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作品名:うつほに吹く風 作者:江戸川ばた散歩

第10回   第一部 その貴なる姫君〜第十章 東宮登場

 同じ頃、やはり都へと連れて来られた者が居る。あの法師忠君である。
 彼は現在、嵯峨院にたいそう可愛がられている。
 現在の院の住まいの中に、加持祈祷をする壇所をわざわざ彼のために設け、常に側に居させて離さない。
 その忠君、今でこそあて宮への思いに悩まされているあたり何であるが、元々きちんと教えを受けている法師である。実際に院が加持祈祷をさせると立派にその効果は現れたという。
 そこで院は帝に彼を内裏の西にある真言院の阿闍梨―――長に任命した。
 弟子や信者も多くなり、彼は唐突に羽振りが良くなった。
 内裏の帝がお召しがあって参る時には、車を立派に仕立てて大勢の供を連れて参内するようになった。変われば変わるものである。

 さて。
 新たな生活に彼が慣れたある日、彼は一人の乞食女に出会った。
 被っている市女笠は今にも壊れそうで、その下の真っ白な髪も間から見える程。
 顔は真っ黒、足は針よりも細いかと思われる程痩せこけた老婆である。
 つぎを当てた布のぼろぼろになった
 着物はあちこちにつぎが当たり、短くなって臑も丸見えである。
 その女が、この阿闍梨を見た時、手を捧げてこう言った。
「せめて、ああせめて今日一日のお恵みを」
 阿闍梨は哀れに思い、物をやると問いかけた。
「そなたは昔はどの様に暮らしていた者であるか?」
 すると女は畏まって答えた。
「はい。昔、私は『財の王』と呼ばれる程の大金持ちでした。それでいて夫はその当時の大臣、容貌も心も優れた素晴らしい人でした。その本妻として、私には何も叶わないことはありませんでした」
 阿闍梨は何となく嫌な予感がした。
「続けて」
「はい。…しかしその夫が亡くなった後、私は年下の右大臣に恋してしまったのでございます。…ああ、何とはしたないことと笑わないで下さいまし。私は本気だったのでございます。向こうは決して私のことを好いてはおりませんでしたが、私は本気でした。あの人の心をつなぎ止めようと、持っているもの全てを投げだし、何でもしました」
 更に嫌な予感がした。
「しかし駄目でした。私は考えました。何がいけないのだろうと。そして愚かな私はこう思い当たってしまったのです。彼の息子がいけないのだと!」
 嗚呼、と思わず阿闍梨は内心うめいた。自分がまずいものに当たってしまったことに確信したのだ。
「あの方は、前の北の方との間に生まれた子供を何よりも可愛がっておりました。それ故私はその子を憎みました。その子が居なければいいと思いました」
 胸の中でかっと熱いものが燃えるのが阿闍梨には判った。
「その子はとても素晴らしい子でした。…ただ悪口を言うだけではどうにもならない、と思い、…彼を陥れました」
「どの様に?」
 若干震えがちな声に気付かれないだろうが、と阿闍梨は案じた。
「その家に代々伝わる宝の帯を盗み、その罪をその子にかぶせたのです」
 ぐっ、と袖の下で拳を握った。
「しかし悪いことはできないものです。その子は姿を消し、そのせいであの方は力を落とし、やがて亡くなってしまいました。私はと言えば、使った財があまりに大きく、気が付いた時には、もう何も残っていなかったのです。…そして今はこの様に、生き恥をさらしても長らえております」
 そうだったのか、と阿闍梨は大きく息を吐いた。
 その帯は、その昔彼の父大臣が大願をかけて求めたものだった。
 自分が出奔を覚悟しなくてはならない程父君の機嫌が悪かったのも、全てはそのせいだったのだ。
 この女の。
「何故そなたはその様なことをしたのだ?」
「判りませぬ。今となっては。馬鹿なことだと今は思います。ただその時は必死だったのです」
「…罪も無い人にその様なことをすると、死後も地獄の底に沈んで、浮かぶことはできないだろう」
 するり。口がそう動いてしまった。
「後生です! お許しを、お許しを!」
 女は涙をぼろぼろと流した。必死で彼の裾に取りすがろうとした。
「このことを後悔する間も、胸の奥が、炎で焼かれる様に苦しいのです! もし取り返せるなら、あの頃に戻ってやり直せるならと何度思ったことか…」
「しかし既に起こってしまったこと」
 声が冷たくなっていくのを彼は感じた。
「判っております。判っておるのです! 私は悪いことを致しました! あの時あの様なことをしなければ! でもしてしまったこと、取り返しがつかないこと、その事実が私をいつも鋭く突き刺すのです…」
 うっうっ、と女はその場に泣き崩れ動かない。
 この女は既に充分な報いを受けているじゃないか。しかも健康を害している様だ。長くはないだろう。
 阿闍梨はその様子を見ながら、次第に自分の中に突如湧いた憎しみがほろほろと砕けていくのを感じた。
 女がひどく哀れに思えた。
「さあ泣くのは止めて、立ちなさい」
「…法師さま」
 女はじっと阿闍梨を見つめた。
 やめてくれ、と彼は思う。そんなすがる様な目で見るのは。ただ自分は。
「そなたが生きている間は私が世話をしてやろう。亡骸も弔い、地獄の苦しみが少なくなる様に供養もしよう」
 ありがたや、と女は阿闍梨を臥し拝んだ。
 実際彼は言った通り、女のために小さな小屋を作り、食べ物や着る物の世話をしてやる様になったという。 

