「今回、問題となった環境ホルモンというのは、生命が自分自身で分泌するホルモンのかわりに、受容体と結合し……」 頭イタイ……、体ダルイ……、典型的な二日酔いだ……。 「体内のホルモンバランスを乱すことで……」 テレビのニュース番組か……、また、テレビつけっぱなしで寝ちゃったか…。我ながら飲みすぎた、あれからどうしたっけなぁ…、テレビなんかつけたかなぁ…。電気代かさむなぁ、消さなきゃ…。 ヘイタはゆっくり眼を開けた。日差しが眼にしみる、日は既にだいぶ高いようだ。昨日は遅くまで飲んでいたから、下手をするともう正午をまわっているかもしれない。 続いて、のそのそと体を起こし辺りを見回す。 どうやって買って来たかはよく覚えていないが、確かに自分の部屋だ。 ふと、自分の部屋なのに見慣れないものが眼に入った。女の子だ。 長袖のTシャツに、ジーパンを穿いている。両方とも、サイズがまるであっていない、もう一人分くらい入りそうなほどブカブカだ。髪は後ろで一つにまとめていて、腰まで届くほど長い、たぶん、中学生くらいだろう。見知らぬ女の子がヘイタの部屋で座ってテレビを見ている? ヘイタの視線に気がつき、少女がふりかえった。 「あ、おはよ〜」 間の抜けた沈黙。 「君……だれ……?」 もう一回沈黙……。 「ひどいっ!」 突然、少女は顔を覆い泣き崩れた。 「……はい?」 『何が!?どうして!?どのように!?』 「通りすがりの私にいきなりからんできて、無理やりここに連れ込んで……」 「ホワット!?」 「社長の息子だからお金はいくらでもあるって…、みんなやってることだって…」 『おれは酔った勢いでなんつーことを…』ヘイタはたぶん人生で最大の後悔をした。でも、待てよ…、たとえ酔っていたとしても、おれにそんな根性あるわけないし、今、ちゃんと服着てるし……、と考え直す。 「嘘……だよね?っていうか嘘でしょ」 「あはは、ばれた?」 先ほどまでの悲壮な雰囲気はどこへいったのやら、少女は、悪びれもせず、舌をぺロリと出した。
昨日は思い返せば悪夢の夜だった。 目の前にビール、そして隣には酔っ払い……。 「おら、手が止まってんじゃんよ〜、ほらほら〜ジョッキもって、ぐいっといきな〜、あ、すいませ〜ん、ビールもう一本追加〜」 酔いがまわってフラフラな手が、無理やりヘイタにジョッキを握らせる。 「いや、おれは明日の授業が…」 「あん?やかましい!アタシだって講義くらいあるよぉ、アタシに飲ませて自分だけシラフで居ようったってそうはいかないってぇの」 「なにが飲ませてだよ、自分で引っ張ってきて、そっちが飲ませてるのにさ〜、この酔っ払いが……」 横から腕が伸び、ヘイタの首に巻きついた。 「アタシは酔ってない!全然シラフよぉ?シ、ラ、フ!」 腕に力がこもる。片手で頭をロックすることも忘れない。酔っ払っているせいか普段からそうなのか、かなり本気で絞めているようだ。 「ギブ!ギブアップ!わーかった、わかったから!飲むよ、飲みます!」 「ん、わかればよろしい」 隣にいる酔っ払い――カオルはヘイタの幼馴染だった。 「大体、アンタなんで落ちんのよ〜、成績そのものはアンタの方がよかったのにさ〜」 今年の春、同じ大学を受験したのだが、カオルは無事に現役合格を果たしたのに対し、ヘイタは滑ってしまい、同市内で浪人生活だった。 「そりゃ、俺も正直言っておかしいと思うし、納得できないけどさ、落ちちゃったものは仕方ないじゃん、考えてもしょうがないって」 「はぁ?そういう考え方だから落ちんのよ。落ちたら自殺考えるくらいなノリでキリキリ勉強しろってぇの」 「いや、ノリで自殺するのもどうかな、と思うのですが…」 「四の五のゆーなっての、とにかく、あたし、二年も待つのは嫌だからね、今年は絶対合格しなさいよ」 「いや、そういうことなら、飲みなんて誘わないで勉強させて欲しいのですけど…」 「ん〜、今度はお花畑まで行きたいの〜、それともその先までいってみる〜」 カオルの腕が再びヘイタの首筋に巻きついた。しかも、今度は容赦なく動脈を圧迫している。カオルの目は完全にすわり、冗談抜きに、そのまま絞め落としてしまいそうな雰囲気で力を込める。 「ちょっ、すいません、ごめんなさい!なんでもないです!」 