一方、仁寿殿の方では仲忠の姿が見えない、と大騒ぎになっていた。 「退出したのか?」 帝は眉を寄せる。 「いえ、その様な知らせは受けておりません。確かに陣からは出てしまわれた様ですが、随身は残しておりますし」 「…逃げたか」 帝は思わず苦笑する。 「先程まで左近衛の幄舎で箏を様々に弾じていたのだから、まさか退出はしていまい。探して連れて参れ!」 だがその周囲を探す者達はからは口々に「中将どのの姿はありません〜」という言葉が続くばかりである。 仕方ない、とばかりに帝は父である兼雅を呼び出した。 「お呼びで」 「ああ兼雅。仲忠にどうしても会って頼みたいことがあるんだが、あれの居所をそなた、知っておるか?」 「おや、只今まで居りましたのに。退出したのでは?」 「では呼んで参れ」 はい、と兼雅は素直に従う。 少しして戻ってきた彼は、これまた予想された答えを返してきた。 「…退出した様にも見られません。おかしな話でございます。…おや、涼の中将がいらっしゃる」 涼は黙ってすっと頭を軽く下げる。 「…もしや、琴をお聴かせする様にあれにお命じになったのではございませんか?」 「如何にも」 「ああ! それでか! 早々と察知して逃げたのでございましょう。我が子ながら、あれは変人ですから。ともかく琴のこととなると、何かと言うと姿を隠して逃げてしまう」 「親にそう言われるまでの変人だったのか」 ははは、と帝は笑った。 「ともかく暫くは御琴はお隠しになり、涼中将も御前に居ないで退出するのだと言い触らしてお隠しなさいませ。でないと、あれは勝手にそのまま退出してしまうでしょう」 「確かに」 助かった、とばかりに涼はその場を立った。 そして近くに居た頼純にこう告げる。 「私は退出致しますからね。もしも主上のお召しがございましたら、気分が悪くなったとでも奏上しておいて下さいな」 「ちょ、ちょっと涼どの」 頼みましたよ、とばかりに涼はその場からぱたぱたと立ち去る。 彼には仲忠の逃げ場所の想像はついていた。 藤壺だ。
「あー、やっぱり居たな」 誰、と仲忠は振り向き様に誰何した。 「私だよ。君のお友達の涼君ですよ」 「…何だ、あなたか…」 仲忠はほっと胸を撫で下ろした。 「私じゃあ悪かった?」 「そんなこと無いよ。でもどうしてここに? 帝からあなたはお召しがあったのでは?」 「どの口がそう言うんだい」 そう言って涼は仲忠の口を横に引っ張る。 「君が居ないって帝が怒ってらしたぞ。君は私すら秋風の様に袖にしたんだな」 「や、そんな訳… だけど。ごめん」 「君らしいと言えばそうだけど。帝がしきりに探してらっしゃるよ」 「…困ったなあ」 「で、ここに隠れた、と」 「僕のことなんか、放っておいてくれればいいのに」 「そうも行かないさ。琴のこととなると帝も院も皆目の色変えていらっしゃる。で、今君の父上が帝の御命令で、君を探してる次第」 「…父上かあ…」 仲忠はため息をつく。 「あのひとは、妙に僕を探すのが上手なんだよ」 「父上に嫌だとは…」 「言えるよ。ふん、今晩は親も子も無い」 「そう言うと思った」 はっはっは、と涼は笑った。 女房達もそんな二人のやり取りにこっそりと楽しんでいた。 当代一、二を争う二人仲良くじゃれている姿は女達にとっては目の保養である。 「私にも琴を弾く様に言われて、困ったものだったよ」 「でしょうね」 「一応帝は、畏れおおくも私のきょうだいに当たられる訳だけど、本当、こういう時には肉親もへったくれも無いね。でも君を探す、という口実で何とか抜け出してこれた」 「ふふん、僕のお陰を蒙ると、そんな嬉しいことが結構あったりするかも」 彼らがそんな戯れ言を交わす間に、藤壺の奥から二人をもてなす酒の肴が出されて来た。 