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作品名:うつほに吹く風 作者:江戸川ばた散歩

第11回   第一部 その貴なる姫君〜第十一章 師走の三条殿
 あて宮の入内は左大将家では一大事である。
 だがそれだけが全てではない。

 年末も近づいたある日、正頼は長男の忠純を呼んで相談する。
「今度の御神楽は師走に行うのだが、その際の舞をする者をお前が選んで、その辺は上手くやってくれないか」
 そうですね、と忠純は考え込む。
「派手にはしないほうがいいですね」
「最近はそういうものか?」
「最近は、という訳ではないですが、当初あまりぱっとしなくとも、後で『あああれは良かったね』と言われる様な感じがいいと思います」
 ううむ、と正頼は眉を寄せる。
「今は色々あるからな。派手すぎたことをして、後で難癖つけられるのも困るし。かと言って才ある人々に後で『物足りなかった』と言われるのも何だし」
「ともかくいつもの方々はいらっしゃるでしょうから… 我が家の者や婿殿達の他に、雅楽寮の長官にもおいで願いましょう」
「おいでなさるかな」
「そりゃあまあ。父上の催す御神楽に、宮廷直属の官が参上しない訳にはいかないでしょう」
「そうだな。あとは… そう、廻状を送って奥に草仮名で追記して誘えば、そうそう辞退する者も居まい」
「雅楽寮に属する物の師達は漢文はともかく、追記の和歌は読むでしょう」
「まあそんなところだな。お前に任せるよ」
 承知しました、と忠純はうなづく。  

   *

「そんな訳で、御神楽をこの師走の十三日にすることになったから、父上も『あまり見苦しいものにはしないように』と仰せのことだし、皆しっかりやってくれ」
 忠純は政所へ行くと、家司達にそう切り出した。
 ちなみにこの家司の中には、滋野の宰相の息子、和政も居た。
 忠純は家司達に向かって言う。
「現在、内裏で今度の御神楽のために召されているのは、…そうだな、まず右近将監の松方、平惟則、右衛門佐の藤原遠政、右兵衛尉の時蔭、左衛門尉の藤原師直、平惟介、それに宮内少輔の源直松、内蔵寮尉の平忠遠、内舎人の行忠、道忠、雅楽寮尉の楠武、村君、…馬寮尉の川敏、泰親、晴親、大和介の直明、信濃介の兼幹…うん、他の者もそうだ。三十人の者は皆現在のその道に優れた者だ」
「私でもよく名を聞く者達です」
 和政は大きくうなづく。
「これらの者は、たとえ内裏のお召しであっても簡単には応じないだろうな… だが父上のお召しなら話は別だ。皆に廻状を作って送ろう」
 家司達は皆それぞれの役割を与えられ、仕事に移る。
 その内の一人、義則には御神楽そのもの、奏者達への饗応のこと、彼らに与えるべき禄のことなどが命じられた。
「布は甲斐や武蔵から納められたものを、相撲の還饗の時や、相撲人への禄にさせよう。そうそう、信濃の朝廷御用の牧場から持ってきた二百反と、上野の布三百反は政所にあるな。そっちも使おう」
 忠純は事細かに指示を出す。
「饗応の方はどうなさいますか」
 義則は問いかける。
「美作から米を二百石送ってきている。それに伊予の封地からの産物や荘園のものもあるから、それでやった方がいいな。我が家の内にある神々を、この御神楽の機会に祭ろうとう思う。何かと大変だが、義則、和政、そなた達ぜひ心を一つにして、この大事を乗り切って欲しい」
 は、と二人は畏まって承る。
 義則は廻文を書かせて忠純や正頼に見せる。正頼は満足そうにうなづく。
「これなら皆おいでになるだろう。禄の方も綺麗なものを用意しておいてくれ」
「普段でも綺麗にしてますけど?」
 大宮はそう言って微笑む。
 その後、次男の宰相兵衛師純を通して、伊勢守から絹を召し出させた。伊勢守は白絹三十匹を差し出した。
 召集した三十人にはそれで細長を一襲、袴を一具づつ揃えたということである。

   *

 ところで、御神楽と平行して、更にもう一つ、左大将家ではしなくてはならない催しがあった。
 大宮の母后の六十の賀が、翌年に迫っている。
 これはとばかりに、左大将の妻として何かと忙しいにも関わらず、大宮は周到に用意を始めていた。
 厨子や屏風からはじめ、手回りの道具を非常に美しいもので揃えておく。
 だがそれだけでは御賀には足りない。
 そこで彼女は自分で出来る範囲を用意した後に、夫に切り出すことにした。 

