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作品名:自分が光を失なうとき 作者:花城咲一郎

第3回   明界と暗界の狭間
         [ 明界と暗界の狭間 ]


その朝
起きあがって書斎の窓を開け放った
明るい陽光で目は眩(まぶ)しかった
オレはまだ『明の世界』で生きていた
ふうっと深い溜め息を吐いた
肩から両腕を突きあげてうっと背伸びした
天空をみあげる
空はすっきり晴れわたり、ブルーに染め込まれてる
ぽっかり浮いた白い雲とブルーの天空をはっきり区別することができた
オレの目はホワイトとブルーを識別することができた
オレはまだ『明の世界』で息をしている
冷(えて)つくような暗黒の渕に突きおとされてはいなかった
目がいかれたという感覚はどこにも翳(かげ)をおとしてはいない
オレはまだ健常者なみの目をしている
その証拠に外の風景は天然色映画のように美しくオレの両眼に上映されてるからだ
手塩にかけて育てた蜜柑の樹木もいつもと変わりなくオレの両眼のレンズにおさまった
春先に白い無数の花をつけた冬蜜柑がたわわに熟してる
蜜柑の実の橙色が黄金の玉のようにオレの目の網膜に焼付けられた
書斎からみわたす畑の蜜柑の樹木から10メートルほど視線をながした
そこには樅の木と夏蜜柑の木が枝を絡みあわせ共棲(きょうせい)している
樅の木の枝は自然の形状でオレの目のレンズに反映された
濃緑の夏蜜柑の葉っぱもオレの網膜のフイルムに映(うつ)り現像されてる
春先に深紅の花を無数に咲かせた樅の木の枝先には赤い舌をだらりと垂らしたようで
セクシーな樅の実がたわわに紅く照り輝く宝石になってる
成熟した女盛りの樅の実と競りあうかのように完熟した男夏蜜柑の実がオレンジの香りをふんだんに散布してる
蜜柑の樹木のグリーンも樅の木の赤紫の肌色もオレの目のレンズに照り映えてる
オレンジ色と紅色
グリーンと赤紫
いずれもオレの目のレンズを透過してオレの目の網膜に現像されてる
だから
オレの目は正常にはたらいているはずだ
オレの目はたしかだ
どこにも疑わしい翳はおとされていない
昨夜、突如としてオレに襲いかかった蚊の幻影はまさしく幻だったのかもしれない
オレの鼻の先を左から右へ飛翔した蚊の幻影は『幻』であって欲しい
オレはそう信じたい
そんな願望を胸に抱きつつオレは書斎から廊下にでた
トイレをすませて浴室に移動した
壁に取りつけられたおおきなミラーを覗(のぞ)きこんだ
眼球を左右に移動させる
すると
オレの鼻の先を左側から右方向に黒い一匹の蚊が飛翔(と)んだ
あれほど戸外の風景が美しくオレの網膜に現像されていたのになぜだろうか
美しい戸外の風景の認知が正常なのか
それとも
いま、現実に
オレの鼻の先で飛翔した蚊の映像の認知が真実なのか
もし
ミラーのなかの認知がオレの目による現状の視覚だとすれば
たしかにオレの目はいかれてしまったことになる
そうだとすれば
もはやオレは健常者の『明るい目』による視覚にもどることはできないかもしれない
この
目の異常から逃れることはできないかもしれない
どんなにもがき喚(わめ)いてみても逃れることはできないかもしれない
そうだとするならば、この厳しい現実を素直に受容するしかあるまい
いまさら、この厳しい現実から逃避することはできまい
そうおもうと、突然 ! 込みあげてきた
涙が頬をつたわってながれおちた
オレとしたことが、年甲斐もなく、なんとしたことだ
なんてざまだ
なんというぶざまな顔だ
ふうっと溜め息を吐いた
もういちどミラーを覗(のぞ)きこむ
すると
鼻の先を左から右へ黒い蚊が飛翔(と)んだ
眼球をうごかすたびに黒い蚊は左から右へ飛翔する
「これはもう。どうしようもない」
「大学病院へゆくしかない」
独り言をいいながらオレは剃刀(かみそり)で髭(ひげ)をあたった
「こうなった以上、車のハンドルを握ることは危険だ」
「郊外電車で大学病院までゆくことにしよう」
「法律事務所には顔をださないで大学病院にゆくことにしよう」
オレはそう決め込んだ

バスで多摩鉄道の幸福駅にでた
二階建ての駅舎の階段を用心深く踏み締めながら登りはじめる
目の先が不安定な感じでぐらつき倒れそうになった
石畳を用心深く一歩一歩、確実に踏み締めながら手摺りにたよるしかない
自動券売機のまえに起つ
コインを投入したが、料金の数字がぼやけ8と6の区別があやふやだ
いいかげんでよいと中指を画面にタッチする
乗車券がおりてきてぴーぴー鳴りだす
「この野郎 ! わかってるから余計なサインをだすな」
切符を自動改札機に放り込むときも挿入口が波うちぐらついた

長いプラットホームに起ち天空をみあげる
晩秋の空は蒼(あお)く澄みわたってる
駅前ビル8階のわが法律事務所をみあげる
窓ガラスにくっきり印字されてるはずのわが法律事務所の文字がぐらつく
やはりオレの目はいかれてる

新幹線なみのハイテク電車が滑り込んできた
身体障害者のふりをしてプライオリテーシートに凭(もた)れる
昨夜は熟睡できなかったせいか、たちまちレム睡眠の渕につきおとされる
「次は〇〇です。お出口は右側でございます」
「ネクスト・テシネス〇〇。ドア、イズ・・・・・・オープン」
日本語のアナウンスにつづき英語のアナウンスがはいるが、オレにはうわのそら
こっくりこっくり船漕ぎ運動がはじまり、ドリームの世界に溶け込む

それは10年前のことだった
書斎でワープロのキーをたたいてるとページの文字が踊った
離婚訴訟の答弁書の作成がうまくゆかなくなった
慌(あわ)てふためき大学病院で高名なM博士の診断をうけた
そのときM博士はぽつりと呟(つぶや)いた
「中心性網脈絡膜炎(ちゅうしんせいもうみゃくらくえん)ですな」
「そうですか。失明の危険性はありますか」
「いえ。いますぐには、その危険性はありません」
「治療法はどうなりますか」
「しばらく薬をお飲みになってください」
「薬事療法ですか」
「ええ。まあ。2週間後にいらしてください」
「どうもありがとうございました」
薬を服用してるうちに活字は踊らなくなった
「もう。これで完全に治癒したらしい。薬は要(い)らなくなった」
ドクターの許可もなく通院しなくなった
「あの当時、完全に治癒しておくべきだった。悔やまれてならない」
「それを放置したことによる自己責任がつけになって巡ってきたんだ」
自分の愚かさに歯軋(ぎし)りするばかりだった

ハイテク電車は鉄路をはしりつづけた


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