深夜の階段が軋り、ハンガーに掛けられた着物を捧げるようにして ふたりの若者が日本間にもどってきた。 ハンガーに掛けられた、色鮮やかな着物が、深夜の日本間に妖艶 なムードを醸しだした。 「オ待タエシアシタ。此ノォ」 小榊賢一は、ハンガーを左手で支えながら、右手で着物の袖を横 一文字にひろげた。 「絹織物ノ着物ア、ホレ、此ノ通リノ普段着デ御座エアスダ」 無地の絹織物を紺色に染め抜いた艶やかな衣装を賢一は得意満面 でひけらかした。 「ほう。普段着がそのぉ」 着物の袖を横一文字にひろげた賢一の素朴な姿に林太郎は蕩れる。 「絹織物とはね。郷の外のこちらの世界では、絹織物といえば高級品だ。 その高級品を普段着にするとは羨ましいかぎりだ。これはまた実に見事 な衣装だね。それに麻織物の着物もあるということですが」 「ハイ。エエト」 賢一が絹織物の生地で縫いあげた紺色の着物を右手で捲りあげると、 その下から無地の麻織物を紺色に染め抜いたモンペが艶やかに浮かび あがった。 「麻織物ノ着物ト言エバ、ホレ、此ンナ着物デ御座エアスダ」 「ほう。小松原郷の外のこちらの世界では、麻織物といえば、これもまた 高級品として今時、なかなか手にはいらない逸品だ。その麻織物の着物 が普段着とはね。ほんとに羨ましい。夢のようなはなしだ」 林太郎も、山形も感服したまなざしで衣装に蕩れる。 にたりとした賢一は、ハンガーを壁に掛け、堀炬燵にはいる。 「アタイノモ」 待ちわびていた幸恵は、ハンガーから着物をはずし、細くしなやかな 下半身に宛がう。 「御覧クダセエアシ。此方ガ絹織物デ御座エアスダ」 無地の絹織物の生地で縫いあげた純白な着物の袖裏は、深紅に染め 込まれた生地で縫いあげられている。 艶やかな着物から迸る妖艶な香りが深夜の日本間に恍惚感を漂わせた。 「此方ガ其ノォ」 幸恵は、純白な絹織物の生地で縫いあげた着物を畳のうえに置いた。 彼女は、モンペをハンガーからはずし、麻織物で縫いあげられ、深紅に 染めこまれた艶やかな衣装を、しなやかで線の美しい腰にあてがった。 「麻織物デ御座エアスダ」 「ううん。これはまた」 山形検事は、美しい線を描く艶やかな幸恵の姿態に蕩れ、溜め息を吐く。 「実に見事な出来栄えですな。頭の先から足の裏まで、ぴりっとデンキが はしった。なんともいいようのない素晴らしい衣装だ。幸恵さん。その着物 を着て、山小屋で見せてもらった、あの素晴らしい舞をもういちど舞っていた だけますか」 「そうだね。幸恵さん」 林太郎が細い狐目の白い瓜実顔をみあげた。 「ぜひ、もういちど、あの素晴らしい舞を舞ってくださいませんか」 「其レデア、アタシノ舞ヲ舞ワセテ戴キアスケエニ。一寸、着物ヲ 着替エサセテ戴キアスケエ。オ待チクダセエアシ」 幸恵は絹織物の生地で縫いあげた純白な着物をもちあげた。 「あ ! 。着替えは、その襖を開けて隣の部屋でなさってください」 「判リアシタ。ソレデア」 林太郎の声を背にして幸恵は襖の向こうに消えてゆく。 まもなく襖が開いて、着替えた幸恵が艶やかな姿をあらわした。 「オ待タセシアシタ」 幸恵は、襖を背景にして、白い瓜実顔の細い目で宙を見据えた。 「此レカラ舞イアスケエ。賢チャン歌ッテ」 「其レデア、歌ワセテ戴キアス」 賢一は炬燵から抜けだし、畳のうえにきちんと正座した。 「今カラ、歌ト踊リヲ御披露致シアス」 胸を張って賢一は歌いだした。 賢一の歌にあわせて、しなやかに幸恵は踊りはじめる。
賢一『 ♪♪ 榊ノ枝ニ 掛ケマショウ 鏡ト玉ヲ 掛ケマショウ 嗚呼 ! 神ノ代ノ 岩戸前 ! ♭♯ ♪♪ 岩戸ガ サット 開キマシタ 神楽ノ舞ヲ 舞イマショウ 嗚呼 ! 面白ヤ 面白ヤ ♭♯ 』