「ちょっとよろしいですか?」
「何だね、どうぞ」
 二人は差し向かいで話し出す。
「先日、弟の兵部卿宮に、母上のところには顔を出しているのか聞きました」
「ほぉ。どうだったのかね? 兵部卿宮と言えば、この前もいらして、あなたに何かと愚痴を漏らしていた様だが」
「まあ。あて宮のことではなかなかしつこいのですが、別に弟はそれだけで私のところへ来るのではないですよ」
 大宮はころころと笑う。
「母上の元には、宮はよくいらっしゃる様です」
「それは良かった」
「ただその時に、私が何でちょくちょく訪ねて来ないのか、と母上から嫌味を言われてしまった様で…」
「まあ、あなたも何かと忙しいことだし、仕方がないことだがなあ」
「母上は『自分の老い先も見えてきたから、若い人々にも会いたい』としきりとおっしゃっていた様です。呆れる程久しく、私がお伺い申し上げないので、そうお考えになるのももっともですが… 実は、母上は来年が六十の御賀なのです」
「おお、そうであったね」
 うんうん、と正頼は大きくうなづく。
 彼にとってこの妻を授けてくれた嵯峨院と彼女の母后は非常に大事な人々である。現在の彼があるのは、そもそも帝の女一宮を得たからである。
「ですのであなた、母上には、できるだけ私の思う通りにお祝いをして、その時には子供達も連れて行きたいと思います」
「おお、それはいい」
 ぽん、と正頼は手を叩く。
「何もあなたは心配なさることはない。そう、実はお祝いの準備は前々から心得ているのだ」
「まあ、そうだったんですか?」
 大宮はびっくりした様に目を大きく広げる。小首を傾げて夫を見る。そういう仕草は若い頃からまるで変わらない。彼の目には可愛らしいものと映る。
「年が明けたら、子の日の祝いも兼ねて、行ってらっしゃい」
「ええ勿論。私の方でも何かと用意はさせておりました。ただ」
「ただ?」
「ただまだ、その折の被物と、法師達への法服がまだ用意できておりませんの」
 なんの、と正頼は手をひらひらと振る。
「被物など、用意などすぐ出来る。まあまず精進落としの御馳走だな。それから法服のことも考えよう」
「では母上への御馳走や、童舞のことも、お願いしても宜しゅうございますか?」
 ここぞとばかりに頼む妻に、正頼はくす、と笑う。
「そうだな、御馳走のことは、向こうの方に任せようか」
「向こうの方ですか。なら安心です」
 もう一人の妻、大殿の上に頼むと言う。そして大宮はそれに全く疑念も無く賛同する。
 こういう時、正頼は他家の男が妻達の嫉妬に苦しむという話を思い出す。そして自分にはそういうことが起こらなくて本当に良かった、と実感する。
「童舞のことは… そうだな、民部卿に頼もう」
「よろしくお願いします。私ではさすがに判りかねますので。我が家のあこ君達はさてどの様に舞ってくれますことか」
「とは言え、今から舞の準備というのはなかなか大変だな」
「…駄目ですか?」
 正頼は笑って妻の肩をぽんと叩く。
「あなたときたら、私が居るのに、何かと心配ばかりなさるんだね、残念なことだ」
「でも…」
「忘れていた訳ではないんだよ。実はずっと前から少しづつ用意はさせていたんだ。年が明けたらすぐに参賀できる様にね」
「はい」
 ちら、と大宮は夫を上目づかいで見る。
「ここしばらく、あなたには私の急ぎの用ばかりいつもあなたには任せてしまったから、それで心配になったのかな。…そうだったらすまないね」
 正頼は恐縮して言う。
「いいえ。それ以外の部分はもう大体私の準備は出来ておりますもの。あなたにも相談できたことだし、ゆっくりでいいことは後回しにしようと思いますわ」
 そう言って朗らかに笑う大宮に、正頼はふと女の強かさを見た思いがした。

   *

「…という訳で、色々忙しいことが重なってしまったことで、院の后宮の六十の御賀のことがついつい後回しになってしまったのだ」
 「大丈夫」と大宮には言ったものの、実際はそうは言っていられなかった。
 正頼は慌てて忠純や婿達を集めて相談を始める。
「私も縁あって皇女を妻に迎えた身ゆえ、正月上の子の日に若菜を奉る時に、一緒に御祝いしようと思う。その時にはぜひ童舞をお見せしたい」
「…って父上、今はもう師走ですが」
 忠純が口をはさむ。
「だから急ぐのだ! さて皆様方、どういう風に致しましょうかな」
 すると民部卿実正がまず口を開く。
「舞の童のことは、私が何とか致します」
「おお、そうして下さるか」
「私に仕える十四人に命じます。何せ沢山の御子がこの館にはいらっしゃる。舞以外のことも色々ありましょうから、そのあたりも一切合切任せて下さいませ」
「そう言っていたただけると非常に頼もしい。しかしあなた一人ではそれでは荷がかち過ぎるでしょう」
 そうですね、と周囲からも声が上がる。
「ですから一人につき一つのことをお願いしたいと思います」
 話し合いはそれからもだらだらと続いた。
 やがて右大臣忠雅には威儀納めの物のことを、左衛門督には御箱のこと、となど役目が振り分けられた。

