「あなたはどう思っているか知らないけれど」 拳を握りしめ、一人の少女がまくし立てる。 「私はあの方、一番困った人だと思うわ」 「そうかしら? 一番熱心じゃないの」 その側で、別の少女は目をきょとんとさせて問いかける。 「確かに実忠さまは、一番熱烈なお文やら贈り物を下さるけど、何か私、あのひと嫌」 「そぉ?」 「そうよ」 「そうねえ」 更に別の少女は脇息に頬杖をつきながら言う。 「あなたはもっと若くて綺麗な方が好みだものね」 「や、そういうことじゃあなくて」 「違うの?」 「や、それはそれで違わないけど… もう!」 くすくす、と少女達は笑い合う。 そしてそれを傍らで眺める少女がもう一人。薄い笑みがその表情を覆っている。 「んもう、そもそもあなた自身はどうなのよ、あて宮」 「…そうね」 それ以上の答えは無い。
*
都の三条大宮に、数町の広大な屋敷が建っている。 今を時めく左大将、源正頼邸である。 「三条殿」と呼ばれるそこには、彼とその妻子、そしてその連れ合いが同じ屋根の下に暮らしている。 正頼は妻を二人持つ。身分といい、後ろ盾といい、どちらも正式な妻である。 その彼女達からは息子が十二人、娘が十四人生まれている。 そしてそのうち、帝の妹君である大宮から生まれた子供達は特に出来が良かった。 女御となっている大君を初めとして、息子達は将来を嘱望され、娘達には次々と求婚者が現れた。 中君から八の君は既に婿が通う身である。 宮や大臣、さもなくば将来を期待される若者の元に彼女達は縁付いている。 故に現在、男達の視線は、そのすぐ下の娘に向けられている。 「左大将の婿」という地位が欲しい者、好色な者、ただひたすらに純情に慕う者、理由はそれぞれであるが、狙いはただ一つである。 九の君、あて宮。 彼女はそう呼ばれている。
*
「また黙って。あて宮は誰が好きとか、そういうのは無いの?」 少女の一人はぐっと身を乗り出す。 「あなたはいつもそうやって本当のことを知りたがるのね、今宮」 あて宮は今宮と呼ばれた少女に問い返す。 「ええそうよ」 良く似た顔同士が近づく。 「私は色々なことが知りたいの。全てがはっきりするのが好きよ。姉上達とは違ってね」 そしてぱっ、とあて宮から離れると、あはは、と口を大きく開けて今宮は笑う。 彼女は十の君。あて宮の一つ下の妹である。 顔立ちは姉と良く似ている。美しいと言って間違いは無い。 違うのは印象だ。 明るく華やかな色の小袿をまとい、その上に艶のある黒々とした真っ直ぐな髪が流しているあて宮に対し、今宮は地味な色合いの細長に、やや赤みがかった髪を耳ばさみに後ろで括っている。 この時代の美しさはその「印象」にかかっているだけに、二人の違いは大きかった。 「あなたの乳母が嘆くわよ、また」 「構わないわよ。ねえ一宮」 脇息にもたれていた少女に呼びかける。少女は身体を起こし、ねえ、と今宮と声を揃える。 一宮と呼ばれた彼女は今宮と同じ歳。 姉妹ではなく、姪にあたる。彼女達の一番上の姉、仁寿殿女御と呼ばれる女性の娘で、帝の「女一宮」である。 女御が生んだ宮は皆、この三条殿で育てられた。 特にこの女一宮は、あて宮と今宮、そしてもう一人、結婚したばかりの八の君、ちご宮と一緒に居ることが多かった。 そして女が集まると姦しい。 この時期、彼女達の話題は、あて宮の求婚者に集中していた。 「さて、今までどれだけの人から、あて宮はお文を頂いたかしら?」 一宮が訊ねる。 「沢山よね」 ちご宮は答える。 それに応える様に、今宮は指折り数える。 「確か、右大将兼雅さま、平中納言さま、源宰相実忠さま、兵部卿宮さま、兵衛佐行正さま、藤侍従仲忠さま、源少将仲頼さま、それに一宮、あなたの兄上の弾正宮もね」 「ふふふ。上野宮や、致仕の大臣、それに滋野の宰相なんてどう?」 一宮が面白がって付け加える。 あて宮は不愉快そうに眉を微かに寄せる。 