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作品名:うつほに吹く風 作者:江戸川ばた散歩

第1回   第一部 その貴なる姫君〜第一章  弥生の吹上

 涼が仲忠に最初に会ったのは、浜だった。

 珍しい。
 彼は思う。
 見渡す限りくすんだ色の砂、砂、砂。
 浜のこの場所に人が来ることなど滅多に無い。ましてや、自分と同じ年格好の青年など。
 足跡の先は、遠い。
 そっと近寄る。見下ろす。しゃがみこみ、水に手を浸している。
「何をしているの?」
 問いかける。青年は、黙って顔を上げる。
 丸く瞳が見開かれる。
 と。
「あわわわわわ」
 声が上がる。
 す、と波が引いていく。足元の砂もまた。ぴしゃり。青年は尻餅をつく。
「おやおや」
 くすくす、と涼は笑う。青年はむっとした顔で見返す。
「海は初めて?」
「初めてですよ」
 膨れる。くるくると変わる表情。珍しい。
「初めての方が、裸足で波打ち際? 怖いもの知らずだ」
「…珍しかったんです。ただもう」
「珍しい?」
「湖とは違う。とても広い。こんな広いとは思わなかった」
 ゆっくりと立ち上がる。
「湖には行ったことが?」
「幾度か。悪友達に連れられて行きました。湖は静かで、果てがある…安心できる」
「ここには果てが無い。で、怖くなった?」
 青年は黙って口を曲げる。
「怖くてはいけませんか?」
「いや」
 即答する。
「海は広くて大きい。そして恐ろしい。それは当然のこと。ほら、あの波を見てごらん」
 指さす。
 青年はつられる様に顔を上げる。低い音と共に、白い波が湧き立つ。
 光の方角。朝の終わり。
「眩しい」
 青年は目を細める。
「眩しくはないのですか?」
「私は平気。慣れている」
「僕も眩しいものには慣れていると思ったのですが」
「湖で?」
「いいえ、山で」
「山」
「ああでも、あの眩しいのは光じゃあなかったな…」
 言う間にも、波はその形を刻々と変えて行く。
「空と海との境が判らない…」
 青年はつぶやく。
「空と海はつながっているのでしょうか」
「空は空、海は海だ」
 涼は答える。
「空は何にも侵されることはない。たとえ澱んだ雲に覆い尽くされ、降り注ぐ雨が海に還ったとしても、空は空であり、それ以外の何ものでもない。海はその空の色を映す。映すことができる海は、空と同じではない。そこには必ず境がある」
「…よく判りません」
 青年はぐっ、と目を一度瞑る。
「だけどこんな、光に満ちた瞬間には、…確かに、空と海はつながっている様な気持ちになる。海の果ては夢の果てだ、と知っていた人が言っていた。その人は、海に友人を送り出した。だが戻っては来なかった」
「…僕の祖父も海に出たのだと聞いています」
「君の」
「…いえ、祖父は戻りました。運の良い方でした」
「戻られたのか」
「ええ。でもそれから祖父の心の中には、大きな空洞ができてしまったのだと、―――母が教えてくれました」
「ご存命ではない」
「僕が生まれる少し前に」
 ごぉ、と遠い波の音が流れて行く。風の音が耳に飛び込む。
「だから、ずっと海のことは気になっていました。その果ての国のこと。果ての国に居る方々のこと。音。音楽。それに」
 青年は涼の方を真っ直ぐ向く。ふっと笑う。

「琴」

 琴?  
 問い返そうとした時だった。
「おーい、仲忠ぁ!」
 波の音に混じって、声が聞こえた。
「…あ、見つかっちゃった」
 青年は肩をすくめる。
 声は、彼の足跡の向こうからだった。やがてその主が馬で駆けてくる。
「若様ーっ! あれほど勝手に行かないで下さいって言ったのに!」
 馬の脇には、徒歩の男達が幾人か。
「仲忠…と?」
「はい」
「では君は、もしや藤原の?」
「ええ。…あの、あなたは?」
 苦笑する。ここで、この浜で、一人勝手気ままに振る舞える者など、一人しかいない。
「私は涼と言います」
 そして付け加える。
「この吹上の宮のあるじです」