もてなしを受けつつ、二人は話を続けた。 「けど私にも今日は残念なことがあったんだよ」 「何?」 「君が今日は必ず御前に参上すると思ったからさ」 「そんなことで何が残念なのさ」 「何言ってるんだ。私だって君の演奏は聞きたいんだよ。左のなみのりが勝つことより、君の演奏のほうが十倍も凄いことだよ」 「そんなこと無いさ」 「私だって君がそうするなら、と用意してきたこともあるのに」 「用意?」 「ああ、それも駄目になってしまったなあ。所詮君の僕に対する友情というのは、そんな程度のことなんだなあ」 「涼さんまでそういうことを言うんだ」 仲忠はむきになって返す。 「でもね、僕だって笙の笛を調べる時、あなたがここに居てくれれば、と思ったんだからね」 「そうなんだ?」 「そうだよ」 「でしたら」 奥から声がした。 「ここでお二人の演奏を私にお聴かせ下さい」
その様に二人が藤壺で宜しくやっている間、仁寿殿で帝から仲忠を探すように言われた者達は右往左往していた。 近衛司から派遣された者は屋敷の方へと訊ねてみる。その他の少将等も、宮中を隈無く探し回っていた。 そして兼雅は、と言えば。 彼は何となく、父ならばでの想像がついたのか、殿上童を一人連れて陣ごとに回り、仲忠の行方を求めていた。 車も随身もまだ残されていて、戻った様子は無い。 ならば、と彼は皇后の御殿である常寧殿を皮切りに、後宮の方へと足を進める。 そしてそれぞれの局を一つ一つ伺っているうちに、藤壺のほうから箏と琵琶の合奏が聞こえてきた。 彼は自分の想像が当たったことに苦笑した。 「…どうなさいましたか?」 「お前、この演奏をどう思う?」 「え? はい、とても素晴らしいとは思いますが、以前ちらと聞かせていただいた仲忠さまのとは…」 「と、思わせるのがあいつの悪いところなんだよ」 そのまま彼は藤壺へと足を向けた。 上手な奴というのは。彼は思う。こういうことが出来るから厄介だ、と。 彼らはあえて調子を変えて弾いていたのだ。童は誤魔化せても、兼雅の耳までは。 彼は飛び抜けてはいないにせよ、優れた風流人なのだ。
がさ、と人の気配に二人はふと手を止める。 「ああ、居た居た」 「…父上」 「兼雅どの」 童一人だけ連れた兼雅の訪れに、仲忠は本気で驚いていた様だった。 「やっぱりなあ。仲忠、帝がお召しだというのに何をやっているのだ? 早く出て来なさい」 「…そのまま退出したと奏上してくれませんか? 気分が悪くて」 「何処が」 ぽん、と兼雅は息子に言い放つ。 「ここでこんな優雅に演奏している奴を、そんな嘘で取り繕うことなんてどうして私が出来よう?」 「けど」 「ああ全く見苦しいな。だいたい帝も、『退出しました』と聞かれても『では迎えにやれ』とおっしゃられたんだ」 「…」 仲忠の表情が歪む。 「だいたい随身も乗り物もあるんだから、退出したも無いだろう。屋敷の方には近衛司の連中が行ってるし」 「何で僕をそんなに呼びたいんですかね」 「決まってるだろう。そなたの琴が優れていすぎるからだ。観念して出て来るのだな。このままじゃ私が『息子可愛さに隠しているのだな』と思われてしまうのだがな」 はあ、と仲忠は大きくため息をついた。涼はそれを見てくす、と笑う。 「だいたいそなたはいつもそうだ。殿上の交際にしても、あんまり我が儘なことが多いので、私はいつも冷や冷やしているのだぞ」 「私は弾けない時には弾けないと言っているだけですよ」 「それが我が儘だというのだ。そもそも帝の御命令に従わない者は居ない。居てはいけないのだ」 兼雅は本気でそう思っている。涼は感じた。良い意味で実に単純だ、と。 しかし息子は違う。 「それを畏くも帝ご自身からお召しになり、我々皆一斉に探すようにという程なのに… 宮中に伺候している身であるのに、仰せに背くとは何ってことだ。