彼等三人はある方面では有能だが、多くはその奇行ぶりで冷笑の的となる者達だった。 「ああ、それと何と言ってもこれを忘れてはいけないわ。東宮さまもその一人!」 「どの方が一番素敵だと思う?」 一宮は皆に問い掛ける。 「難しいわねえ。皆それぞれに素敵な方じゃないの。それに私にはもうその話をしても仕方ないでしょう」 既に夫を持つ身のちご宮は苦笑する。 「ああ御免なさい。でもそれはそれとして」 「それはそれとして?」 「そう、それはそれとして」 それなら、とちご宮は首を傾ける。 「何と言っても、姿が素晴らしいのは、仲忠さまかしら。美しい方よね。でも私、行正さまの声は好きよ」 「あの方は確かにいい声だわ。でも少し軽薄そうに感じるのよね。本気が感じられないって言うか。丁寧すぎるって言うか」 今宮は軽く眉を寄せる。 「姿なら私も同じだわ。仲忠さまが一番よね。今の都の若い方で、あの方に姿形で勝るひとなんて居るのかしら、ねえ、一宮」 「もう!」 一宮は頬を赤らめ、大きく首を横に振る。 「…蹴鞠の時なら、仲頼さまが結構格好良かったわ」 「そぉねえ。あの方は動いている時の方が格好いいのよね。お歳はもう右大将さまに近いというのに元気だこと! 仲忠さまは全然そういうことはしないのが残念」 「お父君の方は? ねえあて宮」 「立派な方ね」 短く答える。 三人の少女はまただ、と吐息をつく。 今宮は思う。一体、この姉には好きとか嫌いとかいう感情があるのか、と。
*
今宮は姉の求婚者の大半が嫌いだ。 そしてその中で一番嫌いなのは、源宰相実忠である。 彼は熱意がある。恐ろしい程にある。それだけは認める。 だがそれが、彼を嫌いな最大の理由であった。 今宮は自分づきの女房に調べさせていた。
実忠があて宮に思いをかけ始めたのは、裳着の式を行った十二歳の二月からである。 あて宮の乳母子である「兵衛の君」に渡りをつけて、雁の卵に歌を書き付けて渡したのが始まりである。 あて宮はその時こう答えたという。 「その卵の様に、恋心が孵らないことを願うわ」
次に彼は、桜の花びらに歌を書き付けて兵衛の君に渡したという。 困った兵衛は「誰宛とも知れませんが」とあて宮に見せた。 するとあて宮はこう言ったという。 「誰ですか、兵衛に言い寄って来るのは」 無論、誰宛てかなどお見通しだった様である。
また別の時である。 島が趣深くできた洲浜―――風景の模型である―――に千鳥を幾羽か行き違いに歩ませたものが送られてきた。 大層手の込んだものであったせいだろうか、あて宮はこう言って兵衛を怒ったと言う。 「どうしていつも困ったものを私に見せるの」 だが兵衛もここは引かなかった。 「まるで物事を知らない方の様に思われますよ」 と。 そこまで判らないひとだと、自分の姫君が思われたくないのだ、と彼女は暗に訴えた。 そこであて宮はこう言ったという。 「では兵衛の言葉としてお返しなさい」 そして歌を返した。 実忠はたいそう喜んだとのこと。
しかしそれで味をしめたのだろうか。次の文にはこう書かれていたという。 「強いて申し上げたのでお気に触ったと思います。これからは思い切って文は出さないことにします。 ―――死ぬと言ったら世の中の人は物笑いにもするでしょうが、私にとっては、いっそそれも本望です。あなたを思い続けている私の命はあなたの思いのままなのですから」 兵衛はため息をつきつつ、今度ばかりは、と頼み込んだそうである。 仕方なくあて宮も歌を詠み、今度は自分からのものとして渡したという。その歌もまた実につれないものだったという。 だがそんな歌であっても、それを受け取った実忠が嬉しがったことは言うまでもない。
