そんな三月のことである。
「藤花の宴」 涼は思わず相手の言葉を繰り返していた。 「そう」 東宮はそう言って笑った。 「そう言えば、もうそういう季節ですね」 「何だ、天下の風流人が、花の季節も忘れていたなど」 「色々と昨年から忙しく慌ただしく、何かと心騒がしく、つい忘れてしまいがちなことも増えてしまい」 「なるほど。それは確かにな。きっと私もその慌ただしさの中の一つに過ぎないのだろうな」 「そしてまた、藤壺の方のご懐妊、おめでとうございます。たいそう喜ばしいことで」 「喜んでくれるか」 「はい」
藤壺の方―――あて宮。 確かに友人の運命を狂わせた女と考えると面白くはない。 元少将の仲頼はあれからずっと水尾で一人の僧として慎ましく暮らしている。 似合わない、似合わないぞ、と涼は会いに行く度に感じる。 本人がどれだけ「自分は今の生活の方が煩わしいことなく、幸せだ」と言ったところで、涼は納得できない。 彼は居るだけでその場がぱっと明るくなった。 仲忠を弟の様に扱って、何かと頼りなさそうなところをあれこれと心配そうに見ているところが可笑しくも微笑ましかった。 彼にはこの華やかな宮中が相応しかった。なのに。 今ではほんの少しの供を連れているだけで、食べるものも本当に満足にあるのだろうか、と心配になってしまう。 無論自分は友人のためには援助は惜しまない気でいる。訪ねるたびに、何かしらのものを携えて行く。 それは仲忠も同様だった。 行正は―――自分達ほどには仲頼の元を訪れようとはしない。 おそらく自分達以上に、彼は仲頼の出家を悲しんでいるだろう。惜しんでいるだろう。悔しいと思っているだろう。 元々あからさまに笑顔を見せる様な男ではなかったが、友人の出家以来、その傾向はより顕著になった。 「兄弟の契りを結んでいたって言うから」 と仲忠は言う。 そのくらい親密だったからこそ、自分に何も言わずに出家してしまったことが許せないのだろう、と涼は推測する。 もっとも行正はそんな素振りを外側からは伺わせない。 伺わせない様に―――出仕の回数が減った。現在は友人である正頼の五郎顕純のところに入り浸っているという。 「仕方ないよね」 もっともそういう仲忠自身、やはり兄弟の契りを結んだという仲純を亡くしているのだが――― そう、仲純の死に関しても不審な点は多い。 仲忠は常々自分に、故人があて宮に恋していたのではないか、ということをほのめかしていた。 異母妹に恋する例は昔から散々言われているし、誉められたものではないが、全く許されてない訳でもない。 しかし同母となると、それは遙か昔から禁忌とされていることである。 それなのに恋してしまったのだろうか。 「そういうこともあるかもしれませんよ」 仲忠は言う。 「だって母君が同じってことを知らなかったらどう?」 そんな時に出会った二人が恋に落ちたらどうにもならない、と仲忠は寝物語に言ったことがある。 「どんな相手同士だって、身体が呼んだらそれには逆らえないんだよ」 でもね、と仲忠はその時続けた。 「あて宮にとっては兄上は兄上でしかない。あて宮は女だから、自分からどうこうできない」 「気持ちを伝えることも?」 「僕等より女房達に囲まれすぎている彼女達にそんなことができると思う?」 それはそうだ、と涼もその時は納得した。 女、特に姫君にはいつも視線がまとわりつく。 自分達男は、いざとなったらいきなり走り出したり、馬で駆け出してしまえば何処かで一人になることもできる。 そこで行きずりの女に恋することもできる。これほどの身分があるにしてもだ。 だが女は。姫君は。 「僕はね、涼さん。あて宮はとても可哀想なひとだと思うんだ」 それはまた、とその言葉の意味を問いかけた。 「よくは判らない。だけどあのひとはいつも叫んでた」 「叫んで?」 「涼さんには聞こえなかった?」 「姫君だろう?」 「…やっぱり聞こえてなかったんだ」 そう言ってくすくす、と彼は笑った。 