の方を次々に忘れるための人の忘れ草を摘みにいらっしゃるのでしょう」 おや、と孫王の君は思う。 「ずいぶんとあの方にしては素っ気ないお返事ですね」 あて宮は首を傾けるだけで、何も答えなかった。
*
「何ですって、あの紀伊国の方からまたお文?」 今宮が慌ててあて宮の元に飛び込んできた。 「今宮さま!」 「まあ何って勢いで!」 「だって『あの』お文をあて宮にくれた人よ。次はどうだって思うじゃない」 満面に笑みを浮かべ、興味津々で今宮は姉に近寄る。 「今宮どうしたんだ、騒々しい…」 暑気あたりでうとうととしていた仲純は、ふと外の騒々しい気配に目を覚ました。 と、簀子を妹の一人が袴の裾も絡げて走って行くではないか。 「お兄様、起きて大丈夫ですの?」 几帳の向こうからあて宮の声がする。 はっ、とそこで彼はあて宮の部屋の側であることに気付いた。今宮の後をふらふらと追いかけたら、ここまで来てしまったのだ。 「あ、ああ… こんな格好で済まない」 「そんなこと!」 今宮は几帳など立てずにこの兄に接する。素顔で話しかける。口元に扇などあてはしない。 そもそも姫君が「走り回る」なぞ尋常ではない。 深窓の姫君というものは、ひなが母屋の真ん中で女房達に傅かれ、かしづかれ、かしづかれ―――ているだけである。 それが「姫君」に生まれてしまった者の役目と言ってもいい。 同じ「姫君」生まれとしても、孫王の君のように途中でその役目から下ろされた者は、立ち歩き何かと仕事をしなくてはならないが、今宮はそうではない。 それに加え、好奇心は満載である。 あて宮の深窓ぶりに反発してなのか、今宮は時々「姫君」としては困りものな行動を取る。 女房達もまた、そんな主人をよく知っている。 今宮を「らしくない」「嫌だ」と思う者は他の女君のところへ行き、逆に「面白い」と思う者はやってくる。 結果、それぞれの姫君の元の女房は、その姫君に合った者となる。 その今宮の女房達は情報通である。 しかしその情報通を手の内に持ちながらも、彼女は兄があて宮に懸想していることを知らない。 同母のきょうだいがその様な気持ちを持つことを想像すらできない彼女には、仲純を懸想人の中に入れて探ることはできなかったのだ。 「ねえねえお兄様、今紀伊国の源氏の君からお文があったんですって」 「…紀伊国… というと、ああ、仲忠や仲頼達が行ってきた所の」 「聞いて下さいなお兄様! その方、あて宮に以前お文下さったんだけど、それが結構失礼だったのよ」 「ほぉ…」 仲純は軽く眉を寄せた。一体この妹に、どの様な失礼を。 「で、今日のは… ――常の月よりも、夏越の月が私にとって侘びしいのは、五月の様に忌み月ではないということです。…あなたに会えないのも忌み月のせいに出来るのに」 ん? と今宮はもう一度目を通し直した。 「…何か今回はずいぶんとまともなお文じゃない」 「そうだね。ちょっと貸してごらん」 そう言うと仲純は今宮の手からその文を取り、筆を借りると端にこう書き付けた。 「―――人はどうであれ、私は夏越の月を頼みにしました。瀬毎にする祓いに恋忘れをするかと思って」 返すよ、と兵衛の君を介してあて宮に渡す。几帳の向こう側からは何の返事も無かった。 一方、今宮は涼からのその文に何となく物足りないものを感じた。 もっとも以前の文に返事が無かったことに「今度はよくありそうな歌を」と思ったのかもしれない。そう考えることもできる。 「どうしたんだい? 今宮。さっきはあんなに騒いでいたのに」 「…何でもないわ」 兄の言葉にぷい、と彼女は横を向く。 そう、あんなに騒いだ自分が何となく可笑しくなる。どうして自分は。 