「それでは行って参ります、父上」 「うむ、しっかりとお役目を果たしてくるのだぞ」 四月の中の酉の日―――賀茂祭がやって来る。 この年は左大将家から祭の使が出立することとなっていた。 近衛府の使には、左大将の三郎、中将祐純が。 内蔵寮の使には兵衛佐の勤めの他にこの部署の頭を勤める行正が。 馬寮の使には式部卿宮家の馬頭の君が。 左大将は祐純に、冠にかざす桂をあげながらこう歌を詠む。 「―――まだ生まれたばかりの双葉の桂の木だと思っていたお前が、何とまあ、かざしにする程/勅使に立てる様になるまで、立派に成長したことだな」 「―――幹はしっかりと高い桂/父上という大きな木であるというのに、今日私という桂の枝を見た人々は、元木に比べてさぞ枝は劣っていると見ることでしょう…」 祐純も謙遜しながら父に返す。 「桂殿からも祝いの品が贈られてきている。見るがいい」 兼雅からだった。 立派な馬が二頭、それに金細工の桂の枝に付けた小さな壺に、桂川の水を入れたもの。 また美しく着飾った三十人もの舎人が採物歌を披露する中、兼雅の代理でやってきた仲忠が歌を伝えに来た。 「いやあ、まあこれだけのことをしていただくなど、私も立派になったものですね」 祐純はそう言って笑った。 勅使の三人が出立した後は、見物の車の用意に屋敷中が大わらわである。 大宮をはじめ、女君達は十台もの車で息子の、きょうだいの晴れの姿を見ようと一条大路へと向かった。
* 女君達が三条殿へと戻ってくると、あて宮宛に、沢山の文が届いていた。 「…いつもながら凄いものね」 今宮は山と積まれたそれに呆れる。 「あてこそ、いつもつれない返事しかしないと女房達が嘆いているが、さすがにこれにはきちんとお返事なさい」 中の一つを正頼はあて宮に渡す。東宮からだった。 「―――賀茂祭にかざす葵/あなた自身を、今年からは摘んでもよろしいか?」 見向きもしない訳ではないが、すぐには返事を書かない娘に「必ず」と念を押し、正頼は娘達の前から立ち去った。 するとうるさい父親が去った、とばかりに少女達はわっとあて宮のもとに群がる。 「皆、まめねぇ」 一宮はほとほと感心する。 「あて宮が返したり返さなかったりするからよ。返しても冷たい言葉ばかりだから、逆に皆燃えるんじゃないかしら?」 今宮は容赦なく男達を評する。 「そんなもの?」 一宮は少し拗ねた顔で問い掛ける。 「そんなものでしょ?」 問い掛けられた方は、今度はちご宮へと振る。 「どうかしら。でも確かにあて宮のお返事で、色好いものなど、見たことが無いわね」 そうじゃなくて? と姉は妹に問い掛ける。すると。 「色好い返事など、どうしてしなくちゃいけないの?」 珍しい、と今宮は驚く。あて宮が即座にはっきりと返すことは滅多にないことだ。 「決まり事の様なものでしょう? ねえ木工?」 は、と側に控えていた木工の君がうなづく。 「必ずしなくてはならないということはありませんが、…一応返しの形というものがありますから…先様に恥すかしい思いをさせないように、と」 「そう」 あて宮は小さくつぶやく。 「あ、ねえ、その…今度の文はどんな方からだったの? 聞かせてくれる?」 「ええ」 あて宮は惜しげもなく、贈られてきた文をいつもの様に彼女達に見せる。 「…あら、実忠さまは御病気の様だわ」 ちご宮はやや心配そうな顔になる。今宮はそれを聞いて露骨に不快そうな顔になる。 「ええと、 『―――奥山の古い住処を出た時鳥/自分は、旅の浮き寝を長年続けています』 歌はいつもの通りお上手ね。あら、 『こうして書くことさえ今は身も衰えて出来なくなることが悲しいです』 ですって。…本当に病気になってしまったのかしら」 ちご宮はあて宮の顔をのぞき込む。あて宮はつぶやく。 「―――夏が来るとやっと初の旅をする郭公は元の巣に帰らない年はないでしょうよ」 「またずいぶんと皮肉な返しね」 ちご宮は苦笑する。 「それでも返されるだけましというものじゃうないかしら」 別の文を一宮が手にする。 「ええと、こっちは兵部卿宮さまからだわ。 『―――夏になると板囲いの井戸の清水もぬくもりが出て来るものです。たとえ底が冷たかろうと、そのうちには暖かい心でお迎え下さることと頼みにしています』 ですって」 「―――浮気な人が何かおっしゃると、夏衣の様な薄い心が見え透きますわ」 「うわ、きつい!」 一宮は思わずそう口に出してしまう。次に今宮が別の文を拾い上げ。 「それじゃあ私は平中納言さまのを。 『―――あなたの返事がないのでいつもわびしい思いをしていますのに、卯の花が咲くと身を憂しと時鳥が私の悩みをかき立てるのです』」 「―――おっしゃり甲斐のない私を頼みにしておいでだから、時鳥の無くのを身を憂しとお聴きになるのでしょう」 今宮はそれを聞いてさすがにげんなりした。 「いやあなたがそういうひととは判っているけど…そこまで一刀両断にしなくても、って感じよね…」 「あ、今度は仲忠さまのだわ」 一宮が拾い上げる。 「『―――あなたのお言葉を露の恵みとばかりにお待ちする私も空頼みに過ぎないと思うのはとてもわびしい限りです』…あて宮ぁ?」 