「あん?ごめんですんだら警察は要らないって言葉知ってる?ま、いいわ。イッキ一回で許してあげる――すみませ〜ん、ビール、大ジョッキ二つおねがいしま〜す!」 「もうやめようって言ってるのに…」 ヘイタはビールが苦手だ。第一に苦いし、ネットリしている泡も嫌いだ。ゲップをしたとき、出なくていいもの、内容物まで出てしまいそうになる。 「お待たせしました。大ジョッキ二つになります」 店員がバケツのようなジョッキになみなみと注がれたビールを持ってきた。それはヘイタには黄金色の悪魔に見えた。 ヘイタはカオルの方を見た。すでに、ジョッキを持って構えている、もうどうしようもない。いつもこれで後悔しているが、わかっていてもパターンにはまってしまう。 「んじゃ、かんぱぁ〜い」 ジョッキが音をたててぶつけられ、各々の口に運ばれる。 カオルは文字通り、一息にジョッキを開けたが、ヘイタは苦味と臭いに顔をしかめながら四苦八苦する。見ているのが切なくなるほど苦しそうだ。それでもなんとか飲み干す。 不意に視界がグラリと揺れた。眼を開くのがつらい。ヘイタは、そんなに酒に弱いほうではないが、さすがにバケツのようなジョッキをイッキ飲みすればそうなるのは当然だ。 「ヘータぁ。なに酔った真似してんのよ〜」 ヘイタは揺れる視界でカオルをみた。ジョッキを持ったまま机に突っ伏している。危険な体制だ。 「…へぇたぁ〜…」 そういい残し、彼女は夢の世界へ旅立ってしまった。 「おい、カオル!起きろって……」 呼びかけてもまるで屍のように反応が無い。完全にノックアウトされてしまったようだ。 「…だから言ったのに…」 ヘイタはこれからやらなければならない、カオルを家まで送り届けるという重労働を想い、深いため息をついた。
「どっせ〜い」 ようやくカオルのアパートに着いたヘイタは、肩を貸していたカオルを玄関に座らせた。カオルは未だに夢の世界から帰ってこない。 「カオル、起きろ〜」 「んあ〜」 カオルは、起きてるんだか、寝てるんだか、よくわからないような声で返事をした。――全く……。 「おれはぁ!かえるからぁ!鍵ぃ!しめろよぉ!」 「ん〜、わかった〜」 耳元でそうどなって、カオルのアパートをでた。外に出ると、重労働でかいた汗が冷えて寒かった。もう四月も終盤を過ぎるが、夜はまだ冷える。 カチリと鍵が閉まる音が鳴ったのを確認してから、自分のアパートへ向かって歩き出した。 今日のようなことは一度や二度ではなかった。というか、カオルと飲むときは大体このパターンである。週末になるといきなり飲みに誘われ、こっちの都合も関係なしに連れて行かれる。そして、ヘイタが浪人したことへの文句だの、性格に関する文句だのを散々聞かされたあげくに、勝手につぶれてしまうのだ。こっちの都合も考えて欲しいものだ、と思う。 「っていうか、なんで浪人した自分が文句いわれなきゃいけないんだよ〜、性格にしたって、そういう性格なんだからしょうがないじゃんかよ〜」 そうぼやいてみる。けれど、カオルと一緒に遊ぶのもいいな、と思ってノコノコとついていってしまう自分が情けない。性格はどうか知らないが、黙っていれば結構可愛いし、プロポーションもいい。誘われたらついていきたくなるのも当然だろうと思う。 「どうでもいいけど、疲れたな〜」 適当に休める公園に向かい、ちょっと休んでいくつもりでベンチに腰を下ろした。多少肌寒いが、酒が入っているせいか、あまり気にならない。体が重かった、座っていたのが段々と重力にひかれ、ベンチに横になる。ヘイタにこのまま夜を明かすつもりはなかったが、こういう場合、一度横になったら後は不可抗力である。睡魔が誘うまま、夢の世界に墜ちていった。
「おきてくださーい、こんなトコで寝ないでくださいよー」 ヘイタは、自分に対して向けられたであろう声を聞き、ぼんやりと眼を開けた。少女が顔を覗き込んでいるのが見える。 「よかった〜、何度呼びかけても起きないから、死んじゃってるかと思いましたよぉ」 少女は、夜の公園には不似合いな能天気に明るい声で言った。 「ん〜、あ〜、起こしてくれたん?ありがとう〜」 「いえいえ〜、目の前で凍死とかされると寝覚めが悪いんで起こしただけですよ〜」 何気に酷いことを言う少女である。 「結構笑えない冗談だね〜、じゃ、おやすみ〜」 頑張って起こしてくれた少女の厚意を受け流し、ヘイタは再び寝息をたて始めた。完全に泥酔モードだ。 「ちょっと、ちょっと、せっかく起こしたのに寝ないでください!っていうか、寝るなー!」 少女は耳元で叫んだり、頬をつねったりといろいろしてみるが、ヘイタはうめき声をあげるばかりで、一向に起きる気配はない。 「ったく…、しょうがないな〜」 少女は夜の公園に一人ぼやいた。
