御神楽が終われば、あとは新年に向けて大忙しである。
母后の長寿を祈る読経の用意がまず始まった。 正頼も息子達も皆一丸となって準備に追われる。 まず中の大殿の東の方に本尊を安置し、臨時の御堂とした。そのための僧官の世話は息子達が行った。 その他の僧の世話はこの家に仕える侍が行うこととなった。彼らは使い勝手のよさげな場所を僧室として用意した。 政所では中務丞や義則が読経の僧具の用意をする。 家司達は納殿から細海布やさとめ、紫海苔などを出してくる。 その結果、僧坊は僧以外にも、弟子や童子などであふれそうな位だった。
御堂では、花机に積み重ねられた経を大徳が配り、禅師がそれを読む。 読経は三日間に渡る。 大徳達は御布施として白絹十匹を貰った。 ちなみに彼らは終わればそこからすぐに帰るという訳ではない。 左大将家のこの読経があろうがなかろうが、十九日から二十一日の三日間と決まったこの時期、内裏の御仏名があるのだ。 全くもってこの時期は行事が目白押しなのである。
*
御仏名が終わって晦日になると、何処の家の中も、正月の装束のことでばたばたと急ぎ出す。 「とは言え、私達が直接動くという訳ではないからね」 今宮はこの周囲ばかりがばたばたと忙しそうな空気に、何となく微妙な気持ちになる。 「あら、姫様も縫い物を覚えておくくらいは良いのではないですか?」 「苦手だもの」 「一宮さまは縫い物も染め物も上手でございますよ」 「駄目駄目、私それでお母様に、宮はもっとゆったりとしてなくちゃって言われたんだから」 そう言いつつ、一宮は近くの女房から一つ貸して、と縫い物を一つ取り上げる。 「一宮さま」 「だってこういう時に一人で琴鳴らしてたって面白くないでしょ?」 そう言いつつ、彼女はせっせと手を動かす。 自分は姫君らしくない。今宮はずっと思ってきたし、あて宮に対する反発もあってか、自分でも殊更にそんな行動をとってきた。 だが自分だけではない。どうやら一宮も内親王らしくないのではないか。 今更の様に彼女は気付いた。 ちくちくと針を動かす様は実に上手い。一体いつ覚えたのか、と今宮は思う。自分と一緒に育ってきたのに、と。 もっとも、同じ様に育ってきたはずのあて宮は、恐ろしいまでの琴の腕を持っている。 同じところで一緒に育ったところで、違いは確実に存在するのだ。 「ともかく私は何となく暇だわ」 「だったら今宮、またあて宮へ来たお文でも読んで欲しいな」 そう可愛らしい顔で頼まれると、今宮は嫌とは言えない。 ひょいひょい、と最近のものらしい文を持ち出すと、ちくちくとやっている一宮の側にぺたんと座る。 「はあ…」 一宮は手を出して息を吹きかける。 「一宮さま、火桶に手をおかざし下さい」 女房は慌てて火桶を側に持って来ようとする。 「大丈夫。それにすぐそこに置いては火が移っても困るでしょ?」 そしてまたちくちく、とやる。 「でも今日は本当にお寒うございます」 「ここ最近は起きると外の葉に霜がびっしりとついていることも多いですわ」 「はいはい、とりあえずここまで縫わせてね。で、今宮、どう?」 どちらにも一宮はにこにこと顔を向ける。叶わないなあ、と今宮は思う。 「はいはい。孫王に聞いたけど、どっちにも返事はしなかったってことよ。だから持って行ってもいいって言われたわ」 「ま」 一宮は肩をすくめる。 「まず平中納言さまから。 『懲りなくてはならない程つれないあなたのご様子を充分知っているはずなのに、それでも懲りなくて。 ―――霜が冷たくて忍草は枯れるでしょう。独り寝の夜々、霜の様に冷たいあなたのつれなさに、私は生き長らえることはありますまい―――』」 「霜の様にってとこは綺麗よね。あて宮にはぴったりと思うわ」 「次は…実忠さまから」 「んー、これもお返しは無しなの? 最近ずいぶんお体の調子がお悪いって聞くけど」 「そうでございます」 耳聡い今宮の女房は口をはさむ。 「ここのところ本当に源宰相さまは調子が優れない様でございます。倒れたり青くなったり赤くなったりもう大変ということで」 「それは大変だわ」 その一言で今宮は片づける。 「で、その実忠さまだけど。 『―――夜々誰とも契っている訳ではないのに、朝になるといつも涙で袖が凍っているのです。できればご同情下さい』」 「やだ」 一宮もこれまた切って捨てる。 廂を通ってくる女房が、姫様外の梅に雪が、と声をかける。今宮はそれを聞いて、さっそく立ち上がった。
さて、同じ屋敷の他の場所では、地方の国々から送られてきた、節会のための料が山となっていた。 政所は大忙しだった。 料を一族から使人達へ配らなくてはならない。諸国の御初穂を帝の祖先父母の陵へと献上する「荷前」の準備もある。 そして大宮は一日のための装束に忙しい。
「荷前」が滞り無く終わり、夜中の「鬼やらい」の儀式がけたたましくも忙しく終わると、もう新年である。 大宮その他の女君達の努力も叶い、皆の装束は新しく美しく出来上がった。 家長である正頼に皆新年の挨拶に出向いた。その様子はたいそうおごそかであった。
そして新年。 これがまた実に忙しい。 元日、内裏では四方拝に始まり、朝賀、小朝拝、元日節会と続く。七日には白馬節会がある。 若水、若菜、卯杖に卯槌。 何と言っても県召除目、進退に関わるこの日には人々の動きが騒がしい。 その後に踏歌節会、男踏歌と女踏歌の間に七草粥…
