『寒い』 カオルはそう感じた。 独り、布団に丸くなると時々思い出す、前の男にフラれた時を。 すごくいきなりだったことを覚えている。学校からの帰り道、いきなり「ゴメン」と切り出された。向こうの理由は……確か、束縛されるのが嫌、好きな人ができた……たぶん、このどちらか、両方だったかもしれない。 理由はどうでもよかった、ただ、その日から当たり前になっていた日常が崩れた。 いつも、アイツに話を聞いてもらっていた、それが無くなっただけで、日常が乾ききってしまった。誰にも話せないことがたまった、同性への愚痴など、女友達にはできなかった。彼女たちは口が軽い、自分のいないところで自分もまた、同じように話されていると考えると、男性にしか話せない事だった。 そのとき、アイツの代わりになってもらったのがヘイタだった。幼馴染ということで以前から仲がよく、ヘイタだけには何でも話せた。また、ヘイタはいつだってカオルのそばにいた。 それが高校を卒業したらまた、日常が壊れてしまった。落第したヘイタと合格したカオル、毎日、あって話して……わざわざ会わなくちゃもう会えなくなった。 いつからこんなに寂しがり屋になったのだろうか。これではまるで彼氏に甘えたがる女のようだ。今日も今日で、なんであんなことを言ってしまったのだろう。 「……あ〜あ……」 ため息をつきながら寝転がり、天井を見上げた。見慣れた景色のはずだが、やけに高く思える。 そのまま呆と天井を見る。体の力を抜く。脱力。からだが床と張り付くような錯覚を覚える。 五分ほどそうしていた。何もしない五分というのは割と長いものだ。 「……よしッ!」 少しばかり気合を込め、体を起こす。 頭の中でいくら考えても終わらない。それだったら今、さっさとヘイタのところに謝りに行って、この事件に決着をつけたほうが早い。 天井を見つめた五分は、その覚悟を決めるための時間だった。 踏み切ったからには二の足は踏まない。中途半端に止まっても仕方が無い。 部屋の隅に投げ出してあった衣服を適当に身につけ、手串で髪を整える。鏡で確認、適当にやったにしてはまぁまぁだろう。 カオルはそのまま携帯と財布をポケットにねじ入れて、アパートを飛び出した。
ナナはおもむろに毛布から這い出した。 相変わらずヘイタはグッスリと眠っている。よほど焼酎が効いているらしい。あれだけ飲んだのだ、だれだってそうなるだろう。ナナがヘイタの様になっていないのは、ナナのほうのボトルの中身を、あらかじめただの水にすり替えていたからだ。 「水と焼酎で飲み比べするなんてね。ちょっと、間が抜けすぎかな。ホントに『疑う』って事を覚えたほうがいいんじゃない?」 聞こえないとは思いながらナナはそう言った。なんとなく言わないで出て行くのはウソをつくようで嫌だったからだ。もっとも、ただの自己満足だとは自覚していたが。 荷物は昼間のうちにまとめておいた。気ままな放浪生活だ。元々そんな大した荷物はない、着替え一式とヘイタからくすねたニボシが少々、プラス、それを入れるナップサックだけだ。 ナップサックを肩にかけ、ヘイタに掛けた毛布を直してやる。あ、寝顔、可愛いななどと思ったりする。 「それじゃあ」 そう言い、入り口のドアに向かった。靴を履く。なんとなく靴紐を結びなおしてみた。右、左と結びなおした。なんとなく気に入らなかったのでもう一回結び直そうと靴紐を解いたどころで、外側からドアノブが回った。 開いたドアの向こうにいたのはナナが昼間公園で会った女――カオルだった。 少しの沈黙が流れた。
双方呆然としている中、先に口を開いたのはナナだった。 「……どもです」 「……まさか君が……」 「はい」 ナナのいつもの微笑を、カオルは幾分強ばった笑みで返した。ヘイタを騙して居候している女。そのイメージと実際のナナとのギャップがカオルの心情を複雑なものにしていた。 「なんか、いろいろとご迷惑をお掛けしました。私のせいで二人を喧嘩させてしまったみたいで……、すいませんでした」 ナナはペコリと頭を下げて言った。 「そんなに謝らないでよ、ヒステリーおこして怒鳴ったあたしがバカみたいじゃない。実際、バカな事したなって思ってるけどさ」 カオルは苦笑した。 「で、ちょっとお願いなんですけど、ヘイタさんが起きたら、いろいろ迷惑かけてごめんなさい、って伝えてもらえませんか?」 「そういう言葉、自分で伝えようよ」 「それはちょっと……、私、今からまた、漂流しようと思ってるんです。ヘイタさんの顔をみたらもっとここに居たくなっちゃうんで」 「出て行くって……、出て行って明日からの生活にアテはあるの?