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作品名:うつほに吹く風 作者:江戸川ばた散歩

第21回   第二部 有心の族 第三章 節会当日と帝の悪戯心

 当日になり、まず朝の賄いを仁寿殿女御が担当した。
 この日の女御はとっておきの衣装に身を包んでいた。
 花文様のある綾に模様を摺った裳。
 その下に唐の綾を重ね、赤色の唐衣に二藍襲の表着、そして更に下に掻練の袿をまとっている。
 元々の容貌の美しさも加わり、まずこのひと叶う女は居ないだろうな、と帝は思う。
 その昔、帝は仁寿殿女御と右大将兼雅との間を疑ったことがある。
 実際は、女御がまだ入内するかしないかの頃、兼雅が言い寄ったことがあるというだけである。
 女御はそれをさらりとかわし、入内以後も時々趣のある文を交わす、というだけである。現在はその文のやりとりも特にはしないらしい。
 帝は内に居る女御、外に控えている兼雅を見比べる。
 二人とも非の打ち所も無い素晴らしい者達だ、と帝は思う。
 …そしてふと怪しい考えが浮かぶ。
 ―――この女御と大将の二人は、一緒に置いても似つかわしい者達だ。親しめる花盛りの春なり、紅葉の秋なり、そんな風情のある夕暮れに、この二人が睦まじく未来を語り、お互いに深い心を打ち明け、語り合っている場面… それもなかなか良いな。
 ふふ、と帝は想像して微笑む。
 ―――私ばかりではない。そんな情景が実際にあったなら、聞く人見る人誰もが心を引かれてしまうだろう似つかわしさだ。
 いかんなあ、と思いつつも、ついこうも考えてしまう。
 ―――いちど二人を揃えて夫婦の様にして見てみたいものだ。  
 そう思いながら女御の賄いの采配、兼雅の相撲の準備をじっと見比べる。
 その立ち居振る舞いや人々に指示する様子が不思議と同じ位に素晴らしいものであるのに驚く。
 ―――そう、こんな感じだ。
 一つの行事に共に取り組む姿は、夫婦のそれに近いものだ、と帝は想像が現実になっている様な思いにかられた。
 ふと見ると、側に女郎花の花が生けられている。
 帝はそれを見るとふっ、と笑い、一つ取ると、御座所の外へと差し出し、こう詠んだ。
「―――薄く濃く色付いた美しい野の女郎花を、庭に移し植えて、花に置く露の心を知りたいものだ―――
 さて、この歌の意味を理解して説明できる者は居るか?」
 問いかける。
 最初に兵部卿宮が受け取って見た。
 誰か自分の手の内にある者を外の誰かにやったら?
 その程度には彼も理解できる。だが帝の本音は判らない。どの女性のことを言おうとしているのか。
 だが彼はこの時、承香殿女御にほんのりと懸想している身でもあった。
 「色好み」の彼である。あて宮の懸想人であったことは過去として、いつでも恋の一つや二つは身の回りに漂っている。
 彼はこう書き付け、兼雅に回した。
「―――籬に咲く女郎花が様々に良い香りを放っています。何処の野辺であれ、その女郎花が移し植えられることを待っていることでしょう」
 一方、回された兼雅は、正直帝の言わんとしていることがさっぱり判らなかった。
 仁寿殿女御への思いは確かにあるのだが、そこは彼、帝までがそれに気付いているとは思ってもみないのだ。
 彼は首を傾げながらもこう詠んだ。
「―――香り高い女郎花が、仮に賎しい野辺に移し植えられたならば、野辺の蓬は女郎花をあがめてやまないことでしょう」
 そして正頼に回す。
 彼はさすがに帝の意味するところに気付いていた。
 この時の賄いは自分の娘である。それに先日の文比べのこともある。何かしら含むところがあるのだろう、と考えた。
「―――私はこの女郎花/娘を双葉の幼い頃から大事に大事に育てて、野辺に移し植えようとは考えてもみませんでした。誰の手も触れずに、籬の中でそのまま老いよ、と思っております」
 そう詠んで、正頼は仲忠に回した。
 正頼は受け取った仲忠を見る。すると仲忠はにっこりと笑った。
「―――撫子/姫を大勢育てた女郎花/親は、美しい撫子を籬/宮中の中に移し植えて楽しんでいるのです。その女郎花を花の親と崇めましょう」
 正頼はそれを聞いて、なるほど、とうなづいた。
 帝は戻ってきた花と歌を見ると、皆が銘々に受け取り方に楽しくなった。
 なるほど、兵部卿宮は承香殿をね。
 兼雅はなるほど、思った通りだ。
 そして仲忠の歌を見て、帝は思わず笑った。
 何て奴だ。こちらの考えていることの更に上を詠んでいるな。
「仲忠はどの様に理解した?」
 あえて帝は聞いてみる。
「深くは存じ上げませんが、…けどさほどに間違っているとは思いませんが、如何でしょう?」
「ふふん。なかなか賢く空とぼける奴だ」
 帝の笑いは止まらない。

