「…暇だ」 五月のとある日、右大将兼雅は大あくびと共にそうつぶやいた。 「何かおっしゃいましたか? 父上」 それを漏れ聞いたのは、息子の中将仲忠。 しどけない格好をした父とは違い、この日もくつろいでいるとはいえ、それなりにこざっぱりとした姿で父の側で雑談などしていた。 「暇だと言ったんだよー」 「暇ですか」 「だってそうじゃあないか。今日は出仕しなくていいし、かと言って家で何かするって程でもないし」 「退屈なら、何か楽器でも弾けばどうですか?」 「お前が私にそういうのかね?」 父親はこの楽の名手に向かい、じろりと視線を飛ばす。 息子はそれをするりと受け流し。 「…それなら何処かへお出かけすればいいでしょう。天下の遊び人と思われている方にしては実に大真面目じゃあないですか」 「お前本当に容赦ないね」 「父上の子ですから」 はあ、と兼雅はため息をつく。幼い頃から手元にあったなら、もう少し素直な子になっていたのになあ、と。 「…何処かにねえ… おおそうだ」 ぽん、と兼雅は手を叩く。 「左大将どのの三条殿へ行こう」 「ああ、それはいいですね」 「何を他人事の様に言ってるんだ。そなたも行くんだよ、そなたも」 「僕もですか?」 「皆喜ぶし」 すると仲忠ははあ、とため息をつく。 「何か今、色々僕の結婚話とか取りざたされていて、面倒なんですよ」 「女一宮とのか」 「らしいですねえ」 「何を他人事の様に。名誉なことじゃないか。私なんぞ、その昔、帝の女三宮を周囲にも許されない形で手に入れてしまって後で大変だった」 「らしいですねえ」 「…それを考えれば、そなたは皆から望まれているのではないか。それを何だ?」 「煩わしいのは嫌なんですよ」 「ふふふ。世間なんていうのは基本的に煩わしいものだぞ。さ、さ、いざ行きましょうぞ、中将どの。三条殿へ」 仕方無い、という顔をして仲忠は家人を呼び、用意をさせる。 二人ともさっぱりとした直衣を着込んで一つの車に乗って出掛けることにする。 とは言え、同じ三条にあるだから到着には程無い。それでも車をわざわざ出さなくてはならないのがこの身分という奴であろう。 「さ、さ、そなたが最初にご挨拶ご挨拶」 そう言って兼雅は仲忠を先に降ろす。 仲忠はまたも仕方無い、という顔で先触れのために入って行く。 中では左大将正頼の子息や婿達、それに上達部や皇子達が何かと集まって騒いでいる様だった。 「おお仲忠、よく来てくれた」 「今日は僕も父上も出仕することもなく、何かと家で気分が滅入っておりまして…」 「いやいや、こっちもちと物足りなくなって、そなたの父上をお招きすればさぞ楽しいと思っていたところなのだ。さあさあぜひぜひ」 「父上、仲忠の声がした様ですが」 すると奥から、仲忠の声を聞きつけたのか、上達部や皇子達がぞろぞろと彼らを出迎えに来た。 「やあ仲忠だ。君が来るとやっぱり場が華やぐよ」 「父君も一緒なんだって? 早くおいで願えよ」 「まあまあ皆、そう急がせないで。仲忠、右大将どのに告げておいでなさい。皆お待ちだとね」 はい、と仲忠は従者を父の元へと返す。 やがて兼雅もやって来て、二人は改めて設えられた席に様々に御馳走を用意される。 銀の器に果物や乾物が非常に綺麗に盛られていた。 やがて「大宮さまからです」と酒やその肴、粉熟と呼ばれる甘い菓子も用意される。 正頼は甘い菓子にばかり手を伸ばす仲忠に思わず微笑む。 「仲忠は酒よりその方が好きなんだな」 「ええ、やっぱり甘いものは気持ちがほんのり幸せになります」 うんうん、と周囲の公達も、その笑顔に何となく幸せを感じる。 あて宮が既に過去になった彼らにとって、仲忠は目の保養の様な存在だった。