「で、そのままほっぽっとくわけにいかないから、住所とかわかるものないかな〜とか思って、手荷物あさったら、電気代の請求書が入ってて、ちょうどここの住所が書いてあったから、頑張って引きずってきたんです」 「あ〜、なんか言われてみれば、そんなこともあったような気がするなぁ。あまりよく覚えてないけど」 ヘイタは台所で卵焼きをひっくり返しながら言った。手首のスナップを上手く使い、なかなか手馴れた手つきだ。 浪人中のヘイタがそんなに高い部屋を借りられるはずもなく、六畳一間の安っぽい部屋だ。それでも一応料理のできるスペースはあった。 「これからは飲みすぎには気をつけたほうがいいですよ?凍死したくなければ」 「しょうがないだろ、飲んだんじゃなくて無理やり飲まされたんだから……、よし、できたっと……」 ヘイタが台所からリビング兼寝室に戻ってきた。お盆に二人分の朝食が載っている。献立は炊きたてご飯、卵焼き、味噌汁である。 「あ、わたしの分も?」 「うん、死の淵から救ってもらったお礼にはささやかなものだけど、どうぞめしあがれ」 「そういうことなら遠慮なく……」 少女は、手を合わせて「いただきます」とやってから、卵焼きを口に運んだ。外はカリッと香ばしく焼いてあるが、中はあくまでふんわりとしている。味付けも絶妙で、しつこくないのに、きちんと自己主張をしている。これを一言で言うなら…… 「おいしい!」 「ん〜、そういってもらえると、作った甲斐があるってもんだねぇ〜」 限られた生活費でそれなりにおいしいものを食べようと思ったら自分で作るのが一番いい方法である。味噌汁はインスタントではなく、ちゃんとダシをとったものだし、ご飯も、炊くときに蜂蜜(そうするとおいしく炊き上がるのだ)を入れたりと、いろいろと工夫がこらしてあった。 少女は、よほどお腹がすいているのか、よほどおいしいのか、それともその両方か、一心不乱にハシを動かす。ヘイタはそれをみて思わず笑みを漏らした。 「あ、すいません、お腹…空いてたんで…」 少女がヘイタの視線に気づき、顔を赤くした。 「あ、いや…、ただ、自分が作ったのを人がおいしそうに食べてくれるのってうれしいもんだな〜、ってさ、まぁ、主夫の喜びってやつ?」 そのまま見ているのも気まずくなり、ヘイタは自分の朝食にハシをつけ始める。 しばらく、ハシと茶碗が触れる音が流れる。 「そういえばさぁ……」 ヘイタは少女が食べ終わるのを見計らい、声をかけた。 「はい?」 「助けてくれたのはありがたく思うんだけど、男の家に外泊とかして親御サンとか大丈夫なん?」 少女は、少し考えるようなそぶりを見せ、次に数学の問題が解けない受験生のように頭を抱えた。 「……う〜ん、どうなんでしょう……?」 「そもそも、あんな時間に、公園なんかぶらついてるのも、危ないと思うんだけど…、もしかして家出でもした?」 「そう言われてみると、そうかもしれないかな〜とか……」 「いや、そういう微妙な言い方されても……」 「なんていうか〜、そういうこと何にも思い出せないんですよ〜」 「え!?それってもしかして…記憶喪失ってやつ……?」 「言いにくいんですけど、たぶん、そ〜かな〜って」 照れくさげに、鼻の頭をかきながら少女は答えた。記憶がない割にはのんびりしてるというか、危機感がないというか……。 「いやいや、お嬢さん、もっと深刻に考えようって……」 「そんなこといわれたって、思い出せないものは思い出せないしぃ、だったら、頭使うだけ疲れるじゃないですか」 ホントにノウテンキである。 「いやさぁ、例えば、今日どこで寝るかとか、ご飯はどうするか、とか……」 「う〜ん、そうですねぇ……、どうしましょう?」 「……今までどうしてたの……?」 