そんな中、子の日の祝いと一緒に、と正頼一家は大后の宮の六十の賀を祝うべく、準備も最終段階に入っていた。 そのために準備したものはというと。 まず厨子が六具。これは沈や麝香、白檀に蘇芳といった香木で作られている。 やはり香木で作られた唐櫃。これは織物と錦で覆われている。 箱や薫き物、薬の壺、硯の道具。 衣装は寝具に装束の、四季おりおりのもの。夜装束、唐衣、裳といった礼装などひと揃い。 漆の蒔絵になった胴の琴も非常に美しいものである。 手洗いの道具や銀杯。 手付きの盥。盥の覆いにする簾は沈木を丸く削ったものを糸で編んだもの、中に入れた湯水を他の器に注ぐのに使う半挿は銀製。 あとは沈木の脇息、銀の透箱、唐綾の屏風。 几帳は骨を蘇芳や紫檀で作り、四季それぞれに合う帷子が添えられている。 東京錦の縁取りの綿入れ座布団や二重畳のおまし所などは言葉では言い尽くせない程に高雅で美しいものである。 台は六具。金物の器に金の毛彫りがされている。 準備は全て整った。
さて、そんな正頼一家は祝いの前日、二十六日に参賀した。 車は二十台。 そのうち糸毛車が十、黄金作りの檳榔毛の車が十、髫髮車が二、下仕えの車が二。 同行するのは、天下人と呼ばれる人はもちろん、四位や五位の人々が百人、六位の人々はもう数知れず。 この時の女性方の装束も実に美しいものであった。 大宮と大姫である仁寿殿女御、そして今宮までの姫君は、赤色の表着に葡萄染めの襲の織物に唐衣と綾の裳と言った正装。 ただ、この時十五歳であるあて宮ばかりは別だった。赤色の織物の唐衣に五衣の袿に表着、そして白い綾の表袴。 お供の者は青丹に柳襲の平衣に青摺の裳を揃いで身につけている。女童も同じである。下仕えは平絹の三重襲であった。
参上してすぐ、大宮は母后のもとに向かった。 「格別なことがあった訳ではないのですが、何かと毎日の雑事に追われまして、ずいぶんとご無沙汰してしまいました。先日も、母上がご病気と聞き、すぐにでも駆けつけたかったのですが、仁寿殿が身体の調子が優れず、その時ひどく命の危険すら感じさせたので、慌ててしまいまして…」 良い良い、と母后はおっとりと笑って言う。 「私は大したことは無かったゆえ、心配しないように。それより仁寿殿はどうだったのかえ?」 女同士の話はとんとんと進んで行った。
やがて夜に母后が御賀を受けるべき場所がしつらえられた。前から念入りに支度されてきた調度も規定通りに行われる。 屏風に描かれているのは一年十二ヶ月折々の風景。 そしてその絵にちなんだ歌が、当代の才人達によって詠まれ、仲頼の手で書かれている。 一月は左大将正頼。 「正月の子の日の祝いをしている場所の岩に、松が生えている上に鶴が遊んでいます。 ―――この岩の上に生えている松は、かつてこの鶴が落とした松の実から芽吹いたものだろう―――」 二月は民部卿実正。 「とある人の家に花園があり、今そこで植木をしています。 ―――こうして花園に植えている人こそ、花の色はいつ見ても飽くことのない美しさだと知るでしょう」 三月は中将涼。 「上巳の祭りで御祓いをしているところに松原があります。 ―――禊ぎをする春の山辺に並び立っている杉の久しい命をあなた様(大后)に捧げましょう」 四月は頭中将仲忠。 「神を祭っているところに、榊を折って祭場へ来た山賎が帰ってきます。 ―――神を祭る榊を折りながら山賎が夏山を往復する度数は限りがありません」 五月は中将祐純。 「ある人の家の橘に時鳥がいます。 ―――私の宿の花橘に来た時鳥は、千代にもなる長い間住んだ自分の里だと思っている様です」 六月は少将仲頼。 「ある人の家の池に蓮の花が咲いています。 ―――浮かぶ池の水も、その葉の緑の色も深いこの姿に、気持ちも自然、のどかになっていくものです」 七月は少将行正。 「七夕祭りの折りに。 ―――織女に会って帰ってくる彦星と行きずりに会って、今ここに帰って来る雁は、織女にやる後夜の文となるでしょう」 八月は侍従仲純。 「美しい十五夜の月を惜しむかの様に、雁が声を上げて名乗っています。 ―――秋になると今夜の月を惜しんで鳴く初雁の音を私は毎年聞き慣れてきました」 九月は中将実頼。 「人々が紅葉を見に集まっていますが、その脇では稲刈りをしています。 ―――秋の錦に織りなした席に人々は団居していますが、汗になりながら稲を刈り集めているのを見ようともしません」 十月は左大弁。 「網代のある河原に舟が集っています。 ―――氷魚を運ぶうちに、舟は幾年もの冬を積み重ね、網代とも懇意になったものです」 十一月は兵衛督。 「雪が降って濡れている人を見ました。 ―――頭に積もった雪を見てふと思う似た様に白い私の頭… 白髪になって初めて老いを知るものです」 十二月は左衛門督。 「御仏名をしているところです。 ―――祈願する仏の教えが多いので、年に一度の仏名会ではありますが、恵みの光は千代を経ても注ぐでしょう」
やがて辰の刻ほどになって賀宴が始まった。 舞台が設えられ、笛や笙、鼓の音が響き始める。楽人や舞人もやって来る。 火桶が運び込まれる。沈木で出来たそれに銀のほとぎ―――火入れのついたものに、「黒方」の香を鶴の形にしたものを入れ、これまた沈木の柄が付いた銀の火箸を添えて嵯峨院や大后の前に奉る。 左大将一家は、これまでの日々に懸命に用意したものを、ここぞとばかりに奉った。