そしてとうとう、月の美しい夜に寝殿に立ち寄った実忠は、兵衛を呼び出し、庭の花の美しい様子と共に、自分の苦しい物思いを切々と語ったという。 御簾のかげで聞いていた女房達も貴公子のその様子にすっかり同情した。 特に「木工の君」という経験長い女房は、その場にいた主人達にこう訴えたという。 「この様にあの方におっしゃらせて、こちらが何もしないということがありましょうか」 だがあて宮はそれには平然として応えなかった。代わりに仕方ない、とばかりにちご宮が動いた。箏の琴を弾きながら、歌を返したのだ。 ちょうどその時、今宮もその場に居合わせた。彼に対する嫌悪感が生じたと言ってもいい。 実忠は聞こえてきた箏の音と歌に対し、喜びに満ちた返しをした。 さてそこで、今宮の中に微妙に気持ちの悪いものが生じた。 ちご宮の歌自体が、誰とも推測のできないものだったからかもしれない。だが実忠の返しもまた、誰に対してなのかはっきりしないものだった。 彼女は実忠が居なくなってから、ちご宮に尋ねてみた。 「あの方は、さっきのがお姉様なのかあて宮なのか判っているのかしら」 ちご宮は困った顔をした。そして取りなすように木工の君が答えた。 「こういう場面では、実際には誰であっても良いのですよ」 それに彼女は余計にむっとした。 それじゃあ「あて宮」という名がついていれば、誰でもいいということになるじゃないの。 彼女はそう思ったのだ。 おりしも上野宮による「偽あて宮略奪」事件が起きた頃である。 古皇子上野宮は、あて宮の懸想人の一人であったが、こともあろうに、彼女を盗もう、という行動に走ってしまった。 元々無頼の者などを多く身内に入れている宮のことである。乱暴にやり方であれ何であれ。結果さえよければ満足だったのだろう。 だが事前に計画は漏れ、素知らぬ振りで左大将正頼は、美しいが身分は低い少女達を使い、偽あて宮を用意して盗ませた。 上野宮はそれに満足し、その偽あて宮との盛大な婚儀をあげ、…今もってそれが偽だと気付いていないのである。 それでは、今この目の前にいるこの姉は、一体何なのだろう。 そんな気がしないでもない。 確かに美しい。 だが、自分や姉と並んで鏡で見比べた時、何処がどれだけ違うのか、という気がしないでもない。 そして噂ばかりで懸想する男達。
実忠はその後、志賀に詣でたり、比叡山に籠もっては歌を送ってくることが多くなった。 あて宮はそれに対しては、返したり返さなかったりと、気まぐれだった。正直、兵衛の君も自分の主人の気持ちを量りかねた。 とりあえず彼にはこう言っているという。 「あて宮様は、あなた様に北の方がいらっしゃることが気がかりの様です」 そう、彼には既に妻子が居るのだ。 三条堀川のあたりの自宅に北の方を据えて、真砂子君という息子、袖君という娘と共に、仲良く暮らしていたという。 だがあて宮に懸想してからというもの、彼は左大将の屋敷に客人としてずっと居座り、家には全く寄りつかなくなってしまった。 「いやもう何というか、哀れで…」 偵察に出した彼女の女房は涙ながらに語った。 二人の子のうち、十三になる真砂子君は、特に父親が大好きで、帰りを今か今かと待ちわびていたのだという。 母君も実忠に帰りを促したが「もう少し待って欲しい」というだけだったという。 北の方は「今までが幸せ過ぎたのだ」と思ってただもう堪え忍んでいたが、子供はそうはいかなかった。 「父上がいらっしゃらないのは、もう私達の―――私のことをお嫌いになったからだ」 真砂子君は実際はともかく、そう思いこんでしまった。 どうやらこの少年は、思い込みの激しい性格を受け継いでしまったらしい。 少年はそのまま次第に病気がちとなり、やがて父君を恋い慕いつつ亡くなってしまったのだという。 実忠はそれをまるで知らなかった。 それどころか、彼がそれを知ったのは、比叡に恋の成就を願いに行った時だったのだ。 同じ場所で真砂子君の四十九日の法事を行っていた。その時ようやく彼は、自分の息子が亡くなったことを知ったのだ。 「それでも懲りずにあて宮に恋しているなんて」 熱心を通り越して気持ち悪い、と彼女は思わずには居られないのだった。