  **

 発端は一つの訪問だった。

「こんにちはー! 仲忠、居ますか?」
 声を張り上げ、源仲頼が良峯行正を連れてやって来たのは、如月の終わりの桂の里。
 右大将、藤原兼雅の別邸がそこにはある。
 花盛り、紅葉盛りには家族を連れて滞在するのが常。
 その頃兼雅は、一番のお気に入り「三条の北の方」と息子の仲忠と共に花の季節を過ごしていた。
「どうしたの? こんな所まで」
 自宅ということで、楽な格好でくつろいで居た仲忠は、慌てて客を迎える。
「友達に向かって、どうしたもこうしたも無いだろ?」
 ええ? と仲頼は笑う。
「おや、琵琶が。弾いてたのですか?」
 かつては彼の琵琶の師でもあった行正は目敏く見つける。
「鶯の声が美しかったので…」
 言葉を濁す。
 仲忠はそれ以上は言わない。仲頼はそんな仲忠に、いつ見てもぼぉっとした奴だ、と思う。
「だったら笛にすれば良かったのに。それなら俺の領分だ」
「おやおやそう言って。あなたの笛で鶯が逃げてしまったらどうするのですか」
「まあまあまあまあ」
 仲忠は笑う。二人はその笑顔に力が抜ける。
「そういう話をしに来たのではないのでしょ? わざわざ桂まで」
「ああそうそう」
 うん、と仲頼は大きくうなづく。
「実はな、俺達明後日あたりからちょっと面白いところへ行こうと思っているんだ」
「面白い所? あなた、もうあらかた回ったって言ってませんでした?」
「いやいや、都じゃあないんだ」
「都じゃない」
 首を傾げる。
「吹上の浜を知っているだろ?」
「紀伊国だね。…遠くはないけど、近くもないなぁ。でも仲頼さんと行正さんが一緒なんでしょ? そうするとずいぶんな人になるじゃない。そんなに面白いところなの?」
「そう、そこだ!」
 ぽん、と仲頼は膝を叩いた。
「仲忠、お前、そこに住んでいるという源氏の君のことを聞いたことないか?」
「え、もしかして」
 仲忠はぱっと顔を上げる。
「そのもしかしてですよ」
 ふふ、と行正は笑う。
「いや、この間、うちの部下の松方がその吹上の宮にこの間行ってきたんだと。あいつ、陣でもう、自慢するする」
「そうしたら、この好奇心旺盛なひとは、まず真っ直ぐ私の所へやってきたのでしたね。じっとしていられない、行こう行こうってしつこくって」
「…うるさいなあ。行正だってすぐに乗り気になったくせに。行きたいけどすぐに休暇が取れるか判らないから、いつ行くかを教えろって俺を急かして」
「僕も、父上からそのことは話を聞いていたんだ」
 するりと仲忠は口を挟む。
「右大将殿が?」
「うん。あのひとは本当にそういうことについては、耳とか手とか早いんだ」
 おいそれ、自分の父君のことだろう?
 仲頼は言いたい気持ちはあったが、言葉にはしなかった。
「…右大将殿はお前にどう話して下さったんだ?」
「うーん。色々話してくれたんだけど…琴が素晴らしいってことしか覚えてなくて」
「お前らしいよ!」
「あなたらしいです!」
 二人の声が重なった。
「…だって、琴だし」
「…まあ、そのあたりが実にあなたと言えばあなたなんですけどね…何をおいても琴琴琴! それも琴(きん)の琴! そう簡単には会得できない琴の琴!」
「それでいて、いつの間にか、箏の琴も和琴も笛も琵琶も、師匠である俺達を追い抜いてしまうんだからなあ」
「だってお二人とも、女の方程、笛も琵琶もお好きではないでしょ?」
 ああ! と仲頼は額を押さえる。
「比べられるものではないでしょう?」
「んー…」
 行正の反論に口ごもり、仲忠は視線を逸らす。
「だいたいあなただって、あの『例の方』には何かと文を送っているという話ですよ」
「やめとけよ、行正。その話になると俺達は、自分の無様さを曝さなくてはならなくなるぞ」
 そうですね、と行正は素直に引っ込む。
「話が逸れたぞ。ともかく俺達は行く。お前はどうだ? 一緒に行かないか? と言うか、行こう」
 そう言って仲頼は仲忠の肩をぽんと叩く。
「うーん…僕も行きたいなぁとは思うんだけど」
「…けど? 煮え切らないなあ」
「いや、父上がいいって言ったら行くよ。何かと僕が一人で遊びに行くのにうるさくって」
「一人じゃなけりゃいいじゃないか」
 なぁ、と仲頼は行正に同意を求めた。そうだねぇ、と仲忠はのんびりと答えた。