 さてその頃、左大将の大宮腹の末っ子の宮あこ君に物の怪がついて重態になった。
 そこで左大将はこの阿闍梨に加持祈祷を頼んだ。すると宮あこ君の様態は瞬く間に良くなった。
 宮あこ君は病気を治してくれたこの阿闍梨に感謝しつつ、楽しくお喋りをする仲となった。
 だがある日阿闍梨は少年に文を渡してこう言った。
「…春日詣の時に、琴を弾いていた御方に差し上げてはくれまいか。そしてぜひお返しを」
 宮あこ君は驚いて目を瞬かせた。
 とても素晴らしい方だと思っていたのに。
 嫌な気分になった。
「姉上はこういう文は見ない方ですから」
 少年はやんわりと断っているつもりだった。
 だが阿闍梨はこう続けてきた。
「どうしてですか。こんなにあなたの病気を治してあげたというのに…お願いです。その心持ちを察して、私のことも考えてはくれませんか」
 宮あこ君は余計に嫌な気持ちになって、こう言った。
「無理だと思いますよ。期待しないで下さいね」
 無理だろう、と少年は思っていた。
 そして実際そうなった。

「姉上にお文」
 不機嫌そうな顔を隠すこともなく、少年はあて宮に文を手渡した。もういい、これで自分の役目は済んだとばかりに。
「まあ、そういうことはしてはいけない、と常々言っているではないですか」
 やはり不機嫌そうに姉は眉をひそめた。その顔も実に美しい。
「でも…」
「どなたからですか」
「真言院の阿闍梨からです」
 まあ、と声を立てると、あて宮はその文をびりびりと破いてしまった。
 当然だろう、と宮あこ君は冷ややかな目でその文の残骸を眺めた。

