さて、あちこちでは節会のために改めてあつらえた装束が仕上がりつつあった。 右大将家もまた然り。 「ほほう、これは素晴らしい」 「母上、とてもいい感じです」 「喜んでもらえて嬉しいわ」 北の方は微笑んだ。 彼女は彼女で気合いを入れて、夫と息子のために絹綾を沢山取り出して、染め物や裁縫を指示したのだ。 しかし。 「…どうした仲忠、せっかくの母上の装束だぞ。そんな浮かぬ顔をしてどうした」 兼雅は息子に問いかける。 「…いえ、何と言うか、東宮さまの所へ参上したいと思うのですが、どうも何となく行きかねて」 「何だ何だ。参上して藤壺の御方と話をすれば気分の悪さなど吹っ飛ぶだろう?」 「父上は単純でいいですね」 あっさりと言う息子の言葉に、う、と兼雅は押し黙った。 「ああすみません父上。でもちょっと今考えているのはそういう類のことではないので」 「まあ、お前は私よりずっと賢くて何考えているか判らないところがあるからなあ。それだからこそ、藤壺の御方が入内する前にも懸想人の中では良く返事をもらったのだろうなあ。私など全くもらえなかった様なものだし」 「父上」 北の方の前だったことに気づき、兼雅は思わずぱっと口を手で押さえた。
*
その様に左右近衛府が大騒ぎしている間にも、帝は帝で悩みがあった。
ぱちん。 石を打ち、仁寿殿女御は顔を上げる。 「…どうなさいました?」 帝は囲碁が大層好きだ。宮中でも強い方である。 そしてまた、仁寿殿女御もなかなか強い。二人はいい勝負相手となることが多かった。 「え?」 「碁のあいだに考えこまれるなど、お珍しいですわ」 「うん、まあ…」 帝は言葉を濁す。 「心配ごとなら、私にもどうぞ分けて下さいまし」 「うん、そうは思うのだがな…」 ぱちん、と帝も石を置く。 女御は帝の様子を伺う。確かに最近、帝は何かと考え事ばかりしている様だった。 ぱちん。 「私のことより―――」 盤上に目をやりながら、帝は口にする。 「あなたこそ最近身体の調子がいまひとつの様だが、大丈夫か?」 「暑さのせいでしょう」 「そうかな? 誰か通う者が居るのではないか?」 ぱちん。 「何をおっしゃいます」 「昨夜蔵人をそちらに使いにやったけど、来なかったね、いや、最近よくそういうことがあるじゃないか。何か私に恨み言でもあるのかね?」 「そんな。本当に暑さのせいですわ」 ぱちん。 「まあそれならそういうことにしておこう。けどそんなに気分が悪いというのも何だね、もしかして、おめでたかな」 ぱちん。 「今はそういうことはございませんわ…」 「さあ、今は無くてもね」 「『夏虫の…』ということもありましょうに」 ぱちん。 そんなことは今は無いこともご存知でしょうに、と女御は帝の間男のほのめかしに対し、古歌にぼかして言う。 だがこの日の帝はややしつこかった。 「実際この頃はあなたを思う人が大勢居るらしいよ。熱心に言い寄られればいくらあなたが堅いひとだったとしてと、とろけてしまうのではないかな」 ぱちん。 「まあ、誰に濡れ衣を着せようと仰られるのですか、全く… 昔ならともかく、今のこの私にそんなことがあるとお思いになるのでしょうか」 ぱちん。 「…ああ、何という相盗人達でしょうねえ」 帝は嘆息する。 「全く何方のことを仰るのですか」 「右大将はいい男だね」 ぱちん。 「まあ。そんな昔のことを今でも仰られるなんて!」 「昔のことかな。今でも文を交わしてはいるのではないかな」 「冗談でも、そんなこと仰らないで下さいな」 ぱちん。 「冗談じゃあないね。兼雅は色好みではあるけど、そのあたりを差し引いてもいい男だと思うから私もつい疑ってしまうのだよ。…そうそう、弟の兵部卿宮もそうだな。別に身内だから誉める訳じゃあないよ。彼もまたいい男だから言ってるんだ… そうだね、私が女だったら間違いなく落とされているだろうね」 ぱちん。 「まあ確かに宮は素晴らしい方ですが」 「そうだろう。だから私も心配になるのではないか。少し心ある女だったら、あの兵部卿宮がここぞ、と狙いを定めて口説きにかかったら、まず逆らうことなんてできやしないだろうね。そう思ってみれば、もしあなたがそうであったとしても無理もないだろうなと思うので、私は何も見て見ない振りをするんだよ。兼雅もそうだな。