「今宮さまは源氏の君がもっと面白いことを言って来なかったかと期待してらっしゃるのですよ」 「面白いことね。…まあそんなに、男の恋心を笑うものではないよ」 「笑ってはいませんわ、お兄様。私にとってあて宮は大事な大事な姉ですから、ちゃんと好きになってくれる方じゃあないと嫌だと思うだけよ」 「それはそうだ。だがね今宮、好き嫌いだけで物事が進んだら、苦労はしないだろう」 「そうでございますよ」 口を挟んだのは、普段はそう前に出てくることがないやや年かさの女房「宮内の君」だった。 「珍しいわ宮内さん。最近結構引っ込んでらしたと思ったけど」 「色々ありまして」 宮内の君は、露骨に不機嫌そうな声を立てる。 確か彼女も誰か懸想人との取り次ぎをしていたのではなかったか、と孫王の君は思う。 「何か困っていることでも?」 問いかける。 すると宮内の君はいえいえ、と手を振る。だがその一方で、目は自分にすがっている様に孫王の君には思える。
*
宮内の君は実際困っていた。 彼女が取り次ぎを頼まれている懸想人は三春高基という。 彼は、さる帝が低い身分の女に生ませて「三春」の姓を与えて臣下に降ろした者である。 血筋としては悪くは無い。それこそ源氏の君の涼と同等だろう。 彼は臣下の一人として、懸命に働いた。 国守として、ある程度の財が貯まるまで結婚もしなかった。 いや、それだけではない。何かの用に貴族らしく人を使うということすらしなかった。 遠国にある時には、それでも何かと人は使ったが、その報酬は何も与えなかった。 自分自身の食い扶持としては、三合の米を、大事にしまってあるところから出してきて食べていた。 仕事は完璧にこなした。公のものは当然だが、私財を肥やす手際も非常に良かった。 結果、一国を治めるごとに大きな倉が立った。六国を治め終わった頃には大層な富が貯まっていた。 彼はその富を朝廷に分けて納めたことで、宰相兼左大弁の地位を手に入れた。その後、中納言兼大将にもなることができた。
…のだが。
京に移り住む様になっても、その吝嗇ぶりは変わることが無かった。 他国ならいざ知らず、都である。食べるものも着るものをやらないのでは、仕える人が居る訳がない。 だが当人は一向に気にしない。 例えば内裏に参上する時の車。 車体が何の飾りも無い板づくりの、しかも輪が欠けている車に、痩せた貧弱な牝牛をかけて、牛飼にも小さな女童をつけるだけ。 しかもそこには普通なら組緒をつけるべきところも、縄で済ませる始末。洒落た御簾ではなく、伊予簾の編糸が切れてほつれたものを板屋形に掛けていた。 そしてその中に乗る当人はと言えば、手作りの麻布―――麻である!―――を薄紫の袍や下襲、上袴にして身につけていた。 それに大将である彼は、参内の際には決められた数の随身や舎人を従えなくてはならない筈だった。 だが彼は「そんなことすれば費用がかかる」とばかりに、童子に飾太刀の代わりに木の太刀を付けさせ、古藁で作った靱に篠の葉を集めて挿させ、木の枝に細枝をすげて弓だと言って持たせた。 さすがにそんな格好で参内する彼を見た者は、笑わずにはいられなかった。貴族だろうが庶民だろうが。 だが彼はそれを続けた。 自分が間違っているとは全く思っていなかった。 その自信が彼を剛胆にさせた。どれだけ嘲笑を浴びようと、全く気にせずに平気で朝廷へ現れ、人々と交わった。 実際彼は政治に関しては実に才能があった。暴れる兵も獣も、高基の前には平伏したと言われていた。 そんな訳で朝廷の方も、これだけ有能な者だと、見かけや挙動が可笑しかろうと見捨てられなかった。 結果、彼は大臣にまでなった。 しかし大臣にまでなると、さすがに独り身では困った。 そこで彼も妻をもらうことにした。 とは言え、吝嗇家の彼が求めたのが普通の妻である訳がない。 彼はこう希望を述べた。 「費用の掛からない妻が欲しいなあ」 そこで「徳町」という名の絹倉の集っている市に住む富裕な商人の女を娶って北の方とした。