「…真言院の阿闍梨ですってーっ!」
「ええ、そうなのでございますよ」
 今宮の声に、はあ、と帥の君はため息をついた。
「また何でそんな方が」
「判りません。先日、ご病気がお治りになった宮あこ君が文をお持ちになったとのことで…」
 ふん、と今宮は鼻息荒く腕を組む。冗談じゃない、と彼女は思う。
「真言院の阿闍梨! 真言院の阿闍梨と言えば徳の高い法師様じゃないの。そうよ、そういう偉い方が、そんな下世話な懸想文など出していいの?」
「…私どもには何とも…」
「いいわ、それであて宮はどうしたの」
「お怒りになって、開きもせずに破り捨ててしまいました」
「そうよ、それが正しいのよ」
 うんうん、と今宮は思う。
「神泉院で… そう言えば、帝があて宮を例の源氏の君に、とおっしゃったとのことだけど、それについてはあて宮は何か言っているの?」
「いえ、そのあたりは… あて宮さまはいつもの通り、東宮さまへのお文にはお返事なさいますが…」
「他の人へはまるっきりという訳ね。全く罪作りな人なんだから!」
 そしてその足で彼女は一宮の元へと向かった。
 この同じ歳の姪は、神泉苑での帝の言葉にどうしていいのか判らなくなっているらしい。
「一宮! どうしちゃったの、昼間から寝込んで」
「…今宮ぁ」
 あて宮と変わらない位、とよく褒め称えられる、艶のある長い髪がざっと動く。
 そして泣きそうな声が今宮の耳に届く。
「ああもうそんな、顔くちゃくちゃにしちゃって…」
「どうしよう… お父様ったらあんなこと、勝手におっしゃって…」
「…ってあなたね、そもそもあなた自分が帝の女一宮ってことの意味、判っているの?」
「判っているわ… だから凄く何か、何かなのよ」
 一宮は側に寄った今宮にばっと抱きつく。
「お父様は私が仲忠さまのことが好きだって知らないんだもの…」
「だからいいじゃない。好きな人と結婚できるなら、それこそ万々歳でしょう?」
「だけど仲忠さまはそんな風に決められるのが嫌だったらどうしよう…」
 そう言って子猫の様に一宮は泣き崩れる。やれやれ、と今宮は思う。
 彼女は結果良ければ全てよし、という考えも持っていたので、一宮のこの動揺も一過性のものだと思っている。
 おそらく一宮は幸せになるだろう、なって欲しいと彼女は思う。
 そしてその一方で、源氏の君のことがぱっと頭に浮かんだりする。
「そう言えば今宮、涼さまはあて宮に、とお父様おっしゃったんじゃなかった?」
「らしいわね」
「あなたそれでいいの?」
「いいのって何」
 ぐっ、と涙を拭って一宮は今宮をにらむ。
「あなたはそれでいいの、って聞いてるの」
「私? 私がどうして」
「だってあなた、涼さまのこと好きでしょ」
 はい?
 今宮は耳を疑った。
「そうでなくてどうして『女房』だなんて嘘ついて、涼さまと延々文通なんてしてるの」
「そ、それは」
「涼さま、今度三条へ越して来るわ。ご近所になるわよ」
「…」
「文使いも楽になるわよ」
「…」
「その時も延々『女房』って言い続けるつもりなの? 『女房』相手に軽々しく忍んで来られたりしたらどうするの?」
「そ、その時はその時よ!」
 そう、と言って一宮は再び横になってしまう。手がひらひらと「出ていって」とばかりに動く。
 全くみんなみんな。
 今宮は簀子をどすどすと足音高く歩んで行く。
 面白くないから、あて宮のところに来た文でも見てやろう、と再び来た道を戻って行く。
「ここしばらくに来たのはこれ?」
 一つを取り上げた。

   *

 神泉苑の出来事は周囲に衝撃を与えはしたが、それでも懸想人達はめげない。

   *

 九月の終わりには、まず東宮が文をよこした。
「―――この秋はこの秋はと頼みにして、情けを知らないあなたを待つ私は、いつになったら永久に変わらない蔭を得られるのでしょうね」
 帥の君が言う通り、あて宮は東宮にはきちんと歌を返していた。
「―――いつも色を変える秋ばかりで、色を変えない他の時に声が聞こえないのでは、松虫の音/あなたの仰せも信頼することはできませんわ」

   *

 同じ頃、実忠が鈴虫を送ってきた。
 その声の美しさに、皆うっとりと聞き惚れた。
 だが「自分の代わりに鳴いておくれ」と詠んだ歌には返事はなかった。

   *

 菊の盛りには兵部卿宮が、十月一日には平中納言が、弾正宮は紅葉の色の濃い一枝にかこつけて歌を送ったが、いずれも返事は無かった。

   *

 仲忠は冬の始まりに、宇治川の網代に出向いたついでに送ったが、それも返事は無し。

   *

 初雪の降る日に涼が送った文は、左大将があて宮の側でそれを見て褒め称えていたにも関わらず、何の返事も無し。

   *

 冬の日も次第に過ぎて行き、時雨がしとしとと降る日、仲純が堪えきれずに歌を詠んだが、それにも何も答えは無し。

   *

 仲頼は十一月の下の酉の日、賀茂の臨時祭の勅使に立つと言ってあて宮に歌を送ったが、やはり返事は無し。

   *

 行正がその後に送った文にも何も反応は無かった。

   *

 神泉苑で「方略」の宣旨を受けていた藤英は、六十日以内に帝からの課題をこなさなくてはならない身であった。
 この課題をこなせば、彼は更に帝から認められ、きちんとした官位も与えられるだろう、と噂されている。当人もそれを心得ているが故、準備に余念が無い。
 この頃彼は、左大将の支援により、衣食住には事欠かない身となっていた。
 だが衣食足りれば別の悩みも増える。
「―――白い雪は降るけども心の中は燃えさかっていよいよ赤くなった。私の様な分別のある者でも恋には惑うものだなあ」
 藤英がその歌を口ずさむのを、ふと聞いてしまった女房は、「自分でそういうことをいう人って嫌だわ」と思ったとか思わなかったとか。