 相撲の勝負が始まった。
 そのうちに日も高くなり、御馳走の賄い方も承香殿女御に変わった。
 時間が過ぎ、日が高くとも夜の御膳部の時刻となる。
 この時は式部卿宮の女御の番ではあったのだが、彼女は事前にこう承香殿女御にこう頼んでいた。
「昼の番をお願いできません?」
 そこで承香殿女御はこう答えた。
「夜も引き続きしてもいいとおっしゃるのなら引き受けましょう」
 そんな訳で、夜になっても承香殿女御がその役につくこととなっていた。

 相撲の方は、四人の相撲人が左右それぞれから出場し、皇子達、上達部、大将、中少将皆観戦しながら応援していた。
 無論音楽の方も忘れてはなるまい。
 帝は、面白い勝負が続いたため、賄いの女御の容貌や装束が素晴らしかったにも関わらず、気を止める余裕すらない。
 十二番勝負が終わった時には、勝敗は五分五分だった。
 左右それぞれが決着をつけるために全員引っ込んだ時に、ようやく彼女の姿を見ることができた位である。
 夕暮れの光の中、承香殿女御は不思議な程に美しかった。
 時間のせいだろうか、光のせいだろうか、彼女の美点という美点が格別際だって見えた。
 帝はちら、と彼女と噂の立った兵部卿宮の方を見る。
 ―――今日この日、この二人はただそのまま見過ごしてしまうことの出来ない人々の中にいるのだな。彼も彼女もお互いに見交わしてしまっては、たとえ身の破滅となろうとも、私としたところでそのままにはしておけないだろう。
 などとまた、帝は先ほどの仁寿殿女御と兼雅の様に想像にふける。
 ―――よく見ると兵部卿宮も承香殿も、何と素晴らしい男女なのだろう。こういう二人の間柄は、さすがに表には現せず、心持ちを隠しているところがあって、その範囲でどういう恋の囁きを伝えるのだろう? その言葉の中には、世の中にある限りの少しでも見所聞き所のある良い言葉は語り尽くしているだろう。その二人が言い交わす様子をぜひ見てみたいものだ…
 ふふ、と帝は含み笑いをし、食事をしながらも承香殿女御に向かって囁く。
「今日の賄い方は、皆にお酒を奨めるはずだ。とりわけあなたは、誰かにおっしゃることがあるのではないか?」
「賄い方としての私が、御酒を差し上げたい様な方はございませんわ」
 女御はさらりと返す。
 その言葉を兵部卿宮が聞きつけた。
「今日は御盃の頂ける相撲の節ですよ。ぜひ私に」
 彼はやや茶化した口調で言う。帝はそれを聞いて笑う。
「そんなふうに、おいしく頂きすぎて倒れる方も居るだろうね」
「倒れる方/負ける側に廻れば、思いが叶って勝つことになりましょう」
 なるほど、と帝は思った。
 兵部卿宮の言葉といい、様子といい、切実な思いは隠そうとしても隠しきれないものなのだ、と。
 そして思う。
 ―――さぞ苦しいだろうな。こうして二人を並べてみるとこれもまた実に似つかわしい二人なのに。
 ―――杯を女御に上げる様な者がないが、本当に無いものか、そっと試してみよう。
 帝は承香殿女御に向かってこう詠みかける。
「―――つわもの/兵部卿宮の心の中に、あなたが宿るのは私にとって辛いけれど、乙箭/あなたが甲箭/兵部卿宮と並ぶと、お似合いだ。
 だから私はあなたを咎めないよ」
 女御はそれを見て返す。
「―――世間によくない評判が聞こえておりますので、射ら/いらいらして心配致しております」
 東宮がそれを取った。
「―――秋の夜を待ち明かして数を書かせる鴫の羽を、今は乙箭/承香殿の側に並べましょう。
 同じことなら、その様に二人が一緒になるのが宜しいでしょう」
 そして兵部卿宮に回す。
「―――大鳥の羽は独り寝の寂しさと降る霜のために片羽になったようだ。今度は乙箭に霜が降って片羽になるでしょう/私達は皆さんのおっしゃる程深い関係は無いのです。
 覚えのないことですね」
 そう詠んで弾正宮に回す。
「―――夜が寒いのに、羽も隠さない大鳥/風聞の羽に降った霜/古い評判がまだ消えないものですね/あなたのことは前々から評判なのですよ。お隠しにならないから。
 はじめに評判されたのがよくなかったのですね」
 次に正頼に回す。
「―――消えてしまわないで、夏をさえ過ごす霜を見ますと、そのために冬の霜は甚だしかったのだろうと思います」
 弾正宮の歌を受けた正頼は兼雅に回した。
「―――花/承香殿にさえ早く飽き/秋が来て冷淡/霜になれるのだから、野のあたりの草が思いやられます。
 あなたのそら言が恐ろしくなります。私は知ってますよ」
 などと皆で、ここぞとばかりに「色好み」の兵部卿宮を冷やかすのだった。
 最後に兵部卿宮がそれに返した。
「―――美しいのも美しくないのも、秋の野辺の花さえ見れば、浮気な人は先ず差別なく摘んでは捨て、捨てては摘んでばかりいますね、確かに」
 やはり「色好み」と昔言われた兼雅に対する皮肉のつもりだったが、自分自身にも返って来ることを、彼自身やや悔しく思った。