「寝場所は駅とか公園とかでなんとかなりますよ。人間、案外どこでも寝れるんです。警察とか補導員とかから隠れるのがめんどくさいですけど……。ご飯も、無一文ってわけじゃないんで、贅沢しなければ、もうしばらくは大丈夫かなって」 そんなトコで寝てたら、変質者に誘拐監禁されるぞ、とか、「もうしばらく」は大丈夫って、「もうしばらく」が過ぎたらどうするの、とかツッコミ所は山ほどあったが、何を言っても無駄だろう。とヘイタは思った。――ん?そういえば…―― 「なんで警察に行かないの?捜索願でも見れば、自分の身元がわかるかもしれないし、そうじゃなくても保護くらいはしてくれるんじゃないの?」 「警察は嫌いなんです」 「へ?なんで?」 「さぁ?なんといっても記憶喪失ですから、その理由もわかりません。嫌いなものは嫌いなんです」 『いや……、まぁ、そうだけど…』 「ところでお兄さん」 少女は声のトーンを変えて言った。 「わたしより重い体を、ここまで頑張って運んで、見返りが朝食だけっていうのはひどいですよね〜」 「え……?どういうこと……?」 「渡る世間は金次第、地獄の沙汰は鬼ばかり……って、ここまで言えばわかりますよね〜、三枚でいいですよ?」 さっきまでの軽い笑いが、小悪魔のような笑いになっている。 「いや、微妙に間違えてるって…、」 「ぶつぶつ言わない。それとも、寝てるときに財布ごととったほうがよかったですか?」 確かに、昨日の様子なら財布ごと盗られても分からなかったし、無くなっていることに気づいても、落としたと思うだろう。それを思えば、一応良心的である。 ヘイタは渋々財布に手を伸ばし、中を開いた……が、札は何も入っていなかった。昨日、出かける前に中身を確認したときには、四、五枚はあったはずだ、どうやら、金銭面でも飲みすぎたらしい。 「ごめん、無い」 「え?三枚って万札じゃなくて千円札ですよ?」 「悪いけど、無いものは無い。ゴメン」 払えないことも無いが、別個にしてある光熱費、食費などの生活費から出すわけにはいかない。浪人してしまった以上、引け目を感じ、学費は無理としても生活費はバイト代で工面している。浪人生という立場上、バイトは生活できるギリギリ、その上でカオルにつき合っているのだから、残りは雀の涙である。 大体、少女が勝手にやって、勝手に金を要求しているのだから、言われたとおりに払う必要などなさそうなものだ。だが、そんな恩でも、それに報いようとするのが、良くも悪くもヘイタであった。 「悪いけど、今は払えない…。そうだな、一ヶ月くらいまってくれない?」 「え〜、一ヵ月後、また同じ事言われないとも限らないし……、しらばっくれられるのも嫌ですし、『明日の百より今日の五十』って言うし…」 少女は、そのまま「うーん」と考え、言った。 「わたし、しばらくここに泊まらせてもらうから、その分の宿泊代ってことで…どうですか?食費は別に払いますし、家事もなるべく手伝いますから」 男の部屋に、女の子が一人で泊まるというのは非常識な気がするし、いろいろと危険も感じるものなんじゃないかとヘイタは考えたが、女の子は女の子でも、誰が来るか分からない公園や、駅に平気で止まれる女の子だ。本人は別に気にしないのだろう。また、そんなところで寝るよりはヘイタのアパートのほうが安全だろう。 「そういうことなら全然かまわないよ、どうせ一人暮らしだしね。でも、悪いけど合鍵渡すのはちょっと……」 「それでかまいませんよ、寝るときに雨風、夜露と補導員がしのげれば十分です」 少女はそこで、居住まいをただし、三つ指をついた。 「ふつつかものですが、よろしくお願いします」 「そういえば名前、聞いてなかったね。……ってもしかして覚えてない?」 「はい、もちろん、記憶喪失ですから」 「ん〜と、じゃあ、呼ぶときなんて呼べばいい?」 「あ、それでしたら、椎名ナナ、と呼んで下さい。名前聞かれたらそう名乗ることにしてるんです、名前無いといろいろ不便ですから」 「うん、わかった、ナナちゃん…ね」 こうして、ヘイタは、このわけのわからない少女としばらく同居することとなった。
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