何かあっても、何となく許したくなってしまう…」 盤面を見ながら帝はつぶやく様に言う。 戯れ言だ、と女御は気付いている。 言葉遊びに過ぎない。こちらの手を狂わそうとする目論見かもしれない、と女御は思う。 帝は自分にそんなことがあるなどと、全く信じてはいない。周囲の女房達は微妙にはらはらしている様子が伺えるが、子を沢山為した、夫婦としての付き合いも長い。冗談と本気の区別くらいはできる。 「それで?」 ぱちん。戯れ言の続きをうながす。 「兵部卿宮にしても同じだね。彼は自分を見る女に、自分を恋させる様な魅力があって、そうそう、吉祥天女であってもそれには負けてしまうだろうなあ」 ふふ、と女御は笑う。 「あなたの凄いところは、そんな宮にも兼雅にも深入りしなかったところだね。ただし今どうなっているかは判らないが」 ぱちん。 「嫌ですこと。最近の宮は、妹の方に懸想している様でしたわ。私のことなどすっかりお忘れになった様子で、母宮にもずいぶんとくどくどと仰っていたご様子。私など全く全く」 「藤壺の―――あて宮か」 成る程、と帝はうなづく。それまでと微妙に声の調子が変わる。 「あて宮なら仕方がなかろうな。およそ男と名のつく者、あて宮に恋しない者は居なかっただろう。何せあの滋野の致仕の大臣や高基の朝臣さえ狂わせてしまった程だ。いやもう私は高基に恋ができるものかとびっくりしたものだったよ」 ぱちん。さすがにその折りのことを思いだし、女御は苦笑する。 「その一方で、私は不思議に思うことがあるのだよ」 帝は腕組みをして盤面をにらむ。 「…どうやら私の負けの様だな」 ふふ、と女御は笑う。 「まあ仕方なかろう。心が千々に乱れている時に勝てる訳がない。あなたのことといい、仲忠のことといい」 「まあ、不思議なのは仲忠どののことですの?」 「仲忠が、というよりあて宮が、だな」 「妹が?」 盤と石を片づけさせ、二人は改めて差し向かいになる。 「どんな天下に珍しいしっかりした女でも、仲忠の方にさえ気持ちがあれば、女の方でも心は動かされないという様な男だ」 確かに、と女御は思う。 孫王の君などいい例だ。 女御はあて宮の使いで度々やって来る彼女と話をするたびに、しっかりした女性だと感じる。殿上人達のからかいにもさらりと返して負けることが無い。それでいて嫌味も残さない。 そんな彼女も、仲忠には落ちた。 身分がどうという問題ではない。続いていることが問題なのだ。彼女は仲忠との仲を続けさせている。彼女自身が仲忠のことをとても好きなのだ、と女御は思う。 「そんな仲忠に、よくもまああて宮は心を動かされなかったと思う。感心するよ。よほどゆかしい心持ちなのだな」 「…そうですね」 違う、と女御は心の端でつぶやく。妹はそういうものではないのだ、と。 他の妹より出来の良いとされている美しい妹。今でも東宮が側に置いて、端から見苦しいまでに寵愛されているという。 だがその気持ちはどうだろう。 奥ゆかしい。外側から見ればそうかもしれない。父母が言うには、誰が示唆した訳でもないが、東宮以外には冷淡な返事しかしなかったらしいという。 だがそれは東宮に気持ちが靡いていたからという訳ではないと彼女は思う。 例えば自分。 何も知らない少女の頃に、正頼の大君ということで入内が既に予定されていた。父も母もそのつもりで彼女に教育を施した。それが当然だと思っていた。 だが妹は違う。 確かに東宮のもとに入内させるに相応しい歳ではあったが、そうと決まっていた訳でもない。 選択肢は色々あったはずだ。実忠あたりなど、本気を出せば正頼とて許さなかったことはないだろう。 だがあて宮はそうしなかった。させなかった。 東宮に、という意志がそこには存在した。 それは「ゆかしい」とは違う。違うと女御は思う。逆だ、と。 彼女は東宮妃に、という強烈な意志をそこに持っていたのではないか、と。 ただ少しだけ、女御には気になることはあったが… 「それでも仲忠どののことは嫌いでは無かった様ですわ。他の方より沢山返事はしたということですし。とは言え、二人とも本気で思い合うというところまでは行かなかった様ですが」 「うーん。二人の間に交わされた文はどんなに趣深いものだろう。見てみたいものだな。そう、仲忠か…」 ふう、と帝はため息をつく。 「やはり物思いがございますね」 「仲忠。