五月の暖かい日差しが、校舎の窓から差し込んでいる。ヘイタは後ろの窓際席で、頬杖をつきながら講師が熱心に授業を続けるのを眺めていた。 ヘイタの通う予備校は業界では大手で、全国に展開されている。実家から通えるところにも校舎はあったのだが、実家の近くにあるやつはサテライト予備校というやつで、講師が直接授業を行うのではなく、講師の授業を撮影し、ビデオに録画し、それを各々で観る、という形態のものだ。ヘイタ自身はべつにサテライトでもいいと思った。それどころか、自宅浪人でいいとさえ思っていたし、今も思っている。また、勉強は一人でするものだと考え方である、人に教えられるよりも、自分で調べたほうが覚えられるからだ。実際に去年だって、同じような勉強の仕方で勉強して、合格できるくらいの学力はあったのだ。ほんの少し、本番で失敗しないだけの「運」がたりなかっただけだ。ヘイタはそう考えている。 だが、ヘイタの父母はそんな考え方が気に入らなかったらしく、本番で失敗したのはあくまでヘイタの勉強の仕方が悪かったと主張し、それを叩き直すために、わざわざ、こんな遠くの校舎に入学させたのだ。 金をかけて浪人している身でこんなことを言うのもなんだが、もっとのんびり構えてもいいと思う。去年受けた模擬テスト――もちろん、十分なデータをとり、合否判定がかなり正確にでるものだ――が、「学力は十分ですよ」と言ってるんだから、気を張って、必死に勉強することもないだろう。 『でも、こういうふうな考え方してると、カオルあたりは怒るんだろうな〜』 講師に気づかれないように、あくびを一つかみ殺し、一応、ノートだけとっておく。周りの連中も自分と似たり寄ったりで、半分夢の中だ。無理もない、こんな気持ちのいい日にまじめに授業受けるなんてバカバカしい。 ちらりと時計を見てみる。まだ四十五分しかたってない。予備校は一時間半で一コマだから、あと半分も残っている。なんで授業を受けているとこんなにも時間の進みが遅いのだろう。 ふと、なりゆきで同居することになった少女――ナナ――のことを考える。 授業の有無に関わらず、ヘイタの帰宅は遅く、十時ごろになってしまう。親から学費だけしかもらっていないため、アルバイトをして生活費を稼がなければならないからだ。 ナナはヘイタが帰宅とほぼ同時刻にヘイタのアパートにやってくる、たまに、遅くなることはあっても、外で待っていることはない。その後、夕食を一緒に食べる。一緒にといっても、ナナがヘイタの分をちょっともらう、という感じだ。外見どおり、ナナは小食だった。 そのあとは、ヘイタは勉強し、ナナは適当に時間をつぶす。朝も一緒に朝食をとり、同じ時間に家を出る。 はっきり言って疑問だらけである。普通、記憶が無ければ、いろいろと悲嘆するだろうに、そんなそぶりはかけらも見せないし、隠してるというふうにもみえない。それに、朝から、自分が帰宅するまでいったい何をしているのだろう。記憶が無いのだから、どこの学校に通っていたかなど覚えていないだろうし、下手にどこかを遊び歩いていれば、補導員に見つかり、いろいろと面倒なことになってしまうだろう。それに、あの警戒心の無さは、大問題だと思う。 以前は、公共施設で寝ていたというし、一人暮らしの男の部屋に平然と泊まる、それどころか、ベッドを譲るというヘイタに対し、居候の身で申し訳ないから、といってナナは床に寝るのだが、朝起きると、ヘイタの布団で寝ていることもある。理由を聞けば「寒いから」と答えたが、あれが、中学生の娘のすることだろうか。 警戒心とか、猜疑心とかそういうものが根本的に欠如しているのか、それとも、よっぽど信用されているのか、はたまた、へイタに自分を襲うなどできるはず無い。とタカをくくっているのか……。どれが正解だとしても、いくらなんでも無防備すぎだと思う。ひょっとして誘っているのだろうか……。 「オラ、そこ!まじめにやれ!そんなだから去年落ちたんだろうが!」 ヘイタが声に驚き、顔をあげると講師が自分にチョークを向け、怒鳴っていた。少しばかり考え事に夢中になりすぎてしまったようだ。
「よっ」 ヘイタが今日の授業を受け終え、予備校のロビーに下りていくと、カオルが談話用のテーブルで待っていた。ヘイタの通う予備校では二階から授業に使う教室となっており、一回は受付と、ちょっとした休憩、談話ができるように飲み物の自販機とイスとテーブルが置いてある。 ヘイタがカオルの隣に座ると、カオルはもっていた缶コーヒーを差し出した。 「この間はごめんね。また送ってもらったみたいでさ」 「いや、別にいいよ。飲みに誘われた時点で、こうなるだろうな〜とか思ってたし」 「なにそれ、まるでアタシがいつももつぶれてるみたいじゃないの」 「違うの?」 「まぁ、まるっきり否定できるわけじゃないけど…」 心外な、という感じで言ったカオルだったが、ヘイタに軽く切り返される。 実際、ヘイタの言っていることが正しい。少なくてもヘイタと二人で飲みにいくときは、完全につぶれているか、そうじゃなくても、ヘイタが送っていかなければならないほどの千鳥足である。 「もしかして、ヘイタ怒ってる?」 「いや、全然。いつものことだから。怒っても無駄だからあきれてただけ」 ……なんだかんだ言って、結構怒っているようだ。 「まぁまぁ、お詫びはちゃんとするから…」 「もしかして缶コーヒーがお詫びとか言わないよね?」 「う…」 さては図星らしい。 