   *   

「と言う訳で、父上、出かけてもよいでしょうか」
「と言う訳じゃ判らないが、一人じゃあないのだな?」
「この通り仲頼さんと行正さんがお誘いに」
 控えている彼らを手を上げ、仲忠は示す。見えている、と父親は思う。
「念のため聞くが、都の外れの怪しい所ではないのだろうね?」
「父上ではありませんのでそういうことはありません」
 さらりと仲忠は言う。背後の二人は思わずのけぞった。何はともあれ、自分達が子供の頃から既に右大将を勤めているひとに。
 だがその当人はそんな息子の言いぐさには慣れているのか。
「まあこの二人が一緒なら安心だ。しかし一体、何処まで行くのだい?」
 視線を仲頼達に向ける。仲頼は答える。
「紀伊国の吹上の浜のあたりです」
「もしかして、源氏の君の所かい?」
「はい。今朝、松方が先日訪問した折のことを私に色々自慢致しまして。こうなったら行かずにはいられない、と」
 ほぉ、と兼雅はうなづく。
「いいねえ。私ももう少し君等の様に身軽だったら行きたいところだ。ぜひ行ってきなさい。仲忠も琴が琴が、とばかり私に聞くが、私はあまり琴のことには詳しくはない。そういうことは、噂よりは実際に行ってみるべきだ」
「父上」
 ぱっ、と仲忠の表情が明るくなる。
「私はその間、そなたの母を独り占めするとしよう」
 途端に表情が引きつった。
「しかし確か、神南備の女蔵人に生まれた方だったな」
「父上は、その方のことをご存じですか?」
 そうだな、と兼雅は顎に手をやる。
「ずいぶん昔のことだ。まだそなたの母とも出会う前。童殿上していた頃、時々見かけたことがある。…子供心にも美しいひとだった」
「当時から父上は、そういう所には目敏かったですね」
「言うな。それでも、そなたの母が最初の恋人なのだぞ」
「それはよく判っております」
「しかし、そなたの母とはまた違った美しさを持ったひとだった。彼女の父親の神南備種松という男をそなた達は知っておるか?」
「確か、紀伊国では介のに次ぐ地位ですが、ずいぶんな物持ちと聞いております」
 行正が答える。
「そう。『財の王』と呼ばれている程だ。実際、牟呂の郡の本宅の方では、広い土地で、職人も沢山雇い入れ、色々なものを作りだしているとも聞く。吹上の方にあるという屋敷は、そこで作られた金銀財宝で飾られているらしい」
「へえ…」
 仲頼は思わず口をぽかんと開ける。
「種松という男はかなり有能らしいな。国で三番目の地位にあるなら、人々から搾り取ることもできるだろうが、不平不満を出すこともなく、ずいぶんな成果を上げているらしい。そのせいか、代々の紀伊守も彼には何かと気をつかう。大納言の姫だった北の方を紹介したのも、当時の紀伊守だ」
「それはもう…ずいぶんと身分違いではないですか」
 行正は驚く。うむ、と兼雅は頬杖をつき、大きくうなづく。
「運の悪い方だったのだな。父君と、当時の夫君をほぼ同時に流行病で亡くされた」
「…それは確かに、困りますね」
 しみじみと仲忠は言い、ちら、と父親を見る。兼雅はその視線に気付いたが、あえて見ない振りをする。
「そこでかつて、故大納言に世話になっていた、当時の紀伊守が姫の身の振り様を心配した。夫君を亡くしたと言ってもまだ若かったし、心映えの良いひとだったから、いっそ自分が、とも思ったらしい」
「よく思いとどまりましたね」
 仲頼は肩をすくめる。
「さあそこだ」
 兼雅はぽん、と脇息を扇で軽く叩く。
「執心していることは、それでも行動で伝えてはいた様だ。何かと物を届けたり、女ばかりの家の守りを固めたり。だがそれを北の方が知ってしまった」
 仲頼と行正は顔を見合わせる。
「まあ可愛そうな姫様、とは言っても奥方、それ以上のことは決して許しませんよとばかりに、守の下の政人の妻達にさりげなくその話を回したのだな。美しく心映えも良い方が困っていらっしゃる。誰か裕福な再婚の当ては無いものか、と」
「それで種松が?」
「いやまず、当時の介にどうか、という話がきたんだ」
「けど?」
 仲忠はふっと笑う。
「駄目だったのですね?」
「まあな。気後れがして文の一つも出すことができない。何せ大納言の姫だ。入内させて、時めくこともできる身分だ。そんな姫にそうそう介程度の男が近寄ることもできまい。普通はな。だがこの神南備種松という男はそうではなかった」
 三人の若者は大きくうなづいた。
「彼には召人はいたが、妻はまだ居なかった。話を聞いて、どういう伝を使ったか、文を届け、贈り物をし、文を届け、贈り物をし、贈り物をし、贈り物をし、贈り物をし、姫より何よりまず、家の者達が折れた」
 まあそれはそうでしょうね、と行正は内心うなづいた。
「家の者が折れれば、もう後は簡単だ。手引きをしてもらい、通いだし、紀伊の守に話を持ちかけ、正式な妻として引き取ってしまった」
「素晴らしい!」
 思わず仲頼は膝を叩いていた。仲忠がそんな友人をちらり、と横目で見た。

   *

 そんな経緯から紀伊の国、吹上へと出向いた彼等だったが。
 目的の地に辿り着く直前、一行に異変が起きた。

   *

「何?! 仲忠がいない?」
 仲忠の供人が、顔色を無くして報告してきた。仲頼と行正は二人は顔を見合わせた。またか、という表情である。
「は、はい…急に何か思い立たれたのか…馬を走らせて…」
 あっという間に見えなくなったのだという。
「若君のことですから、こういう所では何かしらなさるかも思ってはおりましたが…こう不意に…申し訳ございません」
「まあ…それはいい。そなたも苦労だな」
 仲頼はふう、とため息をつく。
 周囲では自分の供人達が何事かと彼に問いたげな視線を送る。
 少将の供人には将監以下の部下、それに馬副や小舎人などで総勢四十名を越える。
 行正や仲忠も多少の違いはあるにせよ、多数の供人を従えているのは同じである。
 その彼等を放って、主人は何をしているのか。
 ふと行正は空を見上げる。春先ののどかな空だ。風も柔らかで、微かに潮の香りがする。
「馬は?」
 問い掛ける。
「少し向こうに乗り捨ててありました。…それに烏帽子も」
「烏帽子だけか?」
「い、いえ、履き物も…」
 仲頼はそれを聞くとちら、と友人に目配せをする。
「松方、浜は近いのか?」
「へ? 浜ですか?」
「以前、そなたはここに来たのだろう? ここから浜は近いのか?」
「ええ」
 松方はうなづく。
「馬を走らせれば、吹上の浜はもうすぐです」
「待ちきれなかったんだな、あいつは…」
 行正は口の端を歪める。
「けど烏帽子まで取るか?」
 ぽん、と仲頼は自分のそれを叩く。行正はふっと笑う。
「しかし判らなくもないですね」
「そうかぁ? 俺は駄目だな。裸になっちまった様な気がいる」
「それはあなたが子供の頃から見慣れているからですよ。私には少し彼の気持ちが判りますがね」
「…あの、」
 仲忠の供人は戸惑いながら言葉を投げかける。だが続かない。
「ああ、そうだな…松方」
 仲頼が呼びかける。
「はい?」
「道を知っている者は、そなたの他に居るか?」
「先日私と一緒に参りました者なら」
「では俺達は少々寄り道をするぞ。そなたも一緒に来い。浜への案内をしてくれ」
「わ、私も参ります!」
 仲忠の供人が慌てて声を張り上げた。