 そうこうしているうちに、左右を決する試合が始まることとなった。
 ということで、左方からは、名だたる「下野のなみのり」が出てきた。
 なみのりは今まで三回上京しては、相撲の試合に出ている。だがその中の一回は、あまりにも強すぎて、相手が居なくて帰ってしまったという天下の強者である。左方の相撲人の中で、なみのりの相手になる者は居ないのだ。
 正頼はここ一番では彼しかない、とばかりになみのりを出してきた。
「今度の試合で勝負が決まる筈だから、どうしても左方右方お互いに張り合って奮戦するだろう」
 正頼はそう思う。
 一方右方は「ゆきつね」を頼りにするしかなかった。皆神仏に祈願を立て「勝たせ給え」と念じていた。
 人々は思う。
「今回の相撲の勝ち負けが決まらないと、きりが無い。まさにこの二人の最手で決まるのだな」
 帝はその様子を見て命ずる。
「左方にせよ、右方にせよ、今日勝った方は、ここに参上している人を分けて、負け方の司や官人を送りなさい」
 よし、とばかりに最後の勝負が始まった。

 ―――左が勝った。

 勝った左方から、四十人の舞人が出てきて、御前に出て舞いを始めた。
 それを皮切りに、楽人など、皆一斉に管弦の遊びを始め、その場は大騒ぎとなった。 
 正頼は杯をなみのりに渡す。そして自分の袙を脱いで、褒美として取らせた。  
 相撲の結果を満足そうに帝は見る。
「近年、嵯峨院の御時にも、私が即位してからも、見所のある行事はさほどになかったが、今日の相撲は非常に面白かったな。現在の左右大将達のおかげだろう」
 そう一人、つぶやく。
「後の人々に、仁寿殿の相撲の節は吹上の九月九日に匹敵すると言わせたいものだ」
 それを聞きつけた東宮が口を挟む。
「何と言っても、今日のこれこそは、と思われたことは左右大将以外の人達には出来ませんよ。多くの者に勝っている、天下のあらゆる物事が今日は出尽くしたと思われます」
「それで終わりのつもりか?」
「いいえ」
 東宮はふっと笑う。
「仲忠や涼なら大将達のしたこととは違う、それでいて素晴らしいことをすることでしょう」
 は、と帝は軽く口元を上げる。
「彼らは手強い。そう簡単には我々とて、動かせるものでもなかろう。…とは言え、いつもいつも断られているというのも癪に障るな。ともかく涼を呼ぶがいい」
 帝がそう言うと、すぐに涼が呼ばれて来る。
「何か」
「おお、涼。今日の相撲の節は素晴らしいものだったな」
「は。非常に面白うございました」
「そうだろうそうだろう」
 帝は大きくうなづく。
「いつもの節会よりずっと面白い日だ。そこで、だ」
 ほら来た、と涼は思った。彼は自分が呼ばれた時から嫌な予感がしていた。
「もう一つ面白いことをして、出来ることなら後代の手本とできたら、と思うのだ。人がそうそうしない様なことをしたい。そこでそなたともう一人を思い出した」
 仲忠のことだな、と涼はすぐに気付く。
「院がそなたの所を訪れた時の九日の催しは、唐土にもそうそう無い珍しい例となった。今日のこの節会もぜひそうさせたいものだ」
「はあ…」
「そこで、だ。そなたがあの日弾いたという琴を」
「…それは」
「院の前で弾けて、私の前では困るというのか?」