判らなかった。彼の言う意味が。 仲忠はいつもあて宮に関しては「好きだけど、何よりもその琴の音」と主張していた。 その姿勢は見事なまでに一貫し、それ故に彼女の入内の時にも懸想人の中では真っ先に御祝いをしたくらいである。 しかしそれでは、彼女は仲忠にとって実のところ何なのだろうか。 涼はずっとその意味を知りたかった。 あて宮自身には、すっかり興味を失っていた。 むしろ友人達を狂わせた女として、憎む気持ちすら心の隅には存在している。 しかしその一方で、自分がずっと楽しく文を交わす「女房」の姉である。 やはりここは喜んでおくべきだろうと彼は思う。
「せっかく藤壺が再び懐妊したことでもあるし、皆でそれを祝ってくれると私も非常に嬉しい」 東宮は楽しそうに言った。 「それは宜しゅうございます。そう言えば、一昨年の春には、私の吹上の屋敷でもやはり藤の宴を致しました」 「名高い吹上の藤はたいそう素晴らしいだろうな。いや、それよりその折には皆素晴らしい演奏をしたというではないか」 なるほど、と涼は思った。 確かにあの時は、自分と一緒に仲忠と行正と仲頼、それに仲頼の部下の中にも優れた奏者が多かった。 「どうだろう。そなたが誘えば、その時の奏者達も皆やってくるのではないか?」 「東宮様の仰せにどうして逆らいましょう」 「判らないぞ。仲忠なぞ、帝ですら手を焼くと仰られている」 「では私が勧めたところで」 「そなたなら大丈夫だろう」 「そうでしょうか」 「そうだろう」 ふふふ、と東宮は口の端を上げて笑う。 性格だろうか。東宮はいつも自信に満ちあふれている。 血筋の上では自分の甥にあたるのだが、実感がまるで湧かない。 もっとも、温厚な帝ともやや異なる。どちらかというと、その強引さは自分の父である嵯峨院の方に近いのではないか、と涼は時々感じる。 「今となっては仲純も仲頼も仕方が無いが、行正や、それに何と言っても仲忠を呼んでもらいたいものだ」 「私も是非、彼の演奏を聞きたいものです」 「何だ、仲が良いのに、そういう機会も無いのか?」 ははは、と東宮は笑う。 「そういう訳ではございませんが」 「まあいい。藤壺と合奏というなら、必ずあれも食いついてくるだろう」 「御方さまと」 「そなたともさせてみたいものだ。普段あれもさほどに弾きたがらない。とは言え、全く無視もできないらしく、箏でそれなりの演奏はする。…おおそうだ」 ぽん、と東宮は扇で脇息を叩く。 「仲忠はまず琴は弾かないだろうから、箏の琴がいい」 「箏なら、確かに」 琴は駄目、と彼は良く涼に言う。判っているでしょう、と。 そう、判っている。彼の出す音は危険だ。あの神泉苑での演奏。 皆が幻覚を見ている間、自分が正気を保っていられたのは、音に慣れていたせい。 いや、仲忠の音と合わせていたせいだ、と涼は判っている。
「だから琴は駄目」 その話をしていた時も、仲忠は頑なに拒んでいた。 「特に僕の音は駄目だよ。僕の中のどろどろとした心がそのまま出てしまう」 「君の? そんなもの何処にもなさそうだけど」 「僕は汚いよ」 言い捨てた。 「時々琴を教えてくれた母上を憎みたくなるくらい」 「あれほどの素晴らしい手なのに?」 少なくとも自分は、師匠である弥行を尊敬はしても、憎んだことはない。 「重いんだ」 「重い?」 「それにどうしてそれしか僕にできなかったんだ、って思ってしまう自分が嫌で」 「母上は、素晴らしい琴を伝えてくれたじゃないか」 「でもそれだけだよ。生きて行くための術は何もあのひとは持っていなかった。仕方が無いことだと判っていても、時々、無性に胸の中がざわざわと騒ぐんだ」 それは自分が種松達に感じるのと似た感情だろうか、と涼は考えた。 否。 それとは種類が違う。涼はすぐに答えを出した。 種松夫妻は確かに自分を「主君」の様に見ていた。 だがそれ以外には、きちんと年長者として、自分を保護し、大事にし、生きて行くための様々なことを教えてくれた。 