楽が始まり、子息達の舞の番である。 左大将の宮あこ君は予定通り「落蹲」を舞った。 大宮腹の末っ子である彼は現在九歳。 仲頼は急拵えのこの舞人の様子をはらはらとしながら送り出す。 大丈夫ですよ、とばかりに少年はにっこりと笑う。 しかし仲頼は気が気ではない。ここで彼が下手な舞しかできなかったら、自分が左大将宅に出入りを許されなくなるかもしれないのだ。 あて宮に本気で懸想している彼にしてみれば、これは非常に大きな問題だった。 だがその心配は杞憂に終わった。宮あこ君は「落蹲」を非常に立派に舞ってみせたのだ。 見物人達は非常に驚いて、口々に言う。 「当世は実に様々の才の最も盛んな時です。人の容姿さえ優れていますが、その中でも、選ばれた人々が、此の世では知られぬわざをしようとした吹上や、神泉の御幸でも見られなかった程の、すばらしい舞の手ですなあ」 などと騒ぎ立つ。 上達部や子息達はもちろん、何より仲頼が一番感動と安堵に涙を落とした。 「どうでした?」 少年は師である仲頼に衣装のまま駆け寄り、伺いを立てる。 「…素晴らしかったですよ。本当に嬉しいですよ」 「本当ですか?」 「ええ。本当に。実のところ、あなたがここまでやって下さるとは…いや、その」 「無理してお世辞言わなくても大丈夫です。僕だってびっくりしているもの」 他の師となっている公達同様、仲頼があて宮に懸想していることを宮あこ君は知っていた。 だが少年はそれでも嫌な気はしなかった。 他の人々は、何かと言っては自分に姉への取り次ぎを頼もうとする。 その時少年は、相手がどれだけ徳が高いと言われている者であろうが、学があろうが一瞬で軽蔑する。 だが仲頼はそうではなかった。 理由はどうあれ、自分の舞の手を一生懸命に教えてくれる時、彼はただもう真剣そのものだった。 時間が無いとか、出入り差し止めがかかっているという事情も判るが、それでも。 「これからも教えて下さいね」 無論、と仲頼は答えた。宮あこ君はにっこりと笑った。 次に家あこ君の「陵王」が始まった。その様子は、さながら陵王が生きているかであった。 「落蹲」と「陵王」は対になる童舞である。それだけに家あこ君の師となった行正も、彼への指南には気合いを入れた。 行正はあて宮に対し、仲頼ほどの差し迫った思いは無かった。つきあいで懸想している様な状態である。 彼を駆り立てたのは、むしろこの家あこ君の周囲に対する思いである。 行正は普段から大殿の上の側の子息達との付き合いが長い。大殿の上からも息子同様の扱いを受け、温かく迎えられている。 それだけに、彼にとって家あこ君は本当の弟の様に思えた。 自分の手を伝えるなら、皆の前で恥ずかしくないように、いや、それ以上に、と願った。 そしてどうやらそれは叶った様である。 ひらひらと華やかな「陵王」の衣装を身につけ、やはり家あこ君も走り寄って来る。 多くの言葉は無い。 だがそれでも笑みを交わしあい、その兄弟達にも「やったな」とばかりに合図を送られる。行正にはそれが心地よかった。 院は舞い終わった二人を揃ってお側に召し上げた。 そして杯を取らせるとこう詠んだ。 「―――雲近く遊び始めた田鶴の雛鳥の様な二人の少年のおかげで、過ぎ去った年が延びる様だな」 それに宮あこ君が杯を受け取りながら返す。 「―――院に捧げようと、世の掟も存じませぬままに、私供雛鳥は一緒に舞ったのでございます」
一方、大后の宮は女一宮からはじめ、左大将の女君達に順に琴を弾かせた。 一宮はゆったりと。 今宮は多少不安もあったが、それでも何とか危なげなく弾きこなしていく。 皆それなりに普段から何処であっても恥をかかない程度には、と練習を重ねているのである。 それは「姫君らしくない」と言われている程の活発な今宮であっても同様なのだ。 自分の番が終わってほっとしていると、ふと大后の宮の方から声が上がった。 「あてこそはどう? 居ないのかしら?」 やっぱり来たか、とそこに居た女君達は皆思った。 特に今宮はやっぱりな、と陰で苦笑した。 この日、女君の中でもあて宮だけは別の装束をまとっている。他の娘達は、既婚だろうが未婚だろうが同じなのに。 彼女には「大后の宮にあて宮の晴れ姿を見せて、この先の入内に向けて心証を良くしておこう」という父母の気持ちが透けて見えた。 几帳が用意され、あて宮は大后の前に出される。 大后の宮はほぉ、とため息をついて言う。 「父君達に心配をかけさせるのも無理はありませんね。こんなに美しく生まれついたのでは」 そして箏の琴を二つ合わせると、彼女の前に出した。 「ここにはこれ以上のものは無いのですよ。さあ、一つ弾いてちょうだい」 大后の宮はそう言ってあて宮にさあ、と勧める。 「…全く弾けませんので…」 曖昧な答えが返る。 そんなこと無いでしょう! と他の女君達はじりじりしながらやり取りを聞いている。 無論、まずは断るのが礼儀だから仕方が無いが、普段の彼女の手を知っている姉妹達はあて宮の口調も相まって、内心「早く!」と叫ばずにはいられなかった。 「全く弾けない? その様には聞いていませんよ。ほら」 そう言ってまたもうながす。仕方なしに、という様にあて宮は受け取るとさらりとかき鳴らした。
「…今の音」 仲忠は口の中でつぶやいた。 箏の音は男達の集う側にも大きく響きわたった。 「今の音は一体誰なのだ? この様な琴の手は聴いたことが無い」 院は驚き、側の東宮に問いかける。 東宮は黙って首を横に振ると、その音にじっと耳を傾ける。やがて仲忠に向かい、こう言う。 「そなたが聴いても恥ずかしくない様な音だ」 仲忠はふっと笑う。格別にそれに対し返答はしない。 音は女君達の居る方から聞こえてくる。 そして左大将が涙を流して聴いていることから、皆やがて、あて宮の演奏だと気づき始めた。 行正はちら、と友人達を見る。 ふう、と仲頼は少年の様に頬を紅潮させて聴いている。彼の脳裏には一度かいま見た時の美しい姿が蘇る。らしいな、と行正は思う。 涼は目をつぶり、箏の音に感心しているかの様だった。だがそれだけだ、と行正は思った。むしろ彼は、他の女君の演奏の方を気にしていた。 一方、仲忠は目をつぶってじっと音に耳を傾けている。 いつもと違う。行正は思う。 普段どんなことにも興味がありそうで、実は全く無いこの友人が、音の中で微睡んでいるかの様だった。珍しい。 そして行正はふと首を傾げる。もう一人の親友が、やはり仲忠の様に音に身をゆだねている。 …仲純だった。
