彼等が都に戻ったのは四月四日のことだった。
「すぐに皆さん帰ります?」 問い掛ける仲忠に仲頼はいや、と首を横に振る。 「俺はそのまま在原の家に戻る。お前等も一緒に来いよ。やっぱりあの舅どのにはきちんと挨拶をしなくてはな」 「そうですね」 笑いながら誘う仲頼にうなづきながら、行正は宮内卿のことを思った。
宮内卿・在原忠保の家は、仲忠や仲頼の実家の様に生まれながらに裕福なところではない。 「…何でも、あの殿は仲頼さまを婿にお取りになってからのお世話で、ずいぶんと物いりだったそうです」 目端のきく女房が、彼に何かと伝えて来た。 「この今の世の中、どれだけ美しい娘であろうと、物持ちで無い限りそうそう通う男など無いところに、仲頼さまを婿にできたことが何よりもの喜び―――とばかりに、先祖代々の財産や、女の方には無くてはならない髪道具の一式まで、惜しいと思われる様なものはずいぶんと売ってしまわれた様です」 それはまた、ずいぶんなことだと行正は思った。 「だが仲頼が仲頼らしく過ごすには、ずいぶんな費用が必要ではないか?」 自分と同程度に帝のおぼえめでたいとしたら。 自分は先の帝、嵯峨院のおかげで独身でありながら困る様なことは何もない。 だが一度婿取りされてしまったとしたら。 「はい。ですからあの方が婿入りされてから、ここ数年のうちに、長年年貢や地代を待って家計に当てていた近江の土地も売ってしまわれたそうです」 行正はそれを聞いてため息をついた。 「仲頼はそれを知っているのだろうか」 女房はいいえ、と首を横に振る。 「向こうの女房に聞いたところ、婿君には決して悟らせない様に、とのことでした」 「そういうところは全くもって、鷹揚な奴だからな」 そこまでして尽くしてくれる舅が居ながら、どうして奴はあて宮に恋などしてしまったのだろう、と行正はしみじみと思う。 少なくともこの直情型の友人が、左大将に繋がるのを目的であて宮に文を送っているとは思えない。そんな器用な奴ではない。 だとしたら、直接姿を見たか、声を聞いたか、はたまた名手と言われている琴の音を聞いたか。 いずれにせよ、実体のはっきりしないものではなく、あて宮そのものに惹かれなくては友人が動くことはなかっただろう。 「それでは今度の吹上行きでも向こうは苦労するだろうね」 「はい。…正直、失礼ながら、仲頼さまが少し憎らしゅうございます」 「憎らしい」 「旅支度のために、節会の時にだけ取り出す太刀を質に入れたということでございます」 「…きっとそのことも、決して仲頼には気付かせないのだろうな。奥ゆかしい人だから」 実際、出かける時の支度はきちんとしたものだった。 供人も、道中の食料も吹上までの充分なものが用意されていた。 「仲頼さまの北の方は『正月の節会にはどうなさるのですか』と驚いたそうですが、父君は『今年の稲が豊作だったらすぐ返せるよ。心配はない』とおっしゃったそうです」 しかし稲が豊作かどうかなど、決して思う通りに行くものではない。苦労を知っている人がそのことに気付かないはずはない。 行正は、戻った折りには何かしらの礼をしないことには、と思ったものだった。 と同時に、友の心を奪うあて宮が、恋しいながらも多少憎くも感じられた。
*
宮内卿宅では早速、彼等の帰りを祝ってささやかな宴がひらかれた。 「あちらは如何でしたか? 浜辺のご馳走に満腹しておいでになっては、この山里など大したものではないでしょう」 宮内卿は謙遜して言う。仲頼は答える。 「いえ、こちらが気掛かりで、おちおちご馳走も頂く気持ちになれませんでした。どれだけ美しい景色、素晴らしいもてなしを受けたとしても、側に居るべきひとが居ないことには」 「そう言って下さるのは非常に嬉しい。これからも大事にしてやって下さい。私達の大切な娘です」 宮内卿の言葉が、行正には非常に重く響いた。 「そう言えば、お土産があるのです」 仲頼はそう言って、吹上からの土産ものを持って来させる。 「おお、これはまた素晴らしいものを…」
