「ご馳走様でした」 六畳間の真ん中に置かれたテーブル――というよりちゃぶ台だろう――の上には空のカレー皿が二枚、仲良く置かれていた。 「ヘイタさんはカレーも上手ですね」 「いやいや、カレーなんて誰が作っても同じだよ」 ヘイタはそう言って笑いながらカレー皿を重ねると、それを持って台所に向かう。 洗面器に水を張ってつけておく、ということはせず、水で軽く流し、スポンジに洗剤をたらして洗い始める。 「へぇ、『つけておいて、まとめて洗う』とかやらないんですか」 「ん〜、やっぱり、使ったあとすぐ洗ったほうがよく落ちるしね」 洗剤の泡を水で流し、表面を指でさわる。キュッという音がするのを確認し、布巾で拭いて、食器棚に片付ける。 「結構マメなんですね」 横目で見ていたナナが感心したように言った。ヘイタが声のしたほうをみると「親が死んでも食休み」とばかり堂々と大の字になっていた。本当に図太い少女である。 「私、一人暮らしの男性って、まず、散らかっている部屋と、たまっている洗い物を想像してました」 六畳間は小ぎれいに片付けてある。そうでなくてはいくら体が小さいとは言え、ナナが大の字になるスペースは無いだろう。 「ま、そういうものかもね。おれも始めそうだったんだけど、いろいろあってさ」 「いろいろって?」 「いろいろっていうのは、まぁ、いろいろだよ」 ヘイタはそう言って苦笑する。 「ごめんなさい、ちょっと気になったものですから…」 なんとなく、聞いてはいけないことを聞いた気がして、ナナは申し訳なさそうに言った。 「いやいや、全然、そんなモンじゃないんだけど、説明するのはちょっと恥ずかしくて、ね」 「うーん、そういう言い方されると聞きたくなりますね〜、ま、いいです。今日は聞かないで置きます」 ナナはそう言って意味ありげに微笑した。 「あ、ところで、シャワー使わせてもらって良いですか?」 カレーの鍋を洗っていたヘイタの手が一瞬止まる。 「い、いいけどさ……」 さすがに思わずしどろもどろになるヘイタ。 「何か?」 「もうちょっと自重するっていうか…、おれ、一応男だし、外で入ってきたら?入浴料くらいだせるしさ」 「あ、私、そういう気にしませんから大丈夫ですよ〜、んじゃ、お先に失礼しますね」 そう言うとスタスタとヘイタの後ろをすり抜け、バスルームへ入ってしまった。なかから衣擦れの音も聞こえる。ホントに脱いでいるようだ。 「おいおい……、おれは一応男だぞ……」 ヘイタはそう呆然とつぶやいた。その時―― 「ガラッ!」 不意にバスルームの扉が開き、下着姿のナナが顔を覗かせた。一応危ないところは隠れているが、華奢な鎖骨や首筋などが見え、ヘイタはドキリとさせられた。 「ちょっとお願いなんですけど」 「な、何?」 「よかったら着替え貸してもらえませんか?この機会に着てた服洗いたいんで」 「わ、わかった、適当にその辺に置いとくから、そういう際どい姿をみせるな!一応おれだって男だぞ」 「『一応』ってところに悲しいものを感じますね〜、じゃ、お願いします」 あわてるヘイタをどこ吹く風と、ナナは平然と扉を閉めた。 「ったく、おれってなんでこんなに男扱いされないんだ?」 カオルのことも思い出し憮然と一人愚痴る。 「何か言いました?」 「い〜や、別に〜」 『もう知るもんか、どうにでもなれ』ヘイタは心の中で投げやりにつぶやいた。
寝つきがよさそうな服を適当にタンスから選び、バスタオルと一緒にバスルームの前に置き、バスルームと六畳間のドア――防寒などのためいくら狭くてもドアがついている――を閉めた。あの少女のことだ、バスルームから手を伸ばして服を着るなんてことはせず、裸のまま外に出てくるに違いない。こうしておけば、裸を見ないですむ。 ヘイタは六畳間に戻り、ベッドに寝転がるとなんとなくテレビをつけた。ドラマが移った、よくあるラブコメ物が映った。自然と、ため息が漏れた。 記憶喪失の少女がいきなり男の前に現れる。まるっきりフィクションだ。小説ではよくある手だが、まさか自分の身にそんなことが起こるとは考えたことはない。