【仄かな愛の芽生え】
オレの眼の病名は『新生血管黄斑症』と確定した これは右目のはなしだ 右目も左目も眼球をうごかすと左右に蚊が飛翔する これを飛蚊症という けど医学上の病名では『硝子体剥離』というらしい 右目の網膜には眼底出血がみられ黄斑部のフィルムは縮(ちじ)んでしまった フィルムがイカレタから網膜には眼前の映像は現像されない だからオレは眼前の物体を認知することが困難になってしまった それでも明るさだけは感じられる 網膜の黄斑部の外側のフィルムでは映像を現像することができるからだ 右目は『開き盲目(あきめくら)』になってしまった そうだとすれば これからは左目ひとつで生きてゆくしかない 片目なんだからまさに現代の『丹下左膳』といえよう
主治医の女教授からは眼底出血が下火になるまで週に一度の受診を命じられた 眼底検査がおわって1週間が経った 教授の診察を受けるとオレは教授のロボットにされてしまう 散薬で瞳孔をひらいてから仄暗(ほのぐら)い診察室で教授のロボットになるしかない 検眼機の被写体固定装置のまえに座らされる 「そこに顎(あご)を載せてください」 「はい。こうですか」 オレは検眼機の底部の靴べらのような台に顎を載せ固定装置に額をすりつける 「真正面をみてください」 「はい。こうですか」 「真上をみてください」 「はい」 「右斜め上をみてください」 「はい。こうですか」 「右をみてください」 「はい」 「右斜め下をみてください」 「はい。こうですか」 こんなポーズのやりとりで女教授はオレの眼底を覗き込む ライトを消したグレーゾーンの診察室で 45度に倒された診察台に載せられたオレを教授は真上から覗き込む 女教授が神経を集中して真剣になればなっるほど 白衣のしたの膨らんだ乳房がオレの肩に接触してしまう もっと強く乳房をオレの肩に触れて欲しい むらむらと欲望の悪魔がオレを嗾(けしか)ける オレとしたことが まあなんてアサマシイことか なんてブザマだ このバカ垂れ きょうもオレの右肩に女教授のふくよかな乳房が触れて欲しい この願望を達成するために オレは右肩を最大限に右側に寄せてしまった すると 女教授がオレに寄りかかるような姿勢で焦点を一致させたふたつの レンズをとおしてオレの眼底を克明(こくめい)に覗き込んだ 女教授がその神経を集中すればするほどオレに寄りかかる度合いもおおきくなる それだけ女教授のふくよかな乳房がオレの肩に触れる確率もたかまってゆく 「はい。きょうはこれでおしまい」 女教授はペダルを踏み45度うしろに寝かせていた診察台を垂直にもどした 「もう。ラクにして結構です」 女教授は自分のデスクにもどり医療用パソコンのキーをたたいた プリンターから印刷された処方箋がするっとでてきた 「眼底はまだ出血がつづいています。もういちど眼底検査をしてみましょう。こんどは わたしが直接、検査をいたします。検査日は担当の看護師さんと予約してください。 はい。処方箋です。有能な弁護士先生!」 女教授はにたりとして処方箋を起ちあがったオレのまえにさしだした おもわずオレは処方箋を受けそこねた 処方箋はデスクのうえにひらりと舞い降りた 女教授は処方箋をつかみなおしオレにバトンタッチした すると 女教授のか細く白い手が浅黒くごついオレの手に触れた その瞬間 落雷に見舞われたかのように オレの頭のてっぺんから足のウラまでぴりっと電流がはしり抜けた 「ありがとうございました」 わしは女教授のまえに深々とあたまをさげた ふりむくと童顔でリンゴのように赤いホッペのナースがオレのカバンをクランケの所持品入れの籠のなかからとりあげにこりとしながらさしだした 「どうもありがとう」 にたりとしてオレが振り向いたら女教授はジェラシーのまなざしをこちらに向けた この女教授はオレにカバンのサービスをしてくれたナースにまで嫉妬(しっと)してるんだろうか
中待合室にでたオレはデスクに向かっていた担当のナースと眼底検査の予約をすませた オレは中待合室から眼科外来のロビーにでた ロビーの一角で空いていたベンチに腰掛け処方箋をひらき女教授のフルネームに気づいのだ これまで 女教授の瓜実顔に魅(み)せられて女教授の胸にひかるネームプレートをたしめなかった 白い薄手の紙にプリントされた処方箋には男文字のような達筆で紅葉山薫と書き込まれ 紅葉山という認印がおされていた この処方箋は紅葉山薫教授が作成した文書だ そうおもうと このペーパーに触っているだけでふんわりとした幸福感が背筋からはしり抜けた 仄(ほの)かな紅葉山ドクターに対する愛情の芽生えなのかもしれない
桜門大学病院のロビーにでた カウンターで会計をすませ病院から街路にでる 大学病院前の青葉薬局でクスリを受け取った 人通りの多い街路にでてお茶の水駅に向かった
眼底検査の予約日になった 好むと好まざるとにかかわらず オレはふたたび精密検査として眼底を撮影することになった 眼底検査の予約日には早めに桜門大学病院の眼科外来に出頭した 眼科外来の外待合席ではクランケが溢れベンチは満席で塞がっていた 待合席の隅から隅までぐるりとみわたし辛うじて空席を見つけ呼び出しを待った やがて 黒い縁取りの円い壁時計の長針がぴくりとうごき午前10時30分になった すると カルテを左腕に抱えた顔見識りのナースが外待合席のまえに起った 「お呼び出しをいたします。いまから呼ばれた方は検査室にご案内いたします。 〇〇さま。××さま。