大后の宮は大きくゆったりとうなづくと、演奏を終えたあて宮に向かい声を掛けた。 「大変珍しいも素晴らしい音ですこと。今の世の妙手と言って差し支えないですわね。とっても素晴らしいわ。 ―――いつもの子の日よりも、今日の子の日が嬉しいのは、あなたの弾く音を聴くことができるからですよ」 あて宮は返す。 「―――木の陰で、風の調べる松の音は、今日の様な晴れの日には恥ずかしくて弾かれません、自分の様な音など」 謙遜する彼女に、つい笑みを誘われた大后の宮は「あれを」とひと揃いの道具を持ち出した。 黄金の箱や壺に様々の素晴らしいものを入れた銀の櫛の箱を六具。仮髻に蔽髪、それに添えて挿す簪の釵子、前髪にさす面櫛、元結といった、大后の宮がかつて入内した時の道具である。 凄い、と几帳の陰からのぞく女君達は皆思った。そしてまた、自分達との待遇の差を思った。 今宮は自分がその立場にないことにほっとした。あんなに曰く付きの道具を頂いたなら、どれだけの期待がかけられるか! 考えるだけでぞっとする。 自分の髪があて宮程つやつやとしていないことを、楽の腕が上手ではないことに安心する。 おそらく譲られた道具をつけて入内するあて宮は実に美しいだろう。申し分ない女御になるだろう。なってくれ、と今宮は思った。 一方ちご宮は、御簾ごしに見える兄の姿に不安を覚えた。何をやっているのお兄様、と内心つぶやいた。 音に聞き惚れている。それはそれでいい。が、その様子が恋する若者のそれと同じだということに彼は気付いているのかいないのか。 目を覚まして下さい。彼女はそう願わずにはいられなかった。
「お久しぶりでございます。長らくお目にかからなかったことを申し訳なく」 大后の宮の元に参上した東宮は、そう切り出す。 「ほほほ、どれ程のものでしょう。時の経つのも気付かない程、世間から離れて久しいですからね。…そう、今日のあて宮の演奏を聞いて、あの子がもうあんなに大きくなったのか、と思いましたよ」 「驚かれましたか?」 「ええとても。あの様に素晴らしい子がこの先どう育って行くのか、ずっと見ていきたいと思いますよ。だけど老い先短い私ですからね。そう思うと何となし、自分自身が悲しくなってしまうのですよ」 「何をおっしゃいます。年の初めからその様にお気の弱いことを。しかし確かにあて宮の箏は素晴らしかったです。私も来た甲斐がございました」 「まあ」 大后の宮はくす、と笑う。 「あなた、私にかこつけてあの子を見たかったのね」 「いえそんな、めっそうもない」 さらりと東宮はかわす。くすくす、と大后の宮は何ごとかを女房に告げる。 「ずいぶんと執心だとお聞きしておりますよ。でもそれも当然と言えば当然でしょうね」 全く罪深いひとだこと、と大后の宮はつぶやいた。
「お呼びですか、母上… 東宮さま」 大宮はそこに居た人物に驚いた。 いや、驚くべきことではなかったのかもしれない。この御賀は嵯峨院の女一宮である大宮が母后のために主催した、どちらかというと左大将家寄り、王族筋のものである。 そこへわざわざ東宮がやってくるならば。 「久しぶり」 「こちらこそ、ご無沙汰致しました。娘からは何かとそちらへ御消息差し上げております様ですが、それはそれでまた、差し上げないよりもやや気がかりで…」 「だからそのあたりも、そろそろ心を決めないか」 東宮は切り出す。すぐにそう来たか、と大宮は身構える。 「…そうですね、幾度伺ったら思い定めることができましょうか」 「会う人会う人皆、あて宮の噂だ。私もこれでは全く落ち着かない。そちらの方から、こういう訳だとそろそろ周囲にも打ち明けて欲しいものだ」 大宮とて、気持ちが固まっていない訳ではない。 だが何かが引っかかっているのだ。何とは判らない。ひどくぼんやりとした不安である。 無論期待もある。 大姫の仁寿殿女御は中宮や国母にはなれなかった。それでも帝の最愛の寵姫であり、たくさんの子に恵まれ、女としては幸せであろうと思う。 だがあて宮が姉と同じ道をたどるとはいまいち考えにくい。 仁寿殿は最初の子、最初の娘であったからであろうか、大宮も左大将も、蝶よ花よと風にもあてぬ様に育てた。その割には神経は図太く、内裏の後宮でも案外のんびりと暮らすことができる様である。 彼女は楽や書や歌にずばぬけた才を見せる訳ではない。しかしそのどれにも柔らかで温かいものを感じさせる。 入内させず、只人を婿取ったとしても、それは同じだったと思われる。彼女はそこで良き妻となったと思われる。 一方であて宮は。 あまりにも出来過ぎる、と大宮は感じていた。 彼女は自分の子と思えない程「貴」であった。 自分は一応、先の帝の女一宮である。生まれは誰よりも「貴」であろう。 だがこうやって左大将を夫に持ち、たくさんの子を生み育て、それが風雅の道よりも自分には合っている、合いすぎていると実感した時彼女は、自分の本性が「貴」ではないと思ったのだ。 それは決して悪いものではないと思う。 仁寿殿や、その他の娘にもその点が引き継がれ、彼女達は幸せだ。 中には今宮やけす宮の様に、好奇心や知に勝った者も居るが、それはそれでいい。自分は分相応の場所に落ち着き、娘達もそうすればいい。そう思ってきた。 だからこそ「貴」がそこに出現してしまった時、彼女は戸惑った。 上の八人の娘に比べ、何処がどうという訳ではないが、育てていて反応が違う娘を彼女は恐れた。 自然、乳母任せになり、…それが逆に、周囲から「特別に大事にされている」と見られる所以とされ。 気が付いた時には、彼女は呼ばれる名の通り「貴」宮となっていた。 「せめてもう少し柔らかなお返事を、とお願いできないものでしょうか…」 信頼できる女房の孫王の君や兵衛の君が、何かと大宮に漏らしている。 