*
一方ちご宮はちご宮で、口に出せない懸想人のことを思っていた。 同母兄、仲純である。 大宮腹の七郎であるこの兄は、この時二十五。自分やあて宮とは一回り違う。 父左大将も、母大宮も大勢居るきょうだいの中でも最も出来が良く、将来を期待されている兄だった。 ただ一つ、両親を嘆かせていることがあった。彼には浮いた噂の一つも無いのだ。 釣り合う女君が居ないからだろう、と当初は両親も呑気に構えていたらしい。いざとなったら、子供さえあればいいのだ、と。 だが召人の一人も居ない、という話になった時に、少しそれは困ったものではないか、と思い出した。 まさか女が嫌いなのでは… いやそうではない、と言ったのはやはり同母兄の一人、祐純だった。彼と仲純は三つ違いの兄弟だが、親子の契りをした仲でもあった。 「誰か心に秘めた女性が居る様です。奥ゆかしい奴なので、はっきり妻にできると確信できるまで、動くことも誰かに相談することもできないのでしょう」 そう言われればそうかもしれない、と両親は思った。仲純は生まれながらの才はあるし、それ以上に人一倍の努力家だった。 周囲の者への気配りも、実に自然であり、もの柔らかな物腰は、宮中でも人気があった。 無論帝からのおぼえも非常にめでたかった。 現在、仲忠、仲頼、行正という帝のお気に入りの楽人に、仲純を加えた四人が奏して叶わない人事は殆ど無い、と言われていた。 無論そこには、帝に奏して叶うことと、そうでないことをきちんと把握し、根回しをした上でのことなので、一概に彼等が偏愛されていたからとは言い難い。 それでも同じ条件で何かしらの頼みがあったなら、帝はまず確実にこの四人の申し出を呑むだろう。そう誰からも考えられていた。
その兄から、ちご宮はある時相談を受けた。 何だろう、と彼女は思った。自分ごときに何か相談する程の兄ではあるまい、と。 確かに最近大人の仲間入りはしたし、結婚もした。 だが未だ昼間は、夫の居る対ではなく、両親や姉妹の住む寝殿で碁を打ったり琴を弾いて過ごす自分である。 結局はまだまだ子供なのだ。 しかも妹の様な楽の才もある訳でもない。一体そんな自分に。 仲が悪い訳ではない。元々楽器を教えてくれたのは彼なのだ。今でも時々一緒に合奏する。 だからこの時も、ただそんないつものことだと思っていたのだ。 二人きりということだけが、やや気になったが。 「本当にこんな風にお兄様と合わせるのは久しぶりですわね」 「そうだね。最近は少し忙しくてね…」 「嘘」 くすくす、とちご宮は笑う。 「どうして笑うの?」 「だってお兄様が忙しいのはいつものことじゃないですか。今更言うことではなくてよ」 「…そう… だったかな」 「最近では、同じ侍従の仲忠さまともずいぶんと仲が御宜しいということではないですか。仲忠さまのことは、一宮がずいぶんと知りたがってますのよ。もっとちょいちょいいらして下さいな」 「…仲忠か… そうだね」 「おにいさま!」 はっとして仲純は顔を上げた。 「私の話をちゃんと聞いてくださっているのですか?」 「…いや、ごめんごめん」 「それとも何か、物思いでもあるのですか。私に隠し事など、水くさいですわ」 「うん…」 彼は少し躊躇った後、口を開いた。 「ぜひちご宮、君に話したい話したいとは思っていたんだ」 「あら、わざわざ私にですか?」 「君じゃないと駄目なんだ」 「…一体、本当にどうしたというのですか?」 その時突然彼は几帳を押し退けた。 「聞いてくれ、ちご宮」 「は、はい?」 「僕はあて宮に恋している」 「は?」 ちご宮は思わず問い返していた。 「あて宮が好きなんだ。もうずっとずっと」 「…って、お兄様、あて宮はあちらの方じゃあないのですよ? 私達と同じ、大宮のお母様から生まれた妹ですよ?」 「そんなことは判ってる」 彼は両手で顔を覆った。 「だからこそ、僕達はそれ程の隔ても無く育って来た。