炉端に座っていたみんなの視線は林次郎の頭からたちのぼる白い 湯気にあつまった。 「それはたいへんだった。コーヒーでも飲むか」 林太郎は、炉端で腰を浮かせた。 「いや。コーヒーは要らない。汗だくで喉が渇いたもんだから、下の小川 で、川っ縁にぶらさがっていた『つらら』の金っ氷を齧ってきたんだ」 林次郎は、小屋のあがり框に腰をおろした。腰にぶらさげていた 白いタオルで額の汗を拭いた。 「雪道は、おもったより時間がかかるすけえ。なるべく早めに出かけ たほうがええ」 と云いながら林次郎は、雪国独特の藁で編んだ短靴のスッペを履 いたまま床にあがった。 林次郎は、流し台の脇におかれていた段ボール箱などの荷物を 小屋の外へはこびはじめる。 「それでは、仕度をして出発しましょう」 林太郎は炉端に起ちあがった。 それに釣られてみんな起ちあがる。 「ええと。きのうの獲物を忘れないうちに、箱に入れておくか」 林太郎は、黒く煤けた小屋の鴨居に吊るしてあった山鳥と山兎を おろし、段ボール箱に移した。 「俺アガ運ビアスダ」 赤土を踏み固めた土間に降りて、藁で編んだ長靴のスッポンを履 いた賢一は、段ボール箱を小屋の外へはこびはじめた。 「アタイモ手伝イアス」 土間に降りた幸恵は、素早くスッポンを履き、食料品のはいった段 ボール箱を抱え小屋のそとへでてゆく。 林太郎は、囲炉裏の火に、周りから灰を掻き寄せ、火の始末をした。 防寒帽を被った林太郎は、猟銃を肩に掛け、スキー靴を履いた。 山形も防寒帽を被り、スキー靴を履いて、猟銃を肩に掛け、スキーを 抱えて小屋の外へ消えてゆく。 みんな出払った山小屋の土間で林太郎は小屋のなかをぐるりと見ま わした。 林太郎は一瞬、炉端に胡坐をかいた、浅黒く陽焼けした父の幻影を 見たような気がした。 「これでよし」 自分に言い聞かせるように呟き、林太郎は小屋のそとへでていった。
山小屋の外では、荷物を積み込んだキカイゾリが待機していた。 「さあ。ふたりのお客さん。早よう橇にお乗りなすって」 そういいながら林次郎は、2本の橇の鼻先に、藤蔓を絡み合わせ て輪にした箍(たが)を嵌め込んだ。この箍は、坂道を橇で滑り降ると きに、滑りすぎないようにブレーキをかけるための道具なのだ。 「さあ。早よう乗って、この縄をしっかりと握ってくんねえか。そうでない と、急な坂道じゃけん。転がり落ちてしまうすけえに」 「アタイ、歩ケルカラ、橇ニア乗ラネエダ」 幸恵が拗ね者の地金を曝けだした。 「女の雪道あ、無理と云うもんだすけえに。早ようお乗りなせえ」 林次郎は、有無を言わさず、熊の毛皮の外套を纏った幸恵を軽々と 抱きあげ、荷物でも扱うように橇のうえに載せる。 「さあ。お前えさんも早よう乗ってくだせえ」 林次郎は賢一を追い立てる。 「本当ニ有難イデアスガ」 熊の毛皮の外套で身を固めた賢一は、橇のうしろから荷台に括り付 けられていた太い藤蔓で綯った荒縄を握り締め、力強く引っ張った。 「俺ア、雪道ニア、馴レテ居アスケニ。ソレニ男ジャケン。橇ノ後押シヲ バサセテ貰イアスダ」 「そいじゃ。坂道じゃけん。橇のうしろから舵取りば頼むとするか」 林次郎は、橇の荷台の先に、長い両腕のように装着された舵取り枠 のなかにはいり、舵取り枠を両腕で腰の高さまで持ちあげた。 「さあ。出発だ。わしは先導役をするから、山形、おまえは後部の護衛 をしてくれないか」 林太郎は、かなり急勾配の坂道を谷底に向かって滑りだした。 そのあとに、林次郎が舵を取るキカイゾリがつづく。橇の後部では、 熊の毛皮の外套で身を固めた賢一が、からだの重心をうしろにかけ ながら、藤蔓の荒縄をしっかりと握り締め、後舵をとりつづける。 キカイゾリが坂道をかなり滑りおりた頃合を見計らって、山形検事 のスキーが滑りだしてゆくのだった。