 何かと忙しい師走の左大将家であった。

   *

「…急いでね、けど…」
 大宮は自分ではそう手を出すことができないだけに、女房達の姿をおろおろと眺める。
「大丈夫です、ね!」
「ええ!」
 長い馴染みの女房達は、皆縫い物や染め物には堪能である。何かと催しの多いこの屋敷では、衣装の居る機会が半端ではない。
 そのたびに女房達は、腕と才覚を生かして、美しい衣装を仕立てるのだ。
「私達を信じて下さいませ」
「そうよね。ただ、つい母上の御賀のためと思ったらね…」
「それは当然でございますよ」
 ねえ、と女房達は手を一瞬止めては顔を見合わせる。
 現在縫わせているのは被物用の御衣や装束、それに法服である。
 二つの行事が次から次へとやってくる。どちらも大切なものなので、皆非常にめまぐるしい。
「太宰大弐のもとから綾三十匹持って参りました」
「美濃より絹六十匹が」
「丹後より小打絹百匹持って来ました」
 地方からは、大急ぎで次々と布が運ばれてくる。
 大宮が衣類のことで大忙しの間、正頼は、五尺もある黄金の薬師仏を七体用意し、陀羅尼経などを読んでいる。
 無論それだけではない。彼は息子達の童舞について、一つ考えていることがあった。
「…息子や娘達にも演奏させて、大后にお聞かせしよう。そうそう、舞にはうちの上の奴等の子供達も出てくるな。忠純や祐純の子供達はまあ心配することはないだろう。娘達も皆、そうそうこちらが困ってしまう様な下手な弾き方もするまい」
 うーん、と正頼は考え込む。格別問題は無い。だがここ一番という出し物が無いものか、と。
「そうだ、宮あこと家あこを、その辺に居る様な舞の師につけるのではなく、仲頼や行正に頼んでみるか」
 ふふふ、と彼の口元に笑いが浮かぶ。そうだそうだそうしよう、と思わずぽん、と手を叩く。
「まあこの二人のことだ、ただ教えろと言ってもそうそう簡単にうんとは言わないだろうが、私が直々に頼めば」
 早速正頼は二人を呼び出し、人払いをした御簾の中に招き入れた。
「な、何だろう…」
「知りますか」
 こそっと二人して囁きあう。
 仲頼も行正もただごとではない、とやや緊張する。
 正頼は神妙に、だが柔らかく切り出す。
「これから私が言うことに関しては、きっとそなた達は私程には大切に考えてはくれないとは思うのだが…」
「何でしょうか。何でもお言いつけ下さい」
 仲頼はさっくりと言い、身体を乗り出す。
「でもああ、どうして言わずにいられよう。ぜひ聞いてくれまいか」
「そんな大事なのですか。それをわざわざ私共に…」
 感動に震える仲頼とは裏腹に、行正の心中では「何かあるぞ」という思いが進行していた。
「そう、山一面に生えた小さな雑木を山とも林ともする様に、どんな困難にも堪えて、今、この事をしなくてはならないのだ。今はただ、大宮もそのことに忠実に準備を進めておいでだ」
「一体、一体何が!」
「…実は院の后の宮の六十の御賀を、新年早々に行うつもりなのだ」
 それは既に噂で聞いていた。何を今更、と行正は思う。
「そこで」
 ぽん、と正頼は脇息を扇で叩く。
「そなた達、家あこと宮あこにぜひ、舞を教えてはくれまいか」
「は」
「それは」
 二人は思わず顔を見合わせた。
「そこらでする様な舞の手はもう古い。あの子達にはぜひ、新しい手を、と思うのだ」
 はあ、と二人はうなづく。
「そこでそなた達の新しい手をぜひ伝えてやって欲しいのだ」
「え」
「それは」
「ぜひうちのあこ共を、二人の弟子にしてはくれまいか… そのために、今日直々に呼び立ててしまったのだ」
 いえ、と仲頼は慌てて首を横に振る。
「舞など! 引っ込み思案のため、一向にやらなかった舞でございます。…既にお聞き覚えかと存じますが、吹上の浜で我々はこれでもかとばかりに自分の持つ芸を披露しましたが、その折にも舞は決して致しませんでした」
「私も同じく」
 行正は短く答える。
「ああもう、そんな、二人で辞退し合っていてどうするのだ。行正が嫌がるから仲頼も嫌がる。そういう遠慮はよさないか。もう決めた」
「決めたって…」
 行正は眉を寄せる。
「仲頼は宮あこに『落蹲』を、行正は家あこに『陵王』を十二分に習わせ、音楽に合わせて舞ができる様にしてくれ。他の子供達に劣らぬ腕まで上げて欲しい」
 もしそれが出来なかったなら、と正頼は付け加える。
「その時には、生きている時だけでなく、死んでからもお互いに仇敵となるだろう」
「そんな」
 仲頼の顔色が変わる。
「だがすっかりと教えてくれるというならば、連理の友情を誓おう。宜しいな」
 そう一方的に言い放つと、正頼は奥へと引っ込んでしまった。
 残された仲頼と行正は、顔をしかめて見合わせた。
「…おい、誰が俺達が舞ができるなんて漏らしたんだ?」
「…まあ全く知られないと思っていたお前が浅はかだったということか…」
「おい!」
 ふう、と行正はため息を一つつくと、顔を上げた。
「どっちにしても私達はしなくてはならない様だし。前向きに考えましょう。あなたは宮あこ君。私は家あこ君。私はよく向こうの若君達と遊ぶからそういう割り振りになったんですかね」
「…あて宮の弟達か…」
 そう言えばそうだったな、と行正は今更の様に思い出す。
 さて、と二人はどういう風にこの家の子息達を仕込めばいいのか、しばらく話し合った。
「で、その他の子に関しては、数を割り振ればいいですよ。五人づつ。私はあまり人に知られたくないから、水尾に籠もります。あなたはどうしますか?」
「そうだな、俺は栗田の奥にいい場所を知っているから、そっちに子供達を連れて教えることにしよう」
 それにしても、と二人は顔を見合わせ、ため息をついた。