一宮は微妙な視線を若い叔母に向ける。 あて宮は今度は少しばかり黙っていたが、やがて答えた。 「―――あなたに申し上げる言葉は何でもないと思いますが、私の文だと他の人が見てかれこれ言うでしょう。そう思うので申し上げにくくて」 「…何か調子が今までと違うわ」 「そうかしら?」 「違うわよ」 一宮は決めつける。 「…そうなのかしら」 「そうなのかしら、ってあて宮、自分のことでしょうに…」 ちご宮は首を傾げる。 「違うの―――かしらね」 あて宮は口の中でしばらくつぶやいていたが、やがて箏を取り出すと、ゆったりとした調べを奏でだした。 こうなってしまうと、もう誰も取り付くしまも無い。 「あ、紀伊国からも来てるじゃない。仲忠さま達が行かれたところよね」 今宮はひょい、と中を見る。 「え? 『どうなさっていらっしゃるかと、あなたのことが気になっていましたのに、他人様まであなたの噂をしてお聴かせになるので、落ち着いてもいられずに』」 「どうしたの? 今宮」 一宮はひょい、と文をのぞき込む。 「え? ええー?」 思わず出た声に、一宮はぱっと手で口を塞ぐ。 「どうしたの?」 「どうしたもこうしたも…」 今宮はちご宮に文を渡す。 「…別におかしな文では…え? 『―――心もとないことです。どうして皆さんは夢中になってあなたほどの方はないと騒ぐのでしょう―――あきれるほどです』 …………」 「あきれるのはこっちだわ」 「私びっくりした…あて宮にこんな歌贈る人って初めてじゃあない?」 一宮はどきどきする、とばかりに胸を押さえている。 「絶対に仲忠さまだったらこういうことは言わないわよ」 「まあ確かに仲忠さまは言わないわよね」 今宮は再びその文を取り上げ、まじまじと見る。あて宮の箏の音は彼女達の騒ぎなど我関せずとばかりに揺らぐことがない。 「あー、お父様がこれを見たら、紀伊国の君、ずいぶんとお株が下がるわね」 あははは、と今宮は笑った。 「返しは?」 あて宮は何も返事をしない。ただ箏の音だけが、少女達の部屋に響いていた。
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祭りが終わればすぐに五月がやって来る。 夏が来るのだ。
節句の日の早朝のことである。 左大将邸では、七郎仲純があて宮の住む中の大殿へとふらふらと近付いていた。 手には菖蒲の花を長く白い根までつけたままに。 「起きているかい? あて宮」 簀子から仲純は問い掛ける。陽が昇るか昇らないかの時間、空気がひんやりと涼しい。 中で誰かが動く気配がする。だが返事は無い。 手にした菖蒲の花を、御簾の中へと差し入れながら彼は詠む。 「―――君を恋い慕う涙の川の水際のあやめを引いたら人知れず秘めていた『ね』が露わになってしまった」 それでも返事は無い。彼は言葉を続ける。 「こんなことを言う兄なんて、何てことだろうと君は思うだろうな。…だけどそういう生真面目な君だから、僕も僕で、こんなあってはならない心持ちは忍ばなければと思うのだけど…」 ふう、と仲純は大きくため息をつく。 「困ったことに、堪え忍ぶことができない」 仲純はその場にうずくまる。じっと耳をそばだてる。気配を感じ取ろうと、目を閉じる。 そして続ける。 「こんな僕はもう死んでしまったほうがいい。いや、死んでしまうだろう。だから君もそういう男が言うことだと思って聞いてくれないか?」 すると中から「ほほほ」と微かに声がする。 彼は慌てて顔を上げる。それは確かに彼の知る妹の、思い人の声である。 「お兄様、どうしてそういうことばかりおっしゃるのですか」 「あ…あて宮」 御簾は開かない。ただ中から凛とした声が聞こえるだけである。 「私はあなたの妹ではありませんか」 そのまま中の気配は遠ざかって行く。 嗚呼、と仲純は身体から力が抜けて行くのを感じた。 どうしてこうなってしまったのだろう? 彼は思う。 何がどうして自分があの妹を恋うる様になったのか、彼自身さっぱり判らない。 同じ屋根の下、大宮の母の元に生まれた。 年こそやや離れていたが、ほんの小さな頃には雛遊びの相手もしたし、少し大きくなってからは楽器の手ほどきをしたものだった。 それがいつからだろう。 まずその髪から目が離せなくなった。 漆黒の豊かな髪はつややかだった。絹糸を縒り合わせた様なそれは、明るい色の袿には特に映える。 美しいと思って眺めるには時間はかからなかった。何であれ誰であれ、思うことは止められない。 やがてその手触りを想像する自分に気付いた。掻き分けたなら、しっとりと冷たいだろう。指を通る一筋ごとの重みまで、ひどく生々しく思い描くことができた。 文の言葉一つ、字一つで相手の姿を思い描くことが日常茶飯事の世の中である。想像力過多と誰が彼を責められようか。 すぐ側まで近付くことができた童女の頃。 琴を教えに几帳を挟むことなく出会えた少女の頃。 そして裳着の式が盛大に執り行われ。 几帳越しにしか会えなくなった妹に対し、彼は自分の思いが女人に対する恋だということに気付いてしまった。 彼は驚いた。 違う違う、と何度も自分自身を否定した。これは恋じゃあない。