素朴で清らかな小榊賢一の歌声にあわせて、細い狐目で白い瓜実顔 の幸恵が艶やかに踊りつづけた。 夜更けた椿家の離れ家にはタイムトンネルを潜り抜け神話『天の岩戸』 のステージに降りたったようなムードが醸しだされていた。 小榊幸恵が舞いおわると拍手が湧きおこった。 その拍手を一身に受けた幸恵は、小松原郷における『お籠り』の館に 出頭するときの正装のまま掘り炬燵にはいった。 「やあ。素晴らしい舞でした。このぉ」 山形検事は、ふたたび拍手をおくった。 「まるでタイムトンネルを一気に潜り抜けて神の代の世界に吸い込まれて いったような感じだ」 「ほんとに素晴らしい舞でしたね」 林太郎は、炬燵の脇のテーブルから、お節料理が盛り込まれた重箱を 炬燵板のうえに移し、グラスを分配した。 「素晴らしい舞で盛りあがったところで、感謝の気持ちを込めてビールを 振る舞うことにしましょう」 林太郎はビールの栓を抜いて幸恵に勧めた。 「椿弁護士もどうぞ」 冗句紛いに山形は林太郎のグラスにビールをそそいだ。 山形検事は賢一のグラスにビールをそそぎ、自分のグラスにもビールを そそいだ。 「それではいただきましょう」 山形はイニシアチブをとった。 「戴キアス」 賢一はグラスを目の高さにささげた。 幸恵は賢一に見習うように、 「戴キアス」 と、グラスをかかげる。 「ええと。お節料理は、その」 林太郎は、ぷんぷん酢の香りがする膾(なます)を小皿にわける。 「お手元の小皿にわけて召しあがってください。ええと。ビールで 喉が潤ったところで先程のはなしのつづきを聞かせてください」 「ビールガ、トッテモ美味シイモノダト判ッテ来アシタダ」 賢一は、飲み干して空になったグラスを舐めまわした。 「マア。賢チャンッタラ。オ行儀悪イ」 細い狐目をおおきく開けて幸恵が賢一の仕草を窘めた。 「ああ。ビールはこのとり」 林太郎はビールの栓を抜いて山形のまえにさしだした。 「たくさんありますから。どしどし飲んでください。賢一君には山形 から注いでやってくれないか」 「OK ! 賢一君どうぞ。さあ。遠慮なく」 賢一がさしだしたグラスに、山形は並々とビールをそそいだ。 「澄イアセン。戴キアス」 天井を見あげるようにして賢一はグラスを傾ける。 「賢一さん。喉が潤ったところで、あのぉ」 右手にグラスを握ったまま林太郎は賢一の顔を見つめる。 「先程のはなしの続きを聞かせてください。ええと。小松原郷に おける衣料品のはなしで、絹織物と麻織物が中心ということでし たが。それでは、木綿類は用いていないんですか」 賢一『俺ア、“モメン”トイウ言葉ア、聞イタ事ガ無エダガ』 「エエト。其ノ『モメン』言ウモンハ有リアセンダ。ハイ」 「あ、そうですか。そうすると農作業のときなどには、どんな野良着 になるのですか。郷の外では、野良着といえば木綿ですが」 「ハイ。作業ノ時ニ着ルモンア、絹織物トカ麻織物デ造ッタ着物ノ 着古シヲ其ノ儘、使ッテ居アスケエ。ハイ。別ニ不自由ハシテ居リ アセンダ」 「なるほど。そうですか」 林太郎は、爛々と輝く賢一の強い目と視線をあわせた。 「そうすると、絹織物を織りあげるためには、絹糸が必要になりま すが。絹糸の原料になる繭を生産するための養蚕もしてますか」 「ハイ。山ノ中腹ニア、段々畑ガ有リアスケエ。桑ヲ育テテ居アス ダ。何処ノ家デモ養蚕ヲバ遣ッテ居リアスダ。蚕ガ吐キ出シタ繭ヲ 糸繰機デ絹糸ニ紡ギ、機(ハタ)織機デ絹織物ニ仕立テアスダガ。 糸繰機ヤ機織機ア、何処ノ家デモ備エテ有リアスダ」 「そのようにして絹織物はできあがるとして、もう一方の麻織物を 仕上げるための麻も栽培しているんでしょうね」 「ハイ。麻畑デア、麻ヲバ栽培シテ居アスダ。