祖父祖母、と思うにつけてもの水くささは感じる。 だが彼らは彼らなりの精一杯をくれた。涼は満足している。 だが仲忠は。 「行正の方が判る?」 「かもしれない。でも行正さんは、唐に連れ去られるまでは、両親の元で幸せに育ってたでしょ」 「それはそうだけど」 「彼は少し世間に出るのが早すぎて、それがたまたま普通でない場所で、ちょっと過酷な旅路で、戻ってみたらそこにあったのは両親の美しい思い出だけ」 「充分悲劇だと思うが」 「だけど全て失ってしまっているから、彼はそれに縛られることもない」 「君は」 涼は仲忠の髪を掻き上げながら問いかけた。 「自分が一番不幸だと思っている?」 「まっさか」 仲忠はあっさりと首を横に振った。 「本当に不幸なのは、今市中で家も食べるものも無く、漂うしかない貧しい人たち。死んでしまう人達。知ってるでしょ涼さん、そういう人達は、病気が流行ったら最初にやられるんだよ。力も出ないから。僕はそんな中から今の場所に居るだけでも、充分幸運」 「でも」 その時の涼は追求を続けた。 「君は本当にそう思っている?」 「思っているよ」 「うんそれはそれでいい。建前だとも思わない。だけど君の中で、自分がとても不幸だと思っているところが無い?」 仲忠の瞳が大きく開いた。 「それでも母上が、もっと自分を琴だけでなく、普通の母上の様に可愛がってくれたら、と思っていない?」 「涼さん」 声が震えた。 「君はふわふわと私を口説きながら、そういつも訴えているだろ。琴ではない、もっとわかりやすい、自分が世間で見たことのある様な形で可愛がられたかった、って。ぎゅっと抱きしめられたかったって」 「…涼さん」 「だけど、母上にはその方法が判らなかったんだね」 仲忠は首を横に振る。 「違う、それは母上のせいじゃあない。あのひとには、琴を伝えることしかできなかった。本当に、琴しかできなかったんだ。琴だけは、天人が下りてきたかと思われる様な、でも琴だけな、そういうひとなんだ。―――本当の姫君だったから」 「そう、君の母上のせいじゃあない」 涼はうなづいた。 「君の母上が、姫君暮らししかしなかった、それで家が貧しくなってしまったのは、既に亡くなった君の祖父君や、逃げた雇人達、皆既に居ない者達のせいだろう」 涼は聞いている。 仲忠の祖父、清原俊蔭は、娘に「天の掟があると言うならば、国母にも女御にもなろう。無いというならば賎しい者の妻にでもなるがいい」と言い残したという。 確かにそれはそれで気骨のある言葉だったろう。 だが娘にしてみれば。 そしてそれが、仲忠の気持ちにまで陰を落としているのならば。 涼は多少なりともこの伝説の琴の名手を恨まずには居られない。 主人が居なくなったらさっさとあるものをとって出ていった雇人達。 彼らを一概に恨む訳にはいかない。彼らには彼らの生活がある。 何もできない姫君一人の元にただ衷心だけで仕える者は滅多にいないだろう、と涼は思う。自分の所に居るもの達だって、没落すればどういう行動をとるものやら。 「悪いと言い切れるものが見つからない」 仲忠の言葉の中は、俊蔭の姿が無い。一番憎みやすい者が彼の中には無いのだ。 「君は母上を責められない。でも気持ちはそう割り切れるものではないだろう」 「…貧しかった頃は良かったんだ」 仲忠は吐き捨てた。 そしてほんのりと笑った。 「生きて行くことに夢中で、そんなことを考える余裕もなかった。僕が持って行く食べ物を母上が喜んでくれるだけで良かったんだ。母上の笑顔だけで、僕は満たされた。だって母上は僕だけのものだったから。だけど父上が僕等を見つけだしてから」 ああ。涼は気付く。そういう問題もあったのか。 「今までの償いとばかりに僕等に甘い父上を、そして男としては甘えかかってくる父上を、時々鬱陶しいと思いながらも、凄く愛してるんだ。誰よりも。馬鹿なひとと思いながらも、僕よりずっと、必要としているんだ」 抱きしめられないなら、抱きしめる。彼はそれまでそうしてきた。 だけどそれすらも誰かにとって代わられてしまったら。 気持ちの行き場は。 涼は仲忠を抱きしめる手に力を込めた。 「君は」 天井をふり仰ぐ。 「早く身を固めた方がいい。君には誰か優しい女の人の手が必要だ」 「うん、判ってる。孫王の君にもそう言われた」 「孫王の君」 「うん、あて宮のところの女房で、…上野宮の大君」 そして一呼吸置くと。 「僕が最初に好きになった女性」