   *

 宮あこと家あこ以外の子供達については、十二日より民部卿方へ師を迎えて、舞を習わすこととなった。
 若御子は「採桑老」を。
 大殿の乙君は「万歳楽」。
 弁の君の御子は「扶桑楽」などを舞うことになっている。
 民部卿の太郎君は「太平楽」、二郎君は「皇じょう」を舞うことになっている。
 舞の師には、秀遠や兵衛志(ひょうえのさくわん)、遠忠といった評判の人々を迎えた。
 既に住まいの方では舞の師二人、楽人十人程が常に用意されている。その殆どが殿上人である。皆物を食べ、酒を呑み、その前で舞の師が立って舞う。
 御子達はそこで舞を習う。
 中務宮の御子の太郎君は「万歳楽」と「五常楽」を。
 忠純の太郎君は「寿老」を。
 祐純の太郎君は「鳥」―――「迦陵頻伽」を習っている。

 右大臣の方では食事を乗せる御台をどうするか決めていた。
 金銀細工師に鍛冶をさせ、坏や薫物を入れる香壺のことも命じていた。
 やがて陸奥守種実の元から、銭百貫が送られてきた。
 米は西の倉に三百石積まれていたものを降ろして使うこととする。ちなみに倉四つあるうちの三つが米で、一つには銭が多く積まれていたりする。 

 そんな忙しい中だが、御神楽は無事行われた。
 十三日朝から、寝殿の前に舞台の準備を始め、これ以上は無いという程に飾り付けた。
 夕方になると、才人達が大勢集まってきた。
 やがて神子もやってきたので、正頼と大宮は河原へと出向いた。
 一緒に四位から六位の男君達が合わせて八十人ばかりお供をする。黄金作りの車が二台、お供の女房達の車を五台率いて出掛ける。
 河原へ着くが早いが、神事を見よう見ようと彼らは皆、車を寄せ騒いだ。

 暗くなってから、そのまま皆左大将の屋敷へと向かう。
 その場にやってきたのは、多くの上達部や皇子達―――
 例えば右大臣忠雅、右大将兼雅、民部卿、左衛門督、平中納言、源宰相実忠など。
 それに親王では兵部卿宮、中務宮など多くその姿が見える。
 仲頼、行正、仲忠も無論その場に居た。彼らはいつもよりも素晴らしい装いでやって来ていた。
 そんな彼らを見て正頼はつぶやく。
「まあ、来ない訳はないと思っていたんだよ」
 幄を打って、催馬楽や笛吹き、歌うたいを招き入れる。
 神子も下りて舞い始める。
 楽人達は音を出し始め、やがて神歌が始まる。

