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作品名:自分が光を失なうとき 作者:花城咲一郎

第10回   単眼の屈辱
           【単眼の屈辱】


桜門大学病院のフロントからオレは街路にでた
眩(まぶ)しくて足許はおぼつかなかった
散薬を両眼に注入して瞳孔が開いているためだった
スローモーな足取りでニコライ堂の脇からお茶ノ水駅に向かった
駅前の交差点では赤信号になっていた
目を細くして青信号を待つ
隣の人がうごきはじめた
青信号に変わったらしい
人や車との衝突を避け用心深くゆっくり歩をすすめる
学生時代からの馴染(なじ)みの駅舎に辿りつき券売機のまえに起った
瞬きしながら券売機にコインを投げ込む
からからと軽快な音がしてコインがおちてきた
よくたしかめるとおちてきたのは1円硬貨であることがわかった
100円硬貨を投げ入れたつもりだったが1円玉をいれてしまったらしい
やはりオレの目はいかれてしまった
まともに目がはたらかないことの惨(みじ)めさをじいんと感じた
指先でコインを撫でまわしよくたしかめてから100円玉を投げ入れる
すると切符が顔をだしピーピーとサイン音が鳴りだした
切符を摘みあげ自動改札機に投げ込み改札口の関所を通過する
その先は降りの階段になっている
一段いちだん神経を尖らせて一歩ずつ踏み締めスローモーに降りてゆく
プラットホームに降りたったら折りよく電車が滑り込んできた
プライオリテー・シートに凭(もた)れて目を瞑(つぶ)る
ハイテクトレーンは軽快に走りだした
63型など昔の電車のような振動はなくなり滑らかに鉄路を滑ってゆく

やがて郊外の武蔵野にさしかかり多摩鉄道の幸福駅でプラットホームに降りたった
わたしは階段を一歩一歩踏み締め2階建ての駅舎に昇っていった
自動改札機にチケットをさしこみ改札の関所を通過する
駅前ビルの法律事務所には立ち寄らないで幸福駅の西口に降りた
まだ瞳孔が開いたままで光線の感度が鋭く目はちかちかしている
人や車に衝突しないよう神経を尖らせながら駅前広場を左折した
そこは幸福市のメーンストリート銀座通りだった
瞳孔が開ききったオレの目はまだちかちかしていてゆき交う人も車も怖かった
どいつもこいつもオレの往路を遮断していて腹立たしい
50メートルほど先に鮮魚料理の専門店『うな扇』の白い暖簾(のれん)がそよ風に
揺れていた
白い生地に黒く太い文字で『うな扇』と染めこまれた暖簾は認知することができた