さて妻はごくごく普通の常識を持った人間だったので、何かと彼の行いを見ては口を出した。 「いくら何でもこの車や装束はひどすぎです。それに、費用がかかるから人も使わなくてもいいとおっしゃりますが、あなたは大臣ですよ。既に幾人かの人がぜひ仕えたいと言って、あなたに名簿を送ってます。そこからでしたら、格別な報酬をあげなくともいいのでは? それにこんな小さな女童だけだなんて、いくら何でも見苦しいです」 ずけずけという妻に「成る程」と思った高基は言う通りにした。 そんな風に彼も人を使う様になったのだが。 ある日徳町が市に出ていて居ない日に、侍所から「酒の肴がありません」という訴えがあった。 それを聞いた高基は正気を失う程に驚いた。そしてつぶやいた。 「…こういうことがあるから、今まで人を使わずに来たのだ。新しい供人は十五人。漬豆を一莢宛出すとしても、十五になる。その豆を出さずに畑に蒔いて実をならせればずいぶんなものになるというのに! 豆だけじゃあない。むかごでもそうだ。雲雀の干し鳥だってそうだ。生かしておいて、他の鳥をおびきよせる囮に使えるものを!」 ぶつぶつ言っているうちに徳町が帰ってきた。 「どうしたのですか」 そう夫に問いかけると、彼は怒って言い返した。 「お前の言うことを聞いて、大勢の者を供人にしてしまったせいで、私は物の催促という奴を初めて受けてしまったじゃないか」 それを聞いて徳町は「はあ」とため息をついた。 何て人だ、情けないやら可哀想やら、何とも言えない気持ちが彼女の中にむくむくと湧きだしてきた。 「奴等は酒を買って、肴を頼んできた。それを聞いてもうわしは…」 徳町はもう笑うしかなかった。はしたないとされる、爪弾きまでしてしまった。 「全く、これだけのことに何を呆然としてるんですか。あなたと違って低い身分の私だって、そんなこと思いもしないというのに!」 そう言って徳町は納戸を開けて、果物や干物をすっかり出してしまった。 それを見た高基はもう全身の力が抜けてしまったかの様になり、何も言うことができなかった。
さてそんな吝嗇家の高基の住む家は、と言えば、七条大路の二町四方の屋敷であった。 が、実際に彼が寝起きするのは三間四方の萱葺きの家である。 その片方は建て付けが悪く、戸を開け閉てしようとすればがたがたと鳴る始末。 また片方には蔀の代わりに何かを編んで垂らしたもの。 萱屋の外には檜垣を巡らし、長屋が一つ。そこが侍や小舎人所となっている。 そして何と言っても、畑である。酒殿の窓際の方まで続いている。 この屋敷では、上も下も皆、鍬を取って畑を作らなくてはならなかった。もっとも自身では鍬を取らなかったが。
さて、とある日、屋敷を見た人が彼に言った。 「いやこんなことはあり得ませんって。ここまで畑だなんてもう。悪いことは言いません。沢山倉もあるのですから、その一つを開いて、立派な屋敷をお作りなさい。世の中の人々も、あなたの吝嗇ぶりにはあきれ返ってますよ」 すると高基は言い返した。 「は。それじゃああなたはあの左大将の所の様に、豪勢な家を作り、婿を沢山取り、彼らに尽くせとおっしゃるのか? とんでもない。あ奴は確かに立派な大殿を建てたけど、それに相応しい奴か? 物は何かと分け与えるのではなく、蓄えて、その金で市に出て商売する方が賢いじゃあないか。わしはこんな住まいをしているが、民を苦しめたことはないぞ。富を世間に回すこともない奴こそ、民を苦しめているじゃないか」 と開き直る始末。