   **

「…全く、烏帽子も履き物も無しで、あるじの君に会ってたなんて、お前の父上に知れたら何と言われるか」
「いや、だって、空が綺麗で、何か爽やかな匂いがして」
 ようやく合流した友人は、既に目的の地のあるじの君に出会っていた。
「涼どの、お久しぶりにございます」
「ああ松方どの、本当にまたいらしてくれたのですね」
 青年は満面に笑みをたたえる。松方はどん、と自身の狩衣の胸を叩く。
「無論です。必ず近い内に、そして都で有名な方々をお連れします、と約束したではないですか」
「それではこの方々が」
 側で声を張り上げている三人の方を向くと、涼は思わず自分の顔がほころぶのを感じる。
 先程出会った仲忠に、身分では変わらぬだろう二人が烏帽子をかぶせ、履き物を揃えている。
「あの三方は仲が良いのですね」
「いやもう、都で一番よく知られている公達ですからね」
 ほぉ、と涼はうなづく。
「あそこで怒鳴りながら烏帽子をかぶせているのが左大臣家の少将仲頼どの、小さくなってかぶせられているのが侍従の君仲忠どの、その向こうで笑っておられるのが兵衛佐行正どの」
「彼だけが少々お若い」
「ええ。でもいつも皆で楽しそうです。それに今ここにはいらしてませんが、左大将家の侍従仲純どの、この仲の良い四人が奏上して叶わないことはないと言われている程です」
「なる程、帝の覚えもめでたく」
「ことに、管弦の遊びに関しましては、彼等に並ぶ者は今の都には居ないのではないでしょう」
「彼は」
 涼は視線を仲忠に移す。
「いや、彼等は遊びは何が得意なのですか」
「皆それぞれに素晴らしいのですが…そう、仲忠どのの琴の琴は飛び抜けて素晴らしいとのことです」
「あなたはまだ聞いたことは?」
「残念ながら、無いのです」
 松方は苦笑する。
「あの君は、本当に滅多にその手を披露なさいません」
「確か帝の御前でも」
「ええ全くもって。帝もしかし、あの君に関しては仕方がないとお思いの様子です。本当に優れた手の持ち主は、場を選ぶのだろう、と」
「…成る程」
 涼は微かに口の端を上げた。

   *

 浜からさほど遠くない場所に吹上の宮はあった。
「う…わぁ…」
 仲忠は馬上で息を呑む。そうだな、と仲頼もつぶやく。
「松方の言った通りだ。本当にこれは『宮』としか言い様が無い」
「そうですね。…あ、今あそこに孔雀が」
 行正が遠くを指さす。
「孔雀だけではありません」
 客人達に、あるじの君は笑う。
「色鮮やかな鸚鵡も夏の林で遊んでおりますよ。また後でお見せ致しましょう」
「鸚鵡かぁ… 仲頼は見たことがある?」
「いや俺は無いな。確か行正は、唐に居た頃見たと言っていたろう?」
「…遠くからですけどね。街で鳥売りを少しだけ見かけたことがあるだけですよ。確か、人の言葉を真似るんですよね」
 行正は涼に向かって問いかける。
「ええ。賢い鳥です」
「楽しみだなあ」
 のんびりとした仲忠の声に、涼の口元が緩む。
「ああ…花盛りだ」
 仲忠は手を上げ、示す。
 宮の東側には海。
 岸に沿って、藤の懸かった大きな松が二十町ばかり続く。
 その内側には桜。樺桜が同じ様に二十町の並木となっている。
 そして更に内側に紅梅が。更に更に内側、北の方にはつつじの並木が、春の色を存分に浮かべていた。
「…ああ、花に酔ってしまいそうだ。―――こう言っては何ですが、御所より大きく、華やかだ」
「吹上の宮と呼ぶだけのことはありますね」
 客人達の賛辞に涼は笑う。 
「…ただそう呼んでいるだけですよ。目立つ家ですから、そう言えば誰も間違いなかろうと…」
 そう。
 涼は思う。
 本当に、宮などというものではないのだ。ただそう呼んでいるだけだ。祖父がそう勝手に。
 涼が住む場所だから「宮」なのだ、と。

   *

「違うのではないのか? 宮というのは、帝の認めた皇子のことを言うのではないか?」
 涼は少し物心のついた頃、訊ねたことがある。
「だとしたら、私は違う。この屋敷も違う」
「何が違います」
 祖父―――神南備種松は即座に言葉を投げかけた。
「あなた様は確かに帝の胤。我が娘が粗忽にも時の帝に奏しあげなかったばかりに、こんな所に埋もれることに…」
 当時まだ壮年だった祖父は、そう言うと涙ぐんだ。
「もしも私の娘の腹に生まれて来なかったら、あなた様は親王にもなり、都で生い育つこともできたものを…」
 その母は顔も知らない。涼を生んですぐに亡くなった。
 彼は祖父母のもとで育てられた。
 母は帝に仕える女蔵人だった。心映え良く、美しい人だったという。
 それなりの家の出であれば、女御更衣として時めいてもおかしくない人となりだった。
 だが種松は決して身分の高い者ではなかった。
 紀伊の国では守、介に次ぐ地位にはあったが、都でその地位が何であろう。
 一方、北の方は大納言の娘だった。
 一度は結婚もしたが、その夫に先立たれ、そしてまた親にも。
 後ろ盾の無い女は、どれだけ身分が高くとも落ち行くばかり。
 先を不安に思っていたところに種松の手が差し出された。明日をも知れぬ身には拒むすべも無かった。
 とは言え次第に夫婦として慣れ親しむうちに、女の子を一人授かった。
 やがてその娘が美しいという噂が当時の守から、更にその上へと広がり、娘は女蔵人として召し出された。
 やがて浮かぬ顔で戻ってきた娘の腹には、帝の胤が宿っていた。
 種松は宮中に居辛かった娘の気持ちは理解できた。そのままそっと子を生ませ、母子共々静かに暮らさせるのも良かった。
 だが娘は涼と引き替えの様に亡くなった。そして涼は人並み外れた子だった。
 並みの子だったら、ただの自分の孫として育てても良かった。だが。
「いつか必ず、あなた様は帝の元に戻ることが出来ます。その時のために、私はどんなことでも致します」