早く参上しなさい」 「…今夜だけはお許し下さい」 「あのな、仲忠」 道理の判らない息子に兼雅は呆れ半分失望半分で言い諭す。 「今ここでそなたの我が儘を通してしまうと、恨まれるのは私なのだよ」 「…」 「それはたまったものではない。今日何も起こらなかったとしても、後々何があるか判らないぞ」 成る程その様に兼雅は帝のことを思っているのか、と涼は冷静に思う。 「ともかく今日だけは引きずってでも行くぞ。そなたはしばしば軽んずるが、しきたり通りにやっていれば何とかなる、ということがこの世には多いんだ。帝はそなたが居ないというだけでご機嫌斜めでいらしたのだぞ。ほら」 そう言うと仲忠の手を掴んで立たせ、そのまま引き立てて行った。 御簾の側では、兵衛の君がくすくす、と笑っていた。 「どうしました?」 涼は彼女に訊ねる。 「いえ、兼雅さまが」 「兼雅どのが何か? 大変そうですね」 「ふふ。仲忠さまのことで頭が一杯だというのは判るのですけど」 「だけど?」 涼はにや、と笑う。彼女の言いたいことが何となく察せられた。 「だって、ここが藤壺だというのに、いつか結構ご執心してらした御方さまのことも、ましてや涼さまのことも全く気付かないご様子だったのが、私、可笑しくて」 そう言えば、と孫王の君もくす、と笑う。 「仕方無いですね。私は彼ほどの有名人では無い。さてこれから彼の活躍を見に行きましょうか」
「…そう言えば、藤壺は居ないのか?」 自分の妃達の御簾の中へ入ると、東宮はすぐさまそう問いかけた。 「せっかく右大将が仲忠を連れてきたといううのに」 「あの方がいらっしゃらないと、私とても寂しゅうございます。あの方がおいでになるのが、私にとっては今日の相撲よりずっと素晴らしいことなのに…」 妃の一人、嵯峨院の女四宮がつぶやいた。 ふむ、と東宮は少し考える。 彼はやがて石や貝についたままの、生の海藻を取ると、藤壺にこう添えて送った。 「どうして今日は来ないのだ? 仁寿殿に皆揃っているというのに。 ―――どうして見ようとしないのだ? あなたは海底の玉藻を採ろうと深く潜る海女の様に表に出ようとしないのだな――― 私には不思議で仕方が無い。今からでも遅く無いから出ておいで」 それを見た藤壺はこう返す。 「―――人が見る/海松ことから逃れて、海の底に隠れようとする私/藻ですが、見る目/海松布が障りになって潜ることもできません――― 皆様の目が怖くて」 ふうん、と東宮は返しを見てうなづく。そのまま彼はそれを女四宮にふらりと渡す。 「ほら御覧。評判ほどじゃあないよ」 彼女はどう言っていいのか迷った。 その間に東宮は一人で帝の御前へと出て行ってしまった。 女四宮は手元に残った返しを眺める。 ああやっぱり素晴らしい手跡だ、と思う。そして同時にこう気付く。東宮は藤壺がこの場に居ないことを喜んでいる、と。 あくまで直感だった。この時は。
やがて仲忠が兼雅に連れられてやって来た。 仲忠は侍従の時代にもその容貌をずいぶんと褒め称えられていた。そして官位も上がった今、その頃に増して、と皆が感じていた。 一方、彼を連れてきた父右大将にしても、まるで親子には見えない。ほとんど歳の変わらない兄弟だ、と眺める皆が感じる。 正頼は他の者と舞いをしている所だったが、二人に気付くと即座に呼びかけた。 「仲忠は今日はまた、申し分も無い随身を連れているのだね。けど中将の君が、大将の父君を随身とはまあ」 仲忠は黙って軽く目を眇める。 「さてせっかく右近の大将が随身というのに、どうして左近の私がしないでいられようか」 そう言って正頼は兼雅と一緒になって、仲忠を前に押し出す。仲忠は聞こえない程度にそっとため息をつく。 「あ、仲忠さまだ」 「何処にいらしたのですか」 仲忠を探し回っていた少将達や近衛の者もそれを見ると、慌ててついて行く。 涼もその中にそっと紛れ込む。そして夕映えの光の中、物憂げな仲忠の姿はまた格別だ、とこっそり思う。