ただもう、すぐ側で会うことを禁じられた妹に対する執着心に過ぎない。 そう思おうとした。 だが身体がそれを裏切った。 彼は自分を恥じた。恥じずには居られなかった。 その反面、何とかして、この気持ちを当人に伝えたいと思った。戯れごとではない、本気なのだ、と。 困らせると判っていても、言わずにはいられなかったのだ。 だが妹はいつもそれをするりするりとかわす。 意味が判っていないのだろう、と当初は思った。思いたかった。意味が判っていないうちなら、まだ時間はある、と。その反面、意味を判ってもらいたかった。 自分の中でも、恋心なのか執着なのか、知って欲しいのか知られたくないのか、そして受け止めて欲しいのかそうでないのか―――判らなくなりつつあった。 もしかしたら自分は、元々決して実らない恋をしたいのかもしれない。 そう思うこともあった。 例えば相手が向こうの―――大殿の上の方に生まれた妹だったら、父に熱心に頼めば叶わないことはないだろう。異母妹とのつながりは、決して歓迎はされないにせよ、黙認はされる。 だがあて宮は同母妹だ。何をどう転んでも思いは叶わない。 つまり自分は、元々叶わない恋でなければしたくはなかったのじゃないか? 考えれば考える程、彼は判らなくなっていく。 眠りが浅くなり、身体に疲れが溜まる様になる。
仲忠に出会ったのは、そんな頃だった。
前の年の八月。相撲の還饗が右大将兼雅の三条の屋敷で行われた。 その時に仲忠の琴を初めて聞いた。箏や琵琶なら聞いたことはあるが、琴は初めてだった。 素晴らしいなどというものではなかった。 いや、彼にとってはそれだけではなかった。 ―――あて宮の他にこんな音が出せる者が居るのか――― 妹の音に似ている、と思った。 いや、そうではない。彼は即座に否定する。 この二人は同じ音を持っているのだ。 何かが自分の中で壊れた様な気がした。 その一方で、彼の足は動いていた。 宴が夜更けまで果てなく続く中、ようやく踊り狂う中から抜け出した仲忠に、仲純は声を掛けていた。 やあ、と呼びかける仲純に、仲忠は邪気の無い笑顔で返した。 「内裏では時々お見かけしますけど、あまり面と向かってお話することもなかったですから、仲純さんと話ができて、僕は嬉しいな」 「僕もだ。一度ゆっくり話したいなあ、と思ってはいたけど、何が君、いつも忙しそうで」 心にも無いことを。内心思いながら彼の口はすらすらと言葉を紡ぎだしていた。 仲忠は無邪気な口調で続けた。 「清涼殿に伺候している時も、父以外に僕の面倒を見て下さるひとも居ないし、ちょっと心細くて、何となくあなたの側にも近寄りがたくて…」 「そんなことは無いさ」 「でもそう、最近内裏にあまりいらっしゃいませんね。どうなさったのですか?」 仲忠は首を傾げて訊ねた。ああ、やはり周囲からはそう見られていたんだ。仲純は思った。 「いや…大したことじゃないんだ。ただね、ちょっと気分がすぐれないことが多くって宮仕えがちょっとね…」 「どうしてまた。…もしかして、恋の病ですか? 見たこともない人にする類の…」 仲忠はふふ、と笑う。 「や、今となってはどうにもならないことなんだ」 仲純は目を伏せる。 「本当ですか?」 「本当だよ」 本当だ。彼は内心自嘲気味につぶやく。 「…心配なのです」 仲忠の言葉に、仲純は黙って首を傾げる。 「女三宮さまにも『あなたはこれと言って頼りになる親族もいないことだし』と、あなたと仲良くしてはどうか、と」 嵯峨院の女三宮。 思い出す。そう、母の妹だ。 仲忠の父、右大将兼雅は三条の北の方と共住みするようになる前は、女三宮を正妻として一条に暮らしていたのだ。 「そう言えば僕にもそうおっしゃられた。仲頼と行正とも義兄弟の約束をした仲だというし… 君ともぜひそうしたいな」 すらすらと口は動く。 女三宮がどうした? そんなこと言われたことがあっただろうか… だが口は動く。勝手に仲良くなろうとする。 いつかまた会いましょう、箏を合わせたりしたいですね、仲頼が蹴鞠に誘いたがってましたよ、云々。 耳は言葉を拾う。顔は笑みを作る。 だがそれが自分のものだとは、仲純には次第に考えられなくなりつつあった。
あて宮は自分を見ない。 だったらもう。 彼の考えはゆっくりと螺旋状に落ちて行く。
*
「…よくもまあ、ああも冷たいことが言えたわね」 ちご宮は囁く。 「言葉を返す様におっしゃったのはお姉様ですわ」 「確かに私は返してあげればいいとは言ったけど…」 ちご宮は言葉を無くす。 早朝、部屋の外に人の気配がした。 ちご宮は女房から仲純らしい、と聞くとあて宮を残し、声が聞こえない距離に人払いをさせた。 案の定、自分では言わない言えない伝えてくれ、と言っている割に、ふらふらと出てきてしまった兄だった。 そして弱々しくも告げた言葉ときたら。 あて宮の周りなど、口さの無い女房達が沢山居るというのに。これで下手に同情した女房が渡りをつけてしまったらどうするというのだろう。 仲純はそうなりたいのだろうか。誰か側に居る女房を味方につけたいのだろうか。 それとも、もうそんな判断もできなくなっているのだろうか。 それにしても。 ちご宮は妹を見る。