どこに泊まるの?何を食べるの?」 カオルの言葉は家出しようとする娘を心配する母親のそれだった。 「今まで、一年くらいこんな生活してきましたから、それにカオルさんが心配するほど私、子供じゃないんですよ」 「子供はみんなそう言うんじゃないの?」 ナナは力なく笑い 「そうかもしれませんね」 と曖昧に答えた。 「そうだとしても、なんでそんな放浪の真似ごとしてるの?つらくないの?」 「だれだって名前も過去も何もかも捨てたい時ってあると思うんです。わたしはそれをやっているだけですよ」 「それにしたって、いつまでもそんな生活しててもしょうがないじゃない」 「いいじゃないですか、私がどうなろうと貴女には関係ないことなんですから。それに私のこと何も知らないくせにわかったような事言わないでください」 表情は穏やかといっていいモノだったが、口調、言葉から断固とした離別の意思が感じられた。 「ごめん」 「……だから、貴女に謝られたらこちらの立場がないじゃないですか……、かき回してるのはこっちなんだから……」 ナナはそう呟き、ヘイタのアパートを出る。入り口で言葉を失っているカオルに背を向ける位置まで進んだ。 「それじゃあ。……公園での時間は結構楽しい時間でしたよ」 そういい残し、ナナは夜の静寂に消えていった。 カオルはそれを追いかけることはできなかった。。
ヘイタの視界にぼんやりとした天井が見えた。照明は着いておらず、薄暗い。体には毛布が掛けられているのがわかる。ナナが掛けてくれたのだろうと思う。視界がゆれる、頭痛い。飲みすぎた。 「やぁ」 知っている声がする。やたらと重たい体を起こす。声の主はカオルだった。暗くて顔がよく見えないが、なんとなくわかった。 「なんでお前がここに?」 「ん、昼間のこと謝りに来た」 「だからってこんな時間に……」 「ヘイタだからいいかなって。昼間はゴメン、あたし、どうかしてた」 「いや、おれも。なんか、売り言葉に買い言葉ってやつでさ」 喧嘩はそれで終わったした。もしかしたら、既に終わっていたのかもしれない。やってみれば簡単なものだった。 「大分飲んだみたいだね」 「うん、ナナと勝負してたんだ。あの子、お酒強くてさ。コッチが先につぶれた」 そういえば、部屋の中にナナの姿が無い。起きて出かけるには早すぎる時間だし、今日は酔っているはずだ、おいそれと外出できないはずだ。 「さっきまでそこで飲んでたはずなんだけど、中学生くらいの女の子知らない?」 「その子ならさっき出て行ったよ」 「出て行ったって?」 「当てのない旅ってやつを続けるみたい、これまでずっとそんな感じで生活してるって言ってた」 「なんだって突然そんな事、酔っ払ってるときに」 「彼女、全然酔ってるようには見えなかったよ」 「そんなわけないよ。少なくても、おれと同じ量飲んだんだから、顔に出なくてもそれなりに酔ってるはずだ――」 そこまで言うとヘイタはアルコールでフラフラな体を無理やり起こし、入り口のほうに向かおうとした。当然、足取りもおぼつかず、危なっかしいことこの上ない。だが、それでもなんとか前に進もうと懸命だ。 数歩進んだところでバランスを崩し、転倒しそうになった。あわててカオルが肩を貸し、それを防ぐ。 「ちょっと!どこいくの!?」 「ナナを探しに行くんだ。出て行くなんて酔っ払った末のたわ言だろ?きっとそこらへんで横になってるに決まってる、外で夜明かしなんてしたら体に悪いだろ」 「だから、全然酔ってなかったって。それに、あの子は……」 少しのためらい 「あの子はヘイタが追いかけてくるのを望まないと思うよ?」 その先は事実を変えて伝えた。 「そんなのもし本人が酔ってないって言ってても、実際酔ってたかもしれないし、おれの行為が望まれないとしてもなんで望まないか聞く権利くらいあるよ」 『この酔っ払いが……』カオルは心の中で頭を抱えた。完全に酔っ払いの理屈である。この分だとさっきナナと話したことを説明しようとしてもまともに聞いてくれないだろう。 だが、一理あると思うのはカオルの考え方がおかしいのだろうか。 ナナは独りを望んでいるのは確かなことなのか、彼女の立場になって考える。私はアイツに振られたとき一人になった。でも、ヘイタがいるから一人じゃなくなった。誰かがいる、それはつらいことだったか。むしろ心地よかったのではないか。では、どうしてナナは独りになりたがるのか。 もしも自分がナナなら――ナナに何があったかはわからないけれど――どう思うだろうか。それは何通りでも答えが出せる、できの悪い試験問題のようなものだ。得た答えは自分だけしか納得させられないかもしれない。常識的に間違っているかもしれない。だが、自分のなかではそれが正解だと思うのだ。他人はとりあえず関係ない。それをそのまま解答欄に書いてみるしかない。 「ヘイタ!いいよ、ここでおとなしく寝てて、わたしが探しに行く」 カオルはヘイタを押しのけると、アパートを飛び出した。ナナの行き先は心当たりがあった。
