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作品名:自分が光を失なうとき 作者:花城咲一郎

第4回   輸入された『新生血管黄班症』
        [ 輸入された新生血管黄斑症 ]

ハイテク電車は鉄路を軋(きし)らせながら滑りつづける。
わたしはプライオリテー・シートでえんやらえんやら船を漕ぎつづける。
かなりの時間オレはレム睡眠の渕にちんりんしてたにちがいない。
時間の経過をはっきり認知することができなかった。
「次は〇〇です。お出口は右側です」
「ネクスト、テシネス〇〇。ドア、イズ。・・・・・・オープン」
日本語のアナウンスにつづく英語のアナウンスではっとする。
車内アナウンスではっとしてオレは目をこする。
膝のうえに載せていたチョコレート色のおおきなカバンをもちなおした。
ハイテク電車は〇〇駅の長いプラットホームに滑り込む。
電車が停車してから起ちあがる。
足許に注意深くプラットホームに降り立つ。
人波に揉まれながら階段をのぼりつめ改札口へむかう。
乗車券の投入口がなんとなく、ぐらつく。
指先の触覚を視力と併用して切符を投入口にいれ改札口を通過する。
駅前通りの交差点にさしかかる。
青信号を待って道路を渡る。
桜門大学病院に通じる広い通りの歩道をゆっくりすすんでゆく。

桜門大学病院の正面入り口にさしかかる。
守衛に右手をあげて関所を通過する。
新患受付で受診の申し込みをする。

カルテ用紙と診察券の交付を受けて眼科外来にむかう。
外来の受付にカルテ用紙と診察券を提示する。
ぐるりと空席を物色して『外待合』の座席に凭(もた)れる。
カバンを膝上に載せ目を閉じる。
たちまち蕩(とろ)けてレム睡眠の渕に沈みこむ。
時間の経過が認識できなくなった。
かなりの時間蕩けたらしい。
「菊野さん。弁護士の菊野先生 !」
甲(かん)高い看護師の声がわたしの耳の鼓膜(こまく)に響いた。
「中待合におはいりください」
「はい」
 わたしはすくっと起ちあがり美女の看護師に近づく。
「中待合で椅子に掛けておまちください」
「はい。わかりました」
見ると8人の患者が1列になって椅子に掛け順番を待っている。
わたしはかしこまった姿勢で9番目の椅子に掛ける。
先着順に1人の診察がおわるたびに席を繰り上げてゆく。
やがてオレが診察を受ける番になった。

壁で遮断された仄(ほの)暗い診察室にはいる。
若い看護師が重いカーテンを閉める。
「どうぞ、おかけください」
 瓜実顔の女教授に勧められ、教授とデスクを挟み椅子に掛ける。
「おカバンは脇の籠にどうぞ」
 教授はにたりとする。
「あ、これはどうも」
 わたしが起ちあがろうとしたら看護師がにこりと白い手をさし伸べる。
「どうも」
 わたしは看護師にカバンを委(ゆだ)ねる。
 瓜実顔の女教授はわたしと視線をあわせる。
「どうなさいましたか」
 教授の問診がはじまる。
「はい。目のまえで蚊が跳びました」
「そうですか。ほかに自覚症状はありますか」
「はい。書物の活字が踊ります」
「わかりました。目を拝見しますが。そのまえに散瞳して瞳孔を開いて
いただきます。30分後にもう一度いらしてください。看護師さん。係りに」
「はい。それでは『中待合』で散薬を注入いたします」
 看護師は係りのナースにバトンタッチする。
 
 わたしは診察室から『中待合』に移動した。
「こちらにおかけください」
 わたしは係りのナースに誘われ椅子にかける。
「お薬さしますから」
 ナースにいわれてオレは鼈甲(べっこう)造りの金縁メガネをはずした。
 ナースはオレの両眼に散薬を注入する。
「お呼びするまで、しばらく『外待合』でお待ちください」
「わかりました。どうもありがとう」
 わたしは零(こぼ)れた涙をハンカチで拭いて『外待合』にでた。
 ぐるりと座席をみまわし、ひとつの空席に凭(もた)れる。
 
 やがて20分が経った。
 散瞳係りのナースがオレの目のまえに寄ってきた。
「もう開きましたか」
 ナースはミニライトでオレの瞳を覗き込んだ。
「開きましたね。診察できますから、いらしてください」
「おねがいします」
 オレは、先に起ったナースのあとを追った。
 そのまま『中待合』を素通りして診察室にはいってゆく。
「それでは目を拝見します」
「はい。おねがいします」
 オレは診察台にあがり背筋を擦りつける。
 教授はペダルを踏んで診察台をうしろに倒した。
 看護師が診察室の壁のスイッチをかちりときった。
 仄暗かった診察室に暗黒の扉がおろされ闇につつまれた。
「それでは、あたしの指示にしたがってください」
 教授は右手にレンズをもち、左手をオレの左の瞼にあてがった。
「まっすぐ正面をみてください」
「はい。こうですか」
「そうそう。こんどは右を見て」
「はい」
「左をみて」
「はい。こうですか」
「ええ。真上を見て」
「はい」
「こんどは真下を見て」
「はい」
「そして右斜め上を見て」
「右斜め下」
「左斜め下」
「左斜め上」
「真正面を見てください」
「はい」
「これで、左目はおしまいです。こんどは右目です」
「はい。おねがいします」
 右目についても、左目とおなじパターンで検診してゆく。
 教授の指示によりオレが眼球のポーズを変えると、左右、
上下、斜め上、斜め下と八角形の位置からレンズを通して目を
覗き込み、仔細(しさい)に検診してゆくのだ。
 可視できる眼底のすべてを、あらゆる角度から異変はないかと
克明に検診してゆくのだった。
「これでおしまい。楽にしてください」
 教授はオレの瞼から指をはなした。