そう、仲忠なのだよ。それに涼だ」 「涼どの」 突然出てきた名に、女御は驚く。 「神泉苑の宴の時、二人に約束しただろう。素晴らしい二人の琴の腕に、あて宮を涼に、そして私達の女一宮を仲忠に、と」 確かにそういうことがあった、と女御は思い出す。 「あて宮のことでずいぶんとばたばたしておりましたから、すっかり忘れておりましたわ」 「薄情な方だ」 帝は笑う。 「…そろそろそっちも何とかしなくてはならないと思うのだ。で、涼にはあて宮の下の妹をあげたらどうかと思う」 「今宮ですか」 驚いた様子を女御は見せる。予想はしていた。実家からの知らせで、最近は今宮の元に何かと求婚者が文をよこしているというのだ。 ただ父母は何か考えることがあるのか、それらの文を全て今宮の目に触れさせることはなく捨てているという。 「今宮は構わないと思うのですが… 女一宮はどうでしょう。降嫁させるには、仲忠はまだ位がやや低く、頼りないのではないでしょうか」 いやいや、と帝は手を振る。 「心配なさるな。天下の何処を探しても、現在の世の中で仲忠ほどの婿がねは居まい。見ただけでもこっちの気持ちが良くなる様な男だ。放っておいても出世もするだろう。婿にということで地位も上げてやることもできる。だからあなたが賛成してくれればもっと嬉しいのだが…」 「…涼どのに一宮、今宮を仲忠どのに、というのではいけないのですか?」 「ちょっと考えることがあってな。そのあたりで少し悩んでいたのだが…」 「私は」 母としての心がぬっと彼女の中から突きだして来る。 「仲忠どのは確かにいい方だと思うのです。だけど少しだけ気になって…その」 「うつほ住まいのことかね」 黙って彼女はうなづいた。 確かに現在の仲忠は素晴らしい人物だ。疑うことない事実だ。 しかし彼がその昔、山のうつほで貧しい暮らしをしていたというのも事実だ。それが彼女の心を迷わせる。 普通の貴族の没落した貧しさ程度ではなかったという。 兼雅に近しかったことで、彼女のもとには新しくやってきた妻と息子の情報は事細かに伝わってきていたのだ。 兼雅が流した奇跡の賜物の様な素性も、かなりが虚構だということを彼女は知っている。 つまりは、流れ者に近いものではないか。 流れ者の成り上がりじゃあないか? 素晴らしい公達だ、努力の賜物だ、と思う一方で、そう思ってしまう自分が居るのだ。 「…ですから私には決められません。一宮が、あの子が可愛いからこそ、どうしても私にはそのあたりが決められないのです」 成る程、と帝は大きくうなづく。 「彼の素性を気にするあなたの気持ちは判る。だが大切なのは現在だろう。それに彼はこれからもどんどん素晴らしい人物になっていくだろう。心配は要らない。相応しい位を与えれば、彼の中身もきっとそれについてくるだろう。仲忠はそういう人物だ」 「…いま少し考えさせて下さい」 「左大将と相談かね? きっと正頼は嫌とは言わないだろうね。むしろ孫である一宮より、今宮に娶せたくて仕方ないのではないかな」 そうかもしれない、と女御は思う。 「本音を言えば、私は女一宮との間に、琴の名手の血を伝えさせたいのだよ。左大将とそのあたりも話したいものだ」 琴か。 それでは仕方があるまい、と女御は覚悟を決めた。 彼女とて、その点だけは何を置いても認めざるを得ないのだ。 「父上をお呼びなさい」
「お帰りなさいませ。まあ、どうなさったのですか」 戻るなり難しい顔になり、どん、と座り込んでしまった夫に大宮は驚く。 帝からの急のお召しだった。何か粗相があったのか、近づいている相撲の節会のことで難しい依頼があったのか、と大宮はとっさに想像を巡らす。 「いや、仁寿殿に参上したらな、例の中将達のことを切り出されてな」 「中将どの達の?」 どの中将だろう、と大宮は一瞬迷う。 「仲忠と涼のことだ。神泉苑での褒美の話を覚えているだろう?」 「ええ、でもあれは所詮口約束だったということでは」 「確かにそうかもしれない。しかし帝が仰せられるには、やはり彼らの処遇はきちんとしておきたいということなのだ」 まあ、と大宮は身を乗り出す。 「それで、何と」 「帝はあの折り、仲忠に女一宮を、と。そして涼には今こそを、と仰るのだ」 「今宮…ですか」 「帝は仲忠の琴の才を子孫にお伝えしたいらしい。