公園のベンチに寝転がり、する事もないのでなんとなく夜空を見上げる。高層ビルに切り取られた夜空、それでも星は綺麗だ。シイナ・ナナになって何度空を見上げただろうか。 まだ春だというのにとても寒い、冬空よりも寒い気がする。 「!」 それはいきなりだった。ナナの腹部、みぞおちの辺りに衝撃が走った。 何事かと思い見てみれば、昼間の子猫がナナのおなかの上で『なにやってんだよう』とでもいいたそうに座っていた。ボーっとしている間に飛び乗ってきたらしい。 ナナは「やぁ」と一声かけると、再び夜空を見上げる。子猫はナナの体温が心地いいのか、腹部の上で丸くなり、額をこすりつけてナナに甘えている。 「あったかい……」 子猫ののどを撫でてやりながらそう感じた。その暖かさを確かめたくて、子猫の背中を抱く。自然とまぶたが閉じていった。そのまま眠ってしまいそうだった。 …… どのくらいそうしていただろうか、あるいは眠ってしまったのかもしれない。不意に頬に暖かいものを感じた。なんだろうと薄目を開けると、カオルが立っている。頬のぬくもりはホットのミルクティーだった。カオルは昼間の別れ際のようにスッキリとした笑顔を湛えていた。 ナナはその笑顔が多少癇に障ったが、いつもの笑顔を貼り付けると、「ありがとうございます」と礼を言い、ミルクティーを受け取った。だが、受け取っただけで、起き上がりもせず、プルタブを開けもしなかった。 カオルはナナの隣に座ると自分の分のホットココアを開けた。一口飲む。 「あ、ミルクティーは嫌いだった?」 「何か御用でしょうか?一応、分かれるときに一応の感情を伝えたつもりなんですけど」 ナナはカオルの顔ではなく、夜空を眺めながら言った。 「ん、あなたは別れたつもりでも、こっちはそうじゃないから」 「自分勝手な理屈ですね」 「あなたもね」 カオルはニヤリと笑った。ナナも同じように笑った。 「言われてみれば、確かにそうですね。自分勝手なのは私のほうです」 「でも、実際にこっちも自分勝手行動してるって自覚はあるから別にそのことを攻めようっていうのじゃないよ。人間ってやっぱり自分勝手なものだし」 カオルはそこで一旦言葉を切り、少し表情を引き締めた。 「ただ、勝手をやるならやるなりに説明をして欲しいの。例えば、なんでいきなり出て行こうとするの?とか、結局あなたは何をしているの?とか、記憶喪失っていうのもたぶん、ウソなんでしょ?失踪する時によく使われる上等手段だもの」 「やっぱりわかりますか?」 「そんなのを黙って信じるなんてヘイタくらいだよ」 ナナはしばらく考えた末、渋々と「しょうがないですね」と夜空に向かって独白するように語り始めた。
「ホント、つまんなくて、どうでもよくて、恥ずかしい話なんですけどね……どこから話しましょうか――バカみたいな話なんですよ、実際。付き合ってた人と別れて、その過程に疲れた。それだけの事なんですよ」 ナナは一度言葉を切り、カオルの方を向いた。 「私、いくつくらいに見えますか?」 「何?唐突だね」 身の上話とはぜんぜん関係の無い話である。が、「いいから答えて」と促すナナにカオルは「中学生くらいかな」と答えた。 「そうですよね、それくらいですよね」 「それがどうしたの」 「私、本当はハタチ超えてるんですよ」 カオルにとってその話はにわかには信じがたかった。どこからどう見ても、中学生にはみえない。低い身長、起伏が無く、丸みの無い、少年の体つき。下手をすると小学生にでも間違われそうだ。 「冗談でしょ?」 「それが、ホントなんです、なんなら高校数学でも解いて見せましょうか?」 ナナの言葉は冗談めかしたものだったが、そこまで言うのだから本当の事なのだろう。 「医者は原因不明のホルモンバランスの異常って言ってました。うまく女性ホルモンが生成されなくて性徴が中途半端になってしまった、ということらしいです。まぁ、原因は不明って話ですけど、環境ホルモンとかありますから、別に不思議なことじゃないんでしょうね」 カオルはナナの告白を黙って聞いている。「外見だけなら童顔のちょっと行き過ぎたものだと思えばいいんですけど、私、そのせいで子供できないんです。