20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ
 ようこそゲストさん トップページへ ご利用方法 Q&A 操作マニュアル パスワードを忘れた
 ■ 目次へ

作品名:自分が光を失なうとき 作者:花城咲一郎

第8回   薄暮の世界でトレーニング
          【薄暮の世界でトレーニング】

オレは『新生血管黄斑症』というケッタイナな病気の持ち主になってしまった
なにも好き好んでそんな病を招きいれたわけではない
それにもかかわらず眼病になった責任などオレにはまったくない
といえばウソになる
なぜならオレは学生時代から目を酷使してきたことだけはたしかだ
健康にまかせて目を酷使してきたツケがいまになってまわってきたといえなくもない
そうだとすれば
眼病になったのは
やはりオレの自己責任だというしかあるまい
わしの自己責任で飛蚊症になり『明界』から『暗界』に転がりかけたんだから
そのリスクは覚悟しなければならない
けど
そのリスクを可及的に最小限に食い留めなければならない
そのリスクを最小限に食いとどめるためには
いま
なにをなすべきか
とにかく
いまやれるだけのことはやってのけねばならない
これまで永年生きつづけてきた『明界』での生活パターンを改善しなければならない
視力の堕(お)ちないうちに生活パターンのトレーニングをはじめることにしよう
オレはそう決意した
その翌日の日曜日からトレーニングをはじめた
まず
ジョギングに出発するまえに
書斎のドアをロックする特訓をはじめることにした
オレの書斎のドアは自動ロック方式になっている
だから書斎をでるときに内側のドアノブの中心の摘みを捻るだけで足りる
ジョギングウエアーに着替えサングラスをかけたオレは目を瞑(つぶ)る
書斎の壁を頼(たよ)りに摺り足でドアの方向にすすんでゆく
俄(にわ)か仕立ての盲人には暗界のなかでは距離感がまったくない
摺り足で壁を手摺にして辛うじてドアに辿りつく
暗界のエリアでは聴覚や触覚しか頼りにならない
右手の指の感触を頼りに手探りでドアノブの中心の摘みを捻り押し込む
ドアを開けて目を瞑ったまま廊下にでる
右手でがちゃりとドアを閉める
これで書斎のドアはロックされたはずだ
廊下の壁に造りつけられた衣物掛から手探りで野球帽をはずし頭に被る
目を瞑ったまま壁に手をあてながらゆっくり歩きはじめる
おそるおそる歩をすすめ応接室の脇に向かう
そこから廊下を右にまわればキッチンにでるはずだ
手の触感でキッチンのドアをリサーチする
探知したキッチンのドア球に手を掛けこっそりキッチンに侵入する
キッチンの空間を肌で感じとり勝手口のドアを開ける
裏玄関脇の下駄箱に辿りつき手探りでジョギングシューズをとりだす
リハーサルだからといって目をあけてはならない
目を瞑ったままシューズに左足をいれ靴紐をむすぶ
つづいて右足首にもシューズを填(は)め込み靴紐を結ぶ
これでよし
どうにかジョギングの準備はととのった
目を瞑ったままいつもの準備運動をはじめる
まず
首の運動からはじめる
つづいて手足の屈伸運動から腰の運動へ
さらに
胴体の運動を経て全身の跳躍運動へとすすむ
これで全身は揉みほぐされた
ふたたび手足の屈伸運動にもどる
おしまいに深呼吸で準備運動を締めくくる
入念にウオーミングアップをおえたオレは手探りで勝手口の門扉を開けた
目をパーフィクトに瞑ったまま走ることはいかにも危険だ
路上でいきなり目を閉じることはあまりにも危険な行為だ
だから両目を細め視野を狭くし仄(ほの)暗くして『薄暮の世界』で走るしかない
しかも
あくまで
歩道をキープしなければならない
勢いあまって車道にはみだしてはならない
オレはふと気づいた
わしの右目は『新生血管黄斑症』で明るさしか感じることができない
とりあえず
よく見える左目だけを閉じ、よくは見えない右目だけで走ることにしよう
オレの右目は眼球から送りこまれた映像を網膜のフイルムに現像することはできない
けど
それでも明るさだけは感知することができる
そうだとすれば
前方から車両が接近すれば聴覚と連動してなんとか認知することができよう
オレは物体を正確に認知することができる左目を閉じて走りだした
閑静な住宅街をゆっくり走りつづける
歩道ではだれにも遭遇(あわ)なかった
2キロほど走り八高線の踏み切りにさしかかった
左右をよく確かめてから2本の鉄路を跨(また)いだ
交通量の多い国道16号線の歩道にさしかかった
500メートルほど歩道を走り裏通りに左折することにした
裏通りは新築されたばかりの住宅地になっていた
人影もなく歩幅をひろげスピードをあげた
右目を細めると視界は『薄暮の世界』になった
薄暮の世界でも安全に走れるという感触が全身につたわった
やがて
都営住宅団地にさしかかる
人気のしない住宅団地の谷間を走りつづける
住宅団地を通過するとふたたび閑静な住宅街になっていた
ときおり
犬の遠吠えが鼓膜(こまく)を振動する
人気のしない住宅街を右目だけの単眼で走りつづける
そこは隣町との境界線になっていた
やがて
バス通りを横切り閑静な建売住宅街にはいった
公園の脇を走り抜ける
閑静な住宅街の裏通りにはいる
8キロのジョギングコースを完走して我が家に辿りつく
勝手口の門扉を開けて裏庭に駆け込む
汗ばんだ
息が弾んでる
歩きながら呼吸をととのえる
足をとめて整理運動にはいる
おしまいに深呼吸をする
目を瞑ったままジョギングシューズの紐を解く
まだ目を開けてはならない
目を瞑ったままシューズを下駄箱に収納する
手探りで勝手口のドアを開ける
キッチンにはいる
右足でスリッパを探しあて壁を手摺にして慎重に歩きだす
抜き足差し足でキッチンから廊下にでる
ためしに
応接室にも足を踏み入れてみる
応接室の広がりが感触で肌に染みこむ
書棚やソファーに衝突しないように
抜き足差し足で廊下にでる
永年にわたり歩き慣れた廊下の壁を手摺にして書斎に向かう
書斎のドアの外側からドアノブにタッチする
首輪に掛けた書斎のキーを右手に支え
左手の指のはハラでキーのヤマに触ってみる
みっつのヤマのある側をうえに位置づけてから
左手の親指の爪をぴたりと鍵穴にタッチする
その爪を基準にして右手でキーを鍵穴に挿入する
すると
書斎のドアはきちんと開いた

これで初日の薄暮の世界におけるトレーニンはおわった
ようやく
目を開けることができた
ぱっと視野が展開される
生まれたときからの『明界』のありがたさが身に染みる
ジョギングウエアーを脱ぎ捨てる
ゼネラルストリップになり浴室にはいる
シャワーのバルブを捻ると心地よいお湯が全身を洗いながす
たちまち爽快な気分になる
バスタオルもつかわないでそのまま応接室にはいる
応接室の片隅の小型冷蔵庫に手をかける
よく冷えたプレミアムビールをとりだし中指でポンと栓を抜く
小型のジョッキに一口分だけ注ぎぐいと飲み干す
なんだと
あの『新生血管黄斑症』なんて糞喰(くそく)らえ
オレは
不貞腐(ふてくさ)れた
けど
爽快な気分になった


← 前の回  次の回 → ■ 目次

■ 20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ トップページ
アクセス: 8339