いつもの様に平然とした美しい顔で、蹲ったままの兄を遠目に眺めている。 「あそこで高々と笑うことは無かったじゃないの?」 「…そのくらいしないと、お兄様には私が妹ということを思い出してはいただけないと思いましたから」 「そうじゃなくて…」 ああもう、とちご宮はもどかしさに両手をぐっと握り締める。 「もう少し言い方というものがあるのではないの?」 「でもお姉様」 あて宮は振り向く。艶やかな髪がざらりと揺れる。 「希望など持たせない方が幸せというものではないですか? 誰にしても…」 「誰にしても、って…それは、あなたに歌を贈って来る人達のこと?」 「それ以外の何がありますか」 さも当然という様にあて宮は言う。 「お姉様はずっとお解りかと思ってました。私がこうお父様やお母様から呼ばれる様になった時から」 ちご宮ははっとする。 あて宮。貴なる宮。姫。 数ある左大将家の娘のうち、最も美しく高貴な姫。 その思いを込めて正頼も大宮も彼女を呼ぶ。 自分はちご宮と。いつまで経っても子供の様に可愛らしい子の意味だ、と乳母は説明してくれた。 だがそれは一番美しい訳でも高貴な訳でもない。ただ可愛らしいことを望むだけだ。平凡な幸せを、誰か相応の公達を婿にすることを望むだけだ。 下の姉妹にしても同じだ。 今宮。袖宮。そしてけす宮。 それぞれに父母なりの心を込めた呼び方をされている。 今を時めく女性となって欲しいと。 振る袖の様な艶やかな美しさをと。 んな不幸も起こらぬ様に、あえて不吉な言葉を。 同様につけられたその名。あて宮が「貴宮」である限り、彼女は父母にとって、最高の娘なのだ。 そして最高の娘に望むことと言えば――― 「…あて宮、そう言えば東宮さまへのお返事は出しているの?」 「ええ」 「それは、父上がおっしゃったから?」 そうではない、とちご宮は言ってほしかった。東宮から贈られた歌に心を動かされたから、とせめて。 しかし妹は、ええ、と当然の様にうなづいた。 「他の誰に返さなくてはならないというのですか?」 「…仲忠さまは? 嫌いではないのでしょう?」 「いい方ですわ」 「それだけじゃないのではなくて? だってあなたの返歌は他の人と違っていたじゃない」 「お姉様」 あて宮は首を傾げる。 「どうしてそういう困ったことをおっしゃるの」 「困ったこと、というの?」 「私にどうしろとおっしゃるの?」 どうしろと。 「仲忠さまに返してどうなるというのですか?」 ほんの少し、語尾が皮肉気に笑っていた。
東宮には、現在既に何人かの女性が仕えている。 現在その中で特に寵を受けているのは二人。 梨壺の右大将の大君と嵯峨院の女四宮である。 他には登華殿の式部卿宮の君、昭陽殿の左大臣の大君、麗景殿の右大臣の大君、その他に、平中納言の三の君も仕えている。 一番最初に入内したのは左大臣の大君だった。 だが彼女は歳上で、がっちりと太った身体と、またそれに似合った性格のせいか、東宮は礼を損ねない程度にしか訪れない。 「元々大臣家の后がねとして育てられた気位の高い方ですから、東宮さまが寄りつかないと言ったところで、下々の女達の様にすがりついてまでおいでを願うということもできません。そんな訳で、年を経るごとに意固地になって居るということです」 ちご宮と今宮の女房達は、集めてきた話を主人に伝える。 「お年があて宮様に一番お近いのは、中納言さまの三の君でしょう。非常に素直で可愛らしい方だそうです」 「一番上という昭陽殿の方は幾つなの?」 ちご宮は問い掛ける。 「もう三十に手が届くという話です。もう少し下かもしれませんが」 それは厳しいな、とちご宮は思う。 「お姉様、いきなり私の女房達まで使って一体どうしたというの」 「だってあなたの女房達は、こういうことが上手じゃないですか」 くす、とちご宮は笑う。今宮は何も言えず押し黙る。 「…いいですよ。私だって聞きたいですから。皆続けてちょうだい」 はい、と女房達は笑いをかみ殺す。 「それで、現在時めいている方はどうなの」 「梨壺の方は、仲忠さまの異母妹で、お歳はあて宮さまより少し上です。兄君が兄君ですから、きっとお綺麗な方なのでしょう。それだけでなく、非常におっとりとしたお優しい方だ、と評判です」 「仲忠さまの―――叔母様の方の妹君ね」 兼雅の正妻は嵯峨院の女三宮、正頼の妻の大宮の妹である。 「それじゃあ私達とも多少は縁続きということだわ」 今宮はそうか、とばかりにうなづく。 「五の宮とも、女四宮とも呼ばれている方は、その叔母様の一人でございます。お年は梨壺の方より少し上。東宮さまと一番近いのがこの方ではないでしょうか」 「その方も東宮さまのお気に入りなのね」 「はい。ただ院の一番末の、可愛がってらした方なので、時々我が侭な所もあると耳に挟みました。しかしそれがまた可愛らしいのだ、とも」 「男ってのは判らないわ」 ぴしゃりと今宮は決めつけ、そして姉に問い掛ける。 「あて宮はそんな中に、自分が入るものと思っているの?」 「思っているのじゃあないかしら」 ちご宮は軽く顔をしかめる。 「でも、だとしたらあの冷たい態度もうなづけるというものね。あーあ、私は気楽な妹で良かった」 「あら、そんなことはありませんよ」 女房の一人が口を挟む。 「何よ一体」 「あて宮さまがどの方をお選びになるのかは私などには想像もできませんが、それでもいつかは決まるでしょう。そうしたら今度はあなた様ですわ、今宮さま」 うわぁ、と今宮は思い切り顔をしかめた。
