20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ
 ようこそゲストさん トップページへ ご利用方法 Q&A 操作マニュアル パスワードを忘れた
 ■ 目次へ

作品名:自分が光を失なうとき 作者:花城咲一郎

第1回   飛翔する蚊の幻影
  【詩小説】   
          自分が光を失なうとき 

                 
                 飛翔する蚊の幻影
 
大宇宙自然のなかでも美しい星といわれるようになった地球が人類によって
温暖化されたせいかもしれない。
 その年の夏は摂氏35度を超える稀にみる連日の猛暑が日本列島の隅々に
まで覆いかぶさった。
 ビールの売れ行きが好調で消費量はウナギノボリだった。
 海水浴場は大賑(にぎ)わいになった。
 川遊びをしていた学童が深みに嵌(はま)って溺れ死んだ。
 遊泳禁止区域で無茶をしていた若者が高波に浚(さら)われて水死してしまった。
テレビニュースは水の事故の急増に警告を発し電波に載せ悲惨な事故現場を放映した。
 それでもなお水の事故は頻発(ひんぱつ)してやまなかった。

 生来、暑がりやのわたしは真冬でもカバンに扇子をいれもちあるいている。
 暖房が効きすぎた車内は暑狂しくなっているから扇子をつかうしかない。
 周りに気兼ねしながら扇子をつかってると変わり者だと乗客の視線があつまる。
 真冬で暖房のシーズンだというのにこの先生はと違和感があるのかもしれない。
暑がりやのくせに法律事務所ではクーラーをいれずに窓を開け天然の風にたよってる。
 省エネ運動のリーダーというもうひとつの顔を潰(つぶ)すわけにはゆかないんだ。
 だから法律事務所ではクーラーをいれることはできない。
 自宅の書斎でもクーラーをいれないし扇風機も埃(ほこり)を被ったままだった。
 体温を調節するためからだは自己をまもろうとして無意識のうちに明確な脳からの指令をまたずにやたらと汗をかくのだ。
これも自律的に自分を擁護(ようご)するための一種の『防衛機制』なのかもしれない。
大量に汗をかくからアンダーシャツもワイシャツもまいにち取替えなければならない。
 まいにちシャワーを浴びなければ汗臭くってレディーにソッポをむかれてしまう。
 シャワーを浴びてからビールを書斎にまちこみ爽快感(そうかいかん)を満喫(まんきつ)する。
 ビールを飲んで爽快感を満喫したというのにやたらと喉(のど)が渇いてくる。
 ビールが効いてきて爽快感がましてきたはずなのになぜやたらと喉が渇くんだろう。
 わたしはワープロのキーをたたく手を止めふと首を傾(かし)げる。
 ひょっとしたらビールは体内の水分を体外に排出する作用があるのかもしれない。
 医学の知識がないわたしにはそのような医学的・生理学的なメカニズムはよくわからない。
 喉が渇いたと云い渇いた喉を潤(うろお)そうとビールをしこたま飲み干すと喉はいっそう渇きまたビールを飲むという悪循環がつづく。

 その夏も猛暑は過ぎ去りコオロギが啼(な)くシーズンになった。
 書斎の窓を開け放ったたままデスクに向かい判例集を捲る。
 哀愁(あいしゅう)をおびた『ツヅレサセコオロギ』が啼きはじめる。
 このシーズンになってからはコオロギの初啼きだった。
 三日が経ち満月の夜になった。
 その夜には『ミツカドコオロギ』が啼きだした。
 一週間が経った。
 エンマコオロギが啼きはじめる。
 玉を転がすようにエンマコオロギが啼きつづける。
 三連音符をピアノで連打するかのようにエンマは啼き誇る。
 やがてけたたましい啼声で青マツムシが演奏しだした。
 夜毎に虫の合奏は華やかにくりひろげられてゆく。
 マンモス都市の郊外では朝夕めっきり涼しくなってきた。
 書斎の窓を開け放ったままデスクに向かいワープロのキーをたたく。
 離婚訴訟の答弁書を打ち込みおえて推敲をはじめる。
「パパ、お食事ができました」
長女の法子が書斎を覗(のぞ)き込む。
「ああ、そいじゃ飯にするか」
みあげると壁時計の長針がぴくりとうごき夜の8時になった。
その夜の食卓は一家団欒(だんらん)で賑(にぎ)わった。