「やあ、やっと来たな」 帝は左右大将を引き連れるかの様にしてやって来る仲忠を見ると、機嫌良くそう言った。 弾正宮が立って御階から下りて仲忠を迎える。 兵部卿宮や他の若宮、それに続き上達部や皇子達、殿上人と、その場に居るありとあらゆる人々が彼を迎えた。 「さて仲忠。宮中に居ながらそなた、どうして私が召した時に来なかったのだ?」 物憂げに首を傾げる息子に代わり、兼雅が口を挟む。 「左近衛の幄舎で、左大将どのがお盃をしきりにすすめられたのを良いことに、この不肖の息子は無闇に呑んでひどく酔っぱらってしまい、深い葎の下に隠れていたのでございます。草の中で笛の音が聞こえたものですから、そこを探してようやく見つけました」 「なるほど、草笛を吹いたのだな」 帝はくっ、と笑う。 「隠れ遊びをしたのでしょう」 「酔っていても遊びの腕前は忘れられないものとみる。 ―――大宮の中で今何も恐れる事を知らない人/仲忠は、何を恐れて誰と葎の下で臥していたのかな――― 今も人なぞ居ない様な態度ではないか」 仲忠はそれを聞いてようやく口を開く。 「―――大宮には知り人もない松虫/私は野原の葎で寝る方が気楽なのでございます。相手が居るなど以ての外」 ふうん、とそれを聞いていた東宮も口をはさむ。 「さぁて、その葎が何処なのか、私には判るけどな。 ―――松虫が訪れた葎の宿では、一緒に泊まった露が物思いに耽っているだろうよ」 仲忠はあくまで表情を崩すこともなく、返す。 「―――おっしゃる野で宿ることを許されたなら、松虫/私はわざわざの葎を頼りどころとは致しません」 東宮はその歌を正頼に回す。 「―――もし松虫に宿を貸すならば、秋風に違った香の花が現れるでしょう」 正頼はそう詠むと、歌を弾正宮に回す。 「戯れ言でしょうが、懸想人の一人だった私のことも思い出してくれたのですね。 ―――毎年秋になると、野辺に匂う花をよそに見ては、松虫/私は空しく旅に時を過ごすのです――― 私は悲しくて辛い、とそれだけ申し上げたいと思います」 さて、と帝は強情な仲忠を見ながら考える。 どうやったらこの青年に物を言わせることができるだろう。 仲忠はその時、帝からやや遠い席に居たのだが、近くへと呼んだ。 碁盤を持って来させ、相手をするように、と命じた。 「…さて、何か賭けようか」 ぴく、と仲忠の頬が震える。 「そうだな、大事なものはよそう。ちょっとした口約束がいい。三番勝負だ」 帝はそう言うと、相手に黒石を持たせた。 仲忠はやや躊躇したが、ぱちん、と石を盤上に置いた。 帝の碁の腕はなかなかのものである。宮中の者と勝負しても、大概は勝利する。 それを仲忠が知らない訳は無い。 有利な条件で賭けを持ちかけている。帝も判っている。彼は勝てる勝負を、賭けをしたいのだ。 ただ相手は仲忠である。 彼もまた、非常に強い。気は抜けない、と帝は思っていた。 一方仲忠は。 おかしい、と見ている涼が見るほどにいい加減だった。 魂が何処かに行ったままだ、と思った。 おそらく未だに彼の心は先ほどの藤壺での遊びの中にあるのだろう、と。 思わず涼は額をはたく。何をやっているんだ、と。 彼は帝の考えが手に取る様に読めただけに、ぼぉっとしている仲忠の背をしゃんと伸ばしてやりたい気分だった。