 吹抜屋台の母屋では、大宮を始めとして女君達がその様子を眺めていた。仕える女房達は総勢八十人、童や下仕がそれぞれ二十人ほど。
 南の廂には客人や子息達が集っていた。
 簀子の方には、仲頼、行正、仲忠が正頼の侍従であるかの様に陣取っている。
 やがて、楽人三十人で神歌を歌い出した。

 ―――榊葉の美しい光沢を賞でて尋ねて来ましたら、八十氏人が睦まじく神遊びをしていました―――
 ―――優婆塞が修行する山の椎の下は、床(常)ではないので何かと居心地が悪いことでしょう―――
 ―――やひらでを手に持って私は山へ深く入って榊葉の枝を折って来る―――
 ―――山に深く入って私が折ってきた榊葉は神前でいつまでも枯れないで欲しい―――

「素晴らしいことね」
「素敵だわ」
 女君達はほぉ、と三十人もの声が響きわたる様にため息をつく。
「一人で朗々と詩をうたいあげるというのも立派だけど、こういうのはまた格別よね」
 今宮は御簾の側にじりじりと近づきそうになる。ちご宮がそれを必死で制止する。
「…お姉様」
「それでもいけません!」
 つまらない、と今宮は思う。ここ最近、この姉は婿君の方に居ることが多くなり、自分達の方で過ごす時間が少なくなってきた。
「仕方が無いでしょう」
と母大宮はきかん気の娘を言い諭すが、それはそれ、これはこれである。
 今宮だって、姉がいつまでも自分達と一緒に子供子供した生活を送っている訳にはいかないことは判っている。
 ただ判っていることと、それに納得して祝福して気持ちよく送り出せるか、は別問題である。
 何せ彼女のちょうどいい遊び相手と言えば、ちご宮が居なくなったら女一宮しかいないのだ。
 女一宮だったら、確かにずっと婿取りなどせず、この家で自分と一緒に居る可能性は高い。
 だが彼女は何と言っても姉妹ではない。姪で、なおかつ帝の「女一宮」である。
 小さな頃から一緒に暮らしているから、遠慮の無い口利きもできる。だが実際のところは自分と身分が違うのである。
 一宮自身は同じ歳の叔母というより、本当に姉妹の様に懐いてくれる。今宮の奔放なところも驚きながら付き合ってくれる。
 だがそれはやがて「女一宮だから」という理由で止められるだろう。その日がそう遠くないことを彼女は感じていた。 
 今宮がそんな、少女らしい物思いをしている時だった。
「あの、母上」
 宮あこ君が戸惑いがちに母に声をかける。
「どうしたのですか? あここそ」
「兵部卿宮さまが、母上にお会いしたいと…」
「あらまあ」
 御賀のことだろうか、それともいつもの愚痴だろうか?
 少し不安に思いながらも大宮は東の大殿に席を作らせて兵部卿宮に会う。
「どうしました? 母上のところにはあれから行かれましたか?」
「ええ、それは勿論。我らの母上も本当に最近はめっきりお気が弱られて、死ぬ前に一度孫の顔が見たいとおっしゃるのですがね。もっともそう言われる方程長生きするものでいすから、そうそう私も心配はしていないのですが」
 まあ、と大宮は弟の軽口に眉をひそめる。
「いくら何でもそれはあんまりですよ。ともかく今、御賀の支度は殿と私で設えておりますから、心配なさらぬ様。…で」
 ちら、と大宮は弟を見る。
「用はそれだけではないのでしょう?」
「それはもう!」
 ここぞとばかりに兵部卿宮は、姉を上目遣いで見る。
「夏頃にも、こうやって、御神楽の時にお話致しましたね。そういうことですが。神の御徳でしょうか」
「そうでしたね」
 できるだけ大宮は素っ気なく答える。
「まあ、今日の御神楽では、最近何やら忙しくて聞くことができなかった松方や時蔭の歌を聴けるかな、というのも楽しみだったんですがね。そうしたら女君達がいつもより近くでお聞きになっている。それでついつい」