越路の山岳地帯では冬の太陽光線に煌めく一面の銀世界が展開 されている。 先導する林太郎のスキーが雪道を滑ってゆく。 林次郎が曳くキカイゾリが、そのあとにつづいて雪道を滑る。 キカイゾリの荷台では、熊の毛皮の外套を纏った幸恵が、荒縄を 両手で握り締め、振り落とされないように全身のバランスを保つ。 橇の後部では賢一が樫の木の棒の二股になった部分を橇の荷台 の縁にあてがい、橇の後押しをつづける。 山形検事は最後部の護衛役として隊列のいちばん後部からストッ キングを巧みに操りながらスキーを滑らせていった。
新里村の中心部にあたる鎮守の森が白く冠雪している。 この鎮守の森には、新里村の氏神として十二大社が奉祀されて いるのだった。 鎮守の森に隣接した平地の一角には、椿家が静かな佇まいをみ せていた。 かなり広い屋敷を取り囲む生垣のツバキは、降りつづいた新雪に 埋もれ、黒緑色の葉をわずかに覗かせている。
新雪に埋もれた椿家の邸内に、椿林太郎がスキーで滑べりこむ。 そのうしろから椿林次郎が曳くキカイゾリが辿り着く。 「お待ちどうさま」 林次郎は、白く積もった雪のうえに橇の舵取り枠を放りだした。 「清風山に着きました。お疲れさま」 「澄イアセン。有難ウ御座エアシタ」 橇から降りた幸恵は、熊の毛皮を着たままぺこりと頭をさげた。 「有難ウ御座エアシタ。ソレデ」 賢一は、林次郎のまえに頭をさげ、段ボール箱に手をかける。 「荷物ア、何処ヘ運ビアスカ」 「お客さんに荷物を運ばせるわけにあ、いかねえだ。いま離れ家の 方にご案内しあすけえ。ちょっと、そのままお待ちくだせえあし」 と、云い残し林次郎は母屋の玄関に向かって歩きだした。 「あのさあ」 林次郎は、スキーを脱いで玄関の壁に立て掛けようとしていた 林太郎の背中に向かって問いかけた。 「母屋のほうには、分家の連中が年始の挨拶に来るだで。兄貴の お客さんあ、離れ家のほうにするすけえ。それでええかな」 「ああ」 林太郎はくるりと振り向いた。 「それでいい。そのほうがありがたい」 「そいじゃ。そうするすけえ」 林次郎は、母屋から10メートルほどもある離れ家に向かってそ そくさと歩きだした。 林太郎は、そのあとを追った。 離れ家は洋風の建築で、赤レンガ葺きの2階建てになっていた。 林太郎は離れ家の玄関前で振り向き、客に向かって手招きをする。 「あの若え、ふたりあ、2階で寝んでもらい、山形さんと兄貴あ、1階 の部屋で寝んでくれねえか」 林次郎は玄関のドアを開けた。 「それに、2階も下も、コタツが暖かくなっているすけえ。そのコタツあ、 『掘り炬燵』で、練炭を入れてあるだが。椅子に掛けるときのように、 炬燵の縁に腰を掛けられるんだ」 「そりゃ、ありがたい。なにからなにまで澄まないね。ありがとう」 「他人行儀はよしてくれ。もう風呂も沸いてるんだが」 「実は識ってのとおり、山小屋に珍客が舞い込んで、昨夜は一睡も してないんだ。