   *

 その種松がこの日、彼の客人達のために自ら宴の支度をした。
 涼は用意された礼服を着て、寝殿で客人達と酒を飲み交わし、楽器をかき鳴らす。
 種松はその様子を陰から実に嬉しそうに眺める。
 何度か杯を交わした後、赤らんだ顔の仲頼が上機嫌で言う。
「俺は本当言うと、こっちへ伺う予定ではなかったんですよ。予定ではね。粉河の寺へ行くことになっていたんですな。でももうそんなこと、どうでも良くなってしまったみたいですよ」
「それはそれは」
 涼は笑みを浮かべる。
「粉河行きの話をしていた折りに、松方がこちらのことを申しまして。それを聞いたらもう居ても立ってもいられなくなって、こうして来てしまったという訳で」
「がっかりしたのではないですか?」
「いやいやいやいや」
 大きく手を振る。
「来た甲斐あったというもの。涼どの、どうしてここに籠もってらっしゃる。都へぜひお出で下さいな」
「田舎者よ、と笑われるのが関の山ですよ」
「東宮がお望みですよ」
 行正が口を挟む。
「珍しい音を出す楽人をぜひ手に入れたい、と御所望です」
「それならあなたがたがいらっしゃる」
「いやいやいやいや」
 再び仲頼は手を振る。
「俺や行正はいい。だがこの仲忠ときたら、東宮どころか帝の度々のお召しにも、琴だけはと言う頑固なうつけ者。琴の音に憧れる者がどれだけ都には居ることやら」
「別に僕は嫌だ嫌だと言っている訳じゃあないんだけど…」
 仲忠はほんのりと染まった頬を軽く握った拳で支える。
「別に自分の琴が良いとかどうとか考えたことは無いから」
「そんなこと言って、なあ」
「ねえ」
 二人は顔を見合わせる。
「でも僕も、涼さんが都に来たら嬉しいなぁ、と思うんだ」
 にこにこ、と仲忠は笑う。
「笑い者になるのが辛いですね。私の噂が都にまで伝わったというだけでびくびくしておりますのに。これで都で人付き合いなどしたらもう」
 涼の表情は変わらない。
「でも東宮はおっしゃってたよ。ご自分は身分のために軽々しく出かけることはできないから、僕等が羨ましいって。風の噂に聞く叔父の一人とぜひ会いたいって」
 そうですね、と涼は答えるだけだった。