吹上では様々な贈り物を彼等は受け取っていた。 種松は涼のためなら、とばかりに精巧な細工物を三人に用意させていたのだ。 まず「はたご」一掛。 「はたご」とは通常、馬の食料を入れる竹籠のはずだ。 沈木で作った鞍を置いた銀の人馬に引かれたそれは、銀で作られたものであり、山形の蓋を開けると、唐の綾、羅や紗といった美しい布が積み重ねられていた。 次に沈木作りの男に引かせた同じ作りの破子。 これも普通なら道中の食事を入れるものである。 だがそれには丁字、沈香、麝香やその他の薬、練り香の材料を破子の中の乾飯やおかずを模して詰められている。 細工の男は一緒に蘇芳の箱に―――普通は竹で編むのだが―――色々の唐の組み紐で籠の様に編んで箱にかぶせたものに、上等の絹をそれぞれ三十匹入れて、蘇芳の馬に背負わせ、引いていた。 洲浜も用意された。 銀を散らした鋳物の海、造花を付けた沈木の枝を沿えた、合薫物で作った島。銀や沈で作った鹿や鳥も置かれている。海には大きな黄金の舟。そこには薬や香の入った袋、沈の折櫃や金銀瑠璃の壺が載せられている。折櫃には銀の鯉や鮒、壺にはそれに似つかわしいものを入れ、麻で結んである。 それに加え、帰りの旅行用の装束を「一日一装」ということで一人につき三装、それに被物として、女装束を一襲づつ。 加えて、それぞれに動物の贈り物。 仲忠には様々な班馬に美しい馬具一式を付けて四頭、黒斑の牛を四頭、鷹と鵜を四羽づつ。 仲頼と行正も同じ様なものだが、馬は黒鹿毛で、牛は堂々とした暗黄色のものだった。 道中の食料も用意されただけでなく、また別に米をそれぞれに二百石入れた舟を二艘づつ送っている。 北の方からは銀の透箱を送られた。それぞれに黒方の香木の墨、砂金、金幣、銀幣が入っていた。
このうちの沈の破子を仲頼は宮内卿に送った。 「義父上、それに加えて、牛も四頭頂戴致しました。ぜひ受け取って下さい。それに妻と義母上には」 と、透箱を渡した。 ありがたいことだ、と宮内卿はうっすらと涙ぐんでいた。
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「ずいぶんと長かったね」 仲忠は宮内卿宅からその足で、桂の別荘へと戻った。 「心配かけました。父上。母上はお元気ですか?」 「そんなに心配ならすぐさま行ってやるがいいさ。ところでお前、吹上はどうだった?」 「文で色々お伝えしたでしょう」 「お前の口から聞くのが一番さ」 「まあそれはおいおい」 「おいおいかい」 「一言では言い尽くせません。あ、素晴らしい馬をいただきましたので、それは父上に差し上げます」 「馬かい?」 「素晴らしい馬ですよ。皆四頭づつもらいましたが、それだけではなく」 細工の馬を渡すと、ううむ、と兼雅は腕を組んだ。 「そういうものをぽん、と土産にできるとはさすが『財の王』だ。他の話は無いかい」 「さて僕は母上にお土産を渡さなくちゃ」 素っ気なく仲忠は父の元を立ち去った。
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「まあお帰りなさい」 そう言ってゆったりと北の方は微笑む。 透箱や、細工物を渡すと彼女はまあ、と小さく声を立てた。 「…こんな、勿体ないわ」 「母上以外には誰もあげたいと思うひとが居なくて」 「そんなこと言って。聞いていますよ。あて宮に文を出しているのでしょう?」 「ええ」 やはり素っ気なく仲忠は答える。 北の方はそんな我が子を見て、少し不安になる。本当に息子はその女性に恋をしているのだろうか。 世の中の男が一体どうなのか、彼女は知らない。夫一人である。 息子が外で何をどうしているのかも知らない。 彼女はただ、いつもじっと待っているだけである。昔から。 そう、父、清原俊陰が存命中からそうだった。
父が何をどう思って、当時の帝、嵯峨院からの誘いを疎んじ、治部卿という肩書きのもと、人に殆ど会わない生活を続けていたのか判らない。 ただ彼女がその人嫌いの余波を受けていたのは事実である。 母の早世が拍車をかけた。 父は母を追う様に亡くなった。 それ以来、その頃には彼女に打診されていた入内の話や、様々な公達からの文だのは影も形も無くなってしまった。 当時の彼女は知らなかったが、宮内卿忠保が思う様に、世間では親の権勢や財産を武器に婿を手に入れることが多くなっていた。治部卿亡きあとの彼女に用のある男は無かった。 彼女は一人残された。 仕える者も一人減り二人減った。 出て行く際に彼等は家財のなにがしを持ち出した様だが、無論、彼女は知らなかった。 気付いた時には、寝起きする部屋の、更に一角にしか物は残っていなかった。 忠実な乳母は死ぬまでそんな彼女を心配したが、何の力もなかった。 乳母はその召使だった「嵯峨野」という名の媼に彼女を頼んだ。 嵯峨野は実に現実的な女だった。 特にその力は、彼女が兼雅と契って後に発揮された。