「あて宮のことでしょう」
「ああ、そうはっきりと言わないで下さいな、姉上。今はもう、あて宮に今日私が来ているということだけでも知らせてくださるだけで嬉しいのですよ」
「でもね、あなたの普段が普段だからそうそう言えないのですよ」
「そうかもしれません。でも今日は格別です。実は先日、雪の宴で東宮さまの元に出向いた時ですが、御神楽で三条殿に行くということを申し上げたら、あの方はにっこりとお笑いになって、『大宮さまにお会いになったら、伝えてくれませんか』と」
 大宮はぎくりとする。
「何と」
「詳しくはおっしゃいません。ただ簡単に、『あちらに申し上げたことがありますが、ご存じでしょうか。お忘れにならないで下さい』と。姉上、私は何も申し上げませんでしたが、どんなことでしょう?」
「さあ、何のことでしょう」
 大宮はつとめて平静な声を装う。すると兵部卿宮は、つつ、と扇を顔の前にかざす。目だけが姉をじっと見つめている。
 無論彼は気付いていた。大宮が知っていて、口には出さないことを。そしてもう心の中であて宮をどうするかを決めているだろうかことを。
 もう終わったな、と彼は思った。
 だがそれでさっぱりきっぱりと全ての思いを終わりにする様だったら、彼も天下の色好みなどと言われたりしない。
「…まあ今更、申し上げても甲斐は無いのですが、密かに思い続けていたことが、とうとう夢の様に消えてしまいましたよ。ええ、あて宮のことです、無論。姉上が私を初めからちゃんとあて宮の求婚者として、数のうちに入れて下さったら、こんなにあの方も冷淡な扱いをなさらなかったでしょうに。同じ母の腹から生まれたきょうだいだからと信じていたのですが。他の人よりずっと先に考えていただけると思ってましたが…」
 また例の愚痴だ、と大宮はうんざりする。
 弟は決して悪い者ではない。帝を含めたきょうだいの中でも、何事にも優れている。彼女自身、小さな頃は隔ても少なく遊んだ仲である。
 だが何と言っても今は「好き者」で有名な男だ。いくら様々なことに優れていても、そういう人を可愛い娘の婿にするのは彼女は嫌だった。
 そして何と言っても、この愚痴である。
 何かと言っては自分という伝を頼り、愚痴を漏らしていく男はやはり娘には困ると彼女は思うのだ。
 しかしそんな本音を彼に言ったら、それはまた愚痴で返されるのだろうと思うと。
「どうして甲斐が無いとなど思うのでしょう?」
 ほほほ、と何ごとも無いかの様に笑い声を聞かせる。
「あなたが仰る通り、私もあなたに、と考えたことが無い訳では無いのですが、その一方ではまた、ちょっとあの娘はあなたには似合わせないのではないかと思ったのです」
 その微妙な言い回しの中に、自分の評判を鋭く取ったのか、兵部卿宮は慌てて言い足す。
「ええ、お一人にだけ申し上げるというのも、外聞の悪いことですから」
 何が外聞だ、と大宮は思い、その言葉は無視する。
「あなたに差し上げられる様な娘は一人も居なかったから。そうね、一人はましな娘が生まれるかと待ってはいたのですけどね」
 これはもう何を言っても無駄だろう、と兵部卿宮は思った。この言葉が出てはとりつく島も無い。
「先日の東宮のお言葉に、もう私には全く望みが無くなった、生きていても仕方がないと思ったので、せめて死ぬ前に、とこちらへ参上したのですが、初めてこの様に強く狂おしく恋した自分の身がとても辛く悲しく思えてしまいますよ」
 いい加減にして欲しい、と彼女は思った。どうして男というのは懸想する時には死ぬの生きるのと、こんなことばかり言うのだろう、と。
 大宮は言葉だけでもあれこれと言い募りなだめ、へとへとになって大宮はやっと弟の前から立ち去ることができた。