   *

 ひと月の間、仲忠、仲頼、行正の三人は吹上に滞在することとなった。
 三日の節句には、神南備種松が手づから彼等の為にもてなしをしてくれた。
 それだけではない。彼等の連れてきた供人達の席をもずらりと並べ、大饗宴が行われた。
 酒を酌み交わすはもちろん、食卓の打敷に描かれた胡蝶や鶯などを題材に、あるじである涼共々歌を詠む。
 ほろ酔い加減の中、誰かしらが楽を始める。
「君も一つ、どうですか」
 涼は仲忠に勧める。仲忠は黙って傍らに置いていた袋を彼に差し出す。
「あなたに」
「何でしょう?」
 やや、と開いた途端、仲頼も行正も声を上げた。
「仲忠お前、それはもしや」
 仲頼は思わず身を乗りだし、涼の手の中にあるものに目をやる。
「琴ですね… 何やら実に、手にしっくり来る」
「『やどもり風』と言います」
「ああやっぱり!」
 行正もまた嘆く。
「祖父とおっしゃると、あのかつての治部卿、清原俊陰どのですね」
「はい」
 仲忠はうなづく。
「祖父が外つ国から戻って来た時には、この他にも幾つかあったのですが、あちこちに散らばってしまって」
「そんな貴重なものを。いけない」
「いいえ。これは母の勧めでもあるのです」
「母君の」
 仲忠の母のことは、涼も噂で聞いていた。
 「三条の北の方」と呼ばれている、右大将兼雅の一の人。
 兼雅は既にその時、時の帝の女三宮を正妻に持っていた。一条に、帝から送られた屋敷を構え、様々な身分の多くの妻妾を囲っていた。
 だがいつの間にかその一条の家を捨て、三条の屋敷に、そのひとの元にしか居着かなくなったと。
 それ程の方だ、と人々は噂する。
 と同時に、どれ程の方だ、と邪推もする。
 それがどちらかは涼には判らない。だが目の前の仲忠に似ているなら―――それは大層な麗人ではないかと思うのだ。
「『やどもり風』は宿守。家の守りの力を持つと言われています」
「それを私に。…それは何と嬉しいことだ。しかしできれば、君にこれで一曲弾いてもらいたいものだが」
「僕の手など、大したものでは無いです。もうずいぶん弾いていないですから、かき鳴らすことも考えてなくって」
 仲忠は素っ気なく言う。ああまただ、と仲頼はびしゃ、と額を叩く。
「…あ、その、仲忠はこういう奴ですから」
「いえいえ、琴を弾かれる方は、その時を選ぶべきだと思いますからね。彼が弾きたくないのなら、今はその時ではないのでしょう」
 涼はやどもり風の調子を合わせ、一曲弾き始めた。
 三尺六寸。琴は、和琴や箏に比べ小振りである。だが太さの違う七弦をそれぞれ異なった調子で合わせた時にはどんな楽器よりも幅広い音を作り出す。
 やがて皆、つられるかの様に、ある者は笛を。ある者は箏を。またある者は声を張り上げ、いつの間にか宴の場には音が溢れていた。
 笛を手にした仲頼はすっかりいい気分になって言う。
「主上の御前で色んな節会ごとに、皆腕前を惜しむことなく演奏するけど、俺は今日のこの合奏ほどに素晴らしいものは無いと思うぞ」
「左大将どのの春日詣での宴の折の演奏も素晴らしかったけど、私も今日の方が楽しいです」
 琵琶を手にした行正も言う。
「それにしても、涼さんの琴は、珍しい手ですね。祖父の奏法にも何処か似ているかも」
「それは光栄だ。私の師匠は、既にこの世には亡い人ですが、そのことを聞けば、きっと喜ぶでしょう。ところで」
 顔を向けられた行正ははっとする。
「左大将、正頼どののところに美しい方がおられるとか」
「そういうことは仲頼が詳しいでしょう」
 素知らぬ顔で、行正は友人へと回す。
「俺が? 俺は別にそういう話に詳しいという訳じゃ」
「けど最近じゃあ、宮内卿どのの愛娘の所へ通っているという噂じゃないですか? さぞその方は美しい方なんでしょう」
「…通うところの一つや二つなくてどうするんだよ。だいたい都にはいい女が一杯いるからな。『いい女一人妻にするより、大したことない女二人を妻にしている奴の勝ち』が都というものさ。だから俺の様な奴でも婿としてやっていけるんだよ」
「あれ、…と言うことは、仲頼さんには決まった方がいたの?」
 仲忠は大きく目を見開き、問い掛ける。
「あのね、仲忠君」
 行正は苦笑しながら友人の背を叩く。
「この歳になって、女の一人も居ない君の方が不思議ですよ」
 その手を払って仲忠はふくれる。
「別に居ないという訳じゃないよ。父上の女房の中には綺麗な人が居たし…」
「でもせいぜい召人でしょう? そんなこと言ったら、彼など両手では数え切れないでしょう」
 行正は断ずる。
「だけど涼さんだってお独りの様だし。別に僕一人そうだって、誰が困るって訳でもないでしょ」
 ねぇ、と仲忠は同意を求める様に涼の方を見る。
 そうだねぇ、と涼は微かに笑う。
 いやいや、と仲頼は手を振る。
「どんなに四季折々の美しい花々、木々、鳥、海の景色、名手を集めての遊びをしたところで、独り身ではつまらないと俺は思うんだ。こんな美しいのに―――いや、美しいからこそ、独りで見るなんてたまらないと思うんだ」
「そうですか? まぁそうかもしれませんね」
 涼はゆったりとうなづく。
「別に私も、好きで独り住みしている訳ではないのですが。と言って、こんな都から遠く離れた場所までわざわざ連れて来たい様な方も居ないことですし」
「いやいやいや、俺には駄目だ」
 仲頼は両手を大きく広げる。
「やはり誰かが必要だと思うんですよ」
「君の場合はそれが宮内卿の方だと」
 行正はしつこく話をそこまで戻す。
「ではやっぱり綺麗な人なんですね。綺麗なものが好きな君が、それほど入れ込むなんて」
「知らないね。もしそうだとしても、お前にどうして言わなくちゃならない? お前こそ、例の姫に、弟君を使って文を渡しているというじゃないか」
「それを言うなら君だってあの方には」
 即座に行正は切り返す。
「何を言う。美しいと噂される姫君に求愛の歌一つ送らないで何が都人だ。だいたいこの仲忠ですら、折々に文を送っているということだぞ…そうだな? 仲忠」
 ふふ、と仲忠は笑って答えない。
「ほらいつもこうなんだから。涼どの、こうやっていつも仲忠ははぐらかしてしまうのですよ。女のことについては」
「別にはぐらかしている訳じゃないよ。確かに僕もあて宮には文を送っているんだから…」
「あて宮」
 涼はその名を繰り返す。
「そう、その方だ。あて宮。貴なる姫宮。私も都からの噂で聞きました。左大将どのの、掌中の玉と言われる姫君だそうですね」
「ああそうだ」
 仲頼はうなづく。
「今の都で美しい人と言えば何と言っても左大将の九の君、あて宮だろうな」
「氷室に眠る雪の様に冷たい方とも聞いていますが」
 それは、と男達は顔を見合わせる。
「それもまあ…嘘ではないですね」
「そうそう。私なぞ、最初に使った手段がいけなかったのでしょう。すっかり嫌われてしまっています」
 ねぇ、と行正は仲頼と顔を見合わせる。
「そうだよな。子供を使っちゃいけないよな」
「たぶん今、あて宮からの返事を一番良くもらっているのは」
 二人の指は、仲忠を指していた。
「僕は別に」
「嘘言うな。俺の懇意にしている女房が、そう言っていたぞ。お前への文は楽しそうに見るとか、返しをきちんと書くとか」
「僕はただ。琴のことを書くからじゃないのかなぁ」
「琴のことを?」
 ええ、と仲忠は涼の方を真っ直ぐ向く。
「涼さん、あて宮の琴は本当に素晴らしいのです」
 真剣な眼差しがそこにはあった。
「本当に。僕の拙いものなど比べものにならないくらい」
「おいおい、お前がそれを言うのかよ」
「だけど本当のことだもの。仲頼さんだって行正さんだって、春日詣の時には聞いたでしょう?」
 むむ、と二人は押し黙る。
「それにただ、僕は琴の話をしたいんだ。彼女とは」
「ふぅん、それじゃあお前は、あて宮の婿になりたいとは思ったことはないのか?」
「それは…」
「なかなか楽しそうな話ですね」
 助ける様に、涼は言葉を差し挟む。
「しかし美しい左大将の姫君は、琴も素晴らしいのですか…私も興味が湧いてきました」
 涼はふっと笑い、扇を口元に当てる。
「そうだなぁ…涼さんとあて宮と、一緒に演奏ができたらどれだけ楽しいだろう」
 うっとりと仲忠は目を細めた。
 そのまま天にまで昇ってしまいそうな友人の肩を仲頼は強く掴み、大きくうなづく。
「判ったよ。お前の気持ちは純粋だ。だが世の中はお前の様な奴ばかりじゃあない。例えば実忠どのはどうだ?」
「源宰相か…あれは手強いですね」
「どういう方ですか?」
 涼は問い掛ける。
「何と言うか…」
 三人は顔を見合わせて言い淀んだ。  

