【自分の眼底を覗き込む 】
桜門大学病院で受診したその夜のことだった。 早めに夕食をすませてベッドにもぐることにした。 いつものきまりで洗面台に起って口腔の手入れをはじめる。 まず歯間ブラシで歯と歯の間をきれいに砥(と)いでゆく。 昔ながらの爪楊枝(つまようじ)をあてただけでは固形物がとれても 口腔の手入れとしてはなにも役にたたない。 いつも口腔の手入れには3本のブラシを使いわけることにしていた。 そのブラシも、大学病院の歯科医師に選定してもらったGUMの特製品だった。 ワンステップとして最初にブラシ1号の1本を右手で摘みあげる。 ヘサキがぴんとした柔らかいブラシのヘサキを下の歯の歯肉と白い歯との 境界線にあてる。ブラシのヘサキを『歯周溝』にあてがいソフトにブラッシングする。 聞きなれないこの『歯周溝』とは歯茎の溝つまり歯と歯肉との境界線にあたる溝の ことだ。この溝の深さの測定は精密検査項目のひとつになっている。 歯周病が進行すればするほどこの溝の深さが深くなってくる。溝が深くなった状態 になれば、『歯周溝』のことを『歯周ポケット』と云いかえる。 下の歯周溝のブラッシングがおわると、こんどは上の歯周溝のブラッシングに 移行してゆく。表側上下のブラッシングがすむと、こんどは裏側の歯周溝に ブラシをあてる。歯周溝のブラッシングがおわるとウガイをする。 ブラシで穿(ほじく)りだした歯垢をすっきりするほど洗い流してしまう。 口腔手入れのツーステップにはいる。2本めのブラシにGUMのペーストを塗(まぶ)し 白い歯とピンクの歯肉との境界線にあてソフトにじくじく『横磨き』してゆく。 小刻みのじくじく磨きで歯垢(しこう)を穿くりだしてゆく。 時間をかければかけるほど歯周病の魔女『プラーク』が駆逐(くちく)されてゆく。 小気味よい魔女狩りの時間帯だ。この小気味よい魔女狩りには15分もかかる。 じくじくと『横磨き』が済むと、そのあと『縦磨き』にはいる。ブラシを縦にあてて一箇所ごとに20回もブラッシングをつづけてゆく。 おしまいにスリーステップの口腔清掃にはいる。3本めのブラシにGUMの白い ペーストをたっぷり塗し白い歯だけをターゲットにじくじくと『横磨き』をしてゆく。 表側上下のじくじく磨きがおわったら裏側上下のじくじく磨きにはいる。 スリーステップでブラッシングはおしまいになる。 ブラッシングがおわったあとは、GUMの『液体歯磨き』で口内の殺菌をする。 わずかな所定量の液体をくちに含み、呑み込まないようにしながらぶくぶく 口内の隅々にまで消毒液をゆきわたらせる。 制限時間20秒のぶくぶくで細菌ごと液体をウオッシュスタンドに吐き出す。
口腔の手入れをしながらもオレの脳裡(のうり)には不安の濃い霧がたちこめていた。 瓜実顔の女教授はオレの瞼(まぶた)をか細い指でおしげもなく裏返し、レンズでオレの 目の上下・左右・斜め左右上下・真正面と、八角形の角度から、検診できるように、 いちいちオレに命令して眼球のポーズを移動させ目の隅々まで観察したうえ、 アメリカから輸入されたという『新生血管黄斑症』だと所見を述べた。 オレの目はアメリカから日本へ輸入されたというけったいな『新生血管黄斑症』ださ。 このけったいな眼病はこれまで地球人にはみられなかった病気の新種なのかも。 眼底の精密検査をしてみなければ病名は確定しない。 コンピューターと連動されたハイテク検査マシンが開発されたことは識っていた。 けど、そのようなハイテクマシンで被験者として検査を受けるのは初めてのことだ。 眼底検査の被験者になどなりたくはない。 できることならば避けて通りたい、いやないやな道筋だ。 女教授はこのけったいな眼病は『網膜剥離』(もうまくはくり)とはちがうと云った。 けどハイテクマシンで眼底を撮影してみたらば『網膜剥離』になってるかもしれない。 いやなおもいをして眼底検査をしたらば『網膜剥離』といわれるかもしれない。 もし 『網膜剥離』だとしたらオレは失明するかもしれない。 そうなると永遠に自分の光を失なってしまうかもしれない。 この眩(まぶ)しいくらいに明るい『明界』から暗黒の世界たる『暗界』の冷たい渕に 突き落とされてしまうかもしれない。 