彼女が年を追う毎に美しくなって行く様も、他の懸想人が羨む程に見ることができた。だけどそのせいで、僕は―――」 「お兄様」 困った、とちご宮は思った。 「判っているんだ。これはいけないことだと。だけどこの口が、あて宮に向かって困ったことを言ってしまう」 「まさかお兄様、あて宮に―――言ったのですか?」 「…あれは賢い子だ。僕の言うことの意味くらい判るだろう」 「そうでしょうか」 あの冷淡なまでの懸想人に対する態度を見ていると、ちご宮にはそうは思えなかった。 「いや判っている。判っていてあて宮はどうすることもできないんだ。僕が戯れで恋の歌を投げかけているのか、それともいけない心持ちで、それでも呼びかけずにはいられないのか、問うこともできないのだろう」 そう言われればそんな気もする。 今宮はあて宮が何を考えているか判らない、と自分には言う。 だがそれは表に出さないだけで、中では深く考えているのかもしれない――― 「だからせめて、君の口から、僕が本気であて宮を思っていることを伝えてはくれないだろうか」 「私がですか」 彼女は露骨に顔を歪めた。 「そう、君だ」 「でもどうして私なのですか。今宮も女一宮も―――いえ、彼女達の方が、夜も一緒に休んだりして、仲が良いでしょうに」 「あの子達はまだ結婚していない。この様な話を聞かせるのは困りものだろう」 「私ならいいのですか?」 「少なくとも、君は誰かと一緒に居るということの意味を知っているだろう?」 知っている。夜はそれでも夫と共に過ごすのだ。まだ幼いからと、自分をいたわってくれる夫を、彼女は嫌いではなかった。 「お願いだ、頼む、ちご宮。最近の僕は、見かけこそそれまでの僕だが、気持ちはもう全くの別のものになってしまったかの様だ。あて宮のことを考えると幸せな気持ちになる。だがその一方で、それが絶対に叶わない恋だと思うにつけ、僕の胸は焼ける様だ。…きっとこのままでは僕はいつか、死んでしまうよ」 「…お兄様!」 そんなことは言わないで、とちご宮は琴を手放し、兄の両腕を掴む。 「しっかりなさって。そんなことでどうなさいます。お兄様はお父様もお母様も、この家の中で誰よりも愛し、期待している自慢の方ではないですか。死ぬなんて、容易く言わないで下さい」 仲純は首をぐらぐらと横に振る。 「…いやもう駄目だ。僕は必ず死ぬ。いや、死にたいんだ。叶わないならもう―――」 視線が泳ぐ。 どうしよう、とちご宮は思った。 人払いをさせているので、もしここで彼が狂乱したとしても、止めることもできない。 だがそもそも自分がどうこうできることなのか? いや無理だ。決まってる。 そしてそのことは、仲純自身がよく知っているのだ。 彼が言っているのは愚痴だ。 どうにもならないことに対する絶望を、勝手に彼女に語っているだけなのだ。 それに気付いた時、ちご宮は奇妙に冷静になっていく自分に気付いた。 「…判りました、お兄様。自分の心であっても、恋ばかりはどうにもなりませんものね。何かのついでに、あて宮にお話致します」 「本当に?」 かっと目を見開く兄の顔が、無性に気持ち悪く感じたのは、この時が初めてだった。
あて宮にはその後、折りを見て話した。 気付いてはいたらしい。どう答えたものかと考えてはいた様である。 「返事くらいはした方がいいと思うの」 ちご宮は妹に言った。 「しなければしないで、どんどん思い詰めて行くだけだから」 「…そうね」 ふらり、とあて宮はいつもの様に首を傾げる。 やはり何を考えているのか判らなかった。
*