   *

 懸想人達がそれぞれにが気を揉んでいるうちに十一月がやってきた。
 その最初の日、東宮が残菊の宴を開いた。
 この東宮という人は、帝の中宮腹の一の皇子である。そして将来、非常に優れた帝になると嘱望されているひとでもあった。
 後見としての中宮の実家も、摂関家であり力強い。
 もっとも、この中宮はやや気が強く、兄弟達からはやや敬遠されている向きがある。
 帝は彼女を東宮の母として、また最初の妻としておろそかにはしない。
 だが左大将の娘である仁寿殿女御への寵愛ぶりと比べれば、それはずいぶんと形式的なものに見える。
 それ故に彼女は東宮に対する期待が大きい。東宮自身はそれにややうんざりしている気配がある。
 そんな彼が開いた残菊の宴には、皇子や上達部がほとんど残らず出席していた。居ないのは右大将兼雅くらいなものであっただろうか。
 博士達文人に詩文を作らせ、管弦の遊びをしたり、それはたいそう華やかなものとなっていた。
 やがて一通りのことをし尽くし、皆何かと物語をするばかりとなった。
 その中で不意に東宮が口を開いた。
「今日この宴に集まった者の中で、非の打ち所も無い美しい娘を持った者が居るだろう。さて、誰かな」
 左大将はそれまでいい気分で酔っていたところを、急に冷たい水を頭からかけられた様な気持ちになった。
「誰の娘が一番素晴らしいだろう? 何か品物を賭けて、娘比べをして勝った者に与えようか」
 すると左大臣が口を開いた。
「どうも、この中にはその様に非の打ち所の無い娘を持っている者は無い様です。…そうですね、この中では平中納言だけが娘を持っておりましょう。ですがその娘もまだ幼いと聞いておりますが」
 やれやれ、とそれを聞いていた涼は思い、口を開いた。
「左大将どのこそ、姫君をたくさん持っていましょうが。そして世の中で有名な人々をあちこちから集めて婿に取っておしまいで。しかしまだ一人二人残っているとも聞きますが」
 左大将はちらりと恨みがましい目で涼を見た。
 一体どういうつもりでその様なことを彼が言うのか、正頼には判らなかった。あて宮をもらえるという気持ちの余裕なのだろうか、しかしまだ決定ではないだろう、と。
 涼にしても、あの神泉苑の宴で帝の言葉は決定だとは思っていなかった。
 確かに自分と仲忠はあの場で素晴らしい演奏をした。
 が、あれは酔いの場だ。正式な命という訳ではない。
 実際、あれから幾度も文も贈り物もしてみたが、あて宮自身からの返事はまるで来なくなってしまった。
 口約束だ、という彼の読みは当たっていた様である。
 もっとも彼は格別それで落胆した訳ではない。元々あて宮にさほど気がある訳ではないからだ。
 それよりは相変わらず「女房」と名乗っている文の書き主の方が面白い。
 できれば本当の名を知りたいところだが、当人が隠したがっている以上、むげに聞くこともできない。
 まあ三条に越したことだし、やがて女房達の口からそのあたりは判るだろう、と彼は結構楽観していた。
「私の元にも一人は居ります」
 季明が口をはさむ。すると平中納言が笑う。
「一人だけではないでしょう。大勢おありと聞いておりますよ」
「失礼な物言いですな」
 横で聞いていた兵部卿宮も笑いながら、ちらと端を見る。おやおや、と彼は顔色を無くし、物も言えないでいる実忠に気付いた。
 そんな実忠の様子に気付いているのかいないのか、東宮は口元に笑みを浮かべながら正頼に向かって言う。
「では上野宮がなさったことは、成功したということですね。ああ、そこまで上手くやったならあて宮を手に入れられるのかなあ」
「…東宮さま」
「ねえ左大将、どうして私をあて宮の懸想人の仲間に入れてくれないのかな。悲しいね」
 嫌味な言い方だな、と思いつつ、左大臣が言葉を添える。
「東宮さまのお言葉がありましたら、正頼はすぐにでもあて宮を差し上げることでしょう」
「と言っても、私はかなりの奥手でねえ。その様に面と向かって言うなんてこと、どうしてもできなくて、まだ左大将には言っていなかったのだよ」
 ほぉ、と左大臣は声を立てる。
「だから何かのついでにとは思っていたのだけど。あて宮には何度か文を送っているんだけど、どうもあの方、はきはきと返事を下さらないのでね」
 懸想人達は東宮の愚痴の様な言葉に、揃って「もう駄目だ」と思った。
 何せ東宮である。
 東宮があて宮を望むなら、自分達がどうこう言ったところで、もうどうにもならないだろう、と彼らは思った。
 特に実忠の様子はひどかった。呆然として宴が終わってもその場から動こうもせず、従者がほとんど引き立てて帰る様な状態だった。
 そこに居た他の懸想人も、嘆きはした。平中納言も兵部卿宮も、「負けた」という思いで一杯だった。
 しかしそれはあて宮への気持ちではない。懸想人としての自分が負けたことに対する悔しさだった。