「ところで、今年の相撲のことだが、右近衛府の相撲人はもう来たのかね? うちではまだ来ない様だが」 酒を酌み交わす中で、ふと正頼が話題を切り出した。 七月末にある相撲の節会のことである。 この時の力士は、左右の近衛府が、それぞれ定められた国々へと「ことり使」と呼ばれる使いを送り、これぞと言った強い力士を集めさせるのである。 兼雅はそうですねえ、と首を傾げる。 「まあ、少しは来ている様ですよ。とは言え、今年はいまいち不作ですね」 「不作かね?」 正頼は首を傾げる。 「ここ数年、いい力士が出ていたのですがね。どうも今年はいまいちで。例年の様に大勢来るということは無い様です」 「ううむ」 「とは言いましても、上京した中には、それこそ文句の付け様も無いほどの相撲人も何人かは居る様ですね。見栄えもいいし、年の頃も、そう、今が盛りと言ったところでしょう。きっといい取り合わせになると思います」 周囲がその言葉に沸き立つ。今まで見たことの無い相撲人もその中には居るかもしれない… 兼雅は続ける。 「まあ何と言うか、去年まで良くやって来た者達が、死んだり病気になったりで出られない中で、彼らが居てくれて助かりましたよ」 「流行病の勢いは、なかなか衰えないものだし… 喜んでいいのかどうか微妙なところですね」 ぼそ、と仲忠が聞こえるかどうかという声でつぶやく。兼雅はそれに気付いているのかいないのか。 「逆に、そういう機会でも無いと持ち上げられない者達をお目にかけることができるから、それはそれで好都合というものではないかと」 なるほど、と正頼はうなづく。 「こっちの相撲人も、まだやって来てはいないから何だが、結構な人材が居るらしい」 「ほぅ、それはそれは…」 兼雅の反応に、正頼はにやりと笑う。 「何やら探して来て出す側でも思うところがあるらしいな。そうそう、何でも『下野のなみのり』が来るそうだ」 「『なみのり』が!」 周囲の者達も驚く。「下野のなみのり」は、都まで噂が轟いている力士である。 「とは言え、目玉はそれだけだろうな」 「そうですね。こっちの『伊予のゆきつね』は来ないことに決まってますし…」 「来ないんですか!?」 相撲好きの一人が声を上げる。 「ああ。そういう知らせが来てね、私もがっかりしている。どうも彼も今年は病気だか怪我だか」 周囲の上達部達はがっかりする。「ゆきつね」もまた、有名な力士だった。 それぞれ名高い力士達が左右に分かれて対戦するのを見るのは相撲の節会の見所である。なのに、と。 正頼は腕を組んで軽く目をつぶる。 「そうそう、先日、仁寿殿で帝が『今年は例年よりは少し面白いことをしたい。今度の節会は見所がある様にして貰いたいものだ』と仰せられてな」 「…なかなかこちらが困る様なことを仰せられますね」 兼雅は苦笑する。 「とは言え、帝が仰せられるのだから仕方が無い。相撲人は多くは無いが、規定の数はそれなりに揃ってはいる。勝負は… まあその時だから、その試合に帝が退屈なされない様に我々は勤めるしかないだろう」 「そうですね。私もそう考えてはいます。ですか、はて、どうしたことをしたものやら」 兼雅は首をひねる。 すると正頼はあっはっは、と笑う。 「口に出さずとも、考えればいいことではないか」 「けど考えれば口には出さずにはいられないものですよ」 それで今は考えもしないのです、と兼雅は暗に示す。手のうちは今から見せてはならないのだ、とばかりに。 周囲の若い者達は、それを見ながらさけを酌み交わし、二人の大将が考えることを想像してはこそっと語り合う。