「実忠さまを今宮が嫌いなのはまあ判らなくもないけど」 女一宮は同じ歳の叔母に向かって問い掛ける。 「他の方はどう?」 「だから言ったじゃあないの。行正さまは声はいいけど軽薄そう、って」 「だってあなた、ここは嫌ってことばかりしか言わないじゃない。私は好きなとこは無いのかしら、って聞きたいの」 ね、と軽く拗ねた顔をして一宮は今宮に顔を寄せる。 「でもねえ一宮、好きってのは私には難しいわ」 「そういうもの? 私はやっぱり仲忠さまが一番いいなあ」 「まああの方は特に嫌なところは見つからないですからね」 ちご宮もうなづく。 「ただ少しばかり、おっとりしすぎとは思うけど」 「そこがいいんじゃないの!」 一宮は両手を握り締め、むきになる。今宮はそれを見て可愛いな、と思う。 「幼い頃に山の『うつほ』に棲んでたことが卑しいだのどうの言う人はいるけど、そんなこと無いわ。そこで母君に琴を一心に学んでいたって素晴らしいことじゃないの」 「それはまあ、そうだけど」 ね、と一宮は同意を求める。 何処をどう見ても、これは恋する乙女だ、と今宮もちご宮も視線を交わす。 「そのお父君はどう?」 ちご宮は右大将兼雅に話を切り替える。 「そぉねえ、あの方はどっちかというと求婚自体が礼儀って感じよね」 「まあ」 あて宮はくす、と笑う。 「そう見えて?」 「あら、あて宮はそうは思わないの? さぁ、とか何とかで誤魔化すんじゃないわよ」 「そうね…」 ふっとあて宮は目を伏せる。 「あの方は、部下であるうちのお兄様を使って文を届けさせたりはしているけど、私も本気ではないと思うわ」 「そうよね!」 今宮は大きくうなづく。 「あんなに三条の方を大事にしている方が、今更あて宮を、なんてありえないわ! それに上司だからって、何かそれを利用するあたりが嫌よ」 「私もそう思うわ。もっとも、それを言ったら、平中納言さまもちょっとそういう感じよね」 ちご宮はまた別の人物を話に持ち出す。 「そうそう」 だいたいね、と今宮は指を立てる。 「あの方は以前の右大将さまと同じよ。名の知れた女性なら誰だっていいんだわ。皇女だろうが、御息所だろうが」 「実忠さまとは逆ね」 あて宮は短く言う。 「そうそう。だからあのひとの本気は信じられないと私は思うわ。実忠さまのあのしつこさはちょっと身震いものだけど、ああいうのも嫌ね。兵部卿宮さまもそう。ああ! どうして男ってああいう人が多いのかしら」 「あなた本当、嫌なものばかりじゃない、今宮」 ちご宮はそう言うと、袖で口を押さえ、ほほほほ、と高らかに笑った。 「あなたのきょうだいもちょっとね、一宮」 弾正宮と呼ばれている、帝の三宮、女一宮の一番上の兄のことをちご宮は次に口にする。 「あら、どうして? 身内ならそれはそれで気楽でいいのではないの?」
昨年の九月、彼は月の宴の時にあて宮を見てしまったらしい。 そこにちご宮も今宮も一宮も居たにも関わらず、彼の目はあて宮にしか向かなかった様だ。 彼は菊の花を「あて宮に」と差し出したのだが、あて宮は書き付けられた歌の方には目もくれず、つれない歌をただ詠んだだけだった。 ちご宮は書き付けられたそれを見て、慌てて取りなすような歌を詠んだ。 弾正宮は二人のその返歌を見て「空しい」とばかりに戻っていった。 あのままあて宮の歌だけを見たら、歳上の甥は一体どういう行動に出たのだろう。 そう思うと、ちご宮は今でも冷や汗が出る。 と同時に、あて宮は何を考えているのか、という気も起きる。 「身内でも頼りになる方ならいいけどね。それに同じきょうだいというなら、それこそ、東宮さまだって一宮、あなたにはきょうだいでしょう?」 「まあそれはそうだけど」 一宮は軽く首を傾げる。 同じ母を持つ弾正宮はこの屋敷に棲み、時々顔も合わせて心易いが、中宮腹の東宮は、兄とは言え、遠い存在だった。 「まああの方は、身内というにはおそれおおいけど…ともかく、弾正宮はもう少し大人になられたら、って感じね」 今宮は決めつける。 「じゃあそういうあなたからしたら、仲頼さまは?」 一宮は少しばかり不服そうな顔で、今宮の顔をのぞき込む。 「仲頼さまは、そうね、他の人達に比べればいい方だわ」 「あら、今宮の合格点が出たわ」 「でも駄目。あて宮には駄目よ」 「どうして?」 目を丸くして一宮は問う。即座に今宮は答える。 「何言ってるの一宮、あの方にも北の方とお子様が居るじゃあないの」 「あ、そっか」 うんうんと一宮はうなづく。 「あんまりあの方が蹴鞠だので元気だから、ついそういう感じがしなくて」 「北の方はたしか」 「宮内卿の在原忠保さまの姫よね」 そうだ、と今宮は思う。