「…それで、藤壺の方は、何の楽器を」 「うむ。琵琶を弾かせようと思う」 「琵琶ですか!」 「何だ、藤壺には無理だと思うか?」 「いえ、そんなことはございません。きっとあの方ならば、どんな楽器も易々とこなしてくださるでしょう」 「そなたにそう言われればあれも心強いだろう。行正も藤壺が琵琶を弾くと言えば、出て来ない訳にはいかぬのではないか?」 行正は元々東宮の琵琶の師だった。 「最近すっかり行正も顔を見せなくて私は寂しいぞ。そんなにあれも藤壺に気があったのか」 「…どうでしょう」 「何だ、違うのか?」 「さあ、そのあたりは」 「そなたもつくづく掴めない奴だ。藤壺に懸想していたのはそなたも同じではないのか?」 おそれながら、と涼は切り出す。 「藤壺の御方さまは当時も非常に素晴らしい姫君でした。私も男の一人、全く思っていなかった訳ではございません。しかし東宮さまの元にあるとならば、誰よりも納得も安心もできます」 「…それもまた、なかなか不遜な言い方よの」 東宮はふっと笑った。 「ともかくそなたには、仲忠と行正を藤の宴に引っぱり出すという役目を命ずる。どんなことをしてもあの二人を連れてくるのだぞ」 「は」 どんなことをしても、ね。 傲慢なまでのこの「甥」に彼は伏せた顔で苦笑した。
*
左大将の屋敷の大殿の上の町へ行くと、行正は庭に居た。 「おや、珍しい」 涼は思わずつぶやいていた。 行正は近純や家あこ君と言った少年達を相手に蹴鞠をしているところだった。 仲頼と違って、蹴鞠はさほどにしない男であったが。しかも子供達を相手に。 「どうぞ、中将さま。行正さま、涼さまがいらっしゃいましたよ」 「涼」 案内の声に、蹴り上げた鞠が落ちる。 どうしたの、と近純が即座に行正に問いかける。 「…蹴鞠はまた後にしましょう」 「どうして。ずっと忙しくて、やっと奥義を教えてくれるって言ったのに」 「兄上、お客様だし」 「ちぇ、お前はいいよなー。行正さんはしっかり舞の師って決まってるから。だけど俺はそうはいかないもんね。ちゃんと今度の約束をしなくちゃ嫌だよ」 「そうですね…」 ふっと笑って、行正は近純の頭を撫でながら「明日何の用事も無かったら」と言った。 「明日用事があったら?」 「…その時はその次の日に。忘れませんよ」 「本当に!」 「本当に。私は別に何処に行ってしまうという訳ではないのですからね」 「約束だぞ!」 そう言うと近純は家あこ君の手を引っ張って屋敷の中へと入って行った。 「ずいぶんと楽しそうだったじゃないですか」 「楽しいですよ。この屋敷も、こちら側はとても楽しい」 こちら側は。 では向こう側には? 大宮の住む方の町には、仲純が住んでいた跡がある。 仲頼が足繁く通っていた寝殿がある。 そしてまたそこは、あて宮の里内裏でもある。 「皆良くしてくれますしね。ここの大殿の上はそれこそ母上の様に優しくしてくれますよ」 「美しい姫君も?」 「それはどうでしょう。御簾ごしに時々お話はしますけどね」 「それを許してくれているのですね」 「…そういう話だったら、私は蹴鞠をまた始めますよ」 行正の表情が固くなる。 「わかりました。確かにあなたの蹴鞠姿もずっと見ていたいものだけど、今日はちゃんと東宮さまからの御用でしてね」 「東宮さまからの」 「藤の宴を催されるとのことです。そこで私はもちろん、仲忠やあなたを絶対呼んでくれ、と」 「絶対、ですか」 微妙に行正の表情が歪んだ。 「…そうですね。