   *

 その後、改めて正頼は東宮に呼び出された。
 東宮はふっと笑うと、余裕たっぷりに話を切り出す。
「最近そなたと来たら、全然こちらには来ないから、寂しかったな。どうしてまた長くこっちを放っておいたのかな?」
 ちくちく、と嫌味がそこには感じられる。
「そうそう、十月の衣替えの時にもご病気だと言ってたので、実に気の毒だと思ってたよ」
「もったいなく存じます。いえ、持病の脚気が出まして、少々出歩くのも億劫になっておりましたゆえ」
「ほう。ではもう大丈夫という訳だな」
「苦しい痛みの方は」
「それは良かった。だから私の招待にも今度は来てくれたのだな。良かった良かった」
「…はい。この通り参上致しました」
「全くだね。この宴でも、色々連句を文人達に作らせて、出来のいいものもたくさん出来て。もしそなたが居なかったら、この素晴らしいものも聞けなかったのだろうな。折角の秀句もそなたの目にとまらなくては、闇の世の錦とでも言うのかな」
 東宮はそう言っては、宴の際の秀句を持って来させ、こんなのがあった、そんなのがあったと披露する。
「確かに素晴らしい句です」
 正頼はとりあえずそう言うしかなかった。心の中は、いつあて宮のことを彼が切り出すかと気が気ではない。
 そしてついにその時が来た。
「ところであて宮に私がずっと文を送っていることは知っていると思うが」
 正頼はどう答えていいものかと迷う。その間にも、東宮は次々に言葉を投げかけて来る。
「そなたのところには、ずいぶんとたくさんの素晴らしい婿君が集まっているらしい。で、私をぜひその一人に加えて欲しいものだと思ってね。ずっとずっと懸想しているのだよ。この辛い気持ちを判って欲しいものだな」
「それは」
「ああ、かと言って、あて宮が可愛いからと上野宮に謀った様なことをされてもこちらはたまったものではないし。まあでも、そんなことされても、あの間抜けな宮と違って、そうそう上手く行くかと思ってね。ね、私はちゃんと本人が欲しいんだよ」
「…お目にかけられる様な、そんな優れた娘が居る訳ではないから恐縮していただけにございます。口約束ばかりで、それを破ってばかりでは皆困ってしまうでしょう。上野宮に身代わりを差し上げたのは、宮に相応しい様な良い娘が居なかったからでございます」
「ふうん。でもまだまだ良い娘が居るという評判だし」
 涼め、と正頼は内心悪態をつく。
 彼があそこであの様なことを言わなければ、と正頼はひどく忌々しく思う。
「…確かに多少残ってはおりますが、先の神泉苑の宴の折りに、近衛中将の涼と、おなじく中将仲忠が素晴らしい琴を弾いた時に、仲忠に我が家でお育てしている妹君の女一宮を、涼にあて宮を、と帝から…」
「左大将」
 東宮は鋭い声で口をはさむ。
「私はその様な宴の際の戯れ事のことを言っているのではない。現実の問題だ。私は今、そなたに言っているのだ。もうずっとずっとあて宮に文を出していることは左大将、そなたもよく知っていることだろう」
「しかしそれでは帝の仰せに背くことに」
「何の」
 あはは、と東宮は笑う。
「そのためにそなたが罪をかぶる様なことがある様なら、私が何とでも言おう。案ずるな」
「…そう仰られるのは非常に有り難いことですが、娘はまだまだ幼く…もう少し大人になった折りにでしたら」
「それで結構」
 ふふ、と東宮は笑う。
「あて宮にも絶えず文は送る。あんまり頻繁で、軽い男だと思われても何だから、ある程度は自粛するけどね。あて宮の母宮がさてどう思うことやら」
 左大将は東宮の言葉にひどく恐縮し「判りました」ととうとう了承してしまった。