そうこうするうちに、一番は帝が勝利した。 ふと仲忠の目が見開かれた。 涼はちら、と自分の方に向けられた視線に、思い切り顔を歪めてやった。このままだと負けるぞ、と。 その思いが通じたのか、二番は仲忠が勝利した。 だが三番で。 「あ」 思わず仲忠は声を立てた。ふ、と帝は笑った。 「あそこで打ち損なったな」 結果、一目の差で、帝の勝利となった。 「そなたらしくもない」 「いえ実力です」 「さぁて」 実に楽しい、と帝は心底感じた。仲忠がこんな風に打ち間違えることなど、滅多に無いのだ。 一番にしても、気合いが入っていないことなど、帝にはお見通しだった。 それ故にさっさと勝負をつけた。真剣にさせるために。 だから二番は負けた。これは本気だ、と嬉しくなった。 そして三番で。 「さぁて」 実に嬉しそうに帝は言う。 「約束通り、言うことを一つ聞いてもらおうかな」 「何をすれば」 「何、難しいことは無い。もっとも、この趣深い秋の夕暮れなんだもの。私がそなたに言い出すことは並々のことじゃあないよ」 「…」 「そなたももう少し気を付けて勝負をすれば良かったものを」 「自分に出来ますことならば」 「そなたに出来ないことがあるのか?」 「人間ですから、出来ないことくらいあります。しかしその時には理由を申し上げましょう」 「出来ることなら承諾するんだな」 「仰せ事を伺ってから御返事申し上げます」 成る程、と帝はやはり一筋縄ではいかないことに気付く。 仲忠の前に一つの琴が持ち出された。涼はそれを見て成る程、と思う。自分に出された琴「せいひん」だった。 「これこそ今日の口約束には相応しいことだと思うがな。胡茄の調子に合わせてある。それを変えずに音の限り繰り返し弾くのだ」 仲忠はじっと琴を眺めていたが、やがてぱっと顔を上げた。 「…畏れながら、これ以外の仰せ事でしたら、死も厭いません。主上がもし『蓬莱の不死薬、悪魔国の優曇華を採りに行け』と仰られても、仲忠は出来る限り力を尽くしますが、只今の仰せ事だけは、蓬莱山や悪魔国に使いとしてお遣りになるよりも難しゅうございます」 すると帝は大声で笑った。 「二人と得難い勅使だな。だが今蓬莱の山へ不死薬採りに渡ったところで『使いに立った少年少女ですら舟の中で老い』『蓬莱の島は見えても山が見えないと嘆いて』帰るに過ぎないさ」 「…」 「機知に富む秦の始皇帝の徐福、漢の武帝の文成でも、とうとう行き着けなかったその蓬莱だぞ。今そなたがこの日本の国から、何処へ行っていいのかも判らずに不死薬を求める使いになるのは、少々面倒ではないのか?」 少々、の部分に帝は軽く力を置いた。 「それこそ子供達と同じじゃないか?」 「…」 「そうそう、それに道中、佳い女に捕まってしまうかもしれない。文成が遊仙窟に留まった様に! ああ、それだとやっぱり『二なき勅使』そっくりと言えるかな」 それに、と帝は今度はやや真面目な口調になる。 「悪魔国に優曇華を採りに行くとしたら、逆の心配事が起こるだろう」 「逆の」 「そなたは両親が心配ではないのか?」 ぐっ、と仲忠は拳を握りしめた。 「かの金剛大師が南印度から優曇華を採りに渡った理由は知っているだろう?」 はい、と仲忠は答えた。 「彼に悪意を持った当時の皇后が、隣国から親しい人々を迎えて歓待するから、と大師を送り出したのだ。しかし遠い所だ。自然と年月が経ち、親族との死に目に会えずに嘆いたという。そなたも急に親を見捨てて悪魔国に渡るとしたら、どうも少々考えの無い不孝者になるだろうな」 意地悪だなあ、とそれを聞いていた涼は思う。 仲忠にとって確かに両親は大切である。だがその一方で複雑な思いを持っているものである。少なくとも、そのたとえで使われるのは嬉しくないだろう。 「だから、私が言っているのはそんな二とない難しいことではなく、ここでちょっとそなたが知っている調べを一つ弾く様なことだ。優しいことではないか」 そうは仰いましてもね、と涼は内心ため息をつく。 ここで帝に「諾」と言ってしまったら、この先どれだけ佳いように使われるか判らない。