ともかく女一宮と仲忠を、というあたりを強調された」 「女御は何と」 「帝が仰るのなら、と微妙に奥歯に物が挟まっている様な感じだったがな」 「まあ」 娘の危惧するところは母には容易に想像がついた。 しかし母は娘ほど深刻に考える質ではなかった。仲忠という人物はどんな生まれであれ、現在はとても素晴らしい若者だ、と彼女は信じていたのだ。 「婚儀は八月半ばに。もうこれは決定だそうだ」 はあ、と大宮は目をできる限り大きく広げた。 「…まあ、想像はしていた。だからこそ、あれに来た文はお互い見せない様に処分していただろう?」 「それはそうですが、いざ現実に、というかこの忙しい時に、というか」 「まあいつだって我が家はごたごたと忙しいから、そのあたりは慣れているからいいだろう。一気に済ませてしまうというのも一つの手だろうな」 「そうですね」 大宮はうなづく。 「…しかしそうなると、他の姫達のことも気になりますね。皆もう一応結婚はできる様になりましたし…」 「向こうの姫もか?」 「ええ、あちらの方から聞きましたの」 成る程、と妻達の仲の良さに、正頼は感心する。 「今こそは涼に。正直、彼は同じ源氏だし、物持ちの向こうの財目当てではないかという評判が立つのではないか、と心配ではあるのだよ」 「でも帝の仰せでしょう」 「それが救いといえば救いだな。しかし何というか、婿取った者がこっちの後見でもって出世していくのを見るという楽しみには欠けるな… まあ、あとは今こそ自身が果たしてきちんと奥方に収まってくれるか、だが…」 うーむ、と正頼はうめいた。しかし大宮はあっさりとこう答える。 「何とかなるでしょう」 「…あれがか?」 「一度度胸を決めたらあの子は強いと思いますわ。私だってそうでした」 「そ、そうなのか?」 「ええ。私の子ですもの」 母は強し。正頼はそう感じずには居られなかった。 「さてそれでは、その下の子達はどうしたものかな。あてこそに懸想していた方々に差し上げるのが一番丸く治まると思うのだが」 「…そうですね、実忠どのは特にそう思いますわ。どうしたものでしょうね」 「実忠と兵部卿宮と右大将、それに平中納言に十一の君から十四の君は差し上げよう。さて誰に誰が似合うかな」 「そうですね、私の子の方しかこうとは申し上げられませんですが、袖こそには右大将どのが良く似合うと思いますわ」 「そうだな。袖こそは右大将にもよく似合う。それに彼の好みに合っているだろう。けすこそは―――あれも少し今こそと似たところがあるな、何やら自分の好みがある様だが」 「けすこそを実忠どのに、ではどうでしょう」 「そうだな。それでは向こうの人とも相談してみよう」 「皆それぞれ美しく育ってくれて嬉しい限りだ」 正頼はふとつぶやく。 「今こそもなかなか美しく、堂々と成長したものだと思うな」 「あの子は顔だちなどはあてこそとそっくりなのですが、髪と、あの気性が…」 大宮は苦笑する。 「それを考えると、あてこそは何処といって非の打ち所の無い、見るからに素晴らしく生い育った子だとは思いますが…」 完璧すぎるのだ、とは大宮は言わなかった。 「まあだからこそ、東宮さまの現在まのご寵愛も無理ないことだろう。今こそを内裏に入れてしまったら、どういう騒ぎが起こることか、想像するに恐ろしい」 正頼はふとため息をつく。 「…もっとも、あの子がああなったのは、あてこそが完璧すぎたからかもしれませんが」 大宮は思う。 自分のあて宮に対する何処とない隔意が、今宮をあの様に奔放な子にしてしまったのかもしれないと。 およそ姫君には相応しくない、はきはきした言動だの、好奇心旺盛なところだの、理屈に走りがちなところなど。 姫君としての美点を全て兼ね揃えたあて宮にはそれは存在しない。 大宮は自分で生んだ子ながら、そのあたりが空恐ろしく、ついつい年子である今宮にはそのあたりについて厳しくすることを無意識に怠ってしまったのかもしれない。 まあそれはそれでいい、と彼女は思う。涼がそんな彼女を気に入らなければ、自分がずっと一緒に居るだけだ、と。 できれば相手が物好きであってくれれば嬉しい、と半分思いつつも。 その様にして正頼の三条殿では、相撲の節会の支度と平行して、沢山の婿を迎えるための支度が行われれつつあった。