「確かに軽々しい返事は困ると思います…のですが、殿方からのお文を今宮さまや一宮さまにあっさりと遊び道具の様に渡してしまうというのはやはり少し…」 女房達は黙認はしていた。中には確かに怪しからぬ文もある。 それでもやはり、人の思いを妹達の遊び道具にしてしまうというあたり、何かが欠けている様な気がする。 女房の言葉には、そんな口には出しにくい非難が混じっていた。 そんな娘を東宮に差し上げてもいいのか。 そんな娘が宮中でやっていけるのか。 大宮の不安はそこまで進展していた。 「…娘をと所望される折もありますが、適当なのがおりませんので、いつも残念で落ち着かないのでございます」 「私を御見捨てか」 さっくりと東宮は言い放つ。 「いちいち言葉にはせずとも、私のことは特別に思い出してくれると思っていたが、そちらはいつもそうでもなさげで」 「そんなことは」 「だから私もこういちいち、恥ずかしいのを我慢して申し上げるのだ。しつこいと思われるだろうが、私も必死なのだよ」 ぽん、と東宮は閉じた扇で手の平を軽く湯打つ。 「…拙い娘の中でも、女蔵人位のお仕えが出来る娘が居れば、すぐにでも差し上げたいと存じます」 ふうん? と東宮は片眉を上げる。 「が、そちらには高貴な方々が大勢お仕えしていると承ります。そんな中へうちの至らない娘を出すのは、鼠がいたちの中へと混じる様なものですから」 娘の生き血をすする様な怖い怖い女性方に交わらせるのは嫌だ、と大宮はたとえた。 すると東宮はあはは、と声を上げて笑った。 「入内すれば、いたちの中どころか、安全な倉に入った鼠の心地がなさるに違いない」 「…」 「『泥の中の蓮』とも言う。抜群に美しい姫に、その様な心配は無用だろう。入内させるがいい。このめでたい日に、ぜひあなたのご承諾を得たいものだ」 ああもう駄目だ、と大宮は思った。夫も自分もそれでいいと思っていたにも関わらず、どうしても迷っていた結果は、やはりそれししかないのか、と。 それでも言葉を何とか絞り出す。 「…今、思いがけないことを頼まれているのです。お話の方は暮れ方に伺いましょう」 「同じことなら今、と思いが… できるだけ早くお決めになって頂きたいものだ。 ―――年は経っても私の回りは変わりが無いので、今日のめでたい子の日も待つ甲斐がありませんよ」 大宮はそれに返す。 「―――年に一度という訳でなく、数多くの子の日/寝の日をお持ちという評判なので、あなたの仰せの様に変わらぬ松/待つなどとご信頼申し上げられません」 それを聞くと東宮はうっすらと笑い「それではまた」と場を立った。 東宮の姿が見えなくなるが早いが、大宮は母后の宮の方を向き、必死で訴える。 「お母様、あてこそは駄目です、差し上げる訳にはいきません」 「何故その様なことを言うの?」 母后はおっとりと問いかける。 「東宮さまの元には既に妹の女四宮が入内しているではないですか… しかも、今梨壺の君と並んで寵愛深くいらっしゃる…」 「それでも」 苦笑して母后は娘の肩に手を置く。 「それでも東宮さまからこれだけ懇願されるままになっているのは良くありませんよ。こちらから進んで差し上げるのが当世流というものでしょう」 「でも」 「あの姫は、内裏以外の里住みはさせない方がいいでしょう」 「お母様…」 大宮は顔を上げ、母をじっと見る。 「だいたい、誰か適当な方が本当に居ると思うのですか?」 大宮は言葉を無くす。 そうだ。これまでずっと、懸想人達をつれなくしてきたのも、結局は確かにあの「貴」な娘に誰も釣り合うとは思えなかったからだ。 仲忠あたりが似合いだとは思う。いや、それがいいと思ってもいた。 だが。 これは母としての直感だったが、当の仲忠に、実忠の様な執心や、仲頼の様な純情が見られないのだ。 これが他の娘ならそれでもいい。何となく幸せになりそうな気がする。 だがあて宮の婿はそれでは務まらないのではないか? 大宮はそう思うと、当代一の婿がねと言われている仲忠にも、どうしても気乗りしなかったのだ。 「入内なされば、私が責任を持って後見も充分に致しましょう」 「でも、妹は…」 「あれはあれで、それなりに目を配っているつもりです。もしご寵愛が薄れたとしても、それは本人に至らぬ所があるからでしょう」 そしてふう、と大きく息をつく。 「東宮さまは度々こちらへもお願いに来るのよ。左大将に頼み込んでからずいぶんになるのに、まるで良い返事がもらえない、と。確かに私はあなたの母でもあるのですが、四宮の母でもあるのに!」 「でもあてこそはまだまだ幼いので…」 「まだその様なことをぐずぐずと言われるのですか? 今いる妃達の中には大した者は居ませんよ」 思わず大宮は身体を退く。 「そう、右大将の娘の梨壺はなかなか気だての良い娘の様ですね。度々呼ばれる様です。でもそれ以外の者は本当に五十歩百歩ですよ。特に昭陽殿、太政大臣の娘ときたら、普段から質の良くないことばかり…」 ぶつぶつと口の中で何やらつぶやく。 「ともかく早く入内させる様になさい。そうしないと私が東宮さまに責め立てられてたまらないことですよ」 「…本当に、ご心配をおかけ致しましてすみません、お母様」 「本当にねえ。せっかくあなたが祝ってくれた宴だというのに」 大宮はそのまま母后の前から下がり、家族の元へ戻った。 久々に母と会ったというのに、ちっとも気が晴れないことが彼女には悲しかった。
*