* 「何やら今宮さまのところの女房がずいぶんとここのところ忙しないわね」 兵衛の君はふう、と扇をばたばたと振る。 自分の局に入ると、ようやく楽になったとばかりに蒸し暑い胸元を開き、風をあてる。五月ともなると、夕刻でも風が生ぬるい。 「みたいね」 同僚の孫王の君もそう言うと、衣服を緩める。 「今宮さまのところの人達は何かと噂話ばかり聞きつけてくるのが好きだから」 「今、あて宮さまの御前には誰が居るの?」 「中納言さんと木工さんじゃなかったかしら」 「木工さんかぁ。あのひとは確か実忠さま贔屓だったわね」 仕事の合間を縫って、あて宮の女房達はうわさ話に花を咲かせる。 何と言っても現在の権勢家の、そのまた懸想人数多ある美姫に仕えている身である。話すことは、話したいことは山程ある。 「あら、兵衛さんこそあの方贔屓じゃあないの?」 「うーん…」 はい、と何処からか水菓子を持った籠を取り出し、孫王の君は同僚の言葉をうながす。 「贔屓って言うか…熱心だし」 「それは認めざるを得ないのよねえ」 はい、と籠から一つ水菓子を取り出し、兵衛の君に渡す。ありがとう、と彼女は小さなそれを口に入れると酸っぱそうに顔をしかめる。 「あら、まだ酸っぱかった?」 「ううん、ちょっと疲れているからちょうどいいわ。ちなみに孫王さんはどなたがご贔屓?」 「贔屓という訳ではないけど、仲忠さまは素敵よね」 「…ふふふ、実は私、この間、局から仲忠さまがお出でになるとこ、見ちゃったんだぁ」 ぱっ、と孫王の君は頬に手を当てる。 「…見間違いじゃあないの?」 「いいじゃない、隠さなくたって。だいたい孫王さん、元々何処かの皇子の姫なんでしょ? だから孫王なんだって」 だから嫌なのだ、と孫王の君は思う。その話題を出されるのは。 「兵衛さん、あなた聞いていないの?」 「何を」 「私がどの皇子の娘かって」 「いや、そこまでは」 「上野宮さまよ」 むっとした顔で孫王の君は水菓子をぱく、と口に入れる。思わず兵衛の君の目が見開かれる。 「そうだったの?」 「まあ、ね。あなたのそういうとこが好きだけどねえ。隠していた訳でもないし」 「だって上野宮さまって言ったら『あの』上野宮さまでしょ」 「そうよ『あの』上野宮さまよ。年甲斐もなく、うちの姫様に求婚なさって、しかも偽物掴まされて気付かない大呆け親父様」 「…そこまで言う?」 「言うわよ。って言うか、父上だから余計に嫌なのよねえ。まあ姫って言ったって、私と妹二人は召人腹だから、そうそうあのひとに大事にされてた訳でもないし、母様もそういう父上だから早々に見限って受領の後妻に入ったし」 喋りながらも、ぽんぽんと孫王の君は水菓子を口に放り込む。 へえ、と今知ったばかりの情報に兵衛の君は開いた口が塞がらない。
*
「全く、あなたがあの上野宮の娘だなんて、未だに信じられない」 あの夜も、仲忠はそう言った。 彼は孫王の君の宿下がりや、正頼宅に用事があった折を見て、彼女のところへやって来る。 当初、からかわれているのかと孫王の君は思った。 当然だ。彼は現在最も時めいている公達の一人である。自分達女房にとっては憧れの的であるが、実際に相手になってくれるとは考えもしない人だった。 だから彼女は、仲忠が最初に忍んで来た時、あて宮の情報が目当てなのだろう、と思った。 いや、それは間違いではなかった。彼は確かに会話の端々であて宮のことを知りたがっている。 だがその時、彼の手は孫王の君の身体を器用にまさぐっているのだ。 「…真面目な方だと思っていましたのに」 最初の時、彼女は涙ぐんだ。からかうにも程があると思った。 無論、一度他人の家に仕えたからには、その可能性はあった。だが分相応の男とそれで縁が持てるならそれはそれでいい、と思っていた。 だが相手が悪かった。あまりにも今の自分とかけ離れていすぎた。 「おからかいになるなら、これっきりになさって下さいませ」 「僕は真面目だよ。別にからかっちゃいないよ」 無邪気な声が答えた。 「あて宮さまに懸想なさっている方が何をおっしゃいます」 「それは確かにそうだけど。でも」 仲忠はその時、言葉を濁した。 「それはそれとして、あなたの声がとても素敵だったから」 「声ですか」 「うん、声。綺麗な声がしたから。そしたらちょっと袖から見えた手が綺麗だったし」 「何をおっしゃいます。節くれ立った手ですわ」 そう、それは孫王の君の気にしていることだった。 母と妹達と共に上野宮の元を出た後、居着いた母の実家では、雑用や縫い物をずいぶんとさせられた。 食わせてやっているのだから、姫君面しないで働いてくれ、と母の姉は言ったものだった。 母も妹達も、何処か不器用だったので、仕事はどうしても彼女の手に多く回ってきた。 気が付いたら、彼女の指や腕は、妹達よりも、ずいぶんと逞しくなってしまっていた。 