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作品名:いしこづめ 作者:花城咲一郎

第8回   自給自足の秘境
 椿家母屋の奥座敷では古めかしい大型柱時計の振り子が、かっちん
かっちんと時を刻んでいる。
 柱時計の長針がぴくりとうごき夜の9時になる。
 神棚の灯明は消され、ひんやりとしたムードになっている。新年
宴会の客も引き払い人影はなかった。
 青畳を敷き詰めた広い奥座敷は、仄暗く、冷え冷えとしていた。

 その夜も更け、椿家の邸内は凍てつくような寒気に包まれている。
 広い邸内の雪明りのなかに、赤レンガ葺き2階建ての離れ家だけ
が、鎧戸もおろさないまま煌々と電灯が輝いていた。
 新雪に埋もれた離れ家1階の日本間では、おなじ大和民族の血が
ながれているのに、その『心理的構造』が顕著に異なる二組の男女
が『掘り炬燵』をかこんで語りあっているのだった。
「お蜜柑をどうぞ。これはその」
 林太郎は炬燵板のうえに載せられた籐の籠から色鮮やかな蜜柑を
摘みあげた。
「愛媛蜜柑で、日本随一の美味しい蜜柑です。この蜜柑は品不足です
から地方市場には出まわっていません。そこでわしが東京から宅急便
で届けたものです。どうぞ味わってみてください。ところで小松原郷では
鎖国状態ということですから生活に必要な物資は郷の外からはいって
こないことになりますね」
「ハイ。其ノォ」
 瓜実顔で細い狐目の幸恵は、白い手を延ばし籐の籠から蜜柑をそっと
摘みあげる。
「椿先生ノ仰ル通リデ御座エアスダ」
「そうすると、あらゆる生活必需品は自給自足ということになりますか」
幸恵『自給自足ッテ何ンノ事カシラ。アタシ良く判ラナイ』
「エエト。今ノ其ノ」
 幸恵は摘みあげた蜜柑を右手にもったまま怪訝な顔になった。
「椿先生ノ仰ル事ノ意味ガ良ク判リアセンダ」
「あ、そう。いまのおはなしは、郷民の暮らしに必要な物を郷の外から
買い入れることができるか、という問題なんですがね」
「エエト。先生ノオ話シノ『モノヲカイイレル』トイウ事ア、ドンナ意味デ有リ
アスカ。澄イアセン」
「さて。幸恵さんの質問には、なんとこたえるべきかな。どう説明すべき
かな。買い入れる、つまり購入の概念については、山形検事にコメント
していただきましょう」
 林太郎は逃げ腰になって蜜柑の皮を剥きはじめる。
「ええと。さっきの質問ですが。その」
 山形検事は、籐の籠をもちあげて賢一に蜜柑を勧め、自分でも蜜柑
を摘みあげる。
「そもそも物を『買い入れる』という言葉ですがね。判りやすくするた
めにちょっと分析してみましょう。まず物を『買う』という言葉は、物を
『売る』という言葉と対になっているんですよ。物を売る人があって、
はじめて物を買うことができるからですな。だから人間が生活していく
うえで、手元にはないものが欲しくなったときには、お金と引き換えに、
その必要な物を手に入れるのです。つまりお金と物を交換するわけで
すね。このように物の代償として、お金を相手方に渡し、自分が欲しい
物を受け取るという行為を『買い入れる』というのです。このような行為
は生活に必要な物を調達する手段のひとつといえましょう。あまりうま
い説明ではありませんが。そういうことですな。お判りでしょうか」
 山形検事は蜜柑の皮を剥きはじめる。
「アア、其レア交換ノ事デアネエデアスカ。郷デア、物ト物トヲ交換シテ
居アスダガ。其レニ『オカネ』ト言ウノア、何ンノ事デ有リアスカ。アノォ。
御講ノ『オ庚(カネ)様』ノ事デ有リアスカ」
 賢一は怪訝な表情で山形検事のまえに身を乗りだした。
幸恵『アタシガ生レ育ッタ小松原郷デア、オカネ何ンテ言葉ア使ッタ事