「それにしても、今日の宴は素晴らしかったなあ」 馬上の仲忠はにこやかに笑う。横を行く仲純はその友人の表情を羨ましく思う。 「吹上の浜で、遊びという遊びはやりつくした、あれ以上のものはないとずっと思ってたんだけど…」 ふう、と仲忠は目を細め、ため息をつく。 「でも左大将どのの所にこそ、他の人の到底及ばないものがあったんだな。宮あこ君の舞と、あて宮の箏は、それこそ三千大千世界にも敵う者は居ないな」 「うん、確かに、あそこまで宮あこがやるとは私も思わなかった」 「仲頼さんが涙にむせんでいたもの。甲斐があったというものだな。でも何と言っても今日の一番はあて宮の箏だと思うんですよ」 仲純はそれには答えない。 「何かもう、僕の耳は声に誘われて、箏のところまで離れて行ってしまった様だったもの」 「それはさぞ、不安な気持ちになったことじゃ?」 「うん、そうですね。ああ全く、あて宮の琴のことになると、僕もどうにもならなくなってしまう」 「確かに。君はいつもより楽しそうだ」 「僕は何と言っても、あて宮の音が何より素晴らしいと思っていますからね」 「人ではなく?」 「あの音を出すあて宮が恋しいとは思いますよ。恋しい、愛しい。でも愛しいは悲しい、哀しいにつながります。今日の調べもそんな感じで」 「あんなに晴れやかな音だったのに」 「音は晴れやかです。でもそれだけじゃあない。あて宮の音の中には、あて宮の心が詰まっています。少なくとも僕はそう思います」 「それは楽の達人としての君の言葉?」 「どうでしょう」 くす、と仲忠は笑う。そしてちら、と仲純を見る。 「僕はね、仲純さん。本当にあなたの立場だったらどんなにいいかと思いますよ。あて宮に最初に琴の手ほどきをしたのはあなたでしょ?」 私は。仲純は思う。口には出せずに、心の底から思う。 私は君の立場になりたかったよ、と。
*
左大将一家が戻ると、東宮からあて宮の元へ文が届けられていた。 「今日一日大変嬉しかったのは、待たなければならないと思ったあのこと/あなたの入内がもうすぐだという気がしているからです。 ―――あなたのことで気がゆるんで涙がこぼれて袖が濡れてしまったので、この喜びを包みきれずに申し上げるのです――― 入内は早くして下さいね。川島の松の様にいつまでも待っているとばかりお考えくださるな」 それを見た大宮は、強気の文だ、と思った。そしてあて宮に見せる前に返事を書いた。 「―――包むはずの袖が朽ちたならば、嬉しいことも嬉しいと思わない身になりましょう」 東宮はそれに更に返してくる。 「―――どこにでも包めるのですから、嬉しさが身から外に余るということはありますまい。袂に限ることではないと思います」 大宮はふう、とため息をつくと、あて宮の方へと文を二つとも回した。 あて宮はそれを見ると、さらさらと返す。 「―――待たないとおっしゃるのは、長い心がお有りではないせいでは?――― そう思えてしまいますわ」
*
東宮入内がとうとう決定、という噂は瞬く間に広がった。 途端に懸想人達の動きも活発になる。完全に駄目だ、とあきらめた者も居るが、大方はそうではない。 最後の望みをかけて精進や斎をする者。 山という山、寺という寺に不断の修法を七度、春の初参りの日まで行わせる者。 山林に混じる者、金峰山や加賀の白山、宇佐の宮まで行って願をかける者など実にめまぐるしい。
*
「…見苦しいわ…」 今宮は御簾の向こう側をのぞき込むとつぶやいた。 実忠が大殿の簀子を離れずに、何かというと涙を流して嘆いていた。 時には文も送ってくる。その調子がまた奮っている。
「―――言葉も涙も尽き果てて、ただぼんやりと思いに沈んでいます――― 最早何と申し上げるすべもございません。ここ数年ずっと思いをかけていながら、間に人を立てず、夢ほどにも直接に申し上げないでしまったことが心残りでなりません。 愛しい貴女、貴女が雲の上のひととなってしまったとしても、私が下の方から見上げることを許して欲しいものです」
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「お母様からあまりそういうことはするものではない、と注意はされたんだけど」 「別に構わないわ」 あて宮はあっさりと答えて、自分の元にやってきた懸想人の文を妹に渡す。 今宮はやはりそれを一宮と眺めているが、あまり以前の様にうきうきと批評することもできない自分に気付いていた。 「右大将さまはどちらかというと、もう意地よね」 今宮は思う。 そもそも彼には最愛の妻と子が居るのだ。 だが色好みで鳴らした身としては、あっさりと引き下がる訳にもいかないのだろう。
「入内がお決まりになった今では、申し上げるのも大変恐縮かと存じますが「たつことうきかげ」という様に、どうにも立ち去りがたい思いがありますので。 ―――八百万の荒神に祈ってお願いしましたが、とうとうあなたは何も仰いませんでしたね――― 多くの年月がありながら、あなたを得るための工夫もせずに済んでしまいました」
「で、それにはどう答えたの?」 一宮が問いかける。 「まだ決まったという訳でもないのに」 あて宮はそう言って笑うばかりだった。 孫王の君に聞いても、特に返事はしていないという。 「というより、もう東宮さま以外の方には返事をなさらないおつもりの様です」 そうかもしれない、と今宮は思った。
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その後、兵部卿宮からも文が届いた。 「水の上に数を書くとか言う様に、どうせ無駄なことだとは思いますが、気の紛らわし様も無く辛く、どうして忘れることができましょうか。 ―――文をあげることも近づくことも、どちらも出来ないのです。だったらさっぱりとあきらめるべきなのに、何とまあ、後から後から惑う心がついて廻ることでしょう――― 全くどうしたものでしょうか」