 くく、と帝は笑う。困った、と涼は思う。
「無論帝の仰せなら何でもお応えしたいと思います。ですがここしばらく、あの折りに弾いた琴は今後は弾くまいと決心致しまして…」
「ほぉ、それはまたどういう」
「精進しなくては、と。心を入れ替えて、それまでの技術も全て捨ててしまったので、ここでご披露できる様な手はまるで覚えておらず…」
「何を言っている。そういうことは私に言うべきことではない。ああ全く、仲忠もそなたも山賎共にも等しい奴だな。それではそういう者達の言葉は今後聞かないことにしよう」
 涼は困った。
 無論帝の言い方からして戯れ言であるのは判っているのだが、仲忠の普段の態度が態度である。帝はおそらくそれを思い出してやや苛つくのだろう。
「いえ、少しでも思い出すことができるのなら、お弾き致します。ただ、さっぱりかけ離れてしまって」
「涼よ」
 ずい、と帝は軽く涼に迫る。
「そなたが拒めば拒むだけ、私は仲忠の琴をも聴けなくなるのだよ。あれはともかく私の言うことは聞かない。琴を弾く者の性状だとは思ってはいるのだが―――そなたはどうなのだ? あれの琴は聞きたくは無いのか?」
 聞きたい。涼は思う。箏ではなく琴。あの人々の心を幻の中に陥れる様な琴をまた聞きたいとは思う。
 だが一方で「それは危険だ」と警告する声もある。
 仲忠は自分の琴の持つ力を知っていて、自重している。だがその意味を帝をはじめ、誰も判らない。
 そしてそれは、自分の口から言うべきものでもない。涼は思う。
 帝はそんな涼の思いには構わず、続ける。
「弾く曲を覚えていないで全く不安であるのは当然のことだろう。だがそもそもそなたには深い才があるのだから、琴に向かって手を触れさえすれば、自然に思い出してくるものではないのか?」
「…」
「半分くらいは覚えていよう?」
 そう言って帝は側にあった「六十調」という琴を胡笳の調子にして差し出し、命じた。
「胡茄の声で折り返して、笛に遭わせて弾きなさい。そなたの師、弥行から伝えられた『このは』を琴の音の出る限り弾くのだ」
「困ります。一向に他の手など、まして胡茄の手など… どうぞ、この調をやめて、元に戻して下さい」
「まだ言うか」
 微妙に帝の声に怒りが混じる。まずい、と思った瞬間だった。
「―――仲忠となら」
 涼の唇から一つの名がこぼれた。
「仲忠の朝臣が一緒でございましたなら、彼の弾く調子に、失われた記憶も僅かながらに思い出すことでしょう」
 なるほど、と帝はにやりと笑う。
「あれとて、涼、そなたが一緒に弾くというならばその気にもなるかもな」
 それはいいかもしれない、と帝はうなづく。
「仲忠は何処だ?」

 その頃の仲忠だが。
 彼は左近の幄で勝利の祝いとばかりに笛を楽しく吹いていた。
「珍しい、彼があんなに」
 周囲もその妙なる音色を楽しんでいた。
 そこへ。
「仲忠どの、帝のお召しらしいですぞ」
 同僚が囁く。帝と涼の会話を聞きつけたらしい。
 まずい、とばかりに仲忠は笛を持ったままその場からそっと抜け出した。
 だが何処に隠れたものか、とばかりに彼はうろうろするばかりである。隠れたところで内裏の中である。何とかして人に見つからないところ―――
 彼の足は、藤壺に向かっていた。