麻糸ヲ紡イデ機織機 ニ掛ケ、麻織物ヲ仕上ゲルノデ御座エアスダ」 「そうすると、絹織物や麻織物を造り、衣料品つまり衣生活は自給 自足できると」 「ハイ。然様デ御座エアスダ」 「要するに小松原郷では、食生活と衣生活とは自給自足の態勢が 確立されているわけだが、人間の生活にとって欠かせない熱源たる 燃料としては、なにを使っていますか」 賢一『俺ア、“ネンリョウ”ナドイウ言葉ア、聞イタ事ガネエダ』 胸のなかで賢一は酷く引け目を感じた。 「エエト。其ノ」 長髪を肩まで靡かせた賢一は、おおきく強い目を細めて首を傾げる。 「タッタ今、先生ガ言ワレタ“ネンリョウ”ト仰イアスト、何ンノ事デ有リ アスカ」 「あのね。ほら」 林太郎『この男はいったい、どういう教育を受けてきたのか』 胸のうちで腹立たしくおもったが、林太郎はその苛立ちを堪えた。 「料理をするときに必要な熱源としては、なにを使っていますか」 「アア。其ノ事デ御座エアスカ」 賢一は胸のなかで自分を嘲るしかなかった。 「彼ノ山小屋デ兎汁ヲ造ッテ貰ッタ時ニア、蒼イ炎デ燃エル便利ナ モンガ有リアシタガ。郷ニア、ソゲエナ便利ナモンア、御座エアセン ダ。ソウダスケエ、薪ヤ木炭ガ熱源ニ成ッテ居アスダガ」 「そうですか。よく判りました。そうすると夜になってからの照明とし ては、どんな灯かりを使っていますか」 「ハイ。夜ノ灯カリシテア、石油ランプガ有リアスダガ」 「小松原郷では、郷の外との交流はなく、鎖国状態といわれますが、 その石油ランプには欠かせない石油は、どのようにして調達してい るのでしょうか」 「ハイ。エエト。其ノ」 胸を張っていた賢一は肩を窄めて炬燵板のうえに目をおとした。 「アノゥ。石油ア、塩ト同ジク、郷ノ一番奥ノ岩穴カラ出テクルト聞カ サレテ居アスダガ」 「その岩穴で石油を採掘しているのでしょうか」 「エエト。其ノ事ニ就イテア」 賢一は返事を逡巡い、いっそう肩を窄めてしまった。 「其ノ岩穴カラ石油ガ出ルカドウカニ就イテア、郷民ニア、何ンモ 知ラサレテア居アセンダ。ハイ」 「ほう。郷民には知らされていないと。そうすると石油が郷のいちばん 奥の穴倉から採掘されてるんなら別ですが。もしも採掘されていない のであれば、柏崎辺りの『日の本石油』の販売ルートかなにかを通じ て、郷の外から調達し、岩穴の奥に貯蔵しているのかもしれないね。 多分そんなところでしょう」 「其ノ辺ノ事情ア。其ノォ」 賢一は、ようやく背筋を延ばし林太郎と視線をあわせる。 「全ク郷民ニア知ラサレテ居アセンデシタダ。兎ニ角、石油ア貴重ナ 資源ダト言ウ事デ、無駄ナ消費ヲ防グ為、配給方式ニ成ッテ居アス」 「そうでしょうな。そうすると、これまでのはなしによれば食料品、衣料品 や燃料などは確保されているわけですから、郷の外との交流はなく、 鎖国状態といっても、小松原郷の内での郷民の生活は成り立つという ことになりますね」 「ハイ。椿先生ノ仰ル通リデ御座エアス」 「ところで、その」 林太郎は自分のグラスにビールをそそいだ。 「小松原郷における学校などの教育施設はどうなっていおりますか。 こんどは幸恵さんからはなしていただきましょうか」 「判リアシタ。ソイジャ選手交替デ、此処カラ先ア、雪チャン話シテ」 小榊賢一は小榊幸恵の背中をぽんとたたいた。 「それでは、ここからは」 林太郎は、細い狐目で白い瓜実顔の幸恵と視線をあわせる。 「幸恵さんにお聞きしますが。学校などの教育施設はどうなってい るのでしょうか」 「ハイ。其レデア、アタシカラオ話シサセテ戴キアスダ。先ズ学校 トシアシテア、二階建ノ校舎ガ有リアスダ。学校ノ先生ア、三人居リ アスダガ。ハイ」 「なるほど。二階建ての校舎と3人の先生ですか。その程度の規模 でしたら、郷の外では、さしづめ小学校の分教場とか、山間僻地の 小さな小学校というところでしょうか」 「然様デ有リアスカ。郷ノ学校ノ話ヲ続ケアスダ」 幸恵は炬燵板のうえに眼をおとして語りだした。