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平中納言からも届いた。 「甲斐のないことをこんなにも思って悩むよりも、死んでしまいたいと思いますが… ―――身を投げる所さえ無いのです。人を思う私の心に勝るほどの深い谷がないので…――― ああどうしたものか」
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弾正宮からも、庭の紅梅が匂う盛り、雨の降る頃に文が届いた。 「―――思い悩むあまり、紅の涙が流れて溜まって染まった、あの色の何と深いことでしょう――― 大空まで恋しゅうございます」
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仲忠からも来た。 「―――涙川に浮き名を流す今となっては、私を誰も信頼しないでしょう――― 涙で袖が濡れてしまうのを誰が咎められましょう」 恋歌という感じではないわ、と一宮は自分に言い聞かせる様につぶやいた。
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涼からも来た。 「―――あなたに対する私の恋は真砂の数の数えても尽きない程なのに、ほんの僅かなしるしすらお見せ下さらないのですね」 そう言えば最近この方とやり取りしていなかったわ、と今宮は気付いた。 少しだけ寂しく思った。 また「女房」としてこの様子でも書いてみようかしら、と彼女は思った。
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それから更に暖かくなった頃、仲純が庭の木の芽が膨らんできたのを見てこう詠みかけた。
「―――私と同じように、春の山辺も恋いこがれているでしょう。嘆き/木の芽がもえない日はありません――― 山にも私の恋が一杯に広がった様な気がするんだ」
他の女房達もそこには居た。だから何処かの誰かへの恋心を詠んでいるかの様にさりげなく――― 仲純は答えを期待していた訳ではない。ただもう、何かしらの反応が、少しでもあて宮の方から感じられたら。それだけで良かったのだ。 しかし几帳の向こうの気配は静かだった。まるで誰も居ないかの様に。 手ひどく、もっと手ひどく撥ねつけられたなら! 彼は時々そう思う。もっと、もっと手ひどく。 そう言えたなら。
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とある日のことである。 「姉様」 今宮の前に、宮あこ君がぶすっとした顔で現れた。 彼はまだ元服前なので、同腹の姉達の前にひょいひょいと顔を出す。姉達も彼を可愛がっている。 「どうしたの? 向こうのあこ君と喧嘩でもした?」 「ううんそんなことない。あいつと居ると楽しいし」 同じ歳の家あこ君とは、住むところは違っても、何かと行き来している様である。先日の舞でもお互いにその健闘を讃え合ったと今宮は聞いている。 「これ」 彼は縦折りの文を差し出した。 「私…」 じゃないわね、と彼女は大きくうなづいた。 「前にもそういうことなかった? あて宮宛なんでしょう?」 宮あこ君はうなづく。 「あったよ。前は真言院の阿闍梨だった。渡してくれってしつこくってさ。僕あれから大人って嫌だなー、って思っちゃったじゃない」 「それは私も思ったわよ」 ねえ、と近く居る女房に彼女は同意を求めた。彼女達はやや困った顔をした。 「阿闍梨だけじゃあないよ。行正さまも前、僕に頼んでさ」 「あの方も」 「そう言えばそういうお話、聞いたことがございますわ」 「あの方はあちらに住んでるから、家あこの方が渡しやすいんだろうけど、あいつじゃああて宮のお姉様には渡しにくいだろうからってわざわざ僕にさ」 ぶつぶつと宮あこは言い捨てる。 「で、誰からなの?」 「見れば判るよ」 「私が見ていいの?」 「だって別にどの宮に、なんて言わなかったもの」 しらっと彼は答える。今宮は肩をすくめると、文を開く。 「―――思いに堪えられないのにつけても、胸だけでも燃えないのでしたら、身からも胸からも焔を出さずに済むでしょうに――― そういう訳で隠れ場所も無いので、やむなく御消息申し上げるのです」 「立派な御手跡ですわねえ」 回される女房達は感心して見る。 「けど紙とかは結構素っ気ないのでは?」 「だって言ったもの。『これは普通のことを申し上げるのですから』って」 「こうゆうのはあて宮は受け取らないって言わなかったの?」 今宮はため息をつく。 「言ったよ。だけど行正さまと同じさ。何か、渡さないと漢籍の稽古もしてくれなさそうだったんだもの」 「漢籍の稽古」 ということは、と今宮は記憶を巡らす。 「何、もしかして」 弟はふてくされてうなづく。 「だから僕、言ってやったさ。『ずいぶん久しく漢籍の稽古をして頂きませんね。他の人の前では読むなと仰ったので、読みも致しません。悪い人ですね』ってさ」 「それで?」 それで済むはずが無いだろう、と今宮は思う。 宮あこの漢籍の師。それは藤英だった。 そう言えば彼は現在、父左大将の東宮大夫の辞表を作るために、南の大殿に部屋を設えてもらっている、と今宮は思い出す。 現在彼は「大内記」という職についている。詔勅、宣命を起草し、位記を書き、御所の記録を掌る重要な役目で、五位に相当する。 このほど殿上も許された。東宮学士も兼ねている。役に立つ者として、朝廷から大事にされている。 評判が上がるにつれ、高い身分の人々が彼を婿にしようと話を持ちかけてくる。 だが彼はそんな話にはまるで乗らない。何でもこう言い放ったそうである。 「私が貧乏に困っている時には、ただもう皆様私を虫か鳥の様に軽蔑していたじゃないですか。もし私の髪の毛に火がついたり、大海にさらわれ流されたとしたも、誰もきっと救いはしなかったでしょうよ。