そんな彼がふとしたことで小さな病を得た。 徳町は病気快癒の祈願をさせようとしたが、高基は費用がかかると言って、断固としてそれを許さなかった。 食欲が出ず、橘を一つくらいしか口にできなかったが、それでも「うちの橘なんてもったいない。よその橘を一つくれ」と妻に頼む。 さすがに呆れた徳町は、この家の橘をよその物と偽り、食べさせていた。 ところがある日、五歳になる彼らの子供がひょんなことからそのことを高基に告げてしまった。 だまされて、自分の家の物を食べていたことに、衰弱した高基はあまりのことにぼんやりとしてしまった。 それを見た徳町は、憐れも呆れも一気に通り越してしまった。 幸い病気は大したものではなかったので、命に別状もなく、高基は治った。 だが徳町はさすがに愛想を尽かし、出ていった。 「いくら身分が高くたって、これじゃあやっていられない。私が商売をして皆を養ってるようなものじゃないの。だったら分相応の夫を始めっから持つんだったわ」
さて妻が居なくなった後も、それまでの様に仕えていた人々は何かとご機嫌伺いや、「肴がありません〜」などと催促してきた。 そこで高基は思った。こんな身分があるからいちいち人を使わなくてはならないのだ、と。 そう思うと彼の行動は素早かった。 「才能もないつまらない自分が大臣の位にあるべきではありません。山賤を従えて田畑を作ろうと思います。つきましては、近畿以外の国を一つ頂けないでしょうか」 朝廷は「それもそうだ」と聞き届け、彼は美濃の国をもらった。
ところが、である。 この高基が、あて宮の噂を聞いた途端、いきなりその生活を変えてしまったから、世の中というものは判らない。 求婚するにあたって、ひどい噂が伝わってはたまらない、と四条に大きな家を買い、金にあかせて改装した。 調度もできるだけ贅沢なものを選び、身分の高い人の娘を沢山使い、召使いだけでなく、自分自身も綾などの高価なものを着、錫の食卓や金の坏で食事をする様になった。 準備万端、とばかりに彼はあて宮のもとに居る宮内の君に渡りをつけ、こう言った。 「そちらの姫君を北の方にお迎えしたいと思ってはいたのだが、憚って、今まで申し上げることもできず。今はこの様に妻もなく一人住まいなので、おそれ多いことだとは思うのだが、あて宮においで頂けないだろうか」 「はあ」と宮内の君は何を突然と驚いた。彼女とて、高基の噂は知らない訳ではない。 「いや、身一つでいらしてくださればいい。官は返したものの、うちには物ばかりは沢山ある。時を得た上達部でも貧しいものでしょう」 宮内の君は何と言っていいのやら、と思いつつも返す。 「…ま、まあ、それは、うちのご主人の方にもお姫さまは沢山いっしゃることですし…ですが、その…大人の生活としての、北の方になさる様な方はまだいらっしゃらない様で…」 「あて宮はそうではないと」 「あ、あの方は、ご両親の方も、お嫁に出そうという決心がなかなかおつきにならないご様子で…」 ふーん、と高基は言うとじろりと宮内の君を見た。 確かに吝嗇家で、自分の財のことで妻にも見捨てられた男だったが、一度決めたことに関しては強かった。その眼光に宮内の君はびく、と身体をふるわせた。 「で、でも、ええ、あなた様がお望みだということは、お伝えいたします。はい」 「それはそれは。それではあなたの厚意と感謝をまとめて返さねばならぬな」 そう言って高基は、大きな衣箱に美しい絹や色々に使える真綿や蚕綿を入れて渡した。 「これは美濃の国のものでな。前々の国のものもたんと倉にはある」