その夜のことだった。
いつもの手順で口腔の手入れをはじめる。
ヘサキがぴんと張った新しいブラシを水道水で洗浄する。
その空(から)ブラシで『歯周ポケット』にヘサキをすりつけブラッシング。
この第一ラウンドで歯と歯肉との境界線はきれいに清掃される。
つづいて別の第二ブラシにGUMのペーストを載せ歯肉と歯の境界線に
ブラシをあてじくじくブラシを小刻みに左右運動させ歯垢をおとしてゆく。
最後に第三ラウンドにはいる。
別の3本目のブラシにGUMのペーストを載せ上下左右そして裏表と
縦にブラシをあててゆく。
縦磨きが終えるとこんどは横磨きにすすむ。
およそ45分で第三ラウンドを完了する。
フルコースを完了して口腔全体を総点検しようとくちをおおきく開け洗面台の
ミラーを覗きこむ。
すると鼻の先で一匹の蚊が跳んだ。
もはや蚊が跳ぶシーズンではないはずだが生き残りの一匹なのか。
これはおかしいと眼球を左右にうごかしてみる。
すると黒い一匹の蚊が左目の縁から右目の方向に鼻先をよぎって飛翔した。
やっぱりおかしい。
もういちど眼球を左右にうごかしてみるとやはり一匹の蚊が跳んだ。
もはや実在していないはずの蚊の幻影がオレの鼻先で左右にひらりと飛翔する。
これはおかしい。
実在しないはずの蚊の幻影が飛翔するとは目の異常にちがいない。
信じられない現象が現前で生起した。
どうしよう。
蚊が鼻の先を飛翔する現象を正確に認知するため洗面台のミラーを覗きこみ
瞬(まばた)きをしてみる。
すると右目の眉毛が垂れさがってる。
右指で眉毛を撫でつけた。
もういちどミラーを覗きこむ。
それでも眉毛は垂れさがって見える。
指の触覚としては眉毛は垂れてはいないはずだ。
それなのに目による視覚でたしかめると眉毛はたしかに垂れて見える。
現実には垂れていないはずの眉毛が垂れて見えるのだ。
垂れた眉毛の視覚による認知は眉毛の幻影を見てるんだろう。
鼻の左側から鼻の右側に飛翔した蚊も幻影なのか。

今宵(こよい)、突然に現前で蚊が跳んだ。
オレの現前で黒い一匹の蚊が左から右へ飛翔した。
突然、オレの現前で垂れていないはずの眉毛が垂れて認知された。
なんとしてもこれはおかしい。
どう考えてみてもおかしい。
いくらたしかめてみても現前に眉毛など垂れてはいないはずだ。

オレは書斎に移動した。
念のためデスクの曳(ひ)きだしから手鏡をとりだし翳(かざ)してみる。
眉毛はどこにも垂れてはいない。
壁に設置された大鏡を覗いてみると眉毛が垂れてみえる。
なぜか。
あたまが混乱してきた。
右指の腹で眉毛を逆なでしてみる。
逆なでして垂れた眉毛を一本ずつていねいに毛抜きで抜き取る。
もはや垂れた眉毛はなくなったはずだ。
あらためて大鏡を覗き込む。
それでもなお眉毛は垂れさがって見える。
デスクに向かい回転椅子をぐるりとまわし天井を見あげる。
ふうっと溜め息を吐いた。
オレの目はいかれてしまった。
これだけたしかめてもおかしいのだ。
オレの目はいかれてしまったというしかない。
目に異状がおこると蚊が跳ぶようなサインがでるということだけは法律屋の
オレも識っていた。
心理学的に解釈すれば目に異状がおきたからなんとかしろとサインをだし
からだは自律的に警告してるんだ。
だったらなんとかしなければならない。
オレは目の異常を信じたくはなかった。
回転椅子をぐるりとまわし起ちあがった。
書斎の電灯をめいっぱい明るくした。
書斎は真昼のように明るくなり太陽光線のような照度になった。
太陽光線並みに明るい照度のなかでもういちど自己観察をはじめる。
壁に造りつけられた大鏡を覗き込み眼球を左右に移動する。
するとこんどは3匹の蚊が鼻の先で左側から右側へと飛翔する。
なんどもなんどもおなじパターンのテストを繰り返してみる。
だが、なんどテストしてみても左右に3匹の蚊の幻影が飛翔する。
手鏡をデスクのうえにおいて壁に掛けられたカレンダーをみつめる。
すると、カレンダーに配列された数字が踊りはじめる。
視野がぐらつき、カレンダーの数字の配列が波打って見える。
動画じゃあるまいし、スターチックな数字の配列が動画に変動してしまう。
横並びに印刷され直線に配列されているはずの文字が曲線のように
波打ってしまうのだ。
こりゃたへんなことになってしまった。
もはやこうなってしまったのだからこの現実から逃れることはできない。
この厳しい現実をすなおにうけいれるしかない。
自己観察はおしまいにした。
キチンに起ちウイスキーグラスに水割りを仕立てる。
書斎にもどりデスクのまえに起ったまま水割りをがぶ飲みした。
ガウンに着替えベッドに潜り込む。
寝つかれない一夜になった。


次の回 → ■ 目次

■ 20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ トップページ
アクセス: 8339