そう、あの時それまで頑なに持っていた矜持を横に置き、身の程も顧みずに左大将どのの屋敷までの行進に加わったがために、現在はその今をときめく方のお目に止まり、多少なりとも実力を認められました。それで少しは世に出て人並みになっただけのことで、中身は元の藤英と何も変わったものではないのです。そして私がこういう人物であるのは、まず天道が公明であり、私の学問の実力が確かであったからです。今こうやってかつては天人かとまで思われた高貴な人々と肩を並べて同等に交わったり、位の高かった人を今では自分の下に見る様になり、元々及びもつかないと思っていた宮中をまるで我が家の様に馴れ馴れしく考えることができるのは、全て仏のお陰でしょう。私を嘲弄する公卿の皆様、あなた方はあなた方に相応しい五位の方を婿にお取りになれば良いでしょう」 確かそれは兄の一人が爽快そうに言っていたはずである。今宮にしてみれば、何格好つけてんだ、と考えずにはいられない。ともかくこの男はいちいちと自己主張が長ったらしいのだ。 馬鹿じゃないか、と彼女は思う。 「そしたら彼、僕に言う訳さ。『宮にお取り次ぎして下されば、東宮さま並に学士としてお仕えしましょう。東宮さまのところを辞めても構いません』とね」 「そんなことする訳が無いでしょ」 びしゃ、と今宮は言う。ようやく念願の職を得た彼が、懸想ごときで何を言う。 そもそもこの「賢い」藤英が、あて宮が東宮のもとに入内するという話を聞いていない訳がない。 いや、それとも。 「結構こういうひとって鈍いかしら…」 ふとつぶやく。するとその一言を女房が拾い上げる。 「そうかもしれませんよ。東宮さまのお側に仕えていても、そういうお話はお偉い方ですから、お耳に入れないのかもしれませんわ」 「それはありかもね」 「で僕も言ったのさ。『どの先生もそういうことを仰って教えて下さらないから、僕は馬鹿になってしまいます』ってね。全く僕を一体何だと思ってるのさ、あの方達は」 全くだわ、と今宮は苦笑する。そんなことに使われるこの弟が可哀想である。 「まああて宮には私のほうから女房にこれこれこうゆうことがあったわ、って伝えておくわ。あなたは無視して自分のことをしてなさいよ」 「そうするよ。あの人達、学問は立派だけど、僕はどうしても好きにはなれないもん。あーあ、仲忠さまから色々教わりたいなあ」 「あら」 今宮は目を瞬かせる。 「仲忠さまは好き?」 「涼さまもいいなあ。あの方々の言うことだったら僕、何でも熱心にできると思うんだけど」 「そりゃあ今評判の二人だけど」 「姉様だって見たことあるでしょ。でも僕はもっと間近で見ちゃったものね」 「若様、そんなはしたないことは姫様はしないものです」 「だから、どっちかと姉様達の誰かが結婚して欲しいなあ。そしたら僕、義理のきょうだいだし。もっと仲良くなれるし。あ、でも仲忠さまは一宮と決まったんだっけ」 「まだ本決まりじゃあないわよ。ともかく宮あこ、一宮の前でそういうことをべらべら言うんじゃないわよ」 「どうして。ああ、一宮が仲忠さまを好きだからか」 嗚呼、と今宮はぴしゃと自分の額をはたく。 「だからそういうことを軽々しく言うんじゃないっていうの」 「判ってるよ。そのくらい僕にだって判ってますってば。姉様だから言うんだし」 「何、私ならいいって言うの?」 「今宮の姉様が一番話しやすいんだもの。そう、姉様が涼さまと結婚してくれたらいいなあ」 「だからそういうことは」 「はいはい、言いませんー」 あはははは、と笑って宮あこは文を置いて立ち去った。全く、と今宮は可愛らしいつむじ風にため息をついた。ほほほ、と女房達は笑い声を立てる。 「でも私共も同じですわ。あて宮さまが入内なされて、一宮さまに仲忠さま。それで今宮さまに涼さまが婿入りされたら、ここは今以上に華やかになりますし」 「私達も楽しいですし」 「…あなた達はそれが目的でしょ」 「だってそうすれば、涼さまのお支度とか」 「お側に控えることだって」 「間近に寄ることだってできますし」 「朝のしどけないお姿とか!」 きゃあ、と女房達は声を立てる。勝手にしろ、と今宮は長い文を書く巻紙を取り出す。「女房」からの文を久々に書こうと思ったのだ。 「あ、今宮さま、例のお文をまたお書きになるのですか?」 「そうよ、悪い?」 「いいえめっそうもない。それでしたら、いいお話がございましてよ」 耳聡い今宮の女房はふふ、と含み笑いをする。 「何?」 「はい。例の真言院の阿闍梨さまですが」 「…ああ、あの生臭坊主…」 今宮は不快そうに眉間にしわを寄せる。 「何でもまたお文をお送りになった様ですが」 「性懲りもなく!」 「それがですね」 ずい、と女房は身体を乗り出す。 「何でもその文をお書きになった墨は、大願をお立てになって、聖天の法を一心に行って、それで加持した水を硯水にしたそうですの」 「聖天の法?」 「何あなた知らないの、大聖歓喜天よ、あの夫婦が抱き合った様な、象の頭をした神様。その神様から力を貸してもらおうっていう法よ」 「ああ! 男と女の仲っぽいわよねえ!」 像の形を思い出したのか、女房はぽっと頬を赤らめる。 「それで、どういう内容だったの? 文は」 今宮は既に書く体勢に入っている。 「はい。この様な歌だったそうです。 『―――出家するほどの私の悲しさがこれで尽きたと思ったのに、どうしてまたあなたはこんなに多くの悲しみを私にお残しになったのでしょう』 ということです」 「…本人の煩悩のせいに決まってるじゃない」 これで仏の御徳があったら怒るわ、と今宮は思った。
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