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「なかなか大変そうであるな」 上達部や皇子達が仁寿殿に参上した日、帝が正頼に向かって言った。 この日、正頼は三条殿から果物や酒を取り寄せていた。 未だ暑さは残るとは言え、空や風の何処そこに秋の気配を感じる日のことである。 「ようやく風も涼しくなってきたことだし、今度の秋の節会は面白く満足できるものが見たいものだな」 帝は東宮に向かって言う。 「人の寿命は短いものだ。生きているうちは楽しいことを見て暮らしたいものだ」 「毎年次々とある節会ですが、同じことなら父上の御代に於いて珍しい『例の』行事としたいものですね。昨年、院が吹上行幸の折りに行った九月九日の節会は、例よりは面白いものとなったでしょう。そういうことがまたあったらいいのだが」 最後の言葉は周囲の上達部に向けたものだった。 「年中行事の中で、どの節会が特に良いものだろうな。皆はどう思う?」 すると正頼が答えた。 「年中行事の節会はどれもこれも趣があって良いものではございますが、中でも朝拝や内宴の折りのご様子がたいそう面白く、美しいものだと思います」 「ほほう。例えば?」 「三月の節会は、桜が早く咲いた時にはまずそれが大層素晴らしいものでしょう。五月の節会は、花は菖蒲の他にはさほどにありません。ですが短い夜が明ける頃、時鳥の声がほのかに聞こえる様子や、雨の降る日の明け方の菖蒲の風情なども宜しゅうございます。また、ほんの少し時期を過ぎた橘などが残っている時には、その香りもほのかに、大層趣の深いものでございます」 「では七月七日はどうだ?」 東宮は問いかける。 「七月七日は、残念ながらさして格別な面白いことはございません。やることは決まっておりますから、その時々の工夫によりましょう」 「だが私は索餅は好きだぞ」 くす、と東宮は笑う。七夕の節会には、内膳司から索餅という、麦の粉を固めてねじって縄の形にした菓子を供する行事がある。 それを微妙にかわして正頼は続ける。 「九月九日は、あの吹上の折りが、格別素晴らしいものでした。それより後の年中行事は、五月五日の節には劣ると思われます」 うむ、と帝はその答えを聞いて納得した様にうなづく。 「良い答えだな。私もそう思う。五月五日の節会に勝るものはない。花橘や柑子などが、その季節が過ぎて古くなったとしても、珍しいものの一つとして称えられるのが面白いものだな。それに騎射や競馬もやはり面白いしな」 と言って帝は笑った。 「それにしても、まだ陽の光は厳しいな。夕暮れとなってもこの様子だ」 「いい加減涼しい風が吹いて欲しいものですね」 皆でそう言いながら、夕暮れになるまで物語を続けていた。 「吹いて欲しいな。確か今日は立秋でしょう」 誰が言ったのだろうか。七月十日、確かに秋の始まりとされる日である。 だが夕暮れとなっても、西日はきつく、むっとした大気は人々の頬をどんよりと撫でて行くばかりである。 「秋らしい風よ、吹けーっ」 誰かが思わず天に向かって叫んだ。 と。 ふわり、と風が吹いた。 その中に微かに混じる涼しさに、そこに居た皆が秋を感じた。 帝は笑って言う。 「ほほう、皆の祈りが天に通じた様だな。 ―――珍しく吹き始めた風が涼しいのは、今日が初秋だと知らせているのだろう」 それを御簾の中で聞いていた仁寿殿女御が、こう応える。 「―――いつの立秋でも、秋らしい様子を知らせますけど、特に今日は風が秋を深く感じさせますね」 すると帝は笑った。 「だが秋風はまだ外に居て、あなたの居る御簾の内には入っては居ない筈だよ。 ―――秋は来たものの、まだ御簾のうちにも入らない初秋を、心にしみるほどに知らせる風は、どんな風だろうね――― その通りだ、と応える風は無いかな」 「それはどうでしょうね」 正頼が娘をかばう様に詠みかける。 「―――訪れて外に立つ/秋が立つことを頼んだ訳でもございますまい。浮気な秋は、出てきても過ぎ去ってしまうものなのでしょう」 それを聞いた帝は立ち上がった。 「清涼殿へ戻る」 もしやお怒りを、と正頼は少しばかり危ぶんだが、帝の女御への言葉で救われた。 「今夜はおいでなさい。あなたときたらここのところ、こちらから迎えを出しても、何かと返してしまうのだからね」 御簾の内から女御の声も少し柔らかにこう伝わってきた。 「返しやすい使いですので―――嘘です」 笑う気配がする。 「―――夏でさえも衣を隔てていましたのに、どうして秋/飽きの風を今更厭ったり悲しんだり致しましょう。迷わず参上致します」 「早くいらっしゃい」 「すぐにでも」 「いつもの様に使いだけを返したりはしないように。…まあその時には、私から出向けばいいな」 あっはっは、と帝は笑った。 上達部達は帝について清涼殿へと向かって言った。 やがて清涼殿から女御に使いがやってきた。女御は早速清涼殿に上っていった。