彼女が兼雅と出会ったのは、秋八月も半ばの夜である。 賀茂詣のついでに、荒れ果てた京極の俊陰邸に当時十五の兼雅が彼女を垣間見た。 彼は夜になって一人出かけていった。元服前の甘やかされた「若小君」にしてみれば冒険だったのだろう。 聞こえてくる琴の音に彼は誘われ、彼女の元へと辿り着いた。 二人はその日のうちに恋に落ち、二晩幼い手で互いを求めあった。 だが次に二人が出会うには十年という月日が必要だった。 何しろ当時の太政大臣の秘蔵っ子の四郎君と、何処と誰とも知れぬ娘である。 彼には彼女を探す術も力もなかった。 彼女は彼どころではなかった。妊娠していたのだ。 その妊娠を、産み月近くなるまで気付かなかった。いやそもそも、そんなことが起こるとも知らなかったのだろう。 身体の変化に気付いて指摘したのは嵯峨野だった。 月のものが無かったか、と聞いても「そんなものかと思っていた」とあっさり答える姫君には任せておけぬとばかりに、この媼は老体にむち打って走り回った。 食事の世話から出産、生まれたばかりの赤子の世話も、授乳以外の全てをこの媼は受け持った。仲忠が無事生まれたのはこの嵯峨野のおかげである。 仲忠が五つかそこらになった頃に嵯峨野が亡くなった。 兼雅の北の方となった今だったら、どれだけのことが嵯峨野に返せるかと思うと、非常に胸が痛む思いをする。
しかしそれからの暮らしは辛いものがあった。 正直、彼女は自分がどうしたらいいのかさっぱり判らなかった。 嵯峨野が食事を用意してくれたら食べ、しなかったら何も食べない。食事を作ることができない。それ以前に食べ物を得ることを彼女は知らなかった。 どうしたらいいのか判らないままに、それでも残されたものや水を口にしていたうちはいい。それすらも無くなった辺りから記憶はぼんやりとしている。 腹が満たされたと思ったのは、仲忠が運んできたものを口にしてからだった。 幼い仲忠は、親切な人が食べ物をくれた、と言った。彼女はそれをそのまま信じた。信じようとした。 時には魚を「自分で取った」と言った。 時には疲れ果てた格好で木の実や芋を手にしていた。 それらを調理したのも彼である。母親は何も知らなかった。 「母様は何も心配しないで」 そう仲忠は言った。確かに言った。 およそ子供の言葉ではなかった。思えなかった。 それ以来、彼女は息子の言葉には何でも従っている。 疑ってはいけない、と思っている。それが良いか悪いかは判らない。彼女には判断できない。 彼女が判るのは、琴だけだった。
琴。 そう、彼女は父、清原俊陰からその手の一切を伝えられていた。 当時、人嫌いになった父は。屋敷から出ることが殆ど無くなっていた。 名手と謳われたその琴の琴を彼女に教えること以外、何もする気が起きなくなっているかの様だった。 血であろうか。四歳位から習い始めたが、十二三歳くらいで、父の教えること全てを覚えてしまった。 その父から受け継いだ琴だけを持ち、彼等は当時、山の空洞に移り住んでいた。 そこは不思議な所だった、と彼女は思う。 人が住むべき場所ではないにも関わらず、住めるかの様に仲忠が整えてくれたのだろうか。 寂れ果てた屋敷の一角と比べ、大して違いは無いくらいの場所になっていた。 いや、近くに果物や木の実の採れる木、清らかな水がわき出る泉があるあたり、屋敷よりずっと住み易く思えた。 ここなら誰かに水を汲んできてもらうのを待つではなく、自分で立ち上がり、取りに行くこともできる様な気がした。 それに何と言っても、そこは山深く、誰の目も気にする必要が無いのが嬉しかった。 つまるところ、彼女が何もしなかったのは、彼女自身の「姫君」という自意識が、身体の動きそのものまで縛っていたとも言える。 仲忠は「母上はそんなことをしなくてもいい」と言ったが、彼女もその時には、自分の身の回りのことは自分でする様にしていた。 鏡に映る自分の姿があまりにも悲しかったのだ。顔を洗い、豊かな髪を梳り、暖かく爽やかな日には洗髪もした。