ゆっくりあるきつづけ白い暖簾に辿りついた
オレが暖簾を潜ると和式の自動ガラス戸がするっと開いた
「いらっしゃい」
カウンター超しから聴き馴れたマスターの威勢のいい太いボイスが跳ね返ってきた
カウンターの片隅のオレが自分で決めた指定席にあがりノッポ椅子のうえにカバンを載せる
「ごぶさたしてます。マスターお元気そうで」
「ええ、まあ。きょうはなんになさいますか」
白衣を纏(まと)ったマスターはカウンター超しにお絞りをさしたした
「いつものでいい」
わたしは熱いお絞りを両目に宛がい指のハラでじっと押さえる
お絞りの温もりがここちよく瞼に伝わってくる
街頭の埃と瞳にこびりついた油脂分がタオルの熱で分解され目は爽(さわ)やかになった
「はい。どうぞ」
マスターは樽生(たるなま)の一番搾りを満杯にした泡立つジョッキをさしだした
「どうも」
オレはお絞りをまるめ竹造りのお絞り受けにもどした
わたしは右手でジョッキを掲げぐいとひとくち一番搾りを啜(すす)りあげる
「ああ、うまい」
爽快感が頭の天辺から足のウラまで染みわたった
目を弄(いじく)りまわす眼底検査でこちこちになった不快感は一掃された
凝り固まったストレスは溶解されノッポ椅子のしたの床に沈殿していった
マスターは仕立てあげ煮え立つ柳川の土鍋を朱塗りの鍋桶に載せ蓋をした
「熱いですから、お気をつけて」
慎重な手つきでマスターはカウンター超しに土鍋をさしだした
オレは朱塗りの鍋桶の蓋の左右にあてた指を支点にしてくるりと蓋を裏返した
ぶつぶつ煮え立っている土鍋からもうもうと湯気がたちのぼる
ふうふう吹きながらオレはドジョウをぱくついた
ほんのりと牛蒡(ごぼう)の香りが鼻をつく
「はい、お待ちどうさま」
おおきな硝子容器に敷いた氷のうえに艶(あで)やかに鯉の肉を盛りつけた
『鯉のあらい』をマスターはカウンター超しにさしだした
「おお!! これは活きがいいな。まだ鯉は残っていたんか。鯉ヘルペスでもう
鯉は食べられないと諦めていたんだが」
オレは舞いあがるおもいで鯉肉の一切れを酢味噌に塗(まぶ)しくちにいれた
この鯉の栄養分がオレの眼底にまでゆきわたればオレの眼底も安定してこよう
そうなるにちがいない
きっとそうなるにちがいない
オレはそう信じ込み鯉肉をぱくついた
この発想は心理学における暗示療法だった
オレの眼底は出血がストップし安定してくるにちがいない
なんどもなんども
おなじセリフをハートのなかで繰り返し自己暗示をかけてゆく
しだいに自己暗示のエフェクトが昂進(こうしん)していった
目のちかちかはぴたりとストップした
これまで
ちかちかしていた目はしゃっきとしてきた
「はい、『うざく』ができました」
蛇の目切りにした新鮮なキュウリのうえに鰻の切り身を載せた酢の物だった
マスターは小皿に盛りつけた酢の物をオレの目の前にさしだした
蛇の目に刻んだ新鮮なキュウリの緑が目に染みこんだ
甘酸っぱい酢の物の香りがぷうんと鼻をつく
「もう、鰻を焼いてもいいですか」
マスターはオレの顔を覗(のぞ)き込んだ
「そろそろ焼いてもらうか。そのまえにビン生1本もらおうか」
オレは飲み残しのジョッキを傾けぐいと飲み干した
「はい。ビン生です。グラスをどうぞ」
マスターは王冠を撥ねた一番搾りをさしだした
「マスターもグラスをどうぞ」
オレはカウンター超しにマスターがさしだした小ぶりのグラスに
神経を集中して用心深い手つきでビン生をそそいだ
「おっとっとっと」
マスターはあわててグラスをオレが支えたビン生のくちもとに寄せた
「オレの手元が狂って零(こぼ)れたかな。ごめん」
マスターはテーブルのうえにかなり溢れてしまった白い泡を布巾で拭き取った
オレは酷い屈辱感に冴(さ)えなまれた
わたしは鯉肉を盛りつけた硝子容器の縁に右手に持ったグラスを押しつけた
左手もグラスにかけて用心深くビン生をそそいだ
けど
右手は震え手元がぐらつき頭の芯にずきりと傷みがはしった
「きょうは眼底検査をしたんでね。散薬で瞳孔を開いてから、いやというほどドクターに
目を弄くられたんだ。それで、やたらと眩(まぶ)しいだけでなく、眼前のものがみんな
惚(ぼ)けてみえるんだ」
「そうでしたか。それはたいへんでしたね」
マスターはガスレンジに向かい団扇をぱたぱたさせながら鰻を焼きはじめる
オレはマスターのグラスにビールをつぎそこねた
こんな惨(みじ)めなおもいをしたことはない
かなり用心したんだがつい手元が狂ってしまった
それは単に瞳孔が開いたせいだけではないかもしれない
カメラのフィルムにあたる網膜に新生血管が形成され勝手に切れて出血してしまった
大切なフィルムは縮(ちぢ)れてしまい正確な像を結ぶことができなくなってしまった
そのせいで手元が狂ってしまったのかもしれない
もしそうだとすれば
これはたいへんなことになってしまった
グラスを握るオレの手は高血圧患者のようにわなわなと震えた
オレの人生はおおきなおおきな転換期にさしかかってしまった
それもマイナス方向に向かって歯車は坂途を降りはじめている
ここでハンドルを握りなおしなんとかプラスの方向へ転換しなければならない
オレはグラスに左手をかけ視野のぐらつきを堪えながら右手で一番搾りのビンを支え
慎重にビールをグラスにそそいだ


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