ガナイ。アタシ、初メテ聞ク言葉ダスケエニ。其ノ意味ガ判ラナイ』
 幸恵は山形検事と賢一の会話を耳にしながら、胸のうちで呟く。
「ええとですね。まず」
 山形検事は長髪を肩まで垂らした賢一の精悍な顔を見据える。
「物と物を交換することを『物々交換』といいます」
「其ノ先生ガ仰ル『ブツブツコウカン』言ウノア、一体、ドンナ意味デ有り
アスカ。ブツブツ言ワレテモ、良ク判リアセンガ。俺ア、土台、頭ガ悪イ
スケエ。ハイ。恥ズカシイ事デ有リアスガ」
 賢一は山形検事のまえにぺこりと頭をさげる。
「いいえ。頭の良し悪しの問題ではありません。ちょっと堅い話になりま
すが、これは経済取引の仕組みの問題なんですよ。あのね。小松原郷
では、物と物を交換していると、君が云ったでしょう。この場合、文字通り
物と物の取り換えっこだから、物々交換というんですよ。別に不平がましく
ブツブツ云ってるわけじゃないんだ。この物々交換という取引は、通貨が
工夫されるまでの、いわば原始的な遣り方でした。ところが、通貨という
便利なものが考案されてからは、物と物の交換ではなく、物と通貨つまり
『お金』とを交換する売り買いとして売買契約という手法が採られるように
なりました。物と物の交換だけでは、物を持たない人は欲しい物を入手
することができない。これに対し通貨としてのお金が取引の財貨として用
いられるようになると、お金と物との交換が可能になり、物を持たない人
でも、お金さえあれば、欲しいものを入手することができるようになった。
そこで取引は通貨を中心として行われるようになった。その結果、金銭が
おおきくものをいうようになってきたので、『金銭債権』は万能だとされ、
この『金銭債権』は債権の王様だといわれるようになったのです。話しが
難しくなりましたが、そういうことなんです」
「成ルホド。俺アニア」
 長髪を肩まで垂らし、爛々と輝く鋭い眼で賢一は山形検事を見つめる。
「判ッタヨウデモ有リ、判ラナイヨウデモ有リアスガ。兎ニ角、判ッタ事ニシテ
オキアスカ。トコロデ、先程、椿先生ガ仰ッタ『ジキュウジソク』ト云ウノア、
何ノ事デ有リアスカ。俺アニア、サッパリ判リアセンダ」
「ええと。この辺で」
 逃げ腰になった山形検事は、ふっくらとした蜜柑の実をふくろごと
くちに頬張った。
「選手交替にして、賢一君の質問についてのコメントは、椿弁護士にバトン
タッチすることにしましょう」
「エエト。其ノ『ジキュウジソク』ト言ウ言葉ア今、此処デ初メテ聞イタモンダ
スケエ。俺アニア、サッパリ判リアセンダ。椿先生」
 小榊賢一は爛々と輝く鋭い眼で林太郎の顔を覗き込む。
「あのね。小松原郷の場合、そのぉ」
 林太郎は剥き取った蜜柑の皮を炬燵板のうえにひろげ、しゃぶった
蜜柑の袋をその皮のうえに載せる。
「郷民同士が物と物を交換しあい、欲しいものを手に入れると云いまし
したね。だから郷の外から物を買い求めることなく、自分たちが暮らし
ている郷の内だけで、食べるものはもちろん、着るものも、ちゃんと郷民
の手によって自力で賄ってゆける。そいうふうに、自分たちの生活に必要
な物資は自分たちの手で賄ってゆくという消費態勢のことを『自給自足』
というんだ。お判りかな」
「ハイ。デモ、其ンナ面倒ナ言葉ア使ワナクタッテ、郷デア、自分タチ
ニ必要ナ物ア、自分タチデ賄ッテ居ルスケエ。其ンナ事ア、極、当リ前
ノ事デ有リアスダ」
「たしかに、まあその」
 林太郎は蜜柑をしゃぶりながら喋って、いくらか噎せかえした。
「小松原郷に限れば、君のいうとおりだから、郷にしてみれば、お金
つまり通貨とか、自給自足とか、そういう概念つまり言葉は必要では
ないかもしれないが」
「ハイ。郷ノ外ト郷ノ内トデア、大分、事情ガ異ルト言ウコトガ可ナリ