仲忠は何故か色々なことを知っていた。 時々ふいと姿を消すと、山の食料を取って来て、時には火を起こし、簡単ではあるが調理もする。汚れた服は洗う。破れれば繕う。寒くなれば、何処からか持って来る。 無理してはいけませんよ、と言いながらも、彼女には息子を止める力はなかった。息子が何もしなかったら、育ち盛りの少年と、女盛りの母は生きては行けなかったろう。 何もできない自分というものを、彼女はひどく思い知らされることとなった。 せめても、とばかりに彼女は仲忠が七歳になった頃から琴を教えだした。 俊陰から伝えられた琴のうち、比較的穏やかな音を出す「ほそお風」を自分のものとし、かつて自分が学んだ「りうかく風」を仲忠に与え、記憶している手全てを彼に伝えた。
数年、そんな日々が続いた。 仲忠はともかく、彼女は息子以外の誰とも会わず、ただ琴を引き、少しばかりの身の回りのことを覚えながら、自然と共に生きていた。 時には動物達が琴の音に惹かれて来ることもあった。そんな時彼女はひどく穏やかな気持ちになったものだった。
そんな二人だけの世界が終わったのは、それから五六年も経った頃だろうか。 仲忠は日々山の中を駆け回っているせいか、日には焼けているが、肢体もすんなりとし、衣服さえ整えれば、昔の若小君にも似ている様に思われた。 既にその頃、仲忠は母の教える琴の全てを収得していた。だが自分の手とはやや調子が違うな、と彼女は感じていた。
そんなある日、東国から数百の兵がやってきた。 何かしら現在の政治に不満がある者達が徒党を組んできたのだろうが、彼女はそんなことは知らない。 ただもう、都へ入る途中にあるこの山にまで入り、食べ物を求め、目に入る様々な獣や鳥を殺しては食う。 彼女はそれを直接見た訳ではないが、いつもと違う山の様子に怯えた。 人の怒号、逃げる鳥の羽ばたき、獣の叫び声。 彼女には初めてのものばかりだった。 逃げよう、という息子に向かって彼女は首を横に振った。怖くて、立つこともできなかったのだ。 「さっき見たんだけど、多くの男達が、もうじきやってくるんだ。手には刀や弓矢を持ち、火を掛けようとする奴もいる。…このままでは、僕等が危険になるよ」 「母を置いて、お前は逃げなさい。母は動けません」 「では僕が母様を背負うから」 「いいえ、そんなことはしてはいけません」 「ではどうしろと!」 仲忠が自分に向かって怒ったのは、その時だけだ、と彼女は記憶している。 「吾子よ」 彼女は仲忠に言った。 「母は怖くて、足が竦んで立てません。…そなた、その奥から『なん風』を持ってきてはくれませんか」 「なん風」と「はし風」という琴がある。 それは「ほそお風」などとおなじく、俊陰が外つ国から持ってきたものだが、彼は娘にこう言い残した。 「幸せだったら、それが今一番だ、と思った時、不幸だったら―――」 俊陰はひどく辛そうな目で娘を見たものだった。 「どうしようもない禍がお前を襲い、生命の危険があった時―――あるいは、獣を友にする様な生活の中で、正に食い殺されそうになる様な時―――兵に殺されそうになった時…」 そんな時でなくては、この二つの琴は弾いてはならない、と彼は娘に強く言い残した。 そして今がその時だ、と彼女は「なん風」を取り出した。 初めて弾くその琴は、ひどく大きく響いた様に感じられた。 いや、実際響いていた。どういうつくりになっているのか、「なん風」から出る音は、「ほそお風」に比べ、大きく、太かった。 七弦琴の高低幅広き音が、山の木々に反響し、奇妙な音の連なりになって行く。 仲忠は「様子を見てくる」と木々に昇って飛び渡っていった。 彼女は弾き続けた。ただひたすらに、大小問わず知る曲を全て。 そうすることで、彼女の恐怖も薄れて行くかの様に思えた。 夜中から始まった独演は、翌日の昼まで続いた。いつの間にか、そこから兵達の気配が消えていた。 何がその時起こったのか、彼女には判らなかった。 正直、今でも正確に理解しているという訳ではない。 兵達が何故気配を絶ったのか、彼等は消えたのか、立ち去ったのか、それとも。 何も彼女には判らないことだった。 ただその時、帝の命で山から聞こえる妙なる音を探索していた兼雅が、彼女達親子を発見したことだけは事実である。 そしてあの「若小君」が彼女を見た時、自分と判ってくれた。 それが彼女には、何よりも嬉しかった。 彼には昔の面影があった。その一方で、仲忠と似ていると思った。 本当に嬉しかった。 彼女は「なん風」への疑問を忘れた。忘れることにした。