正頼が三条殿に戻ると、中の大殿では十四の君をはじめ、大殿の上腹の若君達が涼んでいた。 「やあ、皆居るね」 「先ほど涼しい風が少し吹きましたので、皆で涼もうと」 「お久しぶりですわお父様、さっきから上の上のお兄様がずーっと何か言いたげですのよ」 十四の君、けす宮は今宮にも似た口調で父親に向かってもずけずけと話しかける。 彼もまた、この末娘に対してはやや甘くなる。 「何かね、忠純」 は、と忠純は遠方の国々から送られてきた絹や糸の相談を始める。 「どういうものがあるのか、持って来させてくれ」 「用意してあります」 「準備がいいな」 「だから、ずっと待ってらしたって言ったでしょう?」 くすくす、とけす宮は笑う。これ、と大宮は娘を軽く叱る。 長兄はその様子を丁重に無視し、その場に届けられた絹や糸を並べる。 「なかなかの出来ですわね。…そう、相撲の節会の時の、大君やあて宮の装束はどうしましょうね」 「言うまでもない。この賄いで全て染物縫物をさせればいい。とは言え、よくよく注意してさせなさい」 「裳のほうはもう山藍やつゆ草などで色々の模様を染めさせましたわ。唐衣はまだですけど」 「おお、準備がいいね」 「何かと忙しくなりますもの」 大宮はそう言うと、ふふ、と笑った。 それを聞いているけす宮は、何処か他人事の様である。大宮はまだ彼女には直接結婚のことは伝えていない。
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相撲の節会の準備は家司達にとっても大仕事である。 中でも家司の少将義則は、それまでの同僚が左遷されてしまったことで大変な目に遭っていた。 「どうやって御盆にはいつもの数を揃えたらいいんですか?」 部下が義則に問いかける。いつもだったら、少将和政がそういうことは先に指示していた。彼の居なくなったことは痛い。 「早稲の米を使うところなんだが… 今年は収穫が遅いんだよなあ…」 どうしたものか、どうしたものかと彼は考え込む。同じ困るでも、同等の者が居ると居ないではずいぶん違うのだ。全くあの治部卿が! 内心彼は毒づいた。
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節会の前日には、内裏でも帝の妻にあたる女性達が、自分達の当日の役割分担をしたり、化粧を整えたりしていた。 当日の朝の賄いは仁寿殿女御。 昼の賄いは承香殿女御。 夜には式部卿宮の女御が担当となる。 その他、更衣のうち上位の十人もその役目を負うこととなった。彼女達は滅多に見られない有紋の裳唐衣を身につけて働いていた。 御息所達で賄いの手伝いをしない者は無く、髫髮の少女達だけが、何もしないで待っていた。 女蔵人も皆高貴な身分の人々の娘達で、五節の舞姫になった者も居る。 最も賎しい仕事をする蔵人でも、他の人にひけを取らない要望や身分の者で、髪上げをした様子も実に立派である。 その十四人のうち、半分は五節のお召しの蔵人、半分は雑役である。 また、昇殿を許されている命婦の三人、許されていない内侍にしても、皆立派である。 仁寿殿に当日奉仕する予定の美しい女達は、すぐにでも参上できる様に準備している。 やがて、右近衛大将をはじめ、多くの人々が集まりだした。楽人も準備が整った。 皆たふさぎの上に狩衣袴、という相撲装束をつけ、各組を示すひさご花の飾りを髪に挿している。 左右近衛はおのおの、幄舎を設けて控えている。普段から立派な人々なのだが、この日は更に皆、二藍の美しい装束を身につけていて、非常に素晴らしい。
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