幸恵『小学校ノ校長先生ア95歳ト言ウ高齢デ女先生デ有リアスダ。 此ノ女先生ア、小松原郷デア一等最初ノ先生ダッタソウデ有リアスダ。 校長先生ア郷民カラ大変、尊敬サレテ居アスダ。三人ノ先生ノ中、一人 ダケ50歳ヲ過ギタ男先生ガ居リアスダ。モウ一人ノ先生ア未ダ20歳代ノ 若ケエ女先生デ有リアスダ。校長先生以外ノニ人ノ先生ア、校長先生ノ 教エ子ダソウデ有リアスダ。校長先生ア、小松原郷ノ創設時代ニ、郷ノ 外カラ招聘サレタ偉イ先生ダト教ワッテ居アスダガ」
「なるほど。郷の外から招聘された偉い先生ね。その校長先生がいらっ しゃる学校は、小学校ですか。それとも中学校ですか」
椿弁護士『小松原郷の創設時代に郷の外から招聘されたとされる伝説 のなかの教師は、敗戦間際のその当時、新里村周辺一帯で続発した 強盗・略奪事件の一環として捜査され、迷宮入りの未解決事件として、 のちに判明することとなる“教師誘拐事件”の被害者たる「国民学校」の 訓導であったことを、この席でわしはまだ識らなかった。実は、郷民から 尊敬される95歳の女老教師は迷宮入り事件の被害者だったのだ』
幸恵『アタシア、学校ト言エバ“郷民学校”ノ事ダトバカリ思ッテ居タ。其レ ナノニ“ショウガッコウ”ダノ“チュウガッコウ”ダノト椿先生ア仰ル。果テ?』 「エエト。其ノ」 細い狐目をおおきく開けた幸恵は、林太郎と視線をあわせ首を傾げる。 「仰ル事ガ良ク判リアセンダ。其ノ“ショウガッコウ”トカ“チュウガッコウ”ト 言ウノア、此処デ今、初メテ聞ク言葉ダアスケエニ。其ノ意味ガ良ク判リ アセンダ。郷ノ外デア、ソゲエニ、イロンナ学校ガ有ルンデ有リアスカ」 「まあね。郷の外の日本列島では、それはもう、いろんな学校があるので すが。そうすると小松原郷の学校は、なんという名称の学校ですか」 興味深そうなまなざしで、林太郎は白い瓜実顔をみなおした。 「ハイ。小松原郷ノ学校ア、郷民学校ト言イアスダガ」 「なるほど。『郷民学校』ですか。実は、小松原郷の外の日本列島では、 太平洋戦争の時代に、それまでの小学校という名称から『国民学校』と 改称されました。そうした歴史的事実が残っているのですが。小松原郷に おける郷民学校という名称からすれば、なんとなく太平洋戦争時代の日本 列島の教育現場の状況と酷似しているような感じがしますな」 「然様デ御座エアスカ」 「その郷民学校では、どんな教科書を用いておりますか」 「ハイ。郷民学校ノ教科書ア、和紙を使ッテ居アスガ、其ノ和紙ノ上ニ筆デ 文字ヲ書イテ、其レヲ紙縒リト糊デ綴ッタ丈夫ナ本ニ成ッテ居リアスダ」 「ほう。なんだかそのぉ」 林太郎は上半身を乗りだし幸恵の顔を見据えた。 「江戸時代の和綴じの本の装丁を連想させられますね。その教科書 に用いられている和紙も郷民が漉きあげたものですか」 「ハイ。畑デア」 幸恵は、背中まで垂れた長い髪を両手で梳るように掻きあげた。 「紙ノ原料トナル楮ヲ栽培シテ居アスガ、刈リ取ッタ楮ノ茎ヲ蒸シテ、 其ノ皮ヲ剥取リ、良ク叩イテカラ、ドロドロニ溶シ、冬場ノ手ノ空イテル 季節ニ、紙ヲ漉キアゲルノデ有リアスダ。其ノ紙デ教科書ヲ造ル訳デ 有リアスダ。ハイ」 「そうですか。まるで時代劇のシーンに見られるような情景ですな。 紙の原料になる楮は、春になると淡黄緑色の花が穂状に咲き、夏に なれば赤い実をつけるんだ。わしも子供のころ、楮の実を食べたこと がある。懐かしいな」 林太郎は腕を組み、昔懐かしそうに天井を見あげる。 「桑の実は、オレも」 山形は林太郎の横顔に見入った。 