やがて杯が重ねられるに従い、話題は次第に流れてて行く。 「それにしても、本当にここに来るのはお久しぶりです」 「私はあなたにはもっと度々やって来て欲しかったですがな」 「藤壺の方のこともありまして。今となってはそういう心配も無いから気楽というものです」 それは皆同様だったらしい。 現在この場で酒を酌み交わす者達の中で、きょうだいを除いては、あて宮に一度たりとも懸想したことの無い者は居ないと言っていい。 「今日、何か不思議と伺いたくなりまして。呼ばれている様な気までしまして。 ―――始終自分の宿の様にしていたここをふっつり思い切って、久々で今日参上すると、昔のことが思い出されて仕方がありません」 すると正頼がそれに返す。 「―――お見限りだとは思いませんよ。私の宿は今度こそあなたが始終おいでになる所になりましょう」 正頼が兼雅に対し、あて宮の代わりの姫を用意しているのは本当だな、と周囲の公達達は想像し、やや緊張する。 そんな空気を読んでか読まずか、正頼は昔話を始める。 「姫―――そう、女。やはり女性が出す文というものはいいものだ」 「おや、そういう文が昔に?」 兼雅は問いかける。 「文句の付け様の無い程の女性が、細やかな心遣いで男に対して書いた文というものは、後になってもしみじみと思い出されるというもの。…そう、昔、嵯峨の帝の頃の承香殿の御息所程の女性は無いだろうな…」 「そんなに素晴らしい方だったのですか?」 兼雅も面白くなって問いかける。 「ああ全くもって! 何って素晴らしい方だろうと思ったことだ。そう、わしがまだ中将だった頃、かの御息所が内宴の賄いをなさることになったことがあってな。その時わしは仁寿殿にいらしたあの方の姿を隙見できたのだよ」 「おお、それは何と幸運!」 兼雅はにんまりと笑う。 「いやもう、垣間見ているうちに、こっちの魂も抜けてしまうかと思ったものだ。で、もう居ても立ってもいられなくなってなあ、向こうがお困りになるだろうということも考えず、向こう見ずにも文を何度か差し上げてね」 「それで如何でしたので?」 兼雅は興味津々で問いかける。 「…まあわしも若かった。時には向こうがお困りになる様なことも、切に申し上げたことがあってなあ… そんな私の心にお苦しみになった様な文を返されたのだが、その時はもう本当に胸が締め付けられる様な思いだったな…」 兼雅は黙って何度もうなづく。 「そう、もう老年となった今でも、その文を見ると、その時のことを思い出して気持ちが揺らぐこともある… あれほどの感動を受けた文は無いだろうな」 「それで、その後は御息所とは」 「ほぉ、あなたらしい聞き方をなさる。期待する様なことはありはせんよ。慎み深い方たったから、ほんの浅いお付き合いだけで中絶えにはなったのだけど、嗜み深い方でもあったので、全く拒絶された訳でもなく… 何と言うか、その、私も結構心惑わされたものだ。ああ、あれ程の女性は、今の世には居ないだろうな」 正頼は遠い目をして、杯を上げる。 「…今の世でしたら、それは仁寿殿女御そのひとでしょうな」 正頼はぴく、と眉を動かす。 兼雅が口にしたその女性は、帝の最愛の女御であり、また彼の大君である。 「そう、今の世の中にも珍しいまでの深い心をお持ちの方と言えば、仁寿殿女御でしょう。おっしゃった承香殿の方に劣らぬ素晴らしい心映えだと思いますな」 「ほほう?」 女御の父は半目になって兼雅を伺う。兼雅はひらひらと手を振る。 「いやいや、今現在そんなやましいことがはっきりあるのだったら、こんな場で申し上げたりはしませんよ。昔むかしのことです」 「本当に、昔のことかね?」 「ええ、全くもって。まだまだこの兼雅がほんの、ほんの若い頃のことでございます。その昔、懸想文を差し上げたことがあるのですが、その時もあの方は冷たく突き放す様なことはなさらず、ご信頼なさいとだけ仰ったのですがね… 何と言いましても私はこの通りの浮気性で。