   *
 
 左大将が東宮にあて宮を許した、という話は瞬く間に広がった。
 懸想人がたくさん居る中でも、特にあて宮を本気で思っていた実忠や仲頼などは大変である。
 実忠など本当に青くなり、赤くなり、床について延々苦しんでいる状態であった。
 それを見た父左大臣は「可哀想な息子よ」と思って見るが、兄弟達は「何をやっているのだか」と半ば呆れ気味であった。
 彼らは実忠の元の妻子を知っている。彼女達がどれだけ実忠と仲が良かったか、そして子供達を可愛がっていたのかも知っている。
 それなのに、あて宮あて宮と言い出してからは、このていたらくである。
 自分達はその様には絶対ならない様にしよう、と彼らは心に決めていた。
 と同時に、あて宮が入内するなら、東宮の元に既に侍っている妹がどの様な扱いになるのか、という心配が湧きつつあった。

 さすがにもう、こうなってしまうと現実的な問題として考えねばならない。
 正頼はとりあえずあて宮の母である妻、大宮に相談してみることにした。
「どうかね、今でも東宮さまはあてこそにお文をくれる様かな」
「ええ、おありの様です」
 どうかなさいましたか、と大宮は問いかける。正頼は大宮の側にどすん、と座る。
 そして困った様な顔になり、切り出した。
「東宮さまからせっつかれてな」
「まあ」
「私はあれこれと紛らわす様なことも言ったはみたのだが、どうしてもとの仰せでな… 側には兵部卿宮や平中納言は意外そうな顔をしていたし」
「意外だ、ですか」
 大宮は眉を軽くつり上げる。
「実忠ときたらもう魂が抜けた様になってしまっていてな」
「それはまあそうでしょうねえ…」
「それでまた、左大臣の兄上はそんな息子を見て涙ぐんでいるし。私はもうどうしていいやら」
「それはまあ…」
 大宮はいちいち納得せざるを得なかった。
 色好みで有名な、兵部卿宮や平中納言の反応は予想できるものだった。
 彼らはあくまで「自分を選ばなかったこと」「結局東宮に差し上げてしまうこと」が「意外」に過ぎなかったのだろう。
 彼らはその程度にしかあて宮本人のことは思っていない。
 長い間、娘達の懸想人を見てきた大宮にはお見通しだった。だから彼らには可愛い娘はやるつもりは決してなかった。
 一方、実忠だが。
 あて宮のことを思い詰めているのは判る。だがその思い詰め方が何となく困りものだ、という気持ちも母親として感じていた。
 とはいえ。
「あて宮のことでは、本当に色々と皆様も私達も悩まされますね」
「全くだ」
「東宮さまもどうしてそこまでおっしゃる様になったのでしょう。お側に居る者達が、あれこれ世間に広まっている噂をお耳に入れすぎて、その気になってしまわれたのでしょうか」
「東宮さまは、あてこそに皆懸想人がたくさん文を出していることをご存じ… だろうな。その上でああいうことを仰ったに違いない」
「でも実忠どのの態度はいけませんよ。そんな、東宮さまの御前でぼぉっとしてしまうなんて。それじゃああまりにも露骨ではなかったのですか?」
「…む、それはな」
「東宮さまも、実忠どの程の者がそこまで我を忘れて恋い焦がれてしまうということに、余計に気を引かれたのかもしれませんね」
 正頼は黙る。大宮の機嫌がやや良くなくなってきたのだ。
「そういう時には殿方の方でも顔には出してはいけませんよ。東宮さまだってそんな態度の方だったら、つい虐めたくもなるでしょう」
 常に似合わずぴしゃりと言う妻に、正頼はまあまあ、と手を振る。
「そう言いなさるな。恋というものはついつい表に出てしまう、そういうものでしょう。私だって、あなたに通いだした頃はどんな心地がしたことか」
 まあ、と大宮は肩をすくめ、軽く顔を袖で隠す。正頼はふう、とため息をつきながら天井をあおぐ。
「それにしても実忠には困ったものだな…」
「全くですわ」
「彼は学問にも芸術にも素晴らしい人物であるのに、恋の道には只人同様だね。人の目も塞ぐことはできないし…」
「私としては、あてこそを本当に思って下さる良い方であれば、極端な話、どなたでも構わないのですよ」
 大宮は強く言う。
「でもお文を下さる皆様方のお仕えする東宮さまの思し召しですからね… どうしたことでしょう。あてこそも結婚にはいい年頃にはなったのですが」
「もういい加減に決めてしまおうか。平中納言も右大将も良い結婚相手だとは思うのだが…」
「でしたら、入内させるかどうかについては、大姫に一度相談させたらどうでしょう」
「おお、そうだ」
 ぽん、と正頼は手を叩く。
「仁寿殿女御が我が家にはいらっしゃるではないか。そうそう、あれに相談してみなくてはな」
「もったいないことですが、直接東宮さまのお口から仰られたのですから、あてこそに対する思いに関しては私は充分だと思います。ご寵愛の方もたくさんいらっしゃるでしょうが、それはそれで東宮さまであるから仕方のないこと。女御が居ることですし、入内したとしても心強いでしょうし…」
 大宮は自分で言いながらも、既に入内の方向に話が向きかけているのに気付いていた。結局はこうなるのだろうか、と心の何処かで思いながらも。
「そうだろうな。何も心配することはないだろう。宮仕えと言っても、こういう宮仕えはその人の前世からの宿世であろうからな。帝の母となるのはその中のたった一人だが…」
 正頼の中でゆっくりと算段が始まる。
 無論それまでも考えていなかった訳ではない。ただそれまでは机上の空論に終わっていたものが、にわかに色付きだしたのだ。
「東宮さまはいつ次の帝になられてもおかしくはない方だ。この様に何度も何度も仰られていることを断り続けてどうなろう。我々も決心しようではないか」
 ええ、と大宮もうなづく。
「先のことは判りませんけど、あてこそが他の方に目立って劣るとは思えませんしね」