「食べたことがあるが、楮の実は食べたことがないんだ」 「然様デ有リアスカ。甘酸ッパイ味ガシアスカラ」 幸恵は山形に視線を移した。 「兎に角、教科書はその」 白い瓜実顔をした細い狐目の幸恵を林太郎を見据えた。 「和紙に毛筆で書き込んだ文字通りの手製ということですが。郷民 学校では、その教科書を用いて3人の先生で教えているわけですね」 「ハイ。1年生ト2年生ガ一緒ニナッテ」 幸恵は細い狐目でじいっと林太郎を見つめる。 「同ジ教室デ学ビアスダ。此ノ学級ア、若エ女先生ガ担任シテ居リ アスダ。ソシテ3年生ト4年生ガ一緒ニナッテ1学級を編成シ、此ノ 学級ア男先生ガ担任シテ居リアスダ。更ニ5年生ト6年生ガ一緒ニ ナッテ1学級ヲ編成シ、此ノ学級ア、校長先生ガ受持ッ居リアスダ。 ソウダスケエ。結局、全部デ3学級ト言ウ事ニ成リアスダ」 「なるほど。そのように、このぉ」 林太郎は幸恵と視線をあわせた。 「1学級が複数の学年で編成されていることを『複式学級』というん ですよ」 「然様デ御座エアスカ。ソスルト郷民学校ア、『フクシキガッキュウ』 ト言ウ事ニ成リアスカ」 「ええ。小松原郷の郷民学校の学級編成は、典型的な複式学級で すね。その沿革を辿れば,教育史のうえでは、いわゆるダルトンプ ランによる複式学級として識られております」 「然様デ御座エアスカ」 「そうすると。その」 林太郎は、細い狐目をたしかめるように凝視する。 「郷民学校を卒業した者は、そのまま家業を手伝うことになりますか」 「ハイ。然様デ御座エアスダガ。主トシテ」 幸恵は炬燵板のうえに眼をおとしした 「男ア、田圃ヤ畑ニ出テ農耕ニ従事シアスガ。女ア養蚕トカ家事ヲ受 持ッテ居リアスダガ」 「そうでしたか。人跡未踏の秘境の暮らしぶりがよくわかりました」 「尤モ郷祭司様ノ大榊儀左衛門家ダケア、別格デ有リアスダガ。其レ 以外ノ小榊ノ姓ヲ名乗ル総テノ郷民ア、汗水流シ、真黒ニ成ッテ働イ テ居アスダガ。ハイ」 両肩をおおきく揺らせて、幸恵は深い溜め息を吐いた。 「なるほど。小松原郷の現況はよく判りました。これまでのお話しに よって、郷における郷民の暮らしぶりが浮き彫りにされました。要する に小松原郷では、郷祭司の大榊儀左衛門を現人神とする君主主義 ないし専制主義の政治体制が採られているということのようですな」 賢一『現人神ハ判ルガ、クンシュシュギ、センセイシュギ、何ンテ言葉 ノ意味ガサッパリ判ラナイ』 「椿先生。彼ノォ」 賢一は、おおきな鋭い目で林太郎を見つめ、首を捻った。 「エエト。先生ノ今ノ話ア、何ンノ事デ有リアスカ」 「あのね。専制主義とか君主主義など判らなくてもいい」 「ハイ。然様デ有リアスカ」 自分の無知に、かなり引け目を感じた賢一は、照れ隠しのように、 飲み干して空になったグラスを右手に持って舐め擦りまわした。 「ああ。ビールなら、ありますから、どうぞ」 山形検事は、せせら笑いをしながら、賢一のグラスにビールを そそいでやる。 「椿先生。アタイニモ頂戴 ! 」 幸恵は甘えたまなざしで林太郎のまえにグラスをさしだした。 「あ、どうぞ、どうぞ」 幸恵のグラスに林太郎はビールをそそぐ。 「山形検事 ! 」 林太郎は、もう一本ビールの栓を抜いた。 「栓の抜きたてで、おひとつどうぞ」 冗句紛いのセリフを吐いて林太郎は山形のグラスに酌をする。 ビールの酌を受けた山形は、 「椿弁護士も、おひとつどうぞ」 と、にやにやしながら、林太郎のグラスに、七分三分の泡立ちで 神経質にビールをそそぐ。 この注ぎ方は、ビール通の林太郎から伝授されたもだった。
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