やがて仲忠ともに三条の屋敷に引き取られた彼女は、それ以来平穏な日々を過ごしてきた。 仲忠の元服の折、その母である自分の素性も世間に知られることとなった。 右大将の妻として、節会の還饗も立派に行う様になった。
息子は十八の歳、侍従となった。やがては右大将家の跡取りとして、そのまま出世して行くだろう、と彼女は思う。 だがその息子は、微妙に周囲の公達と異なっている様に思える。 頭は良い。だが良すぎる。 三条に引き取られ、「あめつち」から読み書きを始めたというのに、元服する頃には「私ですらここまでは判らないよ」と兼雅が嘆息する程の知識を屋敷にある沢山の書から身につけていた。 筆跡も見事だった。 宮中の誰もが彼からの文を貰いたがっていた。 父の代筆をする時など、用が済んだ手紙を貰いたがる女房があちこちから出たとか。 そして何よりも、楽才が。 彼女は琴の琴しか仲忠にも教えることができなかった。 箏も和琴も弾けた。だが肝心の楽器が無かったのだ。 仲忠は父親より少し年下の、仲頼と行正を師に、他の楽器をも習いだした。すると宮中一の腕を持つ彼等が、あっという間に追い越されてしまった。 夫は無邪気に笑いながら話すが、彼女は少しばかり不安を感じた。そんなに急がなくていいのに、と思った。 かつて自分を養ってくれた時の様に、息子は急いで一人前になろうとしている様に思われた。 だが彼女にはどうすることもできなかった。 急ごうと何だろうが、息子の選んだことである。自分は何もできない。したくても判らなかった。 「姫君として」「奥方として」の物事はそれなりにできるとしても、生きるための知識も知恵も無かった自分が、息子に何を言えるというのか。 今でも、あの頃どうやって食べ物を手に入れていたのか、彼女は息子に聞けずにいる。 昔と違い、大勢の女房にかしづかれる今は、世間を良く知る彼女達からの情報で、それらしき答えを見つけだしている。 だがそれをはっきりとした言葉にしたことはない。するのが怖い。 夫も息子もそのことは触れられたくなさそうだった。 彼女は息子を愛している。だが息子がそうなのか、彼女には自信がなかった。 彼女はただ息子からの言葉を待つばかりである。
*
「あて宮にも贈り物はするよ。絶対に受け取ってもらいます」 仲忠はのほほんと、だがきっぱりと言う。 彼がそう言うならばそうなのだ。仲忠は他の青年と違い、その点にぬかりはないだろう。 話題を変える。 「吹上では楽しかったですか? 文では美しい宮の話が面白かったですよ」 「うん。涼さんという方と友達になったんだ」 「あるじの君ですね」 仲忠はうなづいた。 「僕とは違って、よく焼けた、逞しいひとだったな。渚の院が一番良く似合うひとだったよ」 「母はちょっとそういう方は」 彼女は想像して苦笑する。 息子の友達となった青年は、どうやら都の美的基準とはやや異なる姿の様である。 「渚の院も、林の院も、鷹狩も、楽しかったなあ」 「珍しいですね、あなたがそういうのは」 「そうかなあ」 「そうですよ」 そう、実際珍しかった。 仲頼や行正との遊びのことを話したとしても、そんな感想が出たことはない。兄弟の約束をした左大将家の仲純でも同様だった。 彼等が多少歳上のせいか、元々遊びの師のせいなのか、何処か一線を引いている様な気もする。 「歳が近いのですか?」 「ええ」 「それは良かった」 「それだけではないんだ。涼さんはね、僕と一緒に砂浜を駆け回るんだよ」 「駆け回る。本当ですか?」 「本当だよ。涼さんは何かというと吹上の浜をぶらぶら歩くのが好きなんだって。時には漁人と一緒に舟を曳いたりするんだって」 それは珍しい、と彼女は思う。 「本当に楽しかった。また会いたいなあ」 本当に珍しい、と彼女は思う。
**
翌日のことである。