返事をして物までもらってしまった宮内の君は非常に困った。 幾ら何でも主人方があて宮をこの人にやるとは全く思えなかったのだ。 実際、その後正頼と大宮に一応話を出し、この先何かと贈り物などあるかもしれない、と言うと、二人は大笑いしたものだった。 しかし高基は本気だった。 宮内の君はもんもんと困った困ったと言いつつ、贈り物を受け取り、「伝えてくれたか」「文を頼む」「お返りは」とせっつかれても、どうしようもない自分に困り果ててしまうのである。
高基は、他の懸想人達の様に歌を送りはしなかった。 考えもしなかったのかもしれない。宮内の君に頻繁に贈り物の言付けを頼んでいくだけだった。 正頼は「よくあることだ」と物は物として受け取っていたが、格別の返事も出すことはなかった。
そんな正頼の様子にしびれを切らしたのか、高基はある日、宮内の君を文で呼び出した。 行きたくはなかったが車まで用意されてしまったからには仕方がない。宮内の君は鬱々としながら出向いて行った。 高基は早速訊ねた。 「最近、左大将一家はどんなご様子だ?」 はあ、と宮内の君は一度気のない返事を吐く。 「格別変わったこともございません。先日御祓いをなさって、間もなく夏の御神楽をなさいました」 「何処でだ? 誰がそこにはやって来た?」 「西河の河原です。右大将さまの桂殿のそばでなさいました。集まった方々は、屋敷にお棲みになっている男君方、それに兵部卿宮さま、右大将さま、源宰相さま… 殿上人はいつも通りでした」 「それはずいぶんと大がかりなものだったのだな。そういうことと知っていたなら、心ばかり酒の肴を用意してお伺いするのだった」 来なくていい! と宮内の君は内心つぶやいた。 と同時に、その様な心遣いを見せようとするなど、ずいぶんとこの方も変わられたものだ、と思った。 だが。 「…大体、左大将はそういう風流者ばかりを集めて浪費をするから世間から謗りも受け、費用もかさむのだ。近衛府は物を横からさらい取る盗人の集まるところか? 左大将の衣を剥ぐ様にして取ったり、飯や酒を探してまで飲み食いするなんぞ」 ああ変わっていない、と宮内の君はこの後に続くだろう言葉を想像するだけでうんざりする。 「それに左大将が迎えた婿というのは、皆風流者か馬鹿ばかりじゃないか」 「…」 「皆、生きて暮らすということがどういうことか判っているのか。音楽に長け、和歌も少しでも人から謗られまいとする。仮名を書き和歌を詠み、綺麗な女ならどんなことをしても探し求めて言い寄り、笑う人が居ても気にしない。私の様に田畑を作り、商いをし、そうやって働いて物を貯め、暮らしを立てている者を呆れて口を開けている様な者を左大将はどうして婿にしなくてはならなかったのだ!」 それは単に貴方様が常識外れなのです、と宮内の君は内心つぶやく。 高基は続ける。 「娘に夫を持たせる親も、結局のところ、娘が独り住みでは貧しく頼るところもなくて、やがて親の迷惑になるからではないか。左大将のやることは、婿取りの本意に背くというものだ」 さすがに宮内の君もそれには笑った。何を笑う、とじろりと高基はにらむ。 「端からご覧になったらそうかもしれませんが、婿君達は裕福で、勢力もおありです。沢山の宝物を散らす方法も無い程でいらっしゃる様です」 「宝物か」 ふん、と高基は鼻を鳴らす。 「物というものは、そもそも家や倉に一杯になるほど積み重ね、取り出さずにおくのが頼もしいものだ。まあ左大将やその婿達が裕福と言っても、今の権勢のおこぼれをもらおうとする奴らから荘園の産物や贈り物であふれているということだろう。それにしたって、何かと物詣だの神楽だの、派手なことばかりして使ってばかりだ。