 看護師がぱちりとスイッチをいれたらしく診察室は明るくなった。
 教授は自分のデスクにもどった。
 わたしは診察台を離れ、デスクを隔てて教授と対峙(たいじ)した。
「左目は心配ありません。ただ硝子体剥離(しょうしたいはくり)がみられます」
「硝子体剥離とはなんですか」
「ええ。これは眼球の硝子体のゼリー状の部分が水分の欠乏によって剥離
されるという症状をいいます」
「水分の欠乏ですか。そういえば半年ほどまえからよく喉(のど)が渇きました。
あのとき水分を補給しておくべきだった。剥離されてしまった以上、もはや後の
祭りですが。これを元にもどせますか」
「いえ。元にもどすことはできません」
「元にはもどせない。というと一生このままですか」
「ええ、まあ。蚊が跳んだのは、そのためです。これを飛蚊症(ひぶんしょう)と
いいます。蚊が跳ぶからです。それも一生」
「それでは痒(かゆ)くてたまらない。なあんて駄洒落(だじゃれ)をいっては
いられませんね」
「でも、それほどご心配はいりません」
「とおっしゃいますと」
「黒いサインがじゃまになるだけで、順応すれば気にならなくなります」
「順応ですか。それで右目はだいじょうぶでしょうか」
「右目にも左目とおなじく硝子体剥離がみられます。問題は眼底出血です」
「なんですって ! 眼底出血ですか」
「そうです。網膜に出血がみられます。それも網膜の黄斑部ですね」
「それは網膜のどのあたりですか」
「網膜の中心部で大切な部分にあたります」
「大切な部分ですか。それで手当てはできますか」
「ええ。網膜に出血があるときには、通常、『光凝固』をしますが。菊野先生の
場合、黄斑部ですから、出血場所が悪く、『光凝固』はできません」
「その『光凝固』ってなんですか」
「ええ。この療法は、特殊な装置でレーザー光線を患部に照射しながら
焼いてその部位を凝固させ、出血を阻止するという療法です」
「すると網膜の病名はなんですか」
「それが、まず眼底検査をしてみないと断定することはできません。
おそらく『新生血管黄班症』(しんせいけっかんおうはんしょう)でしょう」
「失明することになりますか」
「いえ。網膜剥離とはちがいますから。このまま失明につながるわけでは
ありませんが」
「そうですか」
「とりあえずお薬をお飲みになってください。いま処方箋をつくりますから」
 女教授はマウスを握りパソコンにデータを入力した。
 プリンターから処方箋がでてきた。
「それでは、これを」
 教授はデスクのうえに処方箋をさしだした。
「眼底検査は予約制になってますので、担当の看護師さんに
予約なさってください。検査はあたしがやらせていただきます」
 わたしは処方箋を摘み起ちあがった。
「どうもありがとうございました」
 オレは最敬礼をした。
 看護師はオレのまえにカバンをさしだした。
「どうもありがとう」
 わたしは診察室から『中待合室』にでる。
 デスクに向かっていた検査予約の担当者のまえに起った。
 眼底検査の予約をすませてオレは『外待合』にでた。

 その日の午後、法律事務所にもどると、すぐデスクに向かった。
 専用のパスワードを入力してパソコンの蓋をあけた。
 インターネットで『新生血管黄班症』を検索した。
「先生。コーヒーがはいりました」 
 アシスタントの足立淑子がコーヒーをはこんできた。
 わたしはコーヒーカップに手をかけひとくち啜(すす)りあげた。
「この病気はアメリカで流行したものが、日本国に輸入された
といわれ、患者が増加しているという。日本人の食生活が
アメリカ風になったせいかもしれない」
 オレは天井をみあげ独り言をいう。
「先生。なにかおっしゃいました」
 足立がパソコンの手をやすめ、こちらを向いた。
「いや。こっちのこと。なんでもない」
 わたしは起ちあがり窓から多摩鉄道幸福駅のプラットホームを
みおろした。10輌連結のハイテクが滑り込んできた。
 わたしは遠く多摩連山の山並みに視線をながした。
 多摩連山の山の端にふんわり靄(もや)がかかりはじめていた。 


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