その日、左大将は中の大殿で娘の琴を楽しんでいた。 中君からちご宮までの姉達もそれをうっとりとして聞いている。 女達は音の流れを邪魔しない様に、しかしそれでも話をすることを止められない。 「…やっぱりあて宮の琴は格別ね」 「羨ましいわ。どうしたらあんな風に弾けるのかしら」 「でもあて宮が稽古とか熱心にしているのを見たことがあって?」 「私は無いわ」 「私も」 「才能って素晴らしいけど…残酷ね」 さざめく様な小声が、御簾の中で交差する。 と。 「四郎、どうしたの」 中君が弟の姿を認めた。 「お久しぶりでございます、姉上。父上、少将仲頼が参りました」 息子の一人の声に、ああ、と左大将正頼は顔を上げた。と同時に琴の音も止む。 「仲頼が戻ってきたのか、しばらく噂にも聞かなかったが、遊び歩いているうちに斧の柄も朽ちてしまったらしいな」 ほほほ、と女達の笑い声が響く。 「一体何処へこの一月行ってきたのやら」 そう笑いながら、呼び寄せる様に息子に命ずる。 「ここでお会いしよう」 と簀子に御座を用意させ、招き入れた。御簾の向こうには女達も控えている。 「お久しぶりでございます」 仲頼は深々と挨拶をする。 「どうしたのかと思っていたよ。ここの所、内裏でも姿を見ないし、うちにも来ないし」 皆寂しがっていたぞ、と左大将は軽く皮肉めいた口調で言う。 「大変恐縮にございます。粉河の寺に参ろうと存じまして、紀伊国に行きましたところ、不思議な方と巡り会いまして、やっと昨夜戻ることができました」 「おや、その不思議な人とはどなたのことかね。わしにはとんと思いつかないが」 ほら来た、と仲頼は思った。 仲頼ら内裏の人気者が揃って吹上へ行ったことは、表沙汰にはなっていないが、周知のことだった。 「かの国の政人、神南備種松という者の孫にあたる源氏の君がその途中に住んでおいでなのです」 「ほぉ」 「そこに部下の松方が居りましたのを見つけて立ち寄りましたところ、あるじの君が一日二日、馬や牛を休めてから帰京なさいとお止めになりましたので」 「しかし一日二日では済まなかった様だな」 「それはもう。世に言う西方浄土に生まれた様な気持ちになる場所です。四面八町を金銀瑠璃など目の眩む様なもので造り磨き、周囲には千もある供養塔や、金堂や講堂、その他色々な建物が限りなく立ち並び、孔雀や鸚鵡が鳴かないばかりの荘厳なところに住んでおいでです」 女達の口からもため息が洩れる。 「…でまあ、実際のところ、見たものをそのまま申し上げることもできませんので、あちらの様子を少しでもお解りになっていただこうと思い、本日はあちらのお土産を持参致しました」 なるほど、と左大将はうなづく。 「それは楽しかったろうに。確かにその昔、神南備の女蔵人から帝の御子がお生まれになっていたとは聞いていたが。そう、あの女蔵人は父親の身分は低かったが非常に品良く美しく、ちょっとした気配りも細かい、心憎いまでの床しいひとだった」 「出立する前に立ち寄った右大将どのもそうおっしゃってました」 「さもあらん」 ははは、と口を大きく開けて左大将は笑う。 「兼雅どのはまだ子供だったろうに。さすが天下の好き人と言うべきか」 いやいや、と扇をひらひらと振る。 「本当に素晴らしい人であったから、子供の心すらときめかせたのであろう。しかしここ数年来、噂も聞かなかったのだが、その若君はどんな風にご成長なさっていたのかな」 「まことに素晴らしい方です。姿形はともかく、どことなく侍従仲忠と似通ったものを感じました」 「しかし、琴ばかりはそうはいかないだろう?」 「いえ、それが、琴の方もなのです」 「何」 え、と女達も思わず身を乗りだした。 「仲忠と言えば天下の名手。帝すら彼に弾かせるのは至難の業と言われている。その彼に勝るとも劣らないというのかね?」 そうよそうよ、と女達も小さな声で抗議する。何と言っても仲忠びいきの者がこの場には多かった。 「少なくとも聞いた自分の耳にはそう感じ取ることができました。仲忠がその場では弾くことを拒みましたので、比べることはできませんでしたが…」 「ふむ。誰と誰が一緒だったのかね?」 「仲忠と行正を誘いました。他も近衛司人の中から選んだ者ばかりで」 「何とまあ、贅沢な旅だったのだな。それだけの者が集まって何かと遊んだとは! 