もし オレの右目が『網膜剥離』だとしたらどうしよう。 一夜明けたら『明界』から『暗界』に突き落とされているかもしれない。 絶対に、そんなことにならないという保障など、どこにもありゃしない。 このオレは崖っぷちに起たされているのだ。 このオレはいま、『明界』と『暗界』の狭間に起たされていることだけはたしかだ。 一歩踏み違えれば、二度と這(は)いあがることができない千尋の谷底にオレは 突き落とされてしまうのだ。 もし そうなったらばオレはどうする。 一寸先が見えない暗黒の世界でオレは生きてゆけるか。 いや このオレは気がふれてしまうにちがいない。 オレは鳥肌だち、身の毛が弥立(よだ)った。
洗面台のまえのミラーをみつめたままオレは呆然としていた。 我にかえったオレはふらつく足取りで書斎に移動した。 デスクに向かい回転椅子をぐるりとまわした。 机の抽斗(ひきだし)から薬の袋を摘みだした。 おしげもなく薬袋を逆さまにした。 袋のなかから3種類の薬がデスクのうえにばらまかれた。 白い錠剤のエラスチーム(elaszym)は血管強壮剤といい網膜の『むくみ』をひかせる。 薄茶色をした錠剤のアドナ(adona)は典型的な止血剤で血液をどろっとさせ血管から 滲(にじ)みにくくし出血を抑制するはたらきをする。 蜜柑色をした粉剤はシナール(cinal)という毛細血管用の薬剤で網膜に栄養を与える。 エラス、アドナ、シナールとオレはとうとう3種類の薬飲みになってしまった。
やがて予約していた眼底の精密検査の日になった。 早めに大学病院の眼科外来に出頭する。 外待合席で座席の背凭(もた)れに寄りかかり目を瞑(つぶ)る。 いつのまにか蕩(とろ)けてしまう。 看護師に呼び出されはっと右手をあげて起ちあがりナースに接近する。 「散瞳しますから中待合におはいりください」 ナースのあとについて中待合にはいり、きめられた椅子にかける。 「眼鏡をおとりください」 「はい。おねがいします」 オレは眼鏡をはずし点眼しやすいように天井を見あげる。 ナースはオレの両眼に散瞳薬を点眼する。 「外待合でお待ちください。あとで検査室にご案内いたします」 オレは外待合にでて座席に凭(もた)れる。 蕩けはじめたころ人の気配がして目を開ける。 「いまから検査室にご案内いたします」 寄ってきた看護師にしたがって2階の検査棟に向かう。 「こちらでお待ちください」 検査室前のベンチをオレに勧(すす)めた看護師は検査室へ吸い込まれてゆく。 散瞳薬を点眼して瞳孔をひらくことを『散瞳』という。 やりたくもないのに『散瞳』するといって散瞳薬を点眼されたり 目の検診だといってドクターが指で瞼(まぶた)を裏返したり 目を弄(いじ)くられるほどいやなことはない。 それなのに きょうは やれ『FAG検査』だの やれ『視野検査』だのと 検査機器の前に釘づけされて長い時間にわたり両眼を弄くられるのだ。 けど 失明したくはないから なんとしても 失明だけは避けねばならないから 咲き乱れたあのカトレア嬢の艶(あで)やかな頬にチュウしたいから 美しくピンクに花開いたデンファレ娘の額にチュウしたいから 目を弄くられてもがまんして眼底の精密検査をうけねばならない。
「お待たせしました。どうぞ、おはいりください」 看護師が検査室のドアをわずかに開け顔を覗かせた。 「はい」 わたしはすくっと起ちあがった。 カバンをかかえてオレは仄(ほの)暗い検査室へ吸い込まれてゆく。 「きょうはFAG検査をしますから、こちらにお掛けください」 検査機器の向こう側に掛けていた女教授がオレに微笑みかける。 看護師はオレの肩に両手を掛け検査マシンの前の椅子に座らせた。 カバンを足元の床に置き椅子に掛けて胸を張った。 「FAG検査ってなんですか」 オレは教授の瓜実顔を見つめた。 「はい。FAGは、蛍光眼底検査つまり蛍光眼底観察法、横文字では fluorescein fundus anagiograohyの頭文字をとってFAGといいます」 「うるさいことをいって恐縮ですが。もうすこし質問してよろしいですか。 クランケの立場からのインフォームドコンセントとして」 「はいどうぞ。