自分同様、仲忠はそれがたまらなく嫌なのだ。 琴は自分の好きな時に、好きな様に弾きたい。彼と違って人に幻覚を見せる様な腕を持たない自分でもそう思うのだ。ましてや。 しかし帝は続ける。 「不可能な使いになど行かずに、ただこの琴を一手弾いて聴かせさえすれば、あの不死薬や優曇華を採ることに劣らないと言っているのだ」 おお、と周囲から声が上がる。それほどに、と皆が驚く。 「不死薬を口にした者は一万もの歳を生きるという。かの国の皇帝は困難な使いを遣って、そんなありもしない薬を探させた。優曇華にしたところで同じだ。人の、短い命を長らえさせようとするものだ」 ありもしない。 さらりと流した言葉だったが、そこに涼は帝の聡明さと、仲忠を言葉で責め立てることに楽しみを感じていることを感じた。 「そなたが今夜の賭けに負けて薬や優曇華を採りに行くというのを、ああそうかと言って蓬莱山や悪魔国まで勅使として立たせることは私にはちょっと出来ないことだね」 ちょっと、に力を込め、くすくす、と帝は笑う。 「私がこんなにもそなたを近くに置いて親しくなったというのに、そういう恐ろしい使いとして遠い遠い所へ旅立たせてしまったなら、私はきっと後悔するよ。ああ何であの時仲忠を行かせてしまったのだろう、可哀想に可哀想に、と。それは今生きて、そなたを育てた人々も同様だろう。両親の嘆きを見たいのか? 不死薬を求めに行く途中に死ぬ様なことがあっては本末転倒ではないか」 「…蓬莱は行くには難いところではございません。ただ、不死の薬が枯れてしまったのです」 おや、という様に帝は仲忠を見る。 「ほう。だけど今日は玉山にあるという西王母の家に居るかの様だ。西王母は不死薬を持つという。何でも願いが叶う様な気がする」 「きっと護衛には少年少女が居りますでしょう」 「海は広く風も早いというのに、それをどう止めようというのか?」 仲忠は苦笑する。 「尤もでございます。その様な使いはできません」 そしてその一方で、琴の弾けない趣も漢詩に作って帝に披露する。 「…まったくぬけぬけと言うものだな」 結局自分が負けてしまうのか、と帝は悔しくなる。それでは何か琴以外では無いものか、と考える。 ふと一つのことが浮かんだ。 「…ああもう仕方が無い。そなたに琴を弾かせるのは無理の様だ」 仲忠の表情が一瞬にして緩む。 「では仕方が無い。その代わり、そなたと良く似た手の者を召しだして参れ」 「似た手」 仲忠の表情が再び引き締まる。帝の思うところを即座に理解したのだろう、と涼は思う。 「…そうですね、この筋の手でしたら、右近将監の松方が」 「松方の手は度々耳にする。もう少し珍しい弾き方をする者は居ないのか」 「…心当たりはございません」 「女の中に居るだろう。思い出してみよ」 ぐっ、と仲忠は唇を噛む。やはりな、と涼はそれを見て思う。 「父方の親戚にも母方の親戚にも、女は大変少うございます。女の方で思いつく方は居りませんし、男では松方以外には」 「そうか?」 「母方の親戚には、祖父の俊蔭朝臣の琴を受け継いで弾く者もありましょう。しかしそれも、さほどのものでは… 少なくとも仲忠の耳には入ってきません」 「まあそれはそうあろう。身分の高い殿上人で、俊蔭の才をそのまま伝えた者は居ないのか? 絶対に無いとは言えないだろう。それこそをそなた自身の代わりとするがいい。そう、できるだけ早く!」 「主上」 「そなたの手すら聴けないのに、それすら無理だと言うのか、何と悲しいことよ」 「それは」 「連れてきなさい。そなたに直接教えた筋のひとを」 もう断れそうにはなかった。
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