   *

 やがて仁寿殿女御が里帰りするという話になった。
 左大将宅からは、車を二十ばかり出し、そこに四位から六位の兄弟がそっくり迎えに行く。
 もっとも、帝は彼女の里帰りが寂しいので、なかなか退出を許さなかった。手車の許可もなかなか下りず、とうとう夜中になってしまった。
 暁に宮中を退出し、そのまま休んでしまったので、女御は誰とも対面しない。
 大宮は早朝から西の大殿に居る女御に会いに行かなくては、とばかりに正装の準備をする。他の娘達も皆それにならう。
 大宮は兵衛の君を使いにして、西の大殿に伺いを立てた。
「そちらへ参りましょうか。それともこちらでお待ちしましょうか」
 すると女御はのったりと身体を起こすとこう告げさせた。
「気分が悪いので、休んでからそちらへ参ります」
 とは言っても、彼女が母の元へ出向くのは早かった。
「まあ、私の方からあなたの方へと上がろうと思っていましたのに。何故また、ずいぶんとお顔を見ることもできず。ずいぶんと心配しておりましたよ」
「お暇を頂いて、ちょくちょくこちらへ下がりたかったのですが、母上、なかなかお許しが出なくて… 今度の退出だって、病気にかこつけてやっとですもの」
 おやおや、と母宮は帝の彼女に対する執心を半ば微笑ましく思う。
 現在の帝には東宮をはじめとして、たくさんの宮が居るが、その大半がこの正頼の大君である仁寿殿女御腹である。
 彼女は三番目の弾正宮、四番目の帥宮、六宮、八宮、女一宮、女二宮、女三宮と入内以来次々と生んでいる。
 対して中宮は、東宮と二宮、五宮の三人だけであり、あとは式部卿宮の女御に七宮、更衣の一人に九宮が生まれているだけである。
 そして。
「御気分が悪いと伺いましたけど、もしかして、おめでたですか?」
 すると女御は真っ赤になって小さな声で「ええ」と言う。
「それが恥ずかしくて…」
「何を仰います。しばらくお産もなくて私は寂しかったのですよ。恥ずかしいなんて全く」
 くすくす、と大宮は笑う。
「で、いつ頃ですか」
「予定ではこの七月ぐらいに。いつもと違って身体の調子が良くないので、それにかこつけてさっさと退出しようと思ったのですけど、帝が『もう少し様子を見て』と仰るから、ついのびのびになって」
「それもまた、あなたが帝から愛されているということでしょうねえ」
 それを聞いて大宮は安心する。
 中宮が娘にいい気持ちを持っていないことは良く知っているが、結局は帝である。帝が彼女を護ってくれるだろう、と大宮は信じていた。
 しばらくして正頼や妹達も揃い、明るく、賑やかな笑いがそこには響いた。