   *

 吹上では三日の節句を皮切りに、様々な宴が行われた。
 浜のほとりの花が盛りになった頃には、林の院に皆、直衣姿の徒歩で出向いた。
 十二日には、渚の院で上巳の祓が行われた。漁人や潜女を集め、大網引かせなどをさせた。
 渚の院は林の院と同じ東の浜辺にあるが、潮の満ち引きする辺りに大きく高く作られている。
 林の院の様に華やかではない。見える景色と言えば、遠く見える島々、布で頭を包んだ潮汲みの女達、点々とある小さな漁人の庵の軒に海藻が沢山掛けて干してある―――その程度だ。
 だがそれが都から来た客人達の目にはひどく珍しく面白いものとして映る。
 何も無い所だけに、宴の際の楽が一層心に染み入る。
 夕暮れになって、大きな釣舟に漁人の使う栲縄を一舟いっぱいにたぐり集めて漕いで行くのを見た仲頼がふとこう言った。
「この縄はあんなに長い様に見えるけど、俺の志には及ばないな」
 それを聞いた涼は詠んだ。
「―――いらした心のうちは判らないけれど、その長い栲縄にまさるとおっしゃる志が嬉しいです」
「僕等の気持ちは縄以上ですよ」
 仲忠も笑って言う。
「―――志の長さと比べちゃいけないけど、比べたってことで、この栲縄は有名になるだろうなあ」
 仲頼がそう言っているうちに、陽も暮れてきた。
 詠んだ歌そのものは技巧じみていて、やや気取る所があったが、涼はこう言ってくれる彼等のことが本当に嬉しかった。
 海の上を浜千鳥が飛んで行く。それを見て彼はまた詠んだ。
「―――せっかく来てくれた友達が都鳥の様に一緒に帰ってしまったら、残された自分は泣く泣くこの浜に暮らすことだろうな」
 すると仲忠はすかさず返した。
「涼さんをどうしてそのままに置こうって言うの。都への雲路を翼を連ねて一緒に行きましょうよ。遊び仲間の同じ千鳥ではないですか」
「そうそう」
 と仲頼も加わる。
「―――都鳥が千鳥を自分達の翼の上に据えて都に帰ってこそ、吹上の浜の土産ですと言って、帝にさしあげることができるんだし」
「―――あなたをお連れしなかったら、私達は帝に何とお答え申し上げましょう」
 行正も続く。
「必ずいつか、あなたと都で暮らしたいんです」
 仲忠は力を込めて言う。その瞳の強さに、涼は一瞬胸の奥に跳ねるものを感じた。

   *

 二十日には藤井の宮で、藤花の宴が行われた。
 紀伊守と権守もそこにはやってきて、少将の顔を見て驚いていた。
「おやまあ! こちらでお会いできるとは思ってませんでしたよ」
「いやあ」
 あはは、と仲頼は笑う。
「こちらから参上しようと思っていたのですが、すみません」
「いやいや。ところで都では変わったことはありましたか? おお、左大将殿はお元気でしょうか」
「変わったこと…まあ、あると言えばあるし、無いといえば無いし…あ、左大将どのはお元気ですよ」
「こちらはもう大変ですよ」
 紀伊守は嘆息する。
「前の守が乱れた政治をした後の赴任でしょう? そこにまた朝廷の使が入り混じって騒いで、今はもうその後始末で大変ですよ。何だか都の遊びやら何やらすっかり遠いものになってしまって、今や田舎者です」
「あー…そう言えば、前紀伊守が、何か愁訴して騒いでましたなぁ」
 嫌だ嫌だ、と仲頼は手を広げる。
 その様子を見ていた種松は、まあまあ、とばかりに二人を宴の席へと導いた。 

   *

 三月末には客人達もそろそろ都に帰らねばならない、ということで、鷹狩りや春を惜しむ宴、名残の宴が開かれた。
「それにしても」
 仲頼はその宴うたげで貰ったものをずらりと見渡しては嘆息する。
「涼どのは、本当に大変な『財の王』だよなあ。全く」
「そうですねえ。種松どのがどれだけ涼どのを大切にしているのかがよく判ります」
 仲忠は何も言わず、そっと館から抜け出した。