 夜も更けゆくと共に、才人達の音楽も同じ調子に合わせて皆で演奏を始める。
 神歌を口にする頃には、皆の楽器の音も、声も大きく豊かに出てくる様になり、宴に興ずる人々の気持ちも次第に盛り上がってくる。
 そんな頃に、仲忠がいつもより素晴らしい装束を身につけてやって来た。
「おや、こっちに居たのかね」
 目敏く見つけた正頼は声を掛ける
「左大将どの…」
「さあさあこちらへ。私は神のおかげかと思ったよ。そなたの姿を目にした時には」
 ふんわりと仲忠は笑って、拒むことなく正頼の前へと行く。
「さて、今日こそは琴の琴をお願いできないか」
 仲忠は黙ってうっすらと笑む。
「今日は神を祭るおごそかな日だ。そなたの手、神を祭る技を見せてくれたなら、きっとあの例の賭物もそなたのものになるのではないか」
 仲忠はやはり何も言わなかった。代わりに今度は婉然と笑う。
 ぎく、とその場に居た者は、男女問わず固まる。
「申し訳ございませんが」
 その隙に仲忠はすっと立ち上がり、その場から去ってしまう。
「…まああれには、以前にもそう言って弾かせてしまったことがあったからな」
 しばらく呆気に取られていた正頼は、側に仕えていた者達にぼやく。
 数年前にも、同じことを言った。だが酒の上の戯れ言よ、と誰も本気にしなかった。―――まださほど宴慣れしていなかった仲忠以外は。
 仕方ないですよ、と男君達は笑う。 
 御簾の中の女君達は、彼の軽率ではないその行動にほぉっ、とため息をつくばかりである。
 やがて神子達も舞い終わり、才人達には細長を一襲、袴を一具づつ被ける。上達部や御子達は供人まで物を被けられた。
 その後はただもう、その場に居た楽に長じた者達がひたすら演奏を楽しんだ。
 仲忠は琴は弾かなかったが、笙の笛を、行正は横笛、仲頼は篳篥、正頼は和琴、兼雅は琵琶、兵部卿宮は箏の琴を同じ調子に合わせて、様々な曲を合奏する。
 それが終わると「才名乗り」が始まった。
 今夜の主人である正頼が人長の役をする。
「仲頼の朝臣には何の才がござる?」
 すると地下の才男の役を当てられた仲頼は答える。
「山伏の才がございます」
「では山伏の才を見せておくれ」
「ああ、松脂臭い。少々失礼」
 そう言って彼はその場から離れる。
 次は行正だった。
「行正の朝臣には何の才がござる?」
「筆結の才がございます」
「では見せておくれ」
「冬毛は扱いにくくてどうも」
 そんなやり取りがありながら、才男は次々に変わって行く。
「仲忠の朝臣には何の才がござる?」
「和歌の才がございます」
「では見せておくれ」
「難波津にはございます。冬ごもりの頃ですので失礼」
 さらりとかわす姿が見事だったので、見物人の一人が仲忠に装束を一つ、楽しそうな声と共に渡した。
 仲忠はそれを受け取ると、ふんわりと頭から被ってその場から立ち去った。
 才男は正頼の息子達に渡った。
「仲純には何の才がある?」
「渡し守の才がございます」
「では見せておくれ」
「風の様に早いので見せられずに」
 そこへ涼がやってきたので、正頼はこれ幸いと彼にも声をかけた。
「あなたは何の才がございますか?」
 涼は答えた。
「…藁盗人の才がございます」
「では見せておくれ」
 さてどういう答えが返るだろう、と正頼はやや意地悪な気分で問いかけた。
 都暮らしが短い彼は、おそらく「才名乗り」でも、問いかけの人長以外の役をしたことは滅多にないだろう。
 するとそこにひょい、と兵部卿宮が顔を出して代わりに答えた。
「胡蝶吹く風は、あないりがたのやどりや」
 にっこりと兵部卿宮は笑う。
 先日の東宮とのやり取りを彼は知っていたので、正直、ここでは正頼より、年若き弟の涼に肩入れしたかった。
 確かに涼がああ言わなかったら、あて宮の話題には移らなかった。自分の失恋も決定的にはならなかった。
 だが正頼が既に東宮入内を決めていたことはその場の雰囲気から兵部卿宮にも感じられていた。だとしたら、涼は単にそのきっかけを作ったに過ぎない。
 それを根にもってちくちくと田舎者よと虐めるのは誉められたことではない。
 そもそも涼は自分よりずっとあて宮に関しては有利な立場だったはずだ。神泉苑で院が「あて宮を涼に」と言っていたのだから。
 それでも落胆する様子一つ見せない異母弟を、兵部卿宮は立派だ、と好ましく感じていたのだ。
 あにうえ、と声を出さずに口が動く。たまにはいいだろう、という様に兵部卿宮はぽんと肩を叩く。   