勿体無いことを致しました」 「…ほぅ」 「今でもたまに文を差し上げる時はあるのですが、あの方は私のことは笑ってお見のがしになっておられる様で」 すると正頼はふっと笑う。 「それはまた、何処の仁寿殿のことだろうな。わしの娘の中にはその様な心ある者は居ないと思ったが」 「そちらの仁寿殿ですよ」 「わしの言う承香殿のお心は、他の女性とは違う優れたものだったぞ」 「ほぅ」 兼雅もまたにやりと笑う。 「それでは、そちらにはまだ御文は残ってらっしゃいますか?」 「それは無論。今でも取り出してはしみじみとした思いに」 「私のところにはかの方の御文があります。持って来させましょう。比べてみませんか?」 「よし、それでは比べてみよう。おい、連純、わしの部屋に…」 「仲忠、ちょっとひとっ走りして、うちから私の文箱を持っておいで、そう、あの…」 左衛門佐と中将の肩書きも、ここではどうやら何の役にも立たない様である。連純と仲忠は顔を見合わせてため息をついた。
「さて、この文を見せ合うに際して、何を賭けましょう」 文箱を横に置いた兼雅がまずこう言った。 「そうだな何を賭けよう。そう、わしは娘を一人賭けよう。あなたは何を賭けなさる」 「私はちょうどここに居るから、仲忠を」 思わず仲忠はそれを聞いて口を歪め、身をのけぞらせる。まあまあ酒の上のことだよ、と正頼の子息達は彼をなだめる。 「それでは」 「それでは」 兼雅は非常に見事な銀の透箱に、これまた美しい敷物をしたものに文を入れていた。 一方正頼は、虫ばんだ浅香の木目を削りだし、唐草や鳥を透かし彫りにした箱に入れている。 その箱をそれぞれ交換し、中から文を取り出す。 正頼は開いて見て、ほう、と声を立てる。 「あれはまた、可愛らしいことをしておるな。わしの言う承香殿は、後世に名を残すべき名君である嵯峨院の御時の評判の女御。何と、あれもその女御に劣らぬ手跡じゃないか」 そうでしょうそうでしょう、と兼雅は軽く目を細める。 「しかしどうして、あの娘は私の所にはこんな素晴らしい手では書いて来ないのかね」 それには答えずに兼雅は言葉を継ぐ。 「当世風なところは仁寿殿女御の方が素晴らしいでしょう。と言う訳で、あいこですね」 いやどちらかというと、仁寿殿女御のことばかり誉めているのではないか、とそのきょうだい達は内心突っ込むが、それはさすがに口にはしない。 「それでは賭物もお互いに」 「私の仲忠はそちらに。そちらのまだ婿取りなさっていない姫を一人こちらに」 はははは、と笑い合う父達を横目に見ている仲忠の表情は、ただ呆れているだけだった。 「と言う訳で、仲忠一曲弾きなさい」 はいはい、としぶしぶ仲忠は箏を持ち出させた。
「いややはり仲忠の演奏は素晴らしいものだなあ」 聞き終えた皆は満足そうに口々に感想を述べる。 「全くだ。先日も涼どのが居たからとか言うし」 「いつもこうやって素直に弾いてくれればいいものを」 仲忠は薄く笑って、それには答えない。 「そう言えば先の藤の宴では、仲忠は藤壺の方と合わせて素晴らしい演奏をしたね」 兼雅の言葉に、仲忠はそれにも笑って答えない。 「父にも滅多に聞かせないのに、相も変わらずあの方のためには何でもすることだ」 「それは父上、あの方の琵琶などそうそう聴けるものではないでしょう? それに合わせられるのでしたら僕はもう」 やれやれ、と兼雅は肩をすくめる。仲忠は続ける。 「現在の琵琶の名手と言えば、行正さんですけど、彼とはまた違った感じで。僕の拙い箏に合わせて下さったと思うと、つい嬉しくて、今まで皆さんの前では披露したことが無い曲までつい弾いてしまいました」 「ご謙遜ご謙遜」 正頼は思わず手を叩く。 