「…まあ、仲忠さま」
 彼の姿を見つけるが早いが、孫王の君が声を上げる。変わらない。しゃんとした姿勢。
「ああ久しぶり。元気だった?」
「元気でしたけど… どういたしましたの? 只今は、まだ相撲が」
「うん、その話もしたいけど、ともかく今はちょっと匿って欲しいんだ」
「困ってらっしゃるのですか?」
 兵衛の君も驚き、そう問いかける。
「ええそうなのです。帝の急なお召しで」
「それで逃げてらっしゃるのですか? 情けのうございますわ」
 容赦の無い兵衛の君の口調に、仲忠は苦笑する。
「でもちょっと困るお召しなんだ。退出する訳にもいかないので、ちょっとだけ隠して欲しいなと思ったんだ」
「帝のお召しを困る、とかおっしゃる悪い方をどうして隠すことができましょう? 私達が他から言いがかりをつけられるのも嫌ですわ」
「別に悪いことをした覚えは無いよ。君こそこっちで一杯悪いことを覚えたのではない?」
「私は別に。でも中将さま、こことは言いませんわ。何処かで悪いことをなさってるのじゃあありませんこと? 火の無いところに煙は立ちませんわ」
 それには答えず、仲忠は御簾と几帳の間に隠れて、下長押に寄りかかった。
 そして奥に確実に居るだろう藤壺の方―――あて宮に向かって直接呼びかける。
「今日の様な晴れの日に参殿なさらない方は、ずいぶん罪深い方だと思いますよ。格別の行事でしたから」
「そんなに凄かったのですか?」
 兵衛の君は問いかける。
「ええ勿論。ですから、藤壺の御方さまがあんなに結構な素晴らしい行事を御覧にならない様では、並々の罪深さではない、と思うのです」
 どうですか? とばかりに仲忠はあて宮に向かって問いかける。あて宮は兵衛の君を通して答える。
「あなたをここで私が見逃すのも、また罪になるのでは、とのことです」
「時々ここに伺候しているうちに、御方さまに僕も似てきたんだろうな」
 まあ、と女房達はくすくすと笑う。
 言う程彼はここにやって来ている訳ではない。
 通っていると言えばむしろ、ここに仕えている孫王の君の元だ。それは女房達の皆が知っていることだった。
 孫王の君はそれを顔にも出さないが、周囲の同僚達は、女一宮の婿として選ばれている彼との仲を皆心配していた。
「…というのは冗談ですが、ともかくあんな面白いものを御覧にならなかったのが残念でたまりません。いや、本当に面白かったんですよ」
「…御方さまは、この頃ちょっと体調が優れないので… ところで、どちらが勝ったのですか?」
 兵衛の君は尋ねる。実は彼女もそれには興味津々だったのだ。
「何言ってるの。左近ですよ左近。僕が居る方なんだから」
「だから左では無かったんじゃないか、と思ってたのですわ」
「君もなかなか言うね。まあいいや。でもだからこそ、ぜひ御方さまには御覧になって欲しかったのですよ」
 確かに、と女房達はうなづく。それに何と言っても、左近の大将はあて宮の父、正頼だ。そちらに勝って欲しいに決まっている。
「御方さまがいらっしゃると思っていたので、舞なども張り切っていたのですが、居ないと知った途端、まるで夜の錦の様に張り合いの無い話でした」
「仲忠さま、『ここで一曲演奏して欲しい』と御方さまが」
 兵衛の君が伝える。どうだろう、とそれを聞いていた孫王の君は思う。おそらく彼は帝から演奏を強いられそうになったので逃げてきたのだ。
 仲忠はふんわりと笑う。
「御方さまが合わせて下さるなら、いくらでも」
 兵衛の君は主人の方を向く。言葉を伝える様に彼女は促される。
 仲忠は繰り返されるそのやり取りに、ふとこう口火を切った。
「高麗人などの様な外国人には通訳がつくということですが、ここはそんな場所では無いと思いましたが、奇妙なことですね」
「『独楽/高麗を上手にお回しになる方でいらっしゃるからでございましょう』」
 その様に通訳混じりの会話を交わすうちに、日も暮れてきた。 