そこで風呂はあとでいいから、3時間ほど眠りたい」 「だったら、そうするがええ。2階も下も、炬燵のある部屋の隣の部屋 にあ、ちゃんと布団も敷いてあるすけえ。すぐにでも寝めるが」 「あ、そう。それはたすかる。ええと段ボール箱には、山鳥と山兎が はいっているから、晩のご馳走にしてくれ」 「そんなら今晩の料理あ、山鳥を1羽潰して鳥汁にしよう。そのほか に『鯉こく』もだせるんだが。そのほかは田舎式のお節料理でまにあう かな。あるのは米と味噌だけだから。それに濁酒もあるが」 「ああ。それで十分だ。鯉はいまも養殖してるんかね」 「ああ。用水路が完成してからあ、潅漑用の池は要らなくなったんで。 池あ、そのまま鯉の養殖場に転用してるんだ。子供のときによく遊んだ、 あのままになってる」 「そう。東京では鯉をだしてくれる専門店がすくなくなってね。『鯉こく』は 最高の贅沢料理になった。いまや貴重な料理のひとつだ」 「田舎式のお節料理といえば兄貴も識ってのとおりだ。親父の好物だった 大根と人参を切り刻んだ膾(なます)とか、金平牛蒡、里芋の煮っ転がし、 酢豆に黒豆のほか、昆布巻きといった昔ながらの料理だ」 「そういう料理は、みんな子供のときからの懐かしい味だ。それでいい」 「お客さんをほったらかしてしまった。そいじゃ、あとで起こしに来るから。 ゆっくり寝んだがええ」 林次郎は離れ家の玄関をでて母屋に向かった。
母屋の玄関先では、3人の客が物珍しそうに、邸内の雪景色を見まわ していた。 母屋の重厚な茅葺屋根には、新雪が積もり、3尺ほどの積雪になって いる。雪化粧をした母屋の光景は時代劇のセットにはいったようなムード であった。この母屋は300年もの昔、徳川時代に建てられたという文化 遺産だった。 「お待たせしあした。こちらの母屋は古くてむさ苦しいので、みなさんあ、 離れ家のほうにいらしてくだせえ。あちらであ、兄貴が待っていあすけえ」 林次郎は離れ家のほうを指差した。 「さあ。どうぞ」 「それでは」 山形は防寒帽を脱ぎ頭をさげた。 「お言葉に甘えて、お世話になります」 山形はスキーを担ぎ離れ家に向かって歩きだした。 賢一は林次郎のまえにぺこりと頭をさげ、山形のあとを追った。 細い狐目で白い瓜実顔の幸恵は林次郎に微笑みかけ歩きだした。
椿家の母屋の湯殿では、賢一が桧造りの湯船に首まで浸かって のびのびとした気分になっている。 磨りガラスの戸がそっと開いて、もうもうと湯気がたちのぼる浴室 に、一糸纏わぬ幸恵が偲び足ではいってくる。 「勝手に来ちゃった」 幸恵はちらっと賢一の顔を覗いた。見てみぬふりをして蛇口を捻り 手桶にお湯をそそいだ。桧造りの浴用椅子に掛け、白く、ふっくらとし た乳房から下半身を丁寧に洗いながした。 「俺ア、別ニ」 賢一は、幸恵の背中を見てみぬふりをして、湯に浸かったまま、うっと 背伸びをした。 「何ントモネエデスケエ。幸チャンガ入ッテモ構ワネェケンド」 幸恵は白いタオルで下腹部を覆い、豊かな乳房を波打たせながら湯船 にからだを沈める。 「アタイ。此ンナア」 いくらかおどけながら幸恵は左手の掌で白い瓜実顔を覆った。 「格好デ恥ズカシイ」 「何云ッテンダイ。自分デ勝手ニ入エッテ来タクセニ」 賢一は洗い場にあがった。肩幅がひろく、骨太で浅黒く筋肉の逞しいお おきなからだを洗いはじめる。 「アノォ。アタシガ」 幸恵は湯船から洗い場にあがる。 