「とは言え、たとえ戯れの場といえども、名手と言われるそなたの箏とよく調和したということは、あれの琵琶も結構なものだったのでしょうな。琵琶はそうそう私も聞いたことが無いのだが、一体いつ練習したのだか」 正頼はをひねる。 「あて宮は昔から楽器という楽器は、ちょっと形ばかり教えただけで覚えてしまい、その後は何をどうしたのか、いつの間にかこの屋敷の誰よりも上手くなっていたりしたものですが、…琵琶までとは」 「それがあの方の素晴らしいところなのでしょう」 仲忠はうっすらと笑う。 「とは言え、女が琵琶を抱えている図というのはあまり見よいものではないな。…ああ、そう言えば、あの時そなた、懐から薄様の文をのぞかせていなかったかな」 にやり、と正頼は笑う。 「さて誰からのものやら。先ほどの文比べにあれを加えたいものだね」 「あれは何でもないものですよ」 仲忠はあっさりと答える。 「あれは宴の少し前、家の方から届いたものだから、と使いの者が持ってきたものですよ」 「またそんなことを。家の方からで、あの様に気の利いた文が来るなどと。見え透いた嘘はつきなさるな。宮中の誰かからだろう?」 仲忠はそれにも同じ笑みを見せるだけだった。 「紙だけはまあ、それなりに趣はあった様ですけど。でもうちにはああいう紙は置いてありますから。誰か家の気の利いた者が宴の席だからとばかりに使ったのでしょう。僕は生まれてからこのかた、嘘を言ったことはありませんし」 「全く強情なことだ。これを手始めにこれから嘘に嘘を重ねられるのだろうな」 正頼は苦笑する。 その時の文、それがあて宮からだ、と疑っている訳ではない。 正頼は仲忠があて宮付きの女房である孫王の君とある程度の仲であることくらいは知っている。懸想人の一群に彼が入っている時の取り次ぎ役が彼女だったのだ。 彼女に関しては、もし仲忠が通うのだったらそれはそれでいいと思っている。その上で女一宮を降嫁させても構わないと。 孫王の君は信用できる女房だったし、彼女とつながりを持っておくこと、仲忠とのつながりを深めることとなって都合が良い。 とは言え、結局仲忠がそのあたりを決してはっきりさせないのだから、正頼もただ考え込むしか無いのだが。
ところで、正頼は今日の土産にと、馬の用意をさせていた。 「だがただのお土産というだけではつまらないな」 文比べに仲忠との会話、何かしら正頼はこの日、右大将親子にはぐらかされた様な気がする。 何となく簡単に土産を持たせてやるのもしゃくな気もする。 「弓と矢を用意しろ」 「おや、射芸ですか」 兼雅は問いかける。 「そうです。ほら、あの池の中の島に五葉の松があるでしょう。そこにほら」 そこにはちょうど、池から三寸ほどの鮒を獲ってくわえて飛び立ったみさごが留まっていた。 「あれを上手く射抜いた方に、この西の厩に居る馬を十頭差し上げましょう」 「それは太っ腹ですな」 よし、と兼雅は立ち上がる。 「皆やろうじゃないか。私はやるぞ」 「いやいや、ちょっと待って下さい」 正頼は兼雅を止める。 「鳥が感づいたらそれでお終いです。飛び立ってしまったらそれこそ興ざめというもの。射芸に通じた兵衛尉がやってみようか」 と言って左大将である正頼自身が立ち上がった。 「五尺の鹿毛と、それよりちょっと小さいけど良い黒毛の馬が居ます。私はそれを賭けましょう」 「では私は鷹を二羽賭けましょう」 「おお、評判の」 「そちらに対抗するにはその位必要でしょう」 ははは、と兼雅は笑った。 では、と正頼は矢を放つ。 もっとも彼は当てるつもりは毛頭なかった。元々土産を渡すための口実である。 鳥に当たらぬ様、当たらぬ様と願いながら放った矢は、思い通りに綺麗に離れて飛んで行った。 「では私が」 兼雅は自信ありげにゆったりと矢を放った。 「おおっ」 矢は見事に、鳥のくわえた魚ごと射抜いていた。