道理で内裏も閑散としていたものだ。帝も話をお聞きになれば悔しがられるのではないかね?」 恐縮です、と仲頼は顔を赤らめる。 「しかしその吹上の宮というところは何というか、凄いところの様だな」 「いやもう、本当に凄いです。種松という男は大層な物持ちです。お土産と言って持たせてくれた物の一部をお目にかけましょう」 そう言って、仲頼は持参した馬二頭と、鷹二羽、それにはたごを背負った銀の馬の細工を左大将に見せた。 「ほぉ、これは面白い」 左大将は細工の馬を手に取ると、あっちに返しこっちに返し、どうなっているのかと興味津々の様子だった。 「おい、ちょっとお前達の婿君や子供達も呼んでおいで。面白いものがあるからと」 早速呼ばれた男達も、特に子供達が、馬のひとりでに動くからくりに目をむいていた。 仲頼はやや得意になって言う。 「これは頂いたものの千分の一に過ぎません。こういう玩具の様なものだけでなく、実用品も色々ありました。いやもう、何の気なしに都を発ったのですが、思いがけない物持ちになって帰ってきてしまいました」 すると左大将は笑って。、 「それはまた羨ましいね。わしも近衛府の役人になって行ってみたいものだ」 いやもう、と仲頼は照れるばかりだった。
仲頼が左大将と談笑していると、行正と仲忠からも使いが来た。 「本人達は?」 仲頼は問い掛ける。 「これから内裏や東宮、それに嵯峨院へと参上するとのことで」 「それはまあ水くさいことだ。しかしまあ普段から院や東宮に可愛がられている二人だから仕方がないだろう」 左大将は仕方ない、とうなづく。 「お父様お父様、あの方々は何を送ってきたの?」 正頼の息子の中でも最も小さな宮あこ、家あこといった若君が期待に満ちた目で父親を見る。 「まあ落ち着きなさい」 使いの者が目録を渡す。さらさらと解くと、ほぉ、と正頼は小さく声を立てた。 行正からは、二郎師純以下の男君達に馬と牛を二頭づつ、鷹を一羽。 大宮の方に透箱を。 被物として貰った女装束は、あて宮付きの女房達にと箱に入れ、中に文を入れてよこした。 また、その下仕え達には、縫っていない衣を一人一人に渡る様に送る様にしていた。 「ふうむ、なかなか気が利いているな。あて宮に執心なのは知れているというのに、あえて女房達に送るとは。…さて仲忠の方はどうかな?」 正頼は微笑を浮かべる。 仲忠からは、正頼に対し牛と馬を二頭づつ。 男君の中では、兄弟の契りをした仲純に、丈が四尺八寸ある鶴斑の馬を一頭。 そしてあて宮宛に、女装束を入れた衣箱を一つ、あの黄金の舟をそっと忍ばせていた。 「おや、孫王よ、そなたにも届いているぞ」 畏まりながらあて宮付きの女房はそれを押し頂く。中には美しい絹や綾などが詰められていた。 「まあ何と言うか、皆、それぞれまず馬を射よ、というところか」 正頼はつぶやく。 女君達はあて宮の元へと集まり、送られた舟を我先にと見ようとする。 「すごーい。こんな細工、見たことが無いわ」 「あて宮のためなら、こんな素晴らしいものも、ぽんと仲忠さまは差し上げてしまうのね」 姉君達が口々に言う中、あて宮は舟をそっと手に取り、女房に耳打ちする。 やがて女房は使の者への返しの品を運んで来る。 「これも一緒に返して頂戴な」 返しの衣装の上に、舟を載せる。女君達の間から驚きの声が上がった。 「こんな珍しいものを、どうして」 「そうよ、私だったら絶対取っておくわ」 あて宮は黙って首を横に振ると、歌を書きつけて使者に言付けた。 姉達は呆れてこの冷たい妹を眺めるばかりだった。 だが使者は、すぐに戻ってきた。何事か、と女君達が固唾を呑んで眺める。 使者は再び舟を渡した。そしてこう言い残して戻っていった。 「返事は貰わずに戻ってくる様に、とのことですから」 さすがにこう言われると、またそれを返すのは失礼だろう、と舟はようやくその場に留められた。
贈られた側の気持ちも様々だが、贈った側の気持ちも様々である。 その一人である行正は、正頼邸での反応を使者から聞くと、「まあそんなものかな」とつぶやいた。 「馬を射る…そこまで私は考えてはいないけどね」 ちなみに、舟は東宮に、はたご馬の細工は嵯峨院に、破子は后の宮に贈っている。 細工物が結構残ったが、何処に贈るという宛も無かった。 彼の脳裏を、宮内卿宅での仲頼の姿がよぎった。少しだけ羨ましく思った。 良峯行正には、土産を渡すべき家族というものが無かったのである。