「賢チャンノ背中流シテアゲル」 賢一の背後に立って幸恵は賢一の背中をながしはじめる。 「人ニ背中流シテモラウッテ」 賢一は目を瞑り幸恵のなすがままにまかせる。 「本当ニエエモンダナ。増シテ幸チャンニ流シテモラウナンテ最高ダ」 幸恵は、いきなり賢一のあとん首にしゃぶりついた。 「ジイント来タナ。頭ノ先カラ足ノ裏迄、痙攣ガ走ッタ」 大袈裟な賢一の言い草に絆され、幸恵はけらけら笑いこけた。 「ハイ。此レデ、オ仕舞エ ! 」 幸恵は白い手のひらで賢一の背中をぴしゃりとたたいた。 「ソレジャ。今度ア」 賢一は起ちあがり幸恵のうしろにまわった。 「俺アガ幸チャンノ背中流シテアゲルスケエニ」 賢一は、白い肌の幸恵を両手で支えるようにして桧造りの浴用椅子 に座らせる。 「アタイ。何ンダカ」 にやにやしながら幸恵は白い背中を窄める。 「賢チャンニ上カラ見下サレテルノ恥カシイ」 「誰モ覗イテル訳デモアルメエシ、恥カシイ事ナンカ有ルモンカ」 賢一は糸瓜の束子に石鹸を塗し、幸恵の背中を軽く擦りはじめる。 「ダッテ、賢チャンガ真上カラ、アタシヲ見テルジャナイノ」 幸恵は駄々っ子になりきっていた。 「ソイジャ、目ヲ瞑ッテテ遣ルシカネエダ」 「嫌ア !! 。目ヲ瞑ッチャ駄目 !! 」 幸恵は生まれついた拗ね者の地金を曝けだした。 賢一は苦笑しながら幸恵の背中を洗いながした。幸恵の背中をなが しおわると、賢一は半腰になり、幸恵の背後から彼女の顔を両手で挟 みながら白い瓜実顔の唇をもとめた。 たちのぼる白い湯気に包まれた幸恵は、くるりと向き直り、長髪を垂 れた賢一の首に白く長い腕をまわしくちづけをした。
椿家の邸内では、降り積もった新雪の雪灯かりに、重厚な茅葺屋根 の母屋が映しだされている。 すでに雨戸は閉められており、灯火は漏れてこなかった。 母屋から10メートルほど離れた奥には赤煉瓦葺き2階建ての離れ家 がほんのり雪明りのなかに浮かびあがる。
椿家の母屋の奥座敷は、椿一族の新年宴会で賑わっている。 壁に掛けられた『日捲りカレンダー』は、太い文字で平成12年1月1日 をしめしている。 古めかしい大型の柱時計の振り子が、かっちんっかちんと時を刻んで いる。柱時計の長針がぴくりとうごき夜の8時になる。 広さ30畳ほどもある奥座敷では、10人ほどの客が、黒塗りのお膳に 向かい、コの字に座っている。 林次郎を中心に、酒を酌み交わしながら談笑している。 床の間には、白い生地に金箔の縁取りがなされ、天照大神と黒く太い 達筆で墨書された掛け軸が掛けられている。 天井に近く、高い位置に設けられた神棚には白いおおきな蝋燭の灯明 がとろとろと灯りの漣をたてている。 黒い生地に白く『椿の花』の家紋を染め抜いた羽織と袴で正装した男たち が盃をかわしているのだった。
その夜も、しだいに更けていった。 椿家の邸内では洋風の2階建て赤煉瓦造りの離れ家だけが降り積もった 雪明りに、ほんのりと照らしだされている。 離れ家の1階の10畳間では部屋の中央に造りつけられた掘り炬燵の上座 に、丹前姿の林太郎が座っている。 その隣には、おなじ柄模様の丹前姿で山形検事が肩を並べていた。 林太郎の席の差し向かいには、小榊賢一が胸を張って端然と座っている。 賢一の隣には細い狐目をした白い瓜実顔の幸恵が掘り炬燵のなかに足を おろしていた。 