東宮の仰せですから」 「そういう言い方は、ちょっと苦しいですよ。あなたらしいとも言えますが」 「自分でも情けないとは思うのですがね。もう結構時間は経っているというのに… 無論お誘いとあらば参上致しましょう。私は何をすればいいのですか?」 ふう、と涼はため息をついた。 行正の言葉の端々に棘が感じられる。東宮だからと言って何でもできると思っているのか。 そんな思いが突き刺さる様に伝わって来る。 できるかと問われれば。涼は思う。できるのだろう。 東宮は何と言っても次の帝。それも後ろ盾の無い心細い立場ではなく、大臣家出身の中宮から生まれた一の皇子だ。 帝の中宮への寵愛は仁寿殿女御の方が間違いなく深いが、立場としては非常に強い。 女御腹の皇子は沢山居るが、一番上の弾正宮にしたところで、非常に才能はあるが、帝という器ではないと涼は感じている。 その結果としての強気。身分低い母から生まれた源氏の自分には決して無い自信。 羨ましく、また時々苛立たしく感じる。 だからこそ、行正の気持ちは痛い程良く感じる。 「琵琶を弾けばいいのですか」 「琵琶は―――そう、琵琶は、藤壺の方が弾かれるそうです」 「藤壺の方が」 さすがにそれには行正もはっとした顔になった。 「失礼だが、あの方は、琵琶まで」 「どうでしょう。しかし東宮がそう仰るのだから、心得はあるのではないかと。それでできれば、仲忠に箏を弾かせて合奏させたいとの御心づもりです」 「藤壺の方を利用して仲忠に弾かせようというのでしょうか」 「かもしれません。いえ、全くもってそうでしょう。しかし」 涼はにやりと笑う。 「それは我々としても非常に魅力的なことではないですか?」 行正は黙った。 「仲忠ときたら、我々の前でも滅多に弾いてはくれないではないですか」 「それは確かに」 行正もそれには同意を返す。 「どうして才能を出し惜しみするのでしょうね、彼は」 そうではない、と涼は思う。出し惜しみではない。 仲忠はそんな「才能」など要らないのだ。
*
宴は二十日の夜に行われた。 後宮の飛香舎―――藤壺にぞくぞくと東宮に許された殿上人が集まって来る。 「確か一昨年に吹上で、同じ日に藤を愛でましたね」 仲忠は涼に向かって笑顔を向ける。 「そう、あれは藤井の宮だったな。今でも覚えてるよ。君は青い白橡色の闕腋に綾の袍、蘇芳の下襲に綾の表袴…」 「それは皆一緒だったでしょうが」 あははは、と仲忠は笑う。 「それはともかく、あそこの藤はいい感じにあちこちに懸かってましたね。それに比べると、少しここの藤は整えすぎているという感じが」 「口が軽いです! 仲忠くん」 行正が小声で戒める。 「はいはい。あの時もそう言えば行正さんには何かとお小言ばかりだったなあ」 だが仲忠も「もう一人からは怒鳴られてばかりで」とは口に出さない。 「ここの藤だって綺麗だ。しっとりとした趣があるさ」 涼は棚から下がるどっしりとした花房を一つ、手に取る。
藤をほんのりと浮き上がらせる様に灯がともり、宴が始まる。 呼ばれていたのはやはり楽に秀でたものが多く、東宮に命じられ、次々に和琴や箏の琴、笙や笛などを披露する。 素晴らしい演奏には、東宮から何かと被物がある。 そして。 「さて、我が師にも一つ披露願いましょう」 行正が呼ばれる。 黙って立ち上がると、彼は東宮から琵琶を受け取った。 「ここの所、まるで顔を見せなかったので、心配していたのだぞ」 「ありがとうございます」 行正は元々拒む気はさらさらなかった。心で思うことと、現実で為すべきことはきっちりと区別している。 ずっとそうしてきた。それは唐でとらわれの身になっていた頃に覚えたものだ。 軽く調弦すると、行正はまずは普段から馴染みの音色を奏でた。 「やはり深みが違うな…」 東宮がつぶやく。 違う? そう違う。何が? 涼はふと感じた。何かが違う。 小曲を幾つかの後、行正は吹上で一度だけ弾いた大曲のさわりを奏でだした。 目を伏せて、撥に手の力を伝える。 低い音がその場に響く。重い。 「あの時は」 仲忠がつぶやく。やや不安そうな表情になっている。 「あの時はこんな重い曲じゃなかったのに…」 そうだ。涼は記憶をたどる。 一昨年の吹上。初めて聞いた珍しい大曲に、涼は迷わずその謂われを尋ねたものだった。