明瞭ニナッテ来アシタガ」
「まあね。そいうことですな」
 林太郎は、爛々と輝く賢一の鋭い目と視線をあわせた。
「食べるものを自給自足するということになれば、主食の米を収穫
するため稲を栽培しているんでしょうね」
「ハイ。郷ノ中デア、水ヲ引ケル所ア田圃ニ成ッテ居アスケエ。其ノ
田圃デア、稲ヲバ栽培シテ居アスダガ」
「なるほど。稲は栽培していると。それで稲の品種としては、どんな
ものがありますか」
「ハイ。稲ノ品種トシテア、『愛亀』トカ、『亀の尾』等ガ有リアスダガ」
「そうですか。その」
 林太郎は籐の籠から、もうひとつ蜜柑を摘みあげる。
「いまの『愛亀』とか『亀の尾』という品種は、昭和10年代の頃、
日本列島に普及していた代表的な品種なんですよ。これらの品種
は、米の味が良い反面、稲熱病に弱いという弱点が残されていま
した。そこで稲熱病に強い『農林〇〇号』とかいう新品種が産みだ
されました。しかしこの品種は稲熱病には強いが、米の味はいま
ひとつという難点がありました。そこで農林試験場では、稲の交配
を積み重ね、しだいに、稲熱病に強く米の味も美味しいという品種
の開発に取り組みました。そうした研究努力が戦後になって花開
くことになり、米の王様といわれる『コシヒカリ』が誕生したのです。
とりわけ『魚沼産コシヒカリ』は、その立地条件と水質に恵まれ、
日本一美味しい米として珍重されるようになったのです」
「アア。先程、アノォ」
 賢一はおおきく鋭い目をきらりと光らせた。
「綺麗ナオ姉チャマガ、コシヒカリノ御飯ト言ッタノガ、其レデ」
「まあね。そのコシヒカリは、本州だけではなく、九州地方にまで
普及したが、とりわけ新潟県の魚沼地方で栽培したものが、水稲
とては最高の味とされた。こうして『魚沼産コシヒカリ』といえば、
最高の値段がつく米の逸品とされているわけなんだ」
 林太郎は誇らしげに郷戸自慢の花を咲かせる。
「ソウデ有リアシタカ。アタイモ其ノ」
 蜜柑を食べながら聞き耳をたてていた幸恵が林太郎に向かって
甘えるように微笑んだ。
「オ米ノ王様ト言ワレルコシヒカリヲ食ベテミタイワ」
「そうだね。それでは、明日の朝食はお雑煮ではなく、コシヒカリの
銀飯にしてもらうことにしよう。忘れないうちに母屋に頼んでおくこと
にするか」
 起ちあがった林太郎は部屋の片隅に設置されていたインターホン
の受話器を掴んだ。
「ああ。林太郎だが、夜遅くまで澄まないね。こちらははなしが長く
なって、今夜は夜更かしになるんで、かまわず寝すんでください。
それで明日の朝食は、コシヒカリの銀飯にしてくれないか。お客さん
の達ての希望がでてね。勝手ばかりで澄まないが、よろしくおねが
いします。それじゃ、お寝みなさい」
 林太郎は、壁に設置されたインターホンの受話器をホルダーに
そっと掛けた。
「明日の朝は、お望みの」
 炬燵にもどった林太郎は、炬燵掛けの布団を捲った。
「コシヒカリを賞味していただけますから、おたのしみに」
 幸恵は細い狐目の白い瓜実顔を綻ばせた。
「ところで」
 林太郎は籐の籠から蜜柑を摘みあげる。
「小松原郷のはなしが中断してしまいましたが、さきほど、おはなし
はどこまですすみましたかな」
「先程ノオ話ア、其ノ」
 長髪を肩まで垂らした賢一は林太郎の顔を覗き込んだ。
「稲ノ品種ガ改良サレテ、『コシヒカリ』トイウ素晴シイ稲ノ新品種ガ
産ミ出サレタトイウ所迄デ有リアスダ。ハイ」
「あ、そうでしたね。ええと」
 林太郎は喋りながら蜜柑をくちにしてすこし噎せかえした。
「その『愛亀』とか『亀の尾』が栽培されているのだから、主食の米は
自給自足できるとして、小松原郷では、味噌や醤油というような調味料
も自給自足できるのですか」