馬のこと、射的のことから話が弾み、その晩は正頼邸でいつまでも神楽歌の中でも馬にちなんだ「その駒」を皆で歌い騒いだ。 明け方頃になってようやく兼雅親子は帰ることとなった。 正頼は被物として、女装束を一式と、白張を一襲、袷の袴を一具づつ送った。 兼雅はその時、矢比べの時に言い放った鷹を正頼の元へと置いて行こうとしたが、正頼は受け取らなかった。 「この鷹は、もう一度ここへおいでいただいて、もう一つのみさごを私が射落とした時に頂戴致しましょう」 いやいや、と兼雅は手を振る。 「あなたが中島を外して矢を放たれたおかげで、私は鳥を射ることができたのです。だから当然この鷹はあなたがお取りになるべきです」 「そうまでおっしゃるのなら」 正頼はそう言って苦笑すると、鷹飼いの者に高麗楽をさせて、歌舞をしながら受け取った。 そして兼雅の鷹飼いに、祐純が酒を勧めて御馳走した。兼雅宛てに細長を添えた女装束を一具添えて帰させた。 兼雅は戻った鷹飼いからもてなしの話を聞き、贈り物を受け取ると、感心したものだという。 そして一日中楽しかったことを、北の方に向かってまた楽しそうに語ったという。
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その様に過ごした日から少し経つと、正頼の左大将側にも、遠方から相撲人達が次第にやって来た。 正頼は簀子に椅子を立てて彼らに言い渡した。 「今年は右大将どのも、例年より気合いを入れて準備をするそうだ。我々もそのつもりでこの行事を大切に考えて準備する様に」 控えている相撲人等、関係者達は畏まってそれを聞いている。 「なみのりは、この様に上京してきたからには、例年よりはやってくれるだろうな。右大将どのも、そなたが来る、となかなか恐れていたぞ」 なみのりは更に恐縮する。 「向こうの伊予の最手で、以前そなたと対戦した『ゆきつね』が今年は来ない、とは言っていたが… まあ今は来ていないが、きっと来ることだろう」 そのつもりで、と正頼はなみのりには釘をさしておく。 「ともかくいつものことだが、左方右方と分かれているからついつい張り合ってしまうのだが、まあ従来通り、最初の勝負には童、最後に最手が出る様にすれば良いだろう」
左側がその様に計画しているのとおなじく、右側も何かと部下に指示を出していた。 そしてまた、北の方にも内々の頼みをしていた。 「言うまでもなく、今年の相撲も勝った方が中少将以下の人々に御馳走することになるだろうから、そういうつもりでいてくれ」 はい、と北の方は素直にうなづく。 「とはいえ準備しても、負けた時には人は来ない。それでも恥じることは無いんだ。それより、勝ったからと言って急ごしらえで手落ちがあった時の方が怖いよ。そのあたりはあなたを信頼しているから、ぜひお願いするよ。今から充分心して用意してくれ。被け物も充分用意してね」 判りました、と北の方は今度は大きく深くうなづいた。 当日、彼女は実際に相撲を見られる訳ではない。 だが自分が采配を取らなくてはならない還饗を思うと、心がやや浮き立つ思いがする。 兼雅は政所の方にも同じように注意し、机や内敷などの品々を充分に用意させた。 「右近の中将達にも、向こうに負けない程の音楽をさせたいな。被け物などは、遊人や相撲人達をそれぞれ選んで決めよう」 そんな風に、両大将達は様々な面において、相手に負けまいと必死で準備をするのであった。
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