「とてもこれでは良い殿方の来ては無いわ」 と母は嘆いたものだった。 そんな母の姿を見ているのが次第に疲れた彼女は、伯母からの、左大将邸への女房勤めの話に飛びついた。 正頼も大宮も、彼女が上野宮の娘だということは充分知っていた。それだけに当初は何かやらかすのではないか、とはらはらしていた。 だが彼女の実直な働きは正当に評価された。 やがて「その他大勢」の女房から、「あて宮づき」へと移されたのである。彼女は嬉しかった。 そのうち母がある国の受領と再婚した、と伝えられた。そのまま夫と共に下向するという。 「私達は都に残りたいわ」 妹達はそう言った。だが伯母の家にそのまま置いて行くことも今更嫌だった。 二人には自分の宿下がり用に小さな家を用意し、いずれ勤め先を探すから、自分のことは自分でできる様になれ、と彼女は命じた。妹達は渋々ながらも応じた。 その様子を聞いた大宮は「あなたも苦労が耐えないことね」と心配してくれた。何処かいい仕え先を探しておこう、と約束してくれた。 感謝は限りない。自分はずっとここでやって行こうと思った。
そんな折の出来事である。 上野宮がいきなり当時の本妻を離婚したのである。 「どういうことかしらお姉様」 妹から文が来た。どういうことかと聞きたいのは自分の方だった。 やがて正頼が彼女に苦い顔で言ってきた。 「どうもそなたの父君は、うちの娘の誰かを欲しいようなのだよ」 「それはなりません」 即座に彼女は返していた。 冗談じゃない、と思った。あの父親が、うちのお姫様方をなんて。 「わしもそう思っている。そなたの父を悪く言うのは何だが」 「言われて当然の方です」 「そう言ってくれるとこちらも気が楽だ。ともかくあの宮は、何かと屋敷内に得体の知れない輩を集めている。血筋はともかく、そんなところに我が姫は誰一人としてやりたくはない」 彼女はうなづいた。確かにそうだった。 父宮の屋敷には、自分達家族の他、得体の知れない者―――陰陽師、覡、博打打ち、無頼の若者達、何をしているか判らない翁や媼、そんな者がうろうろしていて、住んで居た頃は、季節の庭をそぞろ歩くのも怖いくらいだった。 そんな屋敷でも、知り合いは居ない訳ではない。こっそりと使いをやり、状況を知らせる様に頼んだ。 やがて知り合いから返事の文が来た。 そこに書かれていたことは驚くべきことだった。 「宮様は、屋敷の様々な輩にどうしたら姫君を得ることができるか問い掛けました。 するとまず、比叡山惣持院の十禅師という法師、宗慶がこう言ったのです。 『比叡の根本中堂に常燈を奉り下さい。また、奈良、長谷の観音が人の願いを叶えて下さります。竜門、坂本、壺坂、東大寺も同様、全て仏と名のつくものは、土をまるめてこれが仏というならば、その仏にも灯明を奉り、神という名がついていたなら、天竺の神でも御幣をお捧げ下さいませ。数限り無い神や仏にそこまですれば、仏は仏で、神は神で、あなた様にお力添えをして下さるでしょう。まして現世の人ならば、国王と申し上げる様な方でも、あなた様の願いをお聞き届けなさらないことは無いでしょう。また山々や寺々に、食べるものや着るもの等無かった行人を供養して下さいませ』 そう言うと、宮様は、 『おお、何と尊いことか。どのくらいすれば良いだろう』 とあっさりおっしゃりまして。 『みあかしの油を一寺に一合供養するとしても、比叡山は四十九院ですから、一ヶ月合計一石四斗七升です。お寺の大小は関係ありません。それぞれに御灯明として毎日油一合づつ供養なさったら、…まあとんでもないことだとはお思いでしょうが、仏に物を奉ることは無駄ではございません。来世や未来の功徳となりましょう』 そう宗慶が言うと、宮様はたいそう喜んで、 『よく判りました。成就したならば、それはあなたの徳のおかげでしょう』 と立って礼拝して、を七度繰り返しました。宗慶は、 『ご心配なさいますな。あて宮のことはずいぶんと心に深くお感じの様ですね。お志に叶う様致しましょう。もし宿世というものがなければ、この様に思い詰めたりもなさらないでしょう。男女の仲は、縁のままですから』 という訳で、宮様は、この宗慶の言う通りにしてしまったのです。 そして次に、貧しくなかなか学問が進まない学生達が言いました。 『漢文の書によりますと、才あるけど貧乏な人々を助ければ良い、とあります。才能のある人が取り立てられず、そんなものの無い男でも出世する、そんな世の中の不満が解消されたなら、宮様の嘆きも無くなり、思うことが叶うだろうと』 仏様とかならまだ判るのですが、何処がどう関係あるのかしら、と思いつつ聞いていたのですが、宮様、これも聞き入れてしまいました。職の無い才人を朝廷に取りなし、博士達にお話になって、そのむきむきに取り立てさせるやら、住むところも食べるものも無い人々のために、銭や絹や米を車に積んで出し、当然官位につくべき人が見いだされることなよく不遇でいるのを尋ねさせて、惜しげもなくお持ちの土地を分けておあげになるのですよ! それ自体は立派なことだとは思うのですが… それだけでは無いのです。今度は無頼の若者達が言ったのです。 