賢一と幸恵は、まだ『仕付け糸』がいくらか残っている真新しい丹前を宛が われていた。 幸恵は丹前の左袖にとり残されていた白い『仕付け糸』に気づき、右指で その糸を摘み抜きとった。 大型の炬燵のうえには、柿色に漆を塗りあげた炬燵板が載せられている。 そのうえには、黒い生地に金箔で松竹梅の絵模様を塗りこめた、いくつもの 重箱が並べられている。 重箱のなかには、膾(なます)や煮物など田舎風のお節料理が盛り込まれて いるのだった。 「さあ。山形検事」 林太郎は黒い生地に金箔で鶴の模様を塗りこめたお屠蘇器をもちあげ朱塗 りの木杯を山形に勧めた。 山形検事は木杯をおしいただいた。 林太郎は、その木杯にお屠蘇をそそいだ。 もうひとつの木杯を賢一に勧め、 「これを」 と、山形にお屠蘇をそそがせる。 お屠蘇器を山形から受け取った林太郎は、朱塗りの木杯を幸恵に勧めた。 幸恵は朱塗りの木杯をおしいただく。林太郎は幸恵の木杯にお屠蘇をそそぐ。 「ええと。それでは」 林太郎はお屠蘇をそそいだ自分の木杯を掲げる。 「お屠蘇がゆきわたったところで、2000年の新年を祝い乾杯しましょう。新年 おめでとうございます」 山形は木杯を掲げた。 「おめでとうございます」 賢一が木杯を掲げると、幸恵もこれに見習った。 「御目出度ウ御座エアス」 「御目出度ウ御座エアス」 賢一も幸恵も木杯を掲げた。 「ええと。この」 林太郎は黒塗りのおおきなお椀の蓋に手をかけた。 「蓋付きのお碗は、きのう射止めたばかりの山鳥を炊いた鳥汁なんです。温かい うちに召しあがってください」 「其レデア、戴キアス」 長髪を肩まで垂れ、胸を張り、きちんと正座した賢一は、お椀の蓋をとる。白い 湯気とともに鳥汁の匂いが部屋のなかにたちのぼる。 「親鳥だったんで、ちょっと」 山形検事は鳥汁のお椀に手をかけた。 「肉は堅いかもしれないが。鶏とは、一味ちがうはずだ」 山形は、鳥汁のおおきなお椀をもちあげ、ひとくち啜る。 「椿先生 ! 此ノォ」 白い瓜実顔の幸恵が細い狐目で林太郎に甘えるまなざしになった。 「鶴ノ模様ガ入ッタ朱塗リノオ椀ノ中身ア、何ンノ料理デ御座エアスカ」 「ああ。このお椀ねえ」 林太郎は鶴の模様がはいった朱塗りのお碗の蓋を摘みあげた。 「このお椀の中身は『鯉こく』なんですよ。鯉の骨は堅いから、骨に気を つけて召しあがってください」 「ハイ。判リアシタ。ソレデア戴キアス」 幸恵は子供染みて甘えるようにお椀をもちあげ、ひとくち啜った。 「アッ。此レア、トッテモ美味シイ」 幸恵は感嘆の声を挙げた。 「小松原郷デモ、実ハ」 賢一は『鯉こく』のお碗に箸をつける。 「鯉オバ飼ッテ居アスケエ。此ノ『鯉こく』ア、郷民トシテア、御馳走 ノ一ツニナッテ居ルンデ御座エアスダ。ハイ」 賢一はお椀に蓋をする。 部屋の入り口のドアが開いて林子がはいってきた。 「叔父さん。ビールおもちしました」 林子は、洋式のスリムなお盆を林太郎の脇の畳のうえにさしだす。 「まだ栓を抜いてないんで、あとは叔父さんにまかせます」 姪の林子はにこりとする。 お盆のうえには、麒麟麦酒のラガービール数本と栓抜きが載せら れていた。 「どうもありがとう。あとは」 お世辞紛いに林太郎は林子に微笑みかけた。 「こちらで適当にやるから。それにしても林子。すっかり美人になった なあ。一目見ただけで惚れぼれする」 「あら、いやだあ。