 夕暮れどき。
 秋風が涼しく彼らの側を行き過ぎる。
「―――秋風は涼しく吹くけど…」
 などと上の句だけを詠んで、そこにあった箏の琴を引き寄せ、かき鳴らす。
「そうお詠みになるということは、頼みになる女性が何処かにお有りになるのでしょう?」
 兵衛の君が笑って問いかける。
「ここ以外には何処も」
「けど、野にも山にも、というではありませんか」
 古歌を引き合いに出す。「―――あなたのせいで、私の浮き名が春の霞の様に野にも山にも立ってしまったではないですか」と。
 引用には引用を。仲忠もまた、古歌を引き合いに出して返す。
「それは『人の心の嵐』でしょう」
「だけど、『真風』とも言いますわ」
「けどそれは今は皆『木枯らし』になってしまったよ」
「それこそ、空一杯に声が広まりましょうよ」
「まず先に、立ってもいませんよ」
「春頃から何かと噂が立ってますわ。それは如何ですこと?」
「『秋霧の降る音』がどうして聞こえないことがあるかなあ?」
「その秋霧が『晴れない』のは見苦しいですわ」
「まあね。晴れないのは僕も侘びしいと思うのだけど」
「そう仰っても、仲忠さまのためなら、喜んで『宿を貸す人』もあるでしょうに」
「けど春の宮/東宮からはそういう訳にはいかないでしょう」
「宮中には御宿がありますでしょう」
「それを通り過ぎた/逃げてきたのは月影だって見たと思うのだけどね」
「それこそ白雲/知らないですわ」
「…じゃあ、ちょっと真面目に。何かと決心しかねることが、月日を増すごとに重くなって行くのはどうしたものでしょうか?」
 兵衛の君は困った。懸想人の様ではないか、と。慌てて主人の方を見る。
 だがあて宮は怒る様子も無い。兵衛の君は仕方なく冗談で返そうとするが、上手く言葉が出て来ない。
「真面目な話になると逸らしてしまうんですね」
 それはそうでしょう、と兵衛の君は思う。そしてちら、と同僚を見る。孫王の君は動じていない。
 何故! と彼女は思う。
 その視線に気付いたのか、孫王の君は苦笑する。
「ああ、あなたのことではないんだ。世の中で侘びしいものと言えば独り棲みだよ。ねえ君、あの方に判って頂こうというのは無理ってことで」
 にやりと仲忠は笑う。ああそうか、と兵衛の君はやっと気付く。言葉遊びだ、と。
「今となっては『結ぶ手もたゆくとくる下紐』と申し上げても甲斐のないということで」
 と。
「『浮気な朝顔の花に下紐を解く』とか聞いてますよ。あなたは私に実を見せてくれるのですか?」
 あて宮の声だった。女房達は驚く。
 と同時に、これは遊びなのだ、ということが彼女達皆が納得できた。
「同じように吹くすれば、あなたのお役に立てる風になりたいと思います。
 ―――夕暮れの秋風よ、旅人の草の枕の露を乾かしておあげ―――
 独り寝の淋しさに『涙で濡れない暁』はありません」
 するとあて宮がそれに応える。
「―――色好みの人の枕を濡らす白露/涙は秋/飽き風で一層勝るでしょう。―――
 あなたが飽きてお忘れになった女の方々は少なくないのでは?」
「そんなもの、ありませんよ。
 ―――『秋風のむなしき名』は秋風にとって無実の浮き名ですよ。その浮き名ばかりが有名になったものだな―――
 目立つことでもないのに、ひどいですね。どちらがあだ人でしょう?」
「―――秋風が吹いてくれば、荻の下葉も色付くのに、どうして『むなしき名』と思うことが出来ましょうか―――
 真面目には見えませんよ」
「それはあなたさまのことではありませんか。
 ―――秋風が荻の下葉を吹くと、人を待つ宿では女が心を騒がすだろう」
 するとあて宮はころころと笑った。周囲の女房達は主人の珍しい類の笑いに驚いた。
「―――籬の荻のあたりをたとえ風が吹いても/私の元にどんな男が訪れても/どうして返事など致しましょう」
「それはまた、もどかしいことですね。
 ―――多くの下葉を吹く浮気な風に心を動かさず、私にいらっしゃいと言っていただきたいものです」
 まあ、とあて宮は再びころころと笑い、仲忠もそれにならった。
 そのまま仲忠は軽く箏をかき鳴らすに留めた。


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