『そりゃ宮様、簡単なことですぜ。俺の仲間が東西合わせて六百人ばかり居るんですがね、またそれとは別の双六仲間が同じくらい居まして。そいつ等をひとっ走りさせて、屋敷に攻め込ませたら一発ですわ』 すると今度は博打打ちが言いました。 『あはははは。やっぱりこわっぱの考えることだ。三条大宮のあのお屋敷がどれだけ広くややこしい造りになっていて、沢山の者に守られているのか知っているのかい』 何を、とそこで喧嘩が始まりそうな勢いだったのを、博打打ちの一人が『まあまあ』と諫めました。私はほっとしたのですが、それも束の間でした。 『それじゃこうしようや。宮様、東山にある道隆寺の塔の供養をするということにしましょうや』 『供養は良いが…それでどうするのだ』 『さてそこですわ。こいつ等の仲間も沢山居るから、そいつ等にあちこちで計画を話しておき、使うんですよ』 若者の頭は少しばかり渋い顔をしました。 『何でえそんな顔をするなよ。ちゃんと計画の成功のあかつきには、宮様から皆に何かしらあるんだろ? そうでしょう?』 『まあそうだが…』 『そこで、今度の供養、これほどの見物はない、ちょっと見るのは難しいくらいだ、という評判をそいつ等に立てさせるんですよ。そうすれば、左大将一家の物見好きは有名ですからね、出てきたところを我々が集まって、あて宮を奪い取る。これしかないですぜ』 何てこと、と私は思わず血の気が引く思いでした。宮様もさすがにそこまでは、と思ったのですが。 『うーん。結局はそれしか無いかもな。目に見える結果はなかなか出ないし。お前等に任せよう』 そんなことおっしゃるのです! ああどうしましょう。ええ確かに私はこちらにお仕えする身ですが、そんな大それたこと、さすがに困ります。何とかならないでしょうか。私はこうやって文を渡すしかできません」
孫王の君は慌てて正頼の元にそれを伝えた。いちいち説明するのは面倒だったので、文をそのまま見せた。 すると正頼はその場で大爆笑した。 「わしをどんな馬鹿だと思ってこんなこと思いつくのやら」 「…誠に申し訳ないことを…」 彼女はひたすら平伏した。 いくら今は無関係とは言え、父宮の浅はかな考えが恥ずかしくて仕方がない。 「まあそう言うな。あの宮も途中までは良いことをしたのだ。実際に取り立てられた学生も居る。貧しい者も感謝しているだろう。そなたの父宮は決して悪い者ではないのだ」 「そうおっしゃって頂けると非常に有り難く…」 そうなのだ。それが上野宮の良いところであり、悪いところなのだ。彼女は知っている。良いと言われることは素直に受け取り、惜しげなくする。 実際、あの屋敷に居た頃、姫君としての扱いを過度に受けたことは無い。 かと言って、脇腹の子と卑しまれることもなかった。 むしろそのあたりは、伯母よりずっと優しいところがあると思っていた。 だがその一方で、あまりにも人の言うことを信用しすぎた。 法師も苦学の学生も無頼の徒も、彼にとっては皆同じなのだ。 もっとも、それ故に集って来る者は上野宮を利用するだけでなく、いい主人とも思っている様だが… 「ともかくあて宮さまをこんなことで盗まれでもしたら」 「そんなことはさせぬ。まあそなたはご苦労だった。あとはわしに任せよ」 孫王の君は引き下がった。 「和政の少将は居るか」 「ここに」 「何でも道隆寺で立派な法会が営まれるということだ。そなたちょっとひとっ走り政所の男達をやって、見物する場所を取らせなさい。若い女君達をやって、物見をさせようと思うのだ」 和政は寺に行き、場所を取ろうとした。 すると待ちかまえていた様に、上野宮に仕えている男共がやって来て言った。 「うちの宮様を邪険にしてるお殿さんの為にゃ、場所なんかほんのちょっともやれないね」 「そんなこと言わないでくれよ。ただ車を一つ置くことができればいいんだ」 「一つでいいのか?」 「中の大殿の姫君達が見物にいらっしゃる。それだけなんだから。頼むよ」 男共は顔を見合わせると、にっと笑った。 「よし、まあ『仇は徳をもって』とも言うしな。いいだろう」 そう言って場所を取らせた。 さて法会当日のことである。 「さて用意はいいかな」 正頼はにんまりと笑う。 そこには、美しい娘が一人用意されていた。 「…あの、本当にうちの娘がこれで宮様の北の方になれるのでしょうか」 身分の低い使用人の一人が、おそるおそるそう問い掛ける。 「心配ない。必ずなれるだろう」 「どの」宮かとは正頼も説明していない。彼は歳の頃はあて宮と同じの美しい娘を持っている、ということで話を出された。 美しい装束を着せられ、髪の手入れをされると、娘はまるっきり姫君そのものだった。しかし本人にしてみれば、何が何だか判らなかった。 「あてこそのおかげだぞ。皇族ではない普通の人の身分の良いのよりもずっと良い暮らしができるだろう。だから決してそなたは自分が身代わりだとは言ってはならないよ。自分はあて宮だと心の底から信じているのだぞ」 そう言って正頼はにっこりと笑った。 娘は背筋がぞっとなった。父親の方を向いた。その表情を見て、自分がとんでもないことに巻き込まれているのに気付いた。 