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彼は十歳の時に、唐国人に連れ去られ、そのまま八年もの間、外つ国にて過ごした。 当時彼は、「花園」と呼ばれ、帝にずいぶんと可愛がられた殿上童だった。 その彼が、父の筑紫下向に付いて行った時、それは起こった。 彼の父は唐船が入港する時の検査役だった。 可愛らしい少年が父親の後をついて回りながら、物珍しいもの、目新しいものを澄んだ目でじっと見つめている様に、唐国人は思った。 「何って可愛い子だろう。頭も良さそうだ。我が国で生まれた子にも劣らないな」 やがてその唐国人は、幾度かの検査役一家との交際の後、彼を断りもなく連れて行ってしまった。 彼の父母の嘆きは深かった。目に入れても痛くない程の一人息子だったのだ。 嘆きはやがて彼等の身体を蝕み、八年後、交易船に乗って「花園」が戻ってきた時には、既に彼等はこの世の者ではなかった。 一方、「花園」が戻ったと聞いた帝は、彼を召しだして外つ国でのことを訊ねた。 彼は弁説爽やかに、向こうでの勉学の様子を述べた。 手に入る漢文の書は何でも読んだ。書だけでなく、楽についても熱心に学んだ。特に琴を初めとした管弦の道には本気で取り組んだと。 帝は彼を元服、昇殿させ良峯の家を継がせた。 やがて彼は帝の命で、東宮に琵琶を、その他の宮にも箏を教える様になった。 帝の覚えめでたく、時めいている公達の一人である。 だがその彼には、定まった妻は居ない。 彼を婿に、と思う者も多い。だが彼はそんな話には知らない顔をして、管弦や仕事に日々を過ごしている。 そんな彼を同じ兵衛府に勤める友人が心配してこう言った。 「君は決まったひと、決まった里というものを持たない様だから、どうだろう、うちを里だと思ってはくれないか?」 この友人は左大将の五郎顕純だった。 「うちには小さな兄弟も居るので、ぜひ君に色んなことを教えてもらいたいんだ」 「…そう言ってもらえるのは嬉しいですね」 行正はそれ以来、左大将宅の顕純の居る辺りによく居る様になった。 そんな折、例の美女が同じ邸内に居たな、と思いだし、ふと茶目っ気を出した彼は自分の生徒にこう言った。 「姉上に文をお願いできるかな?」 桜の頃だった。 「そういうことは駄目だ、って言われてるんですけど…」 宮あこと呼ばれている少年は困った様にうつむいた。 「そう? でもお願いだよ。お返事を貰ってきてくれないかな」 「でも…」 なおも言い淀む少年の両肩に手を置き、彼はそっと囁いた。 「お返事を貰ってこないと、勉強を教えてあげないよ」 それは嫌だ、と少年は駆け出した。彼はくすくす、と少年の後ろ姿を見ていた。 返事は期待していなかった。 だが文を出すことは続けた。返事はそれからも全く無かった。 そもそも彼は、返事をもらう気は無いのだ。 彼が求めているのは、別のものだった。
桜の花びらが舞う。 子供達の声が聞こえる。生き生きとした、楽しそうな。 それをたしなめる乳母の声。何処かで誰かが箏や琵琶を弾いている。また何処かでは、漢文を音読する声が聞こえる。 女房達のうわさ話が風に乗って来る。 人の気配。だがそれは決して警戒すべきものではなくて。 「何だ、こんなところに居たのか」 顕純は気が良くて大らかで。 「何をしてるんだい?」 「昼寝でもしようかな、と」 「外でかい?」 ああそうだ、と行正は思う。こんな外でのんびりと昼寝でもできる、この家が。自分をゆったりとくつろがせてくれる場所が。 遠くでまだ小さな姫君達の声も聞こえる。 あの美しい姫とは別の母君を持った。顕純と同腹の彼女達は、兄同様のんびり大らかに育ったらしい。そんな声も耳に楽しく。
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彼は将を得るために馬を射る気はない。 もっと別のもの。 それが何だか、まだ彼には上手く掴めなかったが。
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