会話だけを聞いていると、ヘイタが容赦のない攻めを展開してるようだが、飲んだときのカオルを考えれば、ちょっと仕返ししてやりたいな、というヘイタの心情もわからないものでもないだろう。 何を言っても取り付く島のもたないヘイタだったが、段々しぼんでいくカオルをみて、今回もゆるしてやろうという気になる。もっとも、それもいつものことである。 「ホントに反省してる?」 「もちろんです、ヘイタ様」 「男はみんな狼って知ってる?」 ヘイタはカオルが自分に手間をかけさせたことを起こっているわけではなく、男の前で無防備によいつぶれたことに対して怒っている。 ヘイタは予備校生は二種類に大別されると思う。まじめに勉強して、獣医学科とか、医学科を目指すものと、大学にこぼれ、いくところがなく、半ばフリーターのように予備校に来ているものだ。後者の話しているのを聞いていると(別にヘイタが盗み聞きしているわけではなく、やたらとでかい声で話しているため、嫌でも耳に入ってくるのだ)そういう「武勇伝」も多く、具体的な経験談まで話している。 「はいはい、酔いつぶれて、朝起きたら、裸で隣に知らない男が寝てた、ってやつでしょ、耳にタコできてるって」 そう言うには言うが、カオルは実際に気をつけようとは思わない。そういう考えは古臭いと思うからだ。大体、ヘイタにそんなことできるはずない。だが、ヘイタがうるさいので、一応分かっている振りをする。 「うむ、わかればよろしい」 「なんか、歳同じはずなのに、年下扱いしてない?」 「いや、別に、ただ心配なだけ。それとも、カオルは周りの人がどうなってもいいと思う?」 「たしかに、そうは思わないけど、ちょっと行きすぎかなって。ヘイタの場合、オレオレ詐欺とか、ツツモタセっていうの?そういうのにすぐ引っかかりそう」 「おれってそんなに騙されやすそう?」 「うん、すっごく」 「そうかなぁ」 「オレオレ詐欺みたいに何百万とかは損してないとおもうけど、ちょっとした面倒は押し付けられてると思うよ」 「うーん、面倒、ねぇ」 ヘイタはナナについて思い出した。自称記憶喪失の少女がいきなり居候、出来すぎた話だ。さすがのヘイタもウソ臭さを感じている。だが、本人がそういうのなら、信用してあげなければ、とも思う。でも、自分の事ながら、甘すぎるかな、という思いもある。 「話はちょっと変わる、…変わらない、かもしれないけどさ」 「なによ、その奥歯にモノが挟まったような言い方は」 「仮にさ、飲んだ朝、目が覚めたら部屋に知らない女の子がいて、酔った自分を部屋に運んでくれた子で、運んだ労働に見合うお礼を要求されて、お金が無いっていったら、今晩泊めてくれって言われたらどうする?」 「なぁによ、それ?向こうが勝手にやったことでしょう?そんなの払う必要ないって」 「でも、『運んでもらったんだから、お礼しないと悪いよなぁ』って気にならない?」 「絶対ならない、大体そんなの怪しすぎるよ。知らない人でしょう?余計なお世話って感じだって。じゃ、ヘイタは知らない人が隣に寝ていても平気なの?」 「だって、しょうがないじゃん、お金ないんだから」 「まるで、実際にそういうことがあったみたいな口ぶり……、この間飲んだ帰り?」 「違うって、あくまでも仮の話」 ヘイタはよくも悪くも正直な人間だ、人に嘘はつけない。カオルのように付き合いの長い人間はなおさらだ。もともと上手な嘘のつき方ではないし、ヘイタの顔にも嘘だと書いてある。 「…それで、家に泊めたの?」 「だから、仮の話だって」 ヘイタは、言い訳をする、が、無駄な努力だ。ますます、嘘くさく、白々しくなるだけだ。 カオルの顔が険しくなる。まるで、浮気を発見した恋人のように。 「あんたバカじゃないの!?泥棒をかこってどうすんの?今に通帳と印鑑盗まれて取り返しがつかなくなるよ!」 「だったら、家につれてこないですぐに財布だけとっていくはずでしょ、それに記憶喪失らしいんだ」 「記憶喪失ぅ!?そんなの嘘に決まってるじゃん」 「でも、ホントに記憶喪失だったら、ホントに困ってるはずだし…」 「だったら、警察にでもいけばいいじゃない」 「誰だって、警察の世話にはなりたくないだろう?」 「だからって……、それに、女の子でしょう?あんた、ロリコンなの!?」 「だって、向こうが泊めてくれっていってきたんだし……」 「そんなこといって、実際はアンタが泊めるっていったんじゃないの!?巣に持ち帰ったところで手を出すチャンスを狙ってるんでしょ!」 「だから違うって……」 「嘘つかないでよ!このケダモノ!」 「いい加減にしてくれ!!」 ヘイタがついに声を荒げた。呆然とするカオル。たぶん、なじみのカオルにさえ初めてだ、ヘイタがここまで声を荒げるのは。 きまずい沈黙……。 「…ごめん…」 先に謝ったのはヘイタだった。カオルの呆然とした表情が段々と泣きそうな表情になっていくのをすまなく思った。 「……こっちこそごめん、あたし、ちょっと言い過ぎた……」 カオルは顔を伏せ、そう言った。ヘイタからは前髪に隠れているが、泣いているのかもしれない。 再び、気まずい沈黙…… 「……悪いけど……おれ……バイト、あるから……」 「そう……」 どれだけ時間がたっただろうか、たぶん、長く感じられるが、一分もたっていないだろう。 ヘイタが選んだのはとりあえずこの気まずい時間を終わらせてしまう事だった。
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