私は生物として出来損ないの欠陥品なんですよ」 ナナは子猫を悲しそうに、愛しそうに抱いている。虚勢された子猫を。 「私がそれを知ったのは好きだった人に告白して、進展している真っ最中でした。私は彼のことが本当に好きでした。だから、出来損ないの私のために彼の人生を狂わせたくなかった。だから、失踪届けを書き、記憶も過去も人格も捨てて私はナナになりました」 ナナはまるで人事のようにとつとつと語る。それは完全に想いを取り去った結果なのか、それとも未だ想いを引きずっているのか。 「でも、捨て切れなかったんですよ。ヘイタさんの所に居候してるうちに、その生活を続けたい自分に気づいたんです」 カオルは、思わず心の中での中で思わず苦笑した。カオルも捨てたつもりで捨てきれていないものがあった。昔の男に振られた時、「もう二度と男と付き合うものか」と思ったが、ヘイタと恋人に近いやりとりをしている。 矛盾だ。男とは決別した自分、でもヘイタに少なからず惹かれている自分。ナナもカオルと同じパラドックスを抱えている。 カオルのパラドックスはまだ解消されていない。だが…… 「ホント全部捨てたつもりだったのに、頭悪いです、私」 ナナは子猫を抱き、ベンチの上にうずくまる。子猫は気持ちよく寝てたところをナナの都合で起こされたことで多少気分を害したようだが、おとなしくナナに抱かれている。 ナナの話はそこで途切れた、一通り話しは終わった。間の悪い沈黙が二人と一匹に流れる……かと思われたが 「ホント、バカだよ」 「え!?」 「わたしも、君もね」 馬鹿呼ばわりされたナナは、いきなりすぎて怒りよりも、困惑のほうが大きいような表情をした。 「自分で勝手に考えて、自分で勝手に矛盾抱えて、勝手に苦しんでる。そんなに自傷自縛が好きなのかな」 カオルは笑っていた。その笑いは自分自身を笑うものだろうか。 「その子猫、去勢されてるらしいけどさ、人とか猫と付き合うときに子供できるできないとか、できそこないとかって考えてると思う?」 子猫は相変わらず、ナナに抱かれて能天気に眠っている。その眠りは安らかだった。 「そんな事、考えたって状況は変わらないじゃない。だったら、考えないで能天気にやったほうが得だよ」 カオルはそう言いながら、ヘイタのことを思い出した。受験に落ちても能天気に笑っていたヘイタ。その能天気さが腹立たしく、いらだったものだが、今は、少し、ほんの少しだけ、かっこよく見える。 「そんな矛盾とかなんだの考えてないで、ヘイタがいいならヘイタにくっついていればいいのよ、そっちのほうが自分にとっていいのならね。わたしはこれからそうするよ、だってそれが自分の望みだもん、自分の気持ちにウソはつかない、後悔はしたくないから」 「くだらないですよ、そんなの」 ナナの表情は暗闇でわからなかったし、声のトーンは変わらないものだったが、その台詞はカオルに対しての明らかな批判の情を表していた。 「自分の考え押し付けるだけ押し付けて、自分に酔って気持ちよくならないでください。そんなの大きなお世話ってやつです。それに年下のクセにえらそうなこと言わないでください。自分の過ごした年月が無駄になってるみたいでムカツキます」 ナナはうつむいていた顔をゆっくりとあげる。その表情は笑いながら怒っているという器用な表情だった。 「もう頭にきました。潰します。完全に跡形残らず、再起不能になるまで」 ナナはそう言って、立ち上がり、子猫を地面に放した。 ホントはナナ自身、気づいていたのかもしれない。ただ、きっかけが無かったとか、自分の気持ちがわからなくて困惑していただけかもしれない。でも、それはあくまで「かもしれない」話だ。本当の事はわからない。だったら、今、自分でやりたいと思った事をやろう。たぶん、それが、今の自分の中での真実だから。 「ヘイタさんのところで、ガチンコで、朝まで飲みましょう」 カオルはフンと鼻を鳴らし、「望むところよ」とはき捨てた。
やたらと太陽がまぶしく、部屋が暖かい。もう昼を回っているのだろうか。 「頭痛い、だれですか?こんなになるまで飲もうっていった人」 ヘイタのアパート、ちゃぶ台は天板がみえない。ブランデー、リキュール、日本酒、まさにカオスだ。 「アンタでしょ!ああ、自分の声が頭に響く……」 床にヘイタ、カオル、ナナが絡まって転がっていた。三人ともうめき声を発し、まるでゾンビのようにはいずりまわっている。 頭痛と吐き気にナナは地獄のような苦しみを感じる。そのくせ、唇は笑みの形に歪んでいた。
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