今からでも遅くはない。そういう当てにならないことは止して、しっかりとした頼みになることをすればいいんだ」 はあ、と宮内の君は生返事をする。 「現在の世間でその様な点で頼もしい婿と言えば、わしを除けば、滋野の宰相くらいだな」 「滋野の宰相ですか」 類は友を呼ぶとは良く言ったものだ、と宮内の君は思う。 「お年は多少召してらっしゃるが、それでも七十は越えてはいないだろう。お心は円満で」 そうか? と宮内の君は内心突っ込む。 風の噂で、早合点で縛られて折檻された者が居ると聞いているのに。 「しっかりなさっていて、浪費はなさらず、貯蓄ということをきちんとよく心得て、難の無い方だ。この方か自分が、あて宮を妻にするにふさわしいというものだ。なのに、惜しいことに、評判のいい九の君に、例のように平凡な婿選びをしようとしているのだな。左大将夫婦に言ってくれ。娘は若いときに、貯蓄し生活に心得のある人について、やがて一家の主婦となり、家の中に欲しいものは何でもあるという様な人の所へ行くのが将来頼もしいのだと。子孫が衰える様では、大抵自分も貧乏になるのが関の山だと。浮ついた気持ちから宮仕えなどする人は、時も場所もわきまえず、亡き親の名誉を傷つけ、末々まで上手くいかないものだと」 それはまた、あんまりだと宮内の君は思う。 「だからあて宮は、ここへお寄越しなさい。左大将に心配はかけない。子の代孫の代まで安心して暮らせる様にしてあげよう」 宮内の君は一度ふう、と大きく息をつくと、言葉を切り出した。 「以前にも大宮様に、あなた様がそうおっしゃっていると申し上げました。ただ今そちらは北の方もいらっしゃらないし、どなた様でもお一人お上げ遊ばしたら、と…。すると大宮様は『本当に殿の北の方として差し上げるのは似合いだと思うが、さしあたってそのと年頃の娘が居ないのが残念です』と」 「またその様なことを!」 「それに東宮さまがあて宮さまを是非に、とお望みになるので…」 すると高基はちっと爪弾きをし。 「運の無い方だ。その東宮をどういうお方だと思っておられるのか。今は右大将の息子の仲忠とか言う者をずいぶんとお気に入りにされて、昼も夜も召しているそうではないか。仲忠は東宮に参内して何をしているというのだ。親からもらった美しい着物をまとい、見栄えばかり良くても、将来の頼みにはならない人だ。一緒に居れば東宮までそう言われてしまうだろうよ。大体この仲忠とか言う奴が、東宮に悪知恵をつけたのだ。仲忠はまだ何も判らない浅はかな者だ。格好ばかり一人前で、従者を召し使っていようが、その見栄えが良かろうが、それが何だという。家の内に財宝がないからと言って、器量を倉に積むか?」 宮内の君はそれには答えない。 「まあ、左大将があて宮を心配するのも、親子の宿世だ。たとえ国王や東宮に奉ったとしても、それは必ずしも幸せじゃない。真の幸せがあるのなら私の所へいらっしゃるだろう。だから宮内よ、よくよく申し上げてくれ」 そう言って高基は、無骨な古めかしい箱二つに、東絹と遠江綾をそれぞれ入れて、鄙びた紙に文をしたためて添えた。 「…ひそかにあなた様に実を尽くして長年になりますが、あなた様が私のよばい文を御覧下さらないのを心に嘆いております。自然、あなたにお仕えしている人が申し上げるでしょう。私の所にはあなたが不安に思う様な女も居りません。ただあなたを高い山とのみ崇めてご信頼申し上げましょう。必ず御顧みいただきたく存じます。さて、この贈り物は少しばかりですが、あなた様の下仕達におやりになる様にと存じまして」 宮内の君は銭をもらって左大将の屋敷まで送ってもらったが、何とも言えない気分だった。
|
|