花城さま」 レム睡眠に溶け込みかけていたオレはぴくりとして起ちあがった 呼びだされた3人のクランケは先に起ってあるきだしたナースのあとにつづいた 階段を登り2階のフロアにでると1階のフロアの雑音は遮断(しゃだん)され鎮まりかえった 長い廊下をあるきいちばん奥の行き止まりのコーナーが検査室だった いつもなら待合ボックスで待たされるのだがその日はすぐ検査室に軟禁された ナースに誘導され3人のクランケはそれぞれ別の検査装置のまえにすわらされた 「花城さま。血圧はかりますからね」 白衣のナースはオレの左腕に腕帯を巻きつけ自動血圧計をセットした 「ええと。最高血圧は130.最低血圧は70ですね」 「それが通常です」 「そうですか」 白いナースハットに黒い線が1本はいったナース主任はオレの左腕から腕帯をほどいた 「点滴方式で造影剤を血管に注入しますが。アレルギーはなかったですね」 「はい。皮膚はやや過敏ですが、アレルギーはだいじょうぶです」 「それでは検査承諾書にサインしてください」 「はい。わかりました」 オレは足元の床に置いといたカバンのなかからパーカーのボールペンを取りだし 検査装置の手前の狭いテーブルのうえで眼底検査承諾書にサインし印鑑を押捺(おうなつ)した 高精度を誇る眼底撮影のカメラを隔てて紅葉山薫教授が愛狂しいまなざしをオレに浴びせた この女教授は暗室の検査室における眼底撮影にカマケテオレとの逢引を企んだのかもしれない 胸のうちでそう呟(つぶや)きながらオレは素知らパフォーマンスを演じた 「それでは、ちょっと、チクリとしますから」 ナース主任が点滴ボトルのカテーテルに連結された造影剤注入用の針をオレの腕にちくり刺した その瞬間 あっというまに造影剤は血管を走りぬけ眼底に到達した その映像は眼底カメラに連動されたコンピューターの画面にぱっと映しだされた ナースがぱちりと検査室のライトを消しグレーゾーンの扉が降りた 「それでは撮影をはじめますから。そこに顎(あご)を載せ、ひたいをぴたりと据えてください」 教授はカメラのファインダーを覗きこんだ 「はい。こうですか」 「もうすこし顎をっひいてください」 ナースはオレの顎に冷たい指をかけ顎の位置を修正した 「はい。これでよし。それでは真正面を瞬(まばた)きしないでみつめてください」 紅葉山教授はがちゃりとシャッターをきった 「こんどは真上をみてください」 「はい。こうですか」 緊張したポーズで教授はシャッターをきった 「右上になります」 「はい。これでいいですか」 「ええ」 紅葉山教授はがちゃりとシャッターをきる 「はい。こんどは右横です」 「はい。こうですか」 真剣な姿勢で教授がシャッターをきるとその音が床に沈殿してゆく 「そして真下です」 「はい」 紅葉山教授はがちゃりとシャッターをきった 「こんどは左下をみてください」 「はい。左下ですね」 紅葉山教授はがちゃりとシャッターをきる 「そして左横です」 「はい。こうですか」 「さらに左上をみてください」 「はい」 教授のがちゃりとシャッターをきる音が床に沈殿していった 「ちょっと休憩しましょう」 紅葉山薫教授はカメラのファインダーから目を離した 「はい。休憩するのはコンピューターに情報を整理させるためですか」 オレは被写体固定装置から顎をはずしカメラ超しに紅葉山薫教授の瓜実顔をみつめた 「よくご存知ですこと」 「ええ。最初の検査のとき、担当されたドクターのコメントの受け売りです」 「なるほど。そうでしたか」 紅葉山教授は右手で肩まで垂れる長い黒髪を梳(くしけず)り愛狂しいまなざしをオレに浴びせた いくら教授であっても 白昼のさなかにこんなポーズはとれない けど 検査室での撮影中のエリアはグレーゾーンだから周りを気にしないで堂々と情愛のサインを おくりつづけることができるのだ 薫教授の情愛のサインはオレの上半身に照射されつづけた 熱烈なサインを送り込まれオレのハートは高鳴りはじめた けど オレと薫教授との周囲には助手のナースが控えているしカメラもコンピューターもみんな目を 光らせているにちがいない オレは薫教授のハートのうちを読み取ることはできたがウィンクひとつすることができない 「それでは検査をはじめましょう。左目はおわりましたから、こんどは右目になります」 薫教授はカメラのファインダーを覗き込み撮影の構えになった 「はい。わかりました。眼底出血してる右目ですか」 オレは被写体固定装置の下部に填め込まれた靴べらのようなプラスチックのあて皿に顎を載せた 「真正面をみてください」 「はい。こうですか」 紅葉山教授はがちゃりとシャッターをきった 「次は真上です」 「はい」 「こんどは右上をみてください」 「はい。こうですか」 「ええ。そして右横です」 「はい」 「こんどは右上をみてください」 「はい。こうですか」 「こんどは右横です」 「はい。こうですか」 「ええ。その要領で。こんどは真下をみてください」 「はい。真下ですね」 「さらに左下をみましょう」 「はい。左下です」 「こんどは左横をみてください」 「はい」 「最期に左上をみましょう」 「はい。わかりました」 「はい。これでおしまいです。ラクにしてください」 「はい。どうも」 オレが薫教授のロボットになりきって眼球を左右上下斜め下、斜め上と八角形のパターンで うごかすたびに薫教授はがちゃりがちゃりとシャッターをきりつづけた 「もう結構です。検査の結果は、1週間後の診察の日に開示します」 「はい。わかりました。どうもありがとうございました」 ナースがぱちりと電源をいれたらしく検査室は明るくなった オレは起ちあがり足元からカバンを引き寄せちらりとコンピューターの画面を盗みみて検査室 のドアを押した。
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