入内を勧められた程の姫だということだが、宮内卿は決してその話を進めなかった。 美しい素晴らしい女性だ、ということだけでは駄目なのだ。 在原家は決して裕福ではなかった。 充分な後見無しの入内など、普通の結婚をするより不幸が目に見えている。 普通の結婚においてもある程度当てはまる様で、素晴らしい女性だという評判は立っていても、現在のあて宮の様に求婚者が沢山現れはしなかった。 ちなみにその頃、源少将仲頼は様々な女性の元を訪ね歩いていた。 高貴な女性も居たし、裕福な後見を持つ者も居た。 だが彼女達は仲頼には物足りなかったらしく、通い続けることはなかった。親達は歯がみする思いだったらしい。 にも関わらず、その宮内卿の娘にぱ殆ど一目惚れの様なものだったという。その後はずっと彼女一筋だということだった。 どうも彼にとっては、後見というものはさほどに問題ではなかったらしい。裕福な大臣家に生まれた彼らしいと言えば彼らしい。 それはそれで今宮には好感が持てるところだった。 それから五、六年、慎ましくも幸せに暮らし、子供も姫一人、若君二人が居るという。 さてそこまでならいいのだ。 仲頼は帝のおぼえめでたい。そして幸福な家族を持っている。 いい人だなあ、今宮は童女の頃からずっとそう思ってきた。 だが今年の正月の賭弓の儀の時に、彼はあて宮を垣間見てしまった。これがいけなかった。 そこでちょうどその場に居た木工の君にこう言ったという。 「自分という存在をあて宮に知ってもらいたい」 また別の女房に聞くと、仲頼は自分達他の娘も居たのに、あて宮にしか目が行かなかったらしい。 それを聞いて今宮は何となく、むっとした。 別に仲頼が好きだった訳ではない。 ただ何故か自分達が一緒に居ても、垣間見る男達は引き寄せられるかの様にあて宮にしか目が行かない。 微妙なのだ。
「そう言えば、仲頼さまは、仲忠さまや行正さまと一緒に吹上の方にいらっしゃるのではなかったかしら」 思い出した様にちご宮は言う。 「あ、そうそう。確かお三方からそれぞれに、吹上の様子をしたためた文が来たんじゃなかった? あて宮」 「…どうだったかしら。木工?」 「はい」 控えていた木工の君が山と積まれた文を差し出す。 「いい加減ご覧になって下さいと申し上げておりますのに…」 これが源少将さま、これが兵衛佐さま、これが藤侍従さま、とそれぞれの山を彼女は差し出す。 「…ちょっと、あて宮、これだけ来ているのに、まだ何も見ていないの?」 今宮はややうらめしそうな声で問い掛ける。 「ごめんなさい、琴を弾いてたら忘れちゃっていて」 「忘れていたも何もないわ。私達も、吹上のこと、聞きたい!」 一宮は「いい?」と問い掛けると、返事も待たずに山に手を伸ばす。 「はい今宮は仲頼さま。ちご宮は良佐さまをお願い」 「…そう言って一宮、仲忠さまのを独り占めしようって言うんでしょ」 「無論ちゃんと回すわ。でも最初は…いいでしょう?」 語尾が小さくなる。肩をすくめる。 その様子がとても可愛らしかったので、二人とも「まあいいか」という気持ちになった。 「…へえ、涼の君って方、そんなに琴が素晴らしいんだ」 今宮はつぶやく。 旅の発起人の書いたこの源氏の君は非常に彼女の興味を引いた。 ちら、と視線を移すと、一宮は熱心に仲忠の文を見ている。美しい文字。今宮はそれが一宮へのものでないことを少しばかり残念に思った。 「…ああ、お三方とも、お帰りは四月になりそうね」 ちご宮は嘆息した。
|
|