まったく、笑えたものじゃない。 そもそも、あの少女は普通の女の子ではないだろうと思う。もっとも、普通という定義をヘイタは完全に理解しているわけではないが、それにしたっておかしいところが多すぎる。自分の裸に対して無頓着過ぎるし、警察に行かないのもおかしい。普通、記憶を失くしたら警察にでも行って捜索願でも出てないか確かめてみるのが普通だろう。なのに、警察は嫌いだと言い、それをしない。 警察を避ける、ということは何かやましいことがあるのか、元の生活に戻りたくないのか……。 ヘイタはそこまで考えたところでやめた。そんなことを考えても無意味だからだ。別にやましいことをしてようが、どこぞの家出娘で捜索願が出てようが、それはナナ個人の問題である。自分が考えるべき問題ではない、と思うからだ。とりあえず、考えるべきなのは…… 「お風呂、空きましたよ」 風呂あがりのナナがリビングに入ってきた。 さっきヘイタが出しておいた服を着ている、ヘイタのものなので当然サイズはかなり大きめで袖口は何回もまくりあげられてその隙間が幼い魅力を感じさせる。また、「U」の字の胸元から片肩が丸々露出していて、華奢な鎖骨とノーブラの膨らみが見え隠れするのも理性にとって危険だ。思わず数秒視線を固定してしまう。 「どうかしました?」 「い、いや、なんでもない」 そう言ってヘイタは無理やり視線を引き剥がした。つくづく、この少女は無防備過ぎると思う。 少女は、ヘイタの隣にチョコンと座り、テレビのリモコンを手に取った。 「テレビ、観てますか?」 どうやら、チャンネルを変えたいらしい。 「いや、観てないから、適当に観たいの観てよ、おれ、シャワー浴びるし」 「いえ、観たいのがあるってわけじゃないんですけど、こういう安直な展開の恋愛ドラマって大嫌いなんで」 そういう、ナナの表情をふと見ると、親の仇を見るかのように歪んでいた。嫌いというより、憎しみに近い感情を持っているのかも知れない。 ヘイタが自分の顔を見つめているのに気づいたナナは、あわてたようにいつもの表情を貼り付ける。 「ゴメン、観てたわけじゃないんだけど、テレビつけるのがクセみたいになってるから……」 「あ、いえ、こちらのほうが『すいません』です、私、好意で泊めていただくのにわがまま言っちゃって」 ナナはすまなそうに、しかし、笑いながら言った。それは一瞬見せた表情を誤魔化すように見えた。 ヘイタも誤魔化すように曖昧に笑うと、着替えを持ってバスルームに入った。
いつもはカラスの行水のヘイタだが、今日はゆっくりと湯につかる。少し落ちつきたいと思ったからだ。 いろいろあって疲れた。なんというか、一人増えただけでこんなにも疲れる――充実すると言い換えても良いかもしれない――するものだろうか。テレビのチャンネルについてのやりとりにしても、二ヶ月前まで、実家で家族とやっていたのに、ずいぶんと忘れていた気がする。 体の芯まで温まるまで湯船に浸かる。バスルームの中で体を拭き、その場で服を着る。いつもは湿気でぬれるので裸のまま外にでて着替えるのだが、今日はナナがいるのでそんなことはしない。 バスルームを出るとナナは床にうずくまるように眠っていた。ナナもいろいろあって疲れたのだろうし、いつもはどこで眠っているのか知らないが、室内に比べて安心できるところではないだろう。 ナナに毛布をかけてやろうとベッドの前まで行き、思いとどまる。記憶喪失の少女が受けた苦労を想像する。ヘイタに野宿の経験は無いが、難儀なものだということくらいはわかる。こういう時くらい、ベッドをゆずろう。 ナナに近寄った。よく寝ている、起こすのはしのび無い。さて、どうやってベッドに連れて行こうか……。 鼻の頭をかき、視線をそわそわと動かした後、頭の中で言い訳と気合をこめてナナを抱き上げてベッドまで連れて行き、寝かせて布団をかけた。その後、ヘイタはトレーナーを一枚重ね着し、床にゴロリと寝転がった。寒いかな、と思ったが、結構暖かかった。
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