「元はと言えば、唐の友を悼む曲です。ただ琵琶の曲ではなかったのですが」 行正が最初に聞いた時には、琵琶ではなく、形が似た別の楽器だったという。 「持ってくれば良かった、と後悔してますが」 仕方なく、琵琶でできるだけ近い音を出してみようと自分で工夫したのだという。琴や箏よりは琵琶が近いのだ、と。 「東宮さまには」 「教えません。それに東宮さまはこの様な大曲には向いていません。華やかな小曲を鮮やかに弾く方が良いでしょう」 そう言っていた。 「それに東宮さまはこの様な湿っぽい曲はきっとお気に召さないでしょう」
そういうものは教えても仕方が無い、と行正は。 だがそれをあえてここで弾くというのは。 「…そうか」 仲忠ははっとした様につぶやいた。 「これは東宮さまじゃなく、あて宮に向けているんだ」 涼は思わず仲忠の方を向く。東宮には決して聞こえない位の声で、仲忠は涼に向かって言った。 「あて宮なら判る。判るんだ。この曲が何なのか。行正さんが、あて宮に対してどういう気持ちを持っているかを」 「そういうものか?」 「僕には伝わる。涼さんも… 判るでしょ?」 判らなくは―――ない。この曲からは亡くした友を悼む気持ちがひしひしと伝わってくる。 だがそれは、予備知識があってのものだ。 行正にとって仲頼がどれほど大切な友だったか、そしてこの曲の謂われがどういうものなのか、知っている自分達だから通じる、伝わるのではないかと。 そう涼は考えたのだが。 「音が、ね」 仲忠は目を伏せる。 「ひどく痛いんだ。あて宮に対しての悪意や敵意が、まともにあの御簾の向こうに向かっているよ」 「…それは、どちらかというと、呪の様なものか?」 「近いね。人によっては全く通じないんだけど…」 仲忠の表情が厳しいものになる。 「あて宮には判る。だからまともに受け止めてしまうよ。…何とかしなくちゃ」 「それは、行正の邪魔をしようということか?」 「そうじゃない」 仲忠は首を小さく振った。 「そういう風に使われるべきものじゃあないんだ、あのひとの手は」 じゃあどうしろと。 仲忠はじっと涼を見つめている。考えろ、とその目が訴えている。 ええい、と涼は東宮の元に近づいて行った。
「箏を?」 東宮は訝しげな顔で小声を返す。 「はい。お貸し下さいませ」 「珍しいな涼。そなたがわざわざそういうことを私に頼みこむとは」 「素晴らしい演奏ですから。かの大曲は吹上で初めて聞いた折、ぜひ合わせてみたいと思ったものです。ですが彼は滅多に」 「ああ構わぬ。口上よりそなたの箏が聞きたい。そなたの箏と行正の琵琶ならさぞかし」 「ありがとうございます」 東宮の言葉も半分に、涼は先ほど誰かが弾いた箏を受け取った。 普段自身で使っているもの程ではないが、さすがに宮中の楽器はどれも状態が良い。彼はそっと弦を指でかき鳴らす。 低い琵琶の音。 その上に箏の音が、ゆっくりと柔らかに乗って行く。
―――駄目です。
涼はそう思いながら箏を奏でる。 すると琵琶が激しく返す。
―――何をする! ―――駄目ですよ。
むき出しの敵意。むき出しの悪意。それらを彼は必死で音で食い止める。 琵琶の撥の速度が上がる。苛立ちにも似た音が、その場に響きわたる。聞いている中には、いつもの行正とは違うということに気付いた者もいたかもしれない。 だがいい。 東宮にさえ気付かれなければいい。 そして少なくとも自分の音が入ったことで、行正の音の力、音の悪意は弱まるはずだ。 もし悪意が東宮に伝わったとしても、それで帳消しにしてもらいたい、頼む、頼むから! 涼は内心叫ぶ。
―――あなたの音は、そういうことに使うものではない!