   *

「ところで母上」
 ある日、話の折りに女御が切り出した。
「あて宮は年頃になったと聞きますのに、どうして婿君をお決めにならないのですか?」
「そう、実はそれをあなたともご相談したかったの」
 大宮はふう、とため息をつく。 
「何と言うか、色々ありましてね」
 今までの懸想人のことや、東宮のことなどを大宮は女御に説明する。
「このままじゃあいけないとは思っているのだけど、どうしたものかと。あなたはどう思われます?」
「考えの足りない女の言うことですから、お聞き流し下さいね」
 そう前置きしてから女御は続けた。
「ともかくそろそろいい加減に決めた方がよろしいですわ。父上は何とおっしゃっているのですか?」
「場所が狭くなる程求婚者が多いので、未だ迷っているのですよ」
 そんなに居るのですか、と女御は笑う。
「この間相談した時には、東宮さまに差し上げようと決めたご様子だったけど。でも神泉苑の宣旨のこともありますからね。一度決めたことだけど、何となくいつまでもぐずぐすと決めかねているという感じなのですよ」
「お母様としてはどうなのですか」
「入内させても悪くはないと思うのですよ。でもやっぱり私もね、あなたが居るから心配は無いと思っても、東宮さまの側にはたくさんお妃がいらっしゃるし、肩身の狭い思いをするのではないか、とか色々考えてしまって」
「東宮さまでよろしいではないですか」
 娘はすっぱりと言う。
「今でも東宮さまからは御文がございますか?」
「ええ」
「だったらぜひ入内なさいませよ。確かに東宮さまの所には今の天下の美姫が入内しているのは確かですけど、その方々にいつまでもご寵愛が続くという訳ではないでしょう」
 くすくす、と女御は笑う。
「そういうものですか?」
 大宮は怪訝そうな顔で娘に問う。
 だが一方、宮中で今まさに寵を争っている彼女がそういうのなら、そうかもしれない、とも思う。大宮は夫の愛を争うということには慣れていない。
「今、東宮さまのご寵愛深く、時めいているのは院の女四宮と右大将の大君のお二人ですわ。そのお二方以外はさほどのことはございません」
「左大臣の大君がやはり素晴らしい方だと聞きますけど」
「…」
 女御は笑って答えない。
「ともかくそのままあて宮を里住みさせておくなんてもったいないですわ、お母様。入内した時には、できるだけ東宮さまとお二人になる様に、私のほうからも計らいましょう」
「そういうことができるのですか?」
 ふふ、とそれにもやはり女御は笑って答えない。
「東宮さまは下手に浮いた噂も無い方ですから、一度あて宮を手に入れたら、もう大変だと思いますわ。…真面目な話、先だって入内された方々の中にも、なかなか御子が生まれなくて皆気を揉んでいるのですよ」
「まあ」
 そういう問題もあったか、と大宮は改めて驚く。
「そういう事情もありますから、あて宮の入内は遅れていたとしても大した問題ではありません」
 先に皇子を生んだ方が勝ちだ、と女御の言葉は暗に示していた。
「そうでしょうかね。父君はそうお考えかもしれませんね」
「父上は考えているはずですわ。私が考えているくらいですから。それに帝も『東宮妃に若い方が居ないね』と少し残念そうでしたもの」
「帝までそんなことを」
 はい、とにっこりと女御は笑う。
「…可愛い子ですからね、色々と気を揉んでしまうのですよ。でもまあ、あなたにあやかれば変なこともありますまい」
「そうまで言われては私が大変ですわ」

 その日一日、女御は母宮の元でお喋りをしたり、琴を弾いたりして楽しく過ごすこととなった。
 別の場所では正頼や兄弟達が集まって管弦の遊びをしていた。
 女御のところには、妹達から何かと面白いもの、綺麗なものを送ってきたりする。
 母宮はそれを見て「皆こちらへいらっしゃい」と誘いの使いを出したので、皆揃ってやって来る。
「右大将どのから果物や破子が届いております」
「まあ、またずいぶんと耳の早いこと」
 楽しい時間は夜更けまで続いたということである。


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