 その後はひたすら酒宴が続いた。
 沢山呼ばれていた歌妓が二十人ばかり、華やかな装束を着て、琴を弾く。
 それに合わせるものやら、ただ酒を呑み、世間話や猥談に興じる者やら、宴はいつまでも続くかと思われた。

 やがて宴もお開きとなる頃、仲忠は仲純に東の大殿にある自分の曹司へと誘われた。
「珍しいな、君がそんなに酔うなんて」
「兵部卿宮どのにずいぶん呑まされてしまいましたよ」
「ああ…彼なら、ねえ」
「それに御馳走が美味しかったから、ついつい食べ過ぎてしまって」
「それもまた珍しい。でも友達としては、世に名高い君のこんな姿を見られるというあたり、役得というところかな」
 その言葉はあっさり無視し、仲忠は衣服を緩める。
「で、まあ僕は今こうゆう有様ですので、今から言うこともすることも酔いの上ということで聞かなかったことにして下さいな。それこそ、神様だって許してくれるでしょ」
「君、今何か辛いことでもあるのかい?」
「うーん? 辛いことですか」
 そうですねえ、と彼は首を傾げる。
「そう、辛いこと。この間東宮さまのとこで、ずいぶんと悲しい気持ちがしたんですよね。やっぱりあて宮は東宮さまの元に行くことに決まってしまったんだって」
 その話を出すか、と仲純は高鳴る胸を押さえる。
「ああいつか、僕も恋い焦がれて死んでしまう。どうして今日まで生きていられたのかなあ…」
 くすくす、と笑いながら仲忠は鳥のさえずりの様につぶやく。
「何を言ってるんだ」
 自分の心境をそのまま語られている様に思えて、仲純は言葉を投げる。
「何かねえ」
 そう言うと、仲忠は両腕を大きく広げて、その場に倒れ込む。
「べたーっと地面にへばりついた牛になった様な気分なんですよお。何か動く気もしないというか」
「…そんなこと、言っているんじゃないよ。君は帝の婿として認められたひとじゃないか」
 身体を起こす。あはははは、と仲忠は口を大きく開けて笑う。手をひらひらと振る。
「玉の台も何のその、心がそこに無ければ何にもならないと言いますよ。そうそう、僕は涼さんもうらやましい。名前のごとく涼しい顔で」
「彼だって、今度のことでは、角の折れた牛の様なものだろう」
「そうそう、へたった牛と、角の折れた牛ですか。だったら僕等、なかなかいい相方かもしれませんねえ」
 それはいいそれはいい、と独り言を言いながら仲忠はうんうんとうなづく。
「そうそう、彼もむく犬の様に、あてにならないことを待ってる身ですし」
 黙れ。
 仲純は言いたかった。
 兄弟の契りをしたこの青年が一言発すれば発する程、それは仲忠や涼のことではなく、自分のことの様に仲純の耳には聞こえる。
 馬鹿な自分をあざ笑っているのではないかと。
「…馬鹿なことを言うんじゃないよ。君は今、これからを一番期待されている人だから、帝もうちの父上も、天人の様に大切な人だと考えているんだ。だからこそ、大切な大切な最初の内親王を、と…そんな君が、繰り返し繰り返し何をぼやいているというんだ」
「判ってますよ勿論。だから酔いの上の話。神もお許しになるでしょ、と。でもね仲純さん」
 ぐい、と仲忠は仲純に顔を寄せる。
 赤みの残る顔、呼気には甘い香りが混じる。だが声はまぎれもなく平静なそれだった。
「どれだけ素晴らしいお話でも、僕は他の誰でもなくあて宮を、と思ったんだから、ここはどれだけ素晴らしいひとであったとしても、女一宮じゃあないんですよ」
 もっとも彼女に会ったことは無いのだけど、と仲忠はつぶやく。
「それに『そうゆう』代わりだったら、幾らでも居るでしょ」
「孫王の君とか…?」
「よくご存じで」
 くっくっ、と仲忠は喉の奥で笑う。
「だったら尚更。あきらめるべき所はあきらめる。それしかないじゃないか」
「そう、それが道理。生きてくためにはそれしかない。でもあなた、それができますか?」
 仲純は胸を押さえる。顔を逸らす。
「…は、確かに。何かいい薬は無いものかな」
 かろうじてそうつぶやく。それを聞いてか聞かずか、逸らされても間近なまま、仲忠もつぶやく。
「すぐそこに桃の木がある。熟してたわわに実った桃が目の前にあるのに、どうしてもそれを取ることができない―――そんな気持ちなんですよ」
 そう確かに。
 目の前にあて宮はいつも居たのに。そこに手を触れることはできない。
 兄である男はそのもどかしさが死ぬ程判る。判りすぎる。
 そのまま仲忠は仲純にもたれかかる。酒に酔った身体が熱い。
 やがて何処からか琴の琴の音がほのかに聞こえてきた。
「…この暁に琴を弾いているのは誰かなあ… 素敵な音だ。僕は今ここで死ぬけど、この音の中で死ぬのなら幸せかもしれない」
「…あて宮だ。あの音は」
「そう。滅多に聴けないあの方の琴の音ですか。ああ何と美しい音。…それに」
 仲忠は言いかけて止める。
「でも君の耳にかなう程のものじゃあないだろう」
「そんなことはないですよ。世に一二と言われる名人の手かと思いました。でもそれだけじゃあない。何処か今風なところもあって華やかで。…響いて、叫んで…」
 叫んで? 
 奇妙な言葉を聞いた様な気がした。


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