叔父さんったら。もうお屠蘇に酔っ払ったの」 林子は、林太郎に愛狂しいウインクを返した。 「みなさん。ごゆっくり」 真顔になった林子はドアの外へ消えてゆく。 まもなくドアが開いて、ふたたび林子が顔を覗かせた 「お母さんにいわれていたことを」 林子は叔父の林太郎に微笑みかけた。 「すっかり忘れてた。お食事は、コシヒカリのご飯にしますか。 それともお雑煮にしますか。叔父さん」 「そうだな。ええと。お雑煮にしてもらうか。それともコシヒカリの 銀飯にしますか。山形どうするかね。選択債権の選択権者とし ての意思表示をしてくれないか」 林太郎は法律家らしい冗句で山形の顔を覗き込んだ。 賢一『御飯ノ話ダト言ウノニ、イキナリ“洗濯”ノ話ヲナサル。 可笑シナ事ヲ言ウ先生ダ。俺アニア、サッパリ判ラネエダ』 胸のうちで呟きながら賢一はきょとんとしている。 「お雑煮もいいね。たしかに」 山形検事は林子に微笑みかけた。 「お雑煮もいい。お雑煮をいただくことにしよう」 「これで選択債権の目的物は、民法第406条および第407条 の規定により、お雑煮に特定した。お雑煮にしてもらおう」 林太郎は林子に視線をおくった。 「そいうことだ。お母さんにそう伝えてくれ」 「法律家って手続きに手間がかかるんだ。でも、よく判りました。 母にはそう伝えておきます。もしなにかご用のときはインターホン でしらせてね」 そういい残して林子はドアを閉めた。 「それでは、さっそく」 林太郎は炬燵板のうえにグラスを分配した。 「ビールの栓を抜くとするか」 麒麟麦酒専用の重みのある栓抜きで林太郎はビールの王冠 を撥ねる。 「さあ。山形検事」 林太郎は山形がさしだすグラスになみなみとビールをそそぐ。 「幸恵さんもどうぞ」 幸恵『郷ニア、此ンナ飲物ア無エ。初メテ飲ンデモ大丈夫カシラ。 アタシ何ンダカ怖イ』 幸恵はいくらか震えながら恐るおそるグラスをさしだした。 林太郎は幸恵のグラスにビールをそそぐ。 「賢一君には君から注いでやってくれないか」 山形は、林太郎に促されて賢一がさしだしたグラスに酌をする。 林太郎は自分のグラスにも七分三分の泡立ちで神経質にビール をそそいだ。 「それでは、ビールでもういちど乾杯 !! 」 「此ノビール言ウモンハ、其ノォ」 賢一はグラスを目の高さに翳したまま首を傾げる。 「オ酒ノ仲間デ有リアスカ。小松原郷ニア、コウ言ウモンア無エデス ケエニ。俺ア初メテナンデ御座エアスダ」 賢一も幸恵も、小麦色の液体のうえに白く泡立つグラスを見つめ 目の高さに翳したままである。 「あ、そうか。小松原郷にはビールというもんはないと」 林太郎は、グラスを傾け、小麦色の液体と白い泡との境界線を グラスの縁までおしあげるとその液体と泡の隙間から吸いあげる ようにして味わう。 「まあ。こんなふうにして飲むんだがね。ビールもアルコール分を 含んでるから、その意味ではお酒の仲間といえるが、アルコール の濃度が低いから、飲んでもだいじょうぶでしょう。ただはじめて 飲む人には、多少、苦く感じるかもしれないが」 「判リアシタ。其レデア戴キアス」 賢一はグラスに唇をあてひとくちすすったが、おもわず顔を顰め てしまう。 賢一の反応をじいっと眺めていた幸恵は、いくらか震えながら、 グラスにくちをつける。ちびりとひとくち飲んでみる。 「ほろ苦さが素敵 !! 