「やっぱり居た」
 夕暮れの浜辺に、彼は佇んでいた。
「仲忠君」
「何となく、涼さんはこちらに来てる様な気がして」
「私が?」
 仲忠はうなづく。
「もう一緒にこの浜を見られないのかな、と思ったし。…僕は、この時間の浜が一番好きだな」
「そうだろう? 一番綺麗だと私も思う」
 夕暮れの海。どんな空であろうと、そこには美しさがある。
 ちょうどこの時間の海は凪ぎ、空は穏やかな色の移り変わりを見せていた。やがて星が瞬く藍から次第に紅が重なり、陽の朱に収束するだろう。
「涼さんは都に出て行こうとは思わないの?」
「…何って言うか。田舎者よ、という目で見られるのが怖いんだ。前にも言ったろう?」
「涼さんが田舎者と言うなら、僕も田舎者だよ」
「君が?」
 仲忠はその場に座り込む。ざく、と砂のきしむ音がする。
「僕は確かに、右大将藤原兼雅の子だし―――お祖父様はかつて遣唐使を勤めた清原俊陰。血筋は都人。それは嘘ではないんだけど」
「では何故」
 そんなことを、と言いかけた彼の言葉を仲忠は聞かなかった。
「僕は生まれてからかなりの年月を山で過ごしたの」
「山」
 そう言えば、そんなことを言っていた様な気がする。涼は記憶をたどる。
「聞いたこと無い? 清原の祖父が亡くなってから、家は恐ろしく貧しくなったのだ、と」
 そう、その噂だ。確か。
「父上と母上がその貧しくなった清原の京極の屋敷で一晩だけ語り合って、僕が生まれたらしいの」
 凄い偶然、と仲忠は笑った。逆光ではっきりしなかったが、それまでに見たことの無い類の笑みだった。
「でもその頃、母上の世話をするのは、たった一人、嵯峨野という名の媼しかいなかった」
「一人だけ」
「ええ、一人だけ。僕の母上は何も出来ない人だったから」
 仲忠は言葉に力を込めていた。
「嵯峨野は大変だった様でね。家に残っていたなけなしの物を何とか処分して金をつくり、僕が生まれるための用意をし、それすらどうにもならなくなった時には、自分の娘に食糧や衣類を頼んだりしたみたい。母上はその時も、ただ困ってぼんやりとしていることしかできなかった」
「…それは」
「判ってるんだ。母上は姫君で、姫君ならそれは仕方がないことだと。だけど嵯峨野は年で―――僕が三つか四つか…そのくらいの時に、流行病で死んだ」
「それで君は、山へ」
「都の人々にはこう噂されていると聞くんだけど」
 冷たい声だ、と涼は思う。
「僕は変化の者の生まれ変わりだから、その頃から乳も呑まず、母上を養って河へ釣りに行ったとか、その河が凍った時には、『私が孝の子であるなら魚よ連れろ』と願ったら釣れた、とか」
「…違うの?」
「そんなことある訳ないでしょ」
 仲忠は言い放った。
「あれは父上の作り話。僕はただの人間で、その頃はただの子供。いや、何もできない子供ですらなかった。ただね、無闇に可愛らしかったらしくて」
 口元がくっ、と上がる。
「母上のために食べ物を探したのは確か。だけどそんな奇跡は起きないでしょ。だけど食いつないだのも確か」
「では」
「貰ったの。親切な人達から」
 表情が見えないのが幸いだ、と涼は思った。今この時の仲忠がどんな顔をしているのか、見たくはなかった。
 次第に朱の陽は紅に変わって行く。
「親切な人達は、僕を抱き上げると、食べ物が欲しいのか、と聞いた。そうだと答えると、あげるからちょっとおいで、と答えた。うん、確かに親切にしてくれた。後で腕一杯の食べ物をくれて、またおいでと言った。僕は何って簡単だろう、と思ったよ」
 簡単。
 かもしれない、と涼は思った。この青年の小さな頃だとしたら。
「母上は僕が抱えてきた食べ物を見て、それは仏の思し召しかしら、と無邪気に問い掛けたよ」
「…」
「親切な方がくれた、と正直に僕は答えた。そう、と母上は答えた。間違ってはいない。あんなことで、食べ物がもらえるなら簡単なことだった。…今でもそう思うけど」
「本当に?」
 仲忠はうなづいた。
「だって涼さん、今だって、何がどう変わるというの。父上に引き取られて初めて、それが遊び女みたいなことと判ったけど、殿上人と遊び女と何が違うというんだろ」
 涼は答えを探そうとした。だがそれは難しかった。何よりもそう口にしている仲忠自身がそう信じて疑わない。
「…人のご機嫌をとって、沢山のものを貰って。それが食べ物でも金銀財宝でも美しい姫君でも大本は変わらないと思うけど」
 くすくす、と仲忠は笑う。
「山へ行こう、棲もうって言ったのは、母上なんだ。あのひとも、さすがにだんだん僕のやっていることの意味が判ってきて。そんなことを僕にさせるくらいだったら、と琴を持たせて清原家にゆかりの山に籠もったんだ」
 それで山か、と涼は思った。
「十二の時に父上に見つかってからは、もうしごきにしごかれたよ。都で同じ歳まで育った子供に追いつき追い越せって」
「でも君にとっては決して難しいことではなかっただろう?」
「ああ、それはね」
 ふふ、と彼は笑う。そしてつと涼に近付くと、軽く口を合わせた。
「確かに難しいことじゃあなかったんだ」

   **

 彼等が都へと出発したのは、四月一日だった。
 親友の約束をした四人は、またすぐ会おう、と歌を詠み、杯を交わした。
 また、なるべく早いうちに。
 涼は彼等の姿を見送りながらそう思った。


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