「ハイ。川ノ水ガ引ケネエ山ノ中腹ニア、段々畑ガ有リアスケ。其ノ
畑デア、大豆ヲバ栽培シテ居アスダ。其処デ獲レタ大豆ヲバ原料
ニシテ、味噌ヲ醸造ッテ居アスダガ」
「なるほど。その味噌を造るためには、塩が必要になりますが、その
塩はどのようにして入手しているんでしょうか」
「エエト。其ノ塩ア、郷ノ一番奥ノ岩場ニ穴倉ガ有リアシテ、其ノ穴倉
カラ塩ヲ取出シアスダガ」
「ほう。海水がないのに、塩を採取できるということは、ちょっと考え
にくいのですが。ひょっとしたら岩塩でも採掘できるのでしょうか。もし
岩塩が採掘できるというのであれば、信じられないほど珍しいことだ」
 腕を組んだ林太郎は首を傾げた。
「ソウイウモンデ有リアスカ。其ノ」
 爛々と輝く鋭い眼を細め賢一も怪訝な顔をする。
「正確ナ事ア、郷民ニア知サレテ居アセンガ。其ノ穴倉ノ入口ニア、
銃ヲ構エタ岩番ガ居アシテ、郷民ア誰モ岩穴ニ入ル事ガ出来アセン」
「そうですか。なんといっても塩は人間にとって大切な必需品ですから
厳重に管理しているのでしょう。その岩穴から岩塩が採掘できるの
かもしれませんが。仮に岩塩ではないとすれば、どこか郷の外から
なんらかの方法で郷に持ち込み、大切に保管してるんでしょう」
「其ノ辺ノ事ア、郷民ニア一切、知ラサレテ居アセンダ。兎ニ角、大豆
ト塩デ味噌ヲ醸造シテ居アスダ。デモ其ノ」
賢一『俺ア、“ショウユ”トイウモンハ知ラネエダ』
 胸のなかで賢一は呟いた。
「先生ガ仰ル『ショウユ』トイウモンハ郷ニア無エデスケ。ハイ」
「ほう。小松原郷には醤油はないと。そうすると味噌は自給自足できる
として、調理するときの味付けは、味噌仕立てとか、塩味ですかな」
「エエト。味噌ヤ塩デ味付ケスル事ガ多インデアスガ、他ニ『澄シ汁』ガ
有リアスダ。ハイ」
「ああ。澄まし汁ね」
林太郎『この澄まし汁は、生前の母がよく造ってくれたもんだった』
 エプロン姿の母の面影が林太郎の胸のなかに彷彿された。
「その澄まし汁は、濃い目の味噌汁を大量に仕立て、その汁を木綿の
袋に入れて圧搾して搾り出し、その搾り出されたエキスをビンに回収す
るという遣り方なんです。こうしてできあがった黒茶色の液体は味噌汁
を澄ましたものだから、『澄まし汁』というんだ。見た目には醤油という
感じだが、この絞りだしたエキスは、やや薄口の醤油というところだ」
林太郎『姉さん被りをした母が、よく白い木綿の袋を絞り込んでいた』
 林太郎の胸のなかには、若かりしころの母の姿が想いだされた。
「ソウデ有リアスカ。澄シ汁ア、ショウユトソックリデ有リアスカ。郷デア、
普段ノ時ニア味噌汁ガ多インデ有リアスガ、何カコウ特別ノ御馳走ノ
時ニア、彼ノ澄シ汁ニ成リアスダ」
「なるほど。そうすると」
 林太郎は 腕組みを解いて念を押すように賢一の鋭い目を見つめる。
「結局、味噌とか塩とか『澄まし汁』が小松原郷における調味料ということ
になるようですが、甘みをつける甘味料として砂糖はありますか」
賢一『俺ア、“サトウ”ナンテ言葉ア聞イタ事ガ無エダ』
 胸のなかで賢一は呟いた。
「イイエ。何ンデ有リアスカ。其ノ“サトウ”トカイウモンハ。甘イモント言エバ
薩摩芋トカ、柿ヤ桃、其レニ山葡萄、アケビモ有リアスガ。一番甘イモンハ
飴デ有リアスダ。此ノ飴ア、餅米デ造ッタ甘酒ヲ原料ニシテ其レヲグツグツ
煮詰メテ造ッタ、トテモ美味シイモンデ有リアスガ。ソウダスケエ、甘イモン
ニモ別ニ不自由ア、シテ居アセンダ」
 林太郎と視線が合うと賢一はにこりとした。
「そうすると、食料品は自給自足できるとして、稲のほかにもなにか栽培し
ていますか。たとえば蕎麦とか粟とかいう作物はどうですか」
「ハイ。稲ノ他ニア、蕎麦や粟モ作ッテ居アスガ。蕎麦ア特別ノ御馳走トシテ