」 お世辞紛いのセリフを吐きながら、林太郎に向かって細い狐目 でウインクした。 「さあ。ビール通の先生」 冗句紛いのイントネーションで山形は林太郎に酌をする。 「あっ。それから」 林太郎は、ひとくち啜ったグラスを炬燵板のうえにおいた。 「その重箱に盛り込まれている料理は、山菜とか、畑で収穫した野菜 などを巧みに活かした田舎風のお節料理なんだ。箸で小皿に分けて 召しあがってください。この大根と人参を刻み込んだ膾(なます)は親父 の大好物でした。都会風の膾とは、一味ちがうはずだ」 林太郎は膾に箸をつけた。 林太郎『うんん。人参の朱色と大根のホワイトとが綯いまぜにされて、 ぷうんと酢の香りが鼻をつく』 林太郎はさくさくと膾を噛み締める。 「ところで、小松原郷にも膾はありますか」 林太郎は賢一の顔を覗き込んだ。 「ハイ。山ノ中腹ノ段々畑デア」 賢一は箸で膾を小皿によそった。 「大根ダノ人参等ヲ栽培シテ居アスケ。オ正月ニア、何処ノ家デモ膾ガ オ膳ニ載セラレアスダ。膾ア正月料理ノ一ツニナッテ居リアスダ」 「なるほど。膾はあるが、ビールはないと」 「ハイ。御定書第7条ニ因り郷民ア、郷ノ外ヘア出ル事ア出来アセンダ。 ダスケエニ郷ノ外トノ交流ア一切有リアセン。ビールナンテ飲物ア知リア センデアスダ」 「ああ。そうだしたね。御定書第7条では『総テ郷民ハ、郷ノ外ニ移住ス ルコトヲ得ズ』と規定しているからね。日本列島が自由化された現代でも、 小松原郷では、なお、徳川時代のような鎖国状態になっているんだ」 賢一『椿先生ノ仰ル事ノ意味ガ、サッパリ判ラナイ』 胸のうちで呟いた賢一は怪訝な顔になる。 「デアスケエニ。郷ノ外デ造ラレテ居ル品物ア、郷民ノ口ニア、一切、入エ リアセンダ。ソウイウ仕組ニナッテ居アスケエニ。ハイ」 「なるほど。そいうことでしたね。地図にも書かれていない幻の里といわれ ることの意味が、なんとなく判りかけてきたような気がします」 離れ家の廊下に人の気配がした。 こつこつとドアをノックして林子がはいってきた。 「お待ちどうさま。お雑煮ができました」 林子は、お雑煮の丼を載せた、おおきなスリムのお盆を林太郎の脇の畳 のうえにさしだした。 蓋がついた丼は、白い生地に蒼く昇り鯉の模様が焼付けられていた。 「お雑煮は、柔らかいうちに食べてください」 そういい残して林子は廊下へ消えてゆく。 「それでは」 林太郎はお雑煮の丼を炬燵板のうえにならべた。 「お雑煮は柔らかいうちにたべましょう。大根を刻んで、鮭のカマといっしょに 煮込んだ田舎式のお雑煮なんです。さあ、召しあがれ」 「其レデア、戴キアス」 賢一はお雑煮の丼をおしいただいた。 「お雑煮、頂戴します」 山形はお雑煮に箸をつける。 「アタイモ戴キアス」 幸恵は丼の蓋をとり、ひとくち餅を千切った。 「美味シイ」 白い瓜実顔の細い目をおおきく開いて幸恵が叫ぶように云った。 「自分の田圃で収穫された餅米を精米して、おおきな蒸籠で蒸しあ げ、徳川の時代から、ずうっと使ってきた欅の臼と杵で搗きあげた 特別仕立てのお餅なんだ。美味しいはずです」 林太郎は自画自賛のセリフを吐いた。 鮭のカマと大根の千切りを醤油でこってり煮込んだ田舎風の雑煮 の香りが、白い湯気とともに部屋のなかにたちのぼった。
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