お付きには舎人の娘を二人、大人を二人、童一人は何と木こりの娘だったりする。 黄金造りの車に偽あて宮と大人や童を乗せ、檳榔毛の車には男達を乗せて行く。いずれにせよ、よほどの位の者しか乗れない車だったので、中に入っても皆何処か居心地が悪そうだった。 会場である寺では、一応名目である法会は行われた。 しかし。 あくまであて宮をおびき出すためのものだったから、きちんと高僧を呼んで本式の法会をする訳ではない。古式を真似て、もったいぶった音声楽をする程度である。 そうこうしているうちに、左大将の車が前駆け三十人くらいと共にやってきた。 上野宮はその黄金の車にあて宮が本当に居ると思ったのだろう、「法要を始めなさい」と命じた。 宮の元に普段居着いている身分の低い者達が、声を合わせて法要の真似事を始めた。正頼側では、何が起こるのか判っているので、この猿芝居が可笑しいやら情けないやらで思わず苦笑してしまう。 そのうち、博打打ちや無頼の若者達が黄金車にと近づき、一気にそれを奪い取った。控えていた正頼の下仕え達は、打ち合わせ通り、一斉に慌てた振りをした。 上野宮は慌てて奪った車の御簾を開くと飛び乗る。そこには確かに美しい娘が乗っている。それを見て上野宮は満面に笑みを浮かべた。 「やった、やったぞ。おお、これが今まで惜しんで惜しんで絶対にわしにくれようとしなかった姫さんだね」 娘の方は、突然車がさらわれた衝撃と、正頼に言われたことが重く心にのし掛かり、声も出なかった。 「まあ、これで今までのあの左大将の無礼の罪も許してやろうぞ。皆喜べ。やっとこの娘を奪い取ったぞ、双六仲間達!」 おお、と博徒や若者達の声が響いた。牛飼い達も、手をはたはたと打ってはやし、笛など吹いて騒ぎ立てた。 やがて皆で屋敷へと帰り着くと、娘をあらかじめ用意しておいた部屋へ据えた。 娘は呆然として、自分のための部屋を眺めた。 確かにそれまでの暮らしとは天と地の差だった。大殿が四つ、板屋が十、そして蔵もある。庭の池は広いし、山も高い。 もっとも、上野宮自身は案外質素な暮らしである。 寝殿は十人程の侍に守られている。がそれ以上ではない。沢山の無頼の徒は居ても、女房達を数多く置いている訳でもない。 偽あて宮は一緒に連れて来られた木こりの娘ともに、これからどうなるものか、と震えていた。慣れない装束がどうにも居心地悪かった。 そんな娘達の思いは知らない上野宮は、その晩から七日七夜、宴会を開き、酒盛りや管弦を盛大に行った。 博打打ちや大徳宗慶を呼ぶと、感謝の笑みを満面に浮かべて言った。 「あなた方のおかげで、念願の思いが叶った。これから御願果しに仏像を作って奉りましょう。万の神にも、お礼に幣帛を奉りましょう。ああ、神仏は本当にいらっしゃるのだ」 浜床に据えた、ようやく手に入れた人には。 「あなたのために、この様に多くの神仏に祈った甲斐がありました。いやあ一緒に御願果たしができるなんて、何て嬉しいことだ。―――荒ぶる神ですら、お祈りすれば願を叶えて下さるのに、優しいはずのあなたのお心は何と冷たいことでしたろう」 偽あて宮の北の方は、それでも無学な娘ではなかったので、即座に返した。 「―――住み慣れない宿は見まい、見せて下さいますな、とお祈りしていたのにこういうことになってしまって、…私には神があっても、何の甲斐もありませんでした」 孫王の君はその後、身代わりの娘のことも不安になり、知り合いから時々文を貰っていた。 「宮様は根は単純で良い人ですから、北の方のことは大事になさっています。素性が明らかになったかどうかは―――正直、私どもには判りません」 もしかしたら、素性は判っていて、それでも優しく北の方として扱っているのかも、と彼女はほのめかしてきたのだ。
「どうだろうねぇ」 ある晩、忍んできた仲忠は彼女にそう囁いた。 「私は上野宮に直接会ったことは無いけど、そういう人だったら、案外素性が判っても大事にしてくれるのではないかと思うのだけど」 「…どうしてそう思えるのですか?」 ふふ、と仲忠は笑う。 この青年の手は、非常に怖いと孫王の君は思う。格別なことをしていないのに、彼女の身体はいつの間にか自分のもので無い様な心地になって行くのだ。 「物好きだとは思うけど。でもああいう人が居ないことには、生きていけない人も多いんだよね。君はどう思うか判らないけど」 仲忠はそう言って、そっと目を伏せた。 「どんな理由であれ、ちゃんと食べるものと寝るところを与えてくれる人は、いいものだよ。やって来た物乞いの態度が可笑しいと、何もやらずにからかってあざ笑う様な公達より、僕は好きだけどねえ」 そう言いながら仲忠は彼女の胸に顔を埋めた。 彼は孫王の君の所々胼胝のできた指も好きだが、柔らかな胸も好きだ。放っておくと、いつまでもそのままで居る。もどかしさに彼女が強請ると別の場所へと手を移すが、指も舌もひどく名残惜しそうに離れて行く。 「あなたのことが大好きだよ、孫王の君」 空々しく聞こえるのに、彼女はその言葉が耳に入るのを心地よく思わずにはいられなかった。
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