何カノオ祝イヤ祭ノ時ナドニ、手打チ蕎麦ニ仕立テアスダ。ソシテ粟ア、粟餅
ニ搗イテ食ベアスダガ」
「なるほど。そうすると小松原郷では、天候不順で凶作にでもならないかぎり、
主食には事欠かないというわけですね。副食物としてはなにかありますか」
「エエト。其ノ」
賢一『エエト。其ノ“フクショクモツ”トハ何ノ事ダロウカ』
 胸のうちで賢一は呟いた。
「今、先生ガ仰ッタ『フクショクモツ』ト言イアスト、何ノ事デ有リアスカ」
「あのね。副食物とは、そのぉ」
 林太郎は、もどかしくなったが、せせら笑いをするのを堪えた。
「たとえば野菜とか肉類とかいう食物なんだが。言い換えると、米という主食
に対するいわば脇役としての食物という意味で副食物というんだがね」
「成ル程。然様デ有リアスカ」
 爛々と輝くおおきな目を細めて、賢一は自分を嘲るように苦笑する。
「エエト。其ノ野菜ニア、大根、白菜、人参、牛蒡、葱、馬鈴薯、甘薯ナドノ他、
隠元豆、茄子、胡瓜、赤茄子、甘藍、長芋、蒟蒻ガ有リアスダ。此ノ他、天然
ノ山菜トシテア、蕨、薇、蕗、山独活ナドガ有リアスダガ。其レニ茸類トシテア、
舞茸、湿地、松茸、雪降坊主、滑子、鼠肢ナド山ノ幸ニモ恵マレテ居アスケエ。
山海ノ珍味ジャ無クッテ、山谷ノ珍味トイウ所デ御座エアスダ」
 賢一は得意満面になった。
「ほう。たしかに豊富な山谷の珍味ですな。ところで肉類はどうですか」
「ハイ。其ノォ」
 賢一はにこやかな表情で語りつづける。
「肉類トシアシテア、豚、牛、鶏ナドヲ飼育シテ居アスダ。野生ノ動物トシテア熊
ヲ始メトシテ、山鳥、山兎、雉、山雀ノ他、蛇類トシアシテア、蝮、縞蛇、青大将、
赤棟蛇ガ棲息シテ居アスケエ。此ノ他ニモ狐、狸、貂、川獺、鼬モ居リアスダ」
「そうすると、そのぉ」
 林太郎は腕を組んで天井を見あげた。
「肉類もかなり豊富らしが、魚類も確保することができますか」
「エエト。魚類トシアシテア、溜池デ飼育シテ居ル鯉ヤ鮒、谷川デ獲レル岩魚ヤ
山女ノ他、鰍、蜂魚ト言ッタフウニ、蛋白質ニモ事欠キアセン。何シロ人跡未踏
ノ秘境デ有リアスケエニ、天然資源ノ恵ア豊富デ有リアスダガ」
「そうですな。小松原郷は、なにしろ」
 林太郎は両腕を組み、長髪を肩まで垂らした賢一の顔を凝視する。
「地図にもない幻の秘境というだけに天然資源は、たしかに豊富でしょうな。
地理的に見ても苗場山から越後山脈に連なる越路の秘境で文字通り人跡未踏
の峡谷になっているのだからな。そうすると小松原郷では、食料品は自給自足
できるとして、衣料品はどのようにして確保しているのでしょうか」
賢一『椿先生ガ言ワレタ“イリョウヒン”ノ意味ガ良ク判ラナイ』
「ハイ。タッタ今、先生ガ仰ッタ“イリョウヒン”イウノア、何ンノ事デ有リアスカ」
「あのね。いま」
 林太郎は、なんてまだるっこい男なんだとおもったが、顔にはださなかった。
「ここでいう“イリョウヒン”は、病気の治療に用いる医学上の医療品ではなくて、
人間が身につける着物としての衣料品のことなんだがね。昔から、衣食足って
礼節を知る、といわれるように、人間が生きてゆくためには、食料品のほかに
衣料品も欠かせません。その衣料品いついては、小松原郷の場合、どのように
して賄っているのでしょうか」
「ハイ。判リアシタ」
 賢一は頭を掻いて苦笑いをする。
「エエト。郷デア、着ル物ト言エバ、絹織物トカ麻織物デ縫上ゲタ着物ガ中心デ
有リアスガ、今、二階カラ持ッテ来アスケエニ」
 炬燵から抜けだした賢一は廊下へでてゆく。
「アタイノモ、今、オ目ニ掛ケアスケエ。一寸、オ待チ下セエアシ」
 幸恵も炬燵から抜けだし、賢一のあとを追った。


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