インフォのことは国語審議会で『納得診療』という日本語で 表現されることになったと聞いています。これは基本的人権の一内容だ そうですから、どうぞ」 「ドクターも憲法学者のようなことをおっしゃるんですね」 「ええ。まあ。弁護士さんのまえですからちょっと気取ってみました」 女教授は苦笑いをしてオレの額のあたりを見つめた。 「そのFAG検査というのはどんな方法の眼底検査ですか」 「はい。まず『フルオレセイン』という溶液をクランケの腕の静脈に 注射させていただきます」 「ほう。その溶液というのは、いわゆる『造影剤』のことですか」 「ええ。おっしゃるとりです。静脈注射をすると、造影剤はあっと いうまに眼底の血管にも到達します。眼底に到達した造影剤は 蛍光色を発します」 「ほう。蛍のように光るんですか」 「まあね。この蛍光色のおかげで、眼底の血管とその解剖学的構造を 観察することができます。ですからこれを『蛍光眼底観察法』といいます」 「従来の眼底写真と比較してどんなメリットがあるのですか」 「はい。網膜の動脈瘤とか、新生血管とか、出血の状況などを容易に観察 することができます。このマシンをコンピューターに連動する技術が開発され まして、眼底の写真をそのままコンピューターにインプットすると、眼底の生々 しい映像を映しだすことができますし、眼底のミクロの世界まで探知すること ができます」 「ほう。ミクロ単位の異状まで探知することができると」 「ええ。まあ」 「そうすると、被験者は自分の眼底の状況をその目で覗き込むことができる わけですか」 「ええ。検査室に座ったままでご自分の眼底を覗き込むことができますけど。 このような画像によって診断することを『画像診断』といいます」 「よくわかりました。それではFAGをお願いします」 「はい。いちおう検査の承諾書にサインをおねがいします」 ナースはオレのまえに承諾書の用紙をさしだした。 ナースが照明のコントロールをすると検査室は明るくなった。 わたしは承諾書に所定事項を記入して署名捺印しナースにわたした。 「それでは、はじめましょう。看護師さん」 ドクターはナースに目で指示のサインをおくる。 ナースはオレの左側に造影剤を充填した点滴ボトルを吊るした点滴スタンド を寄せ、オレの左の腕に造影剤注入の針をさし込む。 ナースが照明をコントロールすると検査室は仄暗くなった。 「それでははじめましょう」 ドクターの声に反応してナースは点滴ボトルのキャップを緩め薬液を静脈に ながしこみはじめる。 ドクターはコンピューターに連動された医療用テレビの画面を注視する。 オレの網膜が映しだされたテレビの画面に変化がおこった。 「造影剤は眼底血管に到達しました。被写体固定装置に顎(あご)をきちんとつけ、 瞬(まばた)きしないようがまんしてください」 ドクターの指示にしたがいオレは被写体固定装置に顎をあてがい目を開き。瞬き しないようじっとがまんしてカメラを覗く。 「あたしの指示にしたがい、前回とおなじように眼球のポーズを変えてください」 「はい。わかりました」 「右目からはじめます。真正面をみてください」 「はい。こうですか」 ドクターはがちゃりとシャッターをきる。 「真上をみて」 「はい」 オレが真上を注視するとドクターはがちゃりとシャッターをきる。 「右斜め上をみて」 「右をみて」 「右下です」 「真下をみて」 「左下です」 「左をみてください」 「左上です」 がちゃりとドクターはシャッターをきる。 「ちょっと休憩しましょう。コンピューターに記憶させるために、 すこし間をおきましょう。ラクになさってください」 オレは被写体固定装置から顎をはずした。
おもわず医療用テレビの画面に視線がながれる。 テレビの画面いっぱいにオレの眼底が映写されている。 円いおおきな月面に、いく筋もの細い川がながれている。 『あの円い月面がオレの眼底なんだ』 『月面にながれてる細く絡みあいながら繋(つな)がってる川筋が眼底の血管なんだ』 わたしは生まれてはじめて自分の眼底を覗き込んだ。
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