激しくなっていく琵琶を追いかけ、涼は箏をかき鳴らす。 大きく、激しく。 響きわたれ、と願った。 手にしていたのが箏であることがもどかしかった。 これが琴ならば――― 途端、首を横に振る仲忠の姿が浮かんだ。 琴では駄目か。 駄目なのだな。 涼は唇を噛み、音の調子を変える。それまで激しい琵琶に対抗するかの様なものを、もっと柔らかに、包み込む様に響かせた。
―――駄目なんです。
音で音を包もうと思った。
―――そんなことをしても彼は喜ばない。
そう、仲頼は行正がそんなことをしたと判ったら悲しむだろう。 彼は本当にあて宮が好きだったから。恋していたから。どうにもならない感情に捕らわれてしまっていたから。 そしてその感情の責任はあて宮にはない。 行正は気付いているはずだ。 それがあくまでも逆恨みに過ぎないということを。 それでもせずにはいられないということを。 今までずっと、気持ちを押さえつけられてきた彼の、唯一放出できる形のもので。
―――判っているでしょう?
響け。 涼はざらりと十三の弦を一気にかき鳴らした。
「素晴らしい」 東宮は手放しで二人を褒め称えた。藤の一枝を添えた杯が二人に渡され、被物が早速用意された。 「我が師よ、どうしてこの曲を私には教えてくれなかったのだ」 「東宮さまには、この様な暗く重い曲はお似合いではないと思いました」 間違いではない言葉を行正は冷静に東宮に告げる。 「なるほど、私には向かぬか」 「はい。東宮さまにはもっと晴れやかな曲がお似合いです」 「そうか」 そして一つうなづくと。 「そなたはそう言うだろうと思った」 行正は目を伏せた。それ以上の言葉は二人の口からは発せられなかった。 「涼はまた、素晴らしい即興であったな。いつもあの様に弾けば良いものを」 「いえ、もう…ついていくのが精一杯で」 「成る程」 ははは、と東宮は笑った。 「では今の二人に比べ、果たしてこの春の主はどうであろうな」 ざわ、とその場の気配が御簾の中に集中した。 藤壺の方が―――あて宮がそこに居る。 「仲忠」 東宮が呼ぶ。 仲忠はそれまで涼が弾いていた箏の前に座る。 どちらから。 その場の、楽を嗜む者達の気持ちが張りつめる。
音が響く。
琵琶に箏が。 箏に琵琶が。
そのどちらも間違いだった。 音は両者から同時に放たれていた。
どうして琵琶がこんなに高い音を。 どうして箏がこんな低い音を。 涼は耳を疑った。 それは行正も同様だった。彼はあて宮のいるはずの御簾から視線を離せない様だった。 無論それは錯覚だ。 琵琶は琵琶の出せる音域があり、箏には箏のそれがある。 だからそれが特別な音という訳ではない。 ただ、その楽器特有の音のつながりというものがある。この音の調子なら次は… 次の展開は… 皆、ある程度それを知っている。習っている。 だが今、ここで奏でられているそのつながりは、そこに居る誰もが耳慣れぬものだった。 「…こんな…こんなの、琵琶の弾き方じゃあない…」 そう言いながらも、行正はその音から逃れることができない様だった。 それは涼も同じだった。 箏は仲忠や彼が得意とする琴の様に主旋律を担当する楽器ではない。 どちらかというと、旋律を奏でながらも、その辺りに漂う「空気」を作り出す様なものだ。そう涼は理解している。 だから先ほどは、その「空気」で行正の作り出す悪意を包み込んだ。と、同時に音で彼に呼びかけた―――つもりだった。 それが通じたのだろうか。行正の琵琶の攻撃性は弱められ、その場には大曲の複雑な音に細かな音が絡み合う、それだけの様に聞こえたかもしれない。 だが今ここで行われているものは違う。 仲忠もあて宮も、彼らの知っている琵琶と箏の調和とはまるで違う形を作り―――それでいて、調和させている。 調和。 いや、違う。 涼は思う。 あの時仲忠は何と言った? あて宮の箏を何と―――
―――どうして!
悲鳴だ。
―――どうしてあなたは私を!
女の悲鳴だ、と涼は思った。
―――あなたなら助けてくれると思った。あなたなら私を守ってくれると思った。あなたなら私から私を―――救ってくれると思った!
琵琶が叫ぶ。
―――それは違う。
箏がなだめる。
―――誰も誰かを救えはしないよ。 ―――でもあなたなら! ずっと、ずっとずっと、同じ音を奏でるあなたなら、私を… ―――同じだから。
同じ。 涼は気付いた。 この二人は音で語り合っているのだ。 何故自分にそう聞こえるのは判らない。 行正は? 聞こえていない。彼はもう、ただ音の奇妙さに翻弄されているだけだった。 私だけか? 涼は音の中に感じる声に気持ちを澄ます。 箏の音は更に柔らかくなる。気のせいか、少しだけ琵琶の音も緩む。 だがそれがいっそう、音の調子をもの悲しくしていた。
―――私は初めから誰にも応える気はなかった。勝手に誰もが私を想像して勝手に不幸になった! どうしてそれで私を責めるの!? ―――君のせいじゃない。
箏は応える。
―――確かに君のせいじゃない。 ―――ではどうして!
琵琶が叫ぶ。
―――どうしてあなたが私を欲しがってくれなかったの?
ざわ、と琵琶の調子が変わる。
―――話を聞いていた。
箏はゆっくりと、しかし今度ははっきりしいた調べを奏で始める。
―――君のことを、ずっと話に聞いてきた。そして気付いた。君は僕と良く似ている。どうにもならないものにがんじがらめになっているところも、そのどうにもならないものが自分自身であるところも、本当の気持ちを表すことができるのが音であるところも―――君は僕に似ていた。
だから、と箏の音は続けた。
―――僕は君を欲しがることはできなかった。
その瞬間、強く琵琶が鳴った。
―――あなたは! ―――僕は君の兄になりたかった。君の兄になって君に琴を教え君を見守っていたかった。でもそれは無理だ。君の近くに居れば君に恋して破滅する。君のせいじゃないとしても、君の兄であれば。
涼は理解した。 仲忠は気付いていたのだ。 彼が欲しがったあて宮の音は、その頑ななまでの姿と心の奥底に隠れた生身の心。 それを縛っているのは「あて宮」、高貴なる宮腹の姫という、周囲の目と、それに作られた自分自身という殻なのだと。 そしてそれが、自分自身の姿と重なっていた。
―――どうして…
琵琶の流れが弱々しくなる。それに合わせる様に箏もゆったりとした調べに変わる。
―――こうやって、通じるのに…
そこに涼は、天下の美姫ではなく、小さな女の子の姿を見た様な気がした。
―――でもそれじゃあ駄目なんだ。君も、僕も。
ゆったりと。箏が。
―――ここで生きていかなくちゃいけないのなら。
止まった。
音が止まってからも、しばらく皆呆然としていた。 最初に声を上げたのは、東宮だった。 「…おお、やはり何と素晴らしい! 仲忠だけではない。我が藤壺の主も、これほどに素晴らしい手の持ち主だったとは。一体いつ琵琶を練習したのだ?」 東宮は御簾の中へ問いかける。 「…格別に誰かしらから習ったという訳ではないとの仰せで…」 声は孫王の君のものだった。 「それでいてあの力量。女が琵琶を持つ図は決して見よいものではないが、例外というものは何処にもあるものだな」 そう言って東宮は満足げに笑った。 「…東宮さま、仲忠は藤壺の御方さまに我が拙い箏の手を、今の御礼としたいのですが」 宜しいでしょうか、と仲忠は問いかけた。 「無論だ! 皆、こんなことは滅多に無い。仲忠は今宵、気が済むまで弾くが良い! ああ、何と素晴らしい夜だ!」 では、と仲忠はそのままゆったりとした曲を演奏し始めた。 そこには先ほどまでの緊張感は無かった。ただ柔らかな調べが辺りを漂っていくだけだった。 これは「兄でありたかった」彼のあて宮への慰めなのだ。涼は気付いた。 自分達は会うことは無かっただろう。この先も会わないだろう。 だけど覚えておいて。自分は貴女のずっと味方だから。
何曲も、何曲も、その夜仲忠は弾き続けた。 御簾の中の気配は、その曲全てが終わるまで決して消えることは無かった。 この宴が済めば、何かが変わる。涼は感じていた。 おそらくきっかけは、既に形になりつつある自分達の結婚だろう。院や帝の意志が大きく反映したそれは、確実に。 自分達は否応なく、楽しいこと、美しいことを求め暮らしていた世界から、入り組み複雑で、決して綺麗ではない世界へと引きずり出される。 仲忠は既にその